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救われし世界のシンフォニア 作者:折坂勇生
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プロローグ

 私にとっての音楽は、ブラームスのシンフォニーを、一番から四番まで通して聞くことだ。
 首にぶら下がった人差し指サイズの8GBデジタルプレーヤー。その曲の他は、私と澄佳の音声がいくつか入っているだけ。
 カラヤン、ベーム、ジュリーニ、ラトル、フルトヴェングラー、バーンスタイン、ザンデルリンク、ケンペ、ベイヌム、ショルティ……など様々なマエストロのCDを集めては、気分によって聞き分けていた。
 最近は、ひとつの演奏しか聴いていない。
 それは初めて聞いた時は、勢いが弱くて、オーケストラを上手くコントロールできていなくてイマイチな出来と評価していた、カラヤンの――名盤として名高い、1970年代に録音した黄金時代の全集ではなく――1980年代後半の、帝王の座から崩れ落ちた頃の録音。
 中学二年生という、坂道を登り始めた時期にいる私が、死を前にしたマエストロの音楽を好むのは、いささか滑稽な気がする。けれど、レガートを多用した絶頂期の輝かしさが薄れて、干涸らびながらも、生を惜しむかのような響きが、とても気に入っていた。
 カナル式のイヤホンを耳に装着し、デジタルプレーヤーの再生ボタンを押して、外界からの音を遮断する。
 耳から聞こえるのは、交響曲三番二楽章のアンダンテ。
 クラスメイトたちのキィキィとした耳障りで品性のかけらのないお喋りを遮断させたいところだったが、草原を散歩するかのような優しいメロディーでは、耳栓としての機能として頼りなかった。
 けれど、デジタルプレイヤーを聞いているのは、私に話しかけてくるなというメッセージでもある。現にひとりとして、私に近づこうとする相手はいない。尤も、音楽を聞いても聞かなくても、人付き合いを極端に拒絶している私に、話しかけてくる人なんているわけがないけれども。

美桜みおちゃんは凄いなぁ。うちなんか、クラシックなんて、寝ちゃうだけやし」

 ――一人を除いては。

 ルームメイトでクラスメイトの赤沢澄佳あかさわ すみか

 ショートカットで丸い顔をした、笑顔以外に表情を持ってないのではと疑ってしまうほど、スマイルが自然体の明るい少女。
 彼女の笑みは、無愛想な私ですら微笑みを浮かばせるほどだった。
 澄佳は、私がどんなに頑丈な心の門番を作ったところで、顔パスして平然と中に入ってきてしまう唯一の例外。

――心を許している、ただ一人のお友達。

 澄佳は、私の右耳にあったイヤホンを取り、自分の右耳に入れた。
「これステレオだから……」
「ええやん。こうすんとな、とってもいいのだ」
 やくざ流やというエセ方言を口にしながら、彼女は頭を横に傾けて、私の頭とくっつける。
「いい音楽やなぁ。私な、覚えたよ、えっと、これはブラームスってゆぅ人で、交響曲三番の……なんやっけ?」
「四楽章ホ長調アレグロ」
「アレグロは、どんな意味だったっけ?」
「快速に」
「そっか、美桜ちゃん凄いなあ」
「なにが凄いんだか」
 凄いというのは彼女の口癖。
 早起きしたら凄い、宿題全部やったから凄い、いつもテストで百点取っているから凄い、自分でお弁当を作ったから凄い、クラシック聞いているから凄い、彼女の口から「凄い」を聞いたのは千回を越えている。
「だって、なんだってできるんやもん。私なんて、どんくささワーストナンバーワンやもんなー。成績も運動もてんでダメダメ。お姉ちゃん、お兄ちゃんのようにな、格好良くなりたいんやけど、こんなやもん。同じ血ひいてんのに、なんで、こうも違うんだろう」

――お姉ちゃん。

 十三歳離れている実の姉。名は赤沢菜穂香あかさわ なほか

 私たちが通う野乃原市立中学校の体育教師であり、クラス担任、そして私たちの黒魔術研究部の顧問でもある。
 顧問については、陸上部がメインであって、妹の澄佳にどうしてもと頼まれて、しかたなく兼任してくれたものだけど。
 兄については、かっこいいと澄佳はいつも言っているが、ヤクザという職業とはいえない職に就いていて、それが理由で姉に勘当されていることぐらいしか知らない。
「澄佳は澄佳の魅力があるわ」
「そうかな? 私の魅力って、自分では良く分からん」
「あなたの笑顔は、みんなを明るくさせているじゃない」
「取り柄ないからなー、笑っているしかないんや。私の笑いって、まぬけに見えるってみんなによぅバカにされとるし」
「私は好きよ」
「ほんと?」
「ええ、とっても」
 あなたのことが。
 世界で一番。
 なによりも、誰よりも大好き。

 だからこそ

 ――目の前の光景に頭が真っ白になった。

 長テーブルひとつ置くことすら窮屈な黒魔術研究部の部室。
 ただでさえ狭いのに、倉庫のようにダンボールや、古びた本、科学用品などが無秩序に置かれてある。
 私たちは、重ねた本を、椅子やテーブル代わりとして使用していた。

――その部屋の真ん中に、澄佳が倒れている。

 ドアのある東側に顔を向けて、俯せの顔を横に向けた体勢。目を開き、口を少し開け、呼吸することもないまま、なにが起きたのか分からないキョトンとした表情で、西側に沈んでいく夕焼けの光を浴びていた。
「澄佳……」
 ピクリともしない。
 血が止まり、体は紫色に変色してきている。
 確認するまでもない。
 澄佳は死んでいる。

 ――死んでいるのだ。

 まさか、そんな、ありえない。
 一体なぜ、このような事態が起きたのだろう。なんで、このような悲劇が起こったのだろう。

 どうして?

 私はただ、澄佳のことが好きなだけなのに。
 その感情が友情を遙かに越えた恋愛的なもので、同性という禁断なもので、そしてさらには……。

――かつての敵。

「お父様……」
 それが罪であるというのですか?

 澄佳との出会いは運命だと信じていた。
 あの女の妹である澄佳のことは、探すまでもなかった。寮のルームメイトで、同じクラスで、隣の席。それは偶然というよりも、仕組まれたものであったけど、私たちの出会いは必然であると確信をもてるほど、SとMの磁石のように自然と結びついた。
 人間という生き物を心の底から憎んでいた私だ。
 それを澄佳と過ごすことによって、少しずつ好きに変わっていこうとしていた。

 澄佳は私の光だ。

 1つのイヤホンで聞く、澄佳とのブラームスは、私にとっての幸福な時間であり、これ以上にない天国だった。

 それが一瞬にして地獄に変わった。

 再び、孤独なる闇の世界へと奈落する。赤沢澄佳を失うのは、この世から生を失う以上の苦しみしかない。

 でも。

――たった一つ、失わない方法がある。

 ぞくり、とした。
 突如浮かんできた閃き。
 その発想の恐ろしさと同時に、恍惚感が沸いてきた自分に対し、このように思った。

――私は闇の王ガディスの娘であり、この血からは絶対に逃れられない宿命なのだ、と。

 カツカツと、足音がした。
 大股。競歩のようなスピードで、四階の廊下の突き当たりにある黒魔術研究部へと近付いてくる。
 気配で、あの女だと分かった。
 彼女のオーラはどんな遠くからでも分かる巨大なものだ。それを隠そうとしない。いや、隠す術すら知らない。できなくなってしまっていた。戦いを忘れ、平和にとけ込む彼女は、そのことに気付いていない。
 澄佳の死体を見られたら一巻の終わりだ。迷う時間はなかった。その結果が、想定しえる最悪なパターンとなろうとも、私にはそれ以外の道を選べない。
 私は覚悟を決め、澄佳の遺体に手を伸ばした。



 周りに聞こえるほど大きな足音を立てる。突き当たりに来たら、90度右回り。
 ドアの向こうは黒魔術研究部。
「いつまでいるんだーっ! 下校時間はとっくに過ぎてるぞーっ!」
 体育教師の赤沢菜穂香あかさわ なほかは、ノックをせずに、勢いよくドアを開けた。
 普段なら、黒魔術と称したわけわからん踊りや、大きな紙に魔法陣の落書きをしたりする二人の姿があって、
「あ、お姉ちゃん」
 と妹の澄佳は笑顔を見せ、美桜は邪魔者が入ったと睨み付けてくるのだが、部屋には夕焼けの眩しい光しかなかった。
「ありゃ、おっかしーなー。気配があったんだけど、勘違いかぁ?」
 見渡せば、窓際の隅に学生鞄が二つ置かれてある。澄佳と美桜のものだ。てんで効果のない(あっても困るが)、黒魔術もどきの遊びをするため、学校のどこかにいるのかもしれない。
「うちのアホな妹と、不思議系少女さんは、どこにいるんやら。やっかいなコンビができたもんだよ。澄佳は友達を選ぶべきだと思うんだよねぇ、まぁ、あたしも人のこと言えなかったけどさ」
 澄佳と美桜のいつも一緒な親友関係は、中学時代の自分を見ているような、微笑ましくなってくる。仲がよい友達が出来るのは、姉として歓迎することだ。
 けれど、自分という前例があるだけに、嫌な予感がするのも確かだった。
 十三歳も離れている妹だ。
 両親は、澄佳が産まれてまもなく亡くなった。後悔してもしきれない、最悪な事件によって……。
 親を失った菜穂香たちは、父の弟であるおじさんにご厄介になった。とはいえ、叔父は一生涯独身主義。何人もの愛人を持つプレイボーイだった。高校生になったら菜穂香の親友に手を出してきたので、金的を食らわせたことがあるほどの、反面教師にしかならない人だ。
 悪い人ではないし、大学を卒業するまで、養ってくれたのは感謝している。でも、仕事柄年がら年中海外に飛び回っているし、保護者といっても、住まいと金銭面の援助してくれるぐらいなので、親代わりというにはほど遠い。
 澄佳を育てたのは姉である自分だ。
 妹というよりも、年の近い娘のような感情があった。
 あたしにとって唯一の肉親。命よりも大切な人。なにがあっても幸せになってほしい。
 いや、他に一人いることはいるんだけど、あれはもうどうでもいい。縁を切った。大切でもない。さっさと死んでよし。
「はぁ、嫌なやつ思い出しちゃったじゃないか。あたしの兄弟は澄佳だけよん」
 菜穂香は、全開になっていた窓をピシャっと閉める。
 窓ガラスの向こうから、悪魔の尻尾がひらりと覗き、消えていったが、気が付くことはなく、黒魔術研究部を出て行った。

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