回想
あの方の青白い手が私の首を掴む。その膂力はまるで万力のように強く、到底少女の細腕の力とは思えない。私は溺れているような息苦しさから逃れようともがき、苦しみ、身体を捩る。長い爪が首の皮を裂き、流れ出た真っ赤な血が綺麗な手を染めていった。私の上に乗りかかる金髪を振り乱した少女の美しい顔は憎悪に歪み、目からは黒い血の涙が流れている。その暗い空洞の瞳と目が合った瞬間、少女の唇が弧を描いて笑みを象り、私は声なき悲鳴を上げた。
恐怖に目を覚ました私を両腕に架せられた鎖の音が出迎える。明るい黄色のドレスは寝汗でぐっしょりと濡れ、フリルの裾から伸びている足首には重い鉄枷が繋がれていた。目の前には鉄格子が立ち並び、四方を取り囲む石造りの壁には所々に黒ずんだ血痕が残っている。その血の痕からかつての罪人たちの怨嗟の声が聞こえてくるようで、耳を塞いでしまいたくなるが、戒めの所為でそれすら敵わず、ただ必死に心を閉ざすことしか出来ない。
私が此処に縛られて、どれ程の月日が経ったろう。王宮の牢屋の中か、冥府の獄か。はたまた、昔にあった戦争の負の遺産か。いや、どこであっても変わらない。私のような大罪人を捕らえる場所など。
「やあ、目が覚めたみたいだね、クラリス」
鉄格子の外の暗がりの奥から、睦言を囁くような甘い男の声が響く。彼だ。輝いていた金髪は微かにくすみ、服は薄汚れていようとも、眩いばかりの美しさは相変わらずである。彼はその端麗な顔立ちに蕩けるような笑みを浮かべ、私を愛おしげに見つめた。しかし、それは背徳と罪の骨の上に立った仄暗い愛だということを知っている。
かつて、私は彼にその甘い声で自分の名を呼ばれることを望んだ。かつて、私は彼にその蕩けるような笑顔のマスクを向けられることを願った。かつて、私は彼のその溢れんばかりの愛を独り占めすることを欲した。それは決して手を伸ばしてはいけない禁断の果実であったというのに。
彼は牢の鍵を開け、騎士のように私の前に跪くと、ドレスの濡れているのを見て笑みに憂いを織り交ぜた。
「怖い夢を見たんだね、クラリス。寝汗で気持ち悪いだろう。私が拭いてあげるよ。隅々まで、ね」
彼は愛おしげに囁きながら私のドレスを脱がす。病的に白い肌が薄暗闇の中に浮かび上がった。彼はハンカチで丹念に私の身体を拭いていく。私は逆らう事もなく、彼にされるがままにされていた。やがて、拭き終わると、彼は私の顎を手で持ち上げ、唇を啄む。静かな牢獄に卑猥な水音が響いた。
かつては私もこの熱い舌が咥内を蹂躙する快楽に悦んでいたものである。しかし、今ではもう何も感じない。私の心にはただ何もない虚無感だけが広がっている。私の心はあの時のあの瞬間、あの方と共に死んだのだ。
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私は商人の娘だった。父は王家にも覚え目出度い大きな商会を取り仕切る立場に立っている大商人で、私が十二歳になった頃、国王陛下に国の発展に尽力した功績が認められ、貴族位を賜った。我が家はデニス男爵家となり、私は商人の娘からデニス男爵家のご令嬢となった。その時の私は素直にこのことを喜んだ。女の子として生まれた以上、貴族の煌びやかな世界やお姫様といったものに少なからず憧れがあったからである。
そして十三歳になった頃、私は貴族の令嬢子息たちの学びの場である学園に入学した。入学式はそれはそれは豪勢で、見上げるほど高い天井に輝くシャンデリア、ふかふかの真っ赤な絨毯、美しいドレスを纏った令嬢たちが舞うようにダンスを踊る光景はまさに夢のよう、私は心底胸が躍ったものである。私が初めてオーレリア様を見たのも、そのパーティーであった。
あの方を初めて見た時、私は何と美しい女性なのだろうと思った。その場には美しい容姿の方が大勢いたが、その中でもオーレリア様はとりわけ抜きん出ていた。女神もかくやという容姿、その所作の一つ一つは何とも優雅で、思わず見惚れた。その婚約者たる王太子殿下もまた、端正な容貌をお持ちの方で、何とお似合いのお二人であろうと熱い息を吐いたものである。王太子殿下を赤い頬で見つめるオーレリア様はまさに恋する乙女であり、筆舌尽くし難いほど美しい。ぽーっと見惚れていた私を、オーレリア様がちらと視線を寄越したような気がして、私はその瞬間、心を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。私は恋慕にも似た強い憧れをあの方に抱いた。しかし、オーレリア様は王家に次ぐほどの高貴なお方、私などの底辺貴族では近寄ることすら恐れ多く、上位貴族であったならと生まれて初めて身分を悔やんだ。
それから十六歳になるまでは、平和で楽しい日々を過ごしていた。子爵家や男爵家の親しい友人も出来、平凡ながらも穏やかな学園での生活は後にして思えば一番幸せだっただろう。しかし、その平和が壊れ始めたのは彼と出逢った時からである。そう、彼、ルーファス殿下と。
殿下のことはあのパーティーで一度お見かけしただけであった。しかし、やはり王太子ともなれば、令嬢たちの紅茶の席で取り上げられることも多く、あの方の噂はよく耳にした。曰く、目を瞠るほどの容姿である、曰く、王太子として有能である、曰く、オーレリア様の婚約者である、また曰く、本人はこの婚約に納得しておらず、放蕩ばかりしている、と。
とはいえ、どうせ私が彼と関わり合いになることはないだろう、と当時の私は思っていた。男爵令嬢である私からしてみれば、殿下はオーレリア様と同じく雲の上の人である。あの方もまた、私のことなどそこらに転がる路傍の石ころ程度にしか思っていないに違いなかろう。だから、殿下に対してもオーレリア様に対してもまるで絵の中の人物に対するような、私の住んでいる世界とは別の世界でのことのような感覚しか抱いていなかった。オーレリア様のような素晴らしい婚約者がいるのに、どうして放蕩などするのだろう、と不思議に思っているばかりであった。
「可愛いな、お前」
しかし、この状況は一体何なのだろう。何故私のすぐ間近に、ルーファス殿下の顔があり、私は殿下に迫られているのだろうか。以前は遠目に見たのみであったが、近くで見ると尚更整った容姿である。睫毛は長く、肌は思わず羨ましくなるほど白い。しかし、口角を上げ、目を爛々と輝かせている殿下はまるで肉食の獣のようだ。私は端麗な容姿の異性との距離が近く、しかも、可愛いと言われたことに顔が赤らむのを感じながらも、どうにか平静を装う。
「お前、名は何と言う」
「……クラリス・デニスと申します、殿下」
「そうか。喜べ、クラリス。俺はお前が気に入ったぞ」
彼はそう言うや否や、私を抱き寄せ、口付けした。私は初めてキスされたことに対する恥ずかしさと混乱で、思わず殿下の胸を思い切り押してしまった。私が拒絶したことに殿下は驚いたようで、目を見開いていたが、私はそれどころでなく、彼の拘束が緩んだ隙に脱兎の如く逃げ出した。背後から殿下が微かに「面白い」と呟くのが聞こえた。後になって思えば、殿下を拒絶するのはやはり拙かっただろうか、と恐怖に苛まれた。不敬罪に問われてもおかしくはない。彼が一声命じれば、私だけでなく父や母も首が飛ぶのだ。底辺貴族の身など彼の気分次第で容易く吹き飛ぶ。私は心底怖ろしくなった。
しかし、殿下は私を処するどころか、何故か私に興味を抱いてしまったらしく、しばしば言い寄ってくるようになった。拒絶しなければならないと思いつつ、殿下を拒んで気分を損ねてしまえば、家族郎党処刑されるだろうと思えば逆らうことも出来ず、殿下の意のままになっていた。
「愛しているぞ、クラリス」
耳元で甘い声を囁かれ、腰が砕けそうになる。ふらついた私の身体を殿下は腕の中に抱き留め、包む。駄目だと思いつつも、自分を暖かく包み込む大きな身体に異性を感じ、頬に熱が集まった。
私が彼に言い寄られるようになってから、学園はまさに私にとってまさに針の筵であった。仲良くしていた友人も尽く離れていき、中位貴族や上位貴族から嫌味を言われるようになった。当然だ。殿下は容姿から人気も高く、しかも、あのオーレリア様の婚約者なのだ。上位貴族にはオーレリア様のシンパが多く、しかも、あの方が殿下に心を寄せていることは周知の事実であるので、私に対する風当たりが更に強まる。オーレリア様本人からは何かを言われたことはないが、取り巻きの方々からは鋭い視線で睨まれる事があった。他者からしてみれば、私が殿下に言い寄っているように見えるようで、誤解を解こうにも話すら聞いてくれない。
ある時はこのような事があった。誰かから内密に呼び出しを受けたのである。とうとう吊し上げの時が来たかと思い、恐怖に震えながらも行ってみれば、意外にも複数人ではなく、一人のご令嬢がいた。結い上げられた金髪に橙のドレス。吊り上がった瞳は気の強そうな印象を受ける。しかし、猫のような妖艶な美しさは目を惹くものがあった。令嬢はエノーラ=イングランドと名乗った。ふと思い出したのは、オーレリア様のお傍にいつも控えていたお方だということである。しかし、平時の落ち着きようはなく、何やら焦っているようにも見えた。
「呼び出しに応じてくれたことにまずは感謝を。しかし、誰かに見られてはいけないので手短に用件を済ませましょう、デニス男爵令嬢。身分を弁えなさい。貴方が言い寄っているあのお方はオーレリア様の婚約者です。このことでオーレリア様が悲しみになるようなことになれば、私は貴女を許しません」
「……あの、ちが」
「それでは、ごきげんよう。貴女が賢明であることを願います」
エノーラ様は私に鋭い声音で言いたいことだけ告げると、用は済んだとばかりに足早にその場を立ち去って行った。誰かに見つかることを怖れているようだ。まるで嵐のような勢いで、私には反論する暇すら与えられなかった。しかし、エノーラ様の言うことはよくわかる。私とて殿下と離れられるならば離れたい。彼と出逢ってから辛いことばかりだ。しかし、それで彼の機嫌を損ねてしまえば私は……
結論から言えば、その後も、殿下との逢瀬がなくなることはなかった。私も最早、逆らう余力すら失っていた。というのも、私自身が彼に心を寄せてきたからであろう。当初は恐怖故であった密会も、だんだんと私自身が内心待ち望むようになっていた。この学園において私から友人を奪ったのは彼であるが、一人になってしまった私の傍にいてくれるのもまた彼だけなのだ。私には彼しかおらず、依存とも言えるこの狂的な恋は時が経つごとに深まっていった。
しかし、時折私は現実に戻される。殿下はオーレリア様の婚約者だ。ルーファス様と一緒になりたい。しかし、そうすれば私は憧れのお人から婚約者を奪うことになる。愛と背徳の間に挟まれ苦悩すれど、しかし、愛は日々深まっていくばかり。背徳の念は薄まり、何時しか私は憧れていたはずのオーレリア様を憎らしく思うようになっていった。
「今日は君にプレゼントがあるんだ」
「何ですか、殿下」
殿下がそう言って私にくれたのは青を基調とした美しいドレスであった。可愛い、と思わず呟く私に、殿下は嬉しそうに笑った。その笑顔に心がどくんと跳ねる。ああ、もう駄目かもしれない。私の心は完全に殿下の物となっていた。殿下は跪き、私の手を取って、甲に口付けをして更に言った。
「クラリス、そのドレスを着て、私と共に夜会に出てほしい」
「え……」
夜会に女性を伴うのは将来を誓い合った相手だと公言するも同様である。故に、殿下のこの言葉はプロポーズも同然なのだ。私は頬に熱が集まるのを感じた。嬉しい。その時、私は幸せに浸っていて、オーレリア様に対する申し訳なさを忘れていた。だからだろうか、天罰が下ったのは。
次に見た時、ドレスは見るも無残な姿となっていた。綺麗だった絹はナイフのようなものでズタズタに引き裂かれ、辛うじて色だけがあのドレスであると判断する唯一の術であった程だ。思わず涙が零れる。嫌がらせを受けるのは覚悟していた。寧ろ、今までなかったことが不思議なくらいだったが、しかし、何故今なのだろう。殿下から賜った初めてのプレゼント。悲しみが溢れ、嗚咽が止まらなかった。周りで何事かと見ている生徒たちも何も、私の目に入らない。
「クラリス、どうした! 何があった!」
会いに来た殿下が慌てて私に駆け寄る。私を不躾な視線から守るように抱き締め、そして、無残な姿となったドレスを見つけたのであろう、声を張り上げ怒鳴り声をあげた。
「誰だ! 誰がこんなことをした!」
その時、私の胸の内に仄暗い欲望が生まれた。なんとも醜い欲望である。それは水の中に一滴の墨を落とすように広がり、私を黒に染めていく。私は彼の胸に顔を押し付け、服をそっと引く。心配げに私を見下ろす殿下に、私は涙を流しながらそっと呟いた。
「オーレリア……様が……ドレスを……」
「……何事ですか」
「何事か、だと。よくもそんな口が叩けるな。クラリスに嫌がらせをしておきながら」
オーレリア様からすれば青天の霹靂であろう。当然だ。あのお方は真に清純なお方だ。そんな方を私は貶めようとしている。罪悪感を感じながらも、殿下がオーレリア様を糾弾する度に暗い悦びが私の胸を埋めた。
「何をおっしゃるのです、殿下!」
「オーレリア様がそのようなことをするはずがありませんわ!」
取り巻きの方々が激するも、オーレリア様が手で制する。王家から無実の罪で糾弾されるという状況においても猶、彼の方はあくまで冷静であった。
「……殿下、私がやったという証拠はあるのでしょうか?」
「ふん、クラリスが犯人は貴様だと言うのだ。言い訳は見苦しいぞ」
殿下はそう言い放つ。私は彼に抱かれ、嬉しさに再び涙が零れ落ちる。殿下は私を信じてくれたのだ。オーレリア様よりも私を。
「殿下、私の話を聞いてください。私は」
「もういい。どうせ、下らない言い訳でもするつもりだろうが、貴様の言い訳など聞く必要などない。大体、私は元々貴様みたいな外面だけの女は嫌いだったんだ。いつもいつも余裕ぶった笑みで私を見下しおって」
そう吐き捨てると、殿下は私を離し、オーレリア様に向かって歩き出す。殿下が何をしようとしているのか、わからなかった。彼の表情は見えないが、手は腰に提げられた剣の柄へと伸びている。私は嫌な予感を感じた。止めようと手を伸ばすが、届かない。視界が赤く染まった。
殿下がオーレリア様を剣で刺したのだ。彼女の血が床を濡らしていく。一瞬の静寂の後、耳を劈くような悲鳴が木霊する。殿下は剣の血を払うと、私に歩み寄ってきた。その表情はいつも通りの優しい笑みだ。今しがた婚約者を刺し殺したとは思えない。阿鼻叫喚の中、足が震えて動けない私を殿下が抱き締める。
「ああ、クラリス……これでようやくあの邪魔なオンナも消えた……やっと君を手に入れられる……ずっとずっと、一緒にいよう……」
「あ……あああ……違う……私は、こんな……」
違うのだ。あのお方を殺すつもりはなかった。ただ、私は彼の隣に立ちたかっただけなのだ。私はオーレリア様のようになりたかった。その醜い欲望が。その思い上がった傲慢が。私の吐いた一つの嘘が。あのお方を殺したのだ。
私のせいで。
私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで。
私が、オーレリア様を、殺した。
私は殿下の腕の中でそのまま気を失った。
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「はい、クラリス、口を開けて」
腕を縛られた私に、彼が食事を口元に運んでくる。私は言われるがままに口を開けた。温かいスープが喉に流し込まれ、私はこくこくと喉を鳴らして呑み込む。それを見て、彼は至福の表情を見せた。
あの後、私は気が付けば、この牢屋に縛られていた。私は彼に縛られ、こうして世話をされて生きている。自分で動くことができず、死ぬことすら出来ない。まるで人形のようだ。嗚呼、お願いです、誰か、誰か、私を――
――殺してください。