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ディナー
作:松本 由樹彦



チャプター8


「ただいまー」
 玄関から声がした。おそらく、中年の女性の声。
 反射的に廊下に目を向けてから、僕は吉川を見た。吉川は口を開いて僕を見ていた。
「住んでた」
 吉川が小さな声で言う。
「やばいわ」
 確かにこの状況は非常にまずい。玄関の鍵を壊して、家中の障子に穴を開けて、しかも畳に土足。弁解の余地はどこにもない。言うなれば、ただの空き巣。
「謝ろう」
「隠れるわよ」
 吉川は僕の腕を掴んで立ち上がった。そのまま引きずられる。おそるおそる廊下に顔を出す吉川。
「足音立てないでよ」
 吉川は僕の手首を握ったまま、一番奥の部屋へ引っ張り込んだ。この部屋だけ押入れがあったのだ。吉川は襖を静かに素早く開けて、上下に別れた押入れの上の段に飛び込んだ。僕は少し迷った挙げ句、吉川と同じ上段に上がって襖を閉めた。真っ暗。
「あんた何で上に来るのよ」
 声を殺して吉川が言う。
「混乱したんだよ」
 僕は適当な言い訳をした。
 暗くて狭い押入れの中。密着しなければならないほどの狭さではないが、僕の足に吉川の足が乗っている。日焼け止めの匂い。
「足伸ばすなよ」
 吉川が何も言わないのでこの会話は終了。せめて靴は脱いでほしいのだが。
 僕は絶望を込めてため息をついた。
「隠れてどうするんだよ」
「だって謝って済む問題じゃないでしょ?」 
 それもそうだが。
「しばらく様子をみるわ。あのおばさんが出て行った隙に逃げましょう」
 僕は携帯電話を開いた。午後四時半。
「今日はもう出て行かないんじゃないか?こんな場所だし」
 ただいま、と言って帰ってきたということは、やはり他の家族もいるのだろうか。これから続々この家具のない家に帰ってくるのか?
「それに誰かが家に入ったのは明らかな状況だし、ここもすぐに見つかると思うよ」
「何でそんな他人事みたいな言い方なのよ」
「性格だよ」
「嫌な性格」
 吉川は精神を統一するようにふーっと長く息を吐き出した。
「じゃああのおばさんを殺す」
 どうしてそうなる。
 僕が何も言わないでいると、
「冗談よ」と吉川がつぶやいた。  
 それから吉川はわずかに襖をずらした。光が差して不機嫌な横顔が見える。
「見つかるだろ」
「息苦しいのよ」
 しばらくすると襖からカサカサという音がした。
「何の音?」と僕は尋ねた。
「犬がいる。大きな白い犬。鼻をくっつけて匂いを嗅いでいるわ。なんだろ……、すごく痩せてる」
 僕の側の襖も少し開けてみた。すると犬も移動した。それは紀州犬だった。でも僕の知っている紀州犬とは違う。肉がなく、皮が骨に張り付いている。犬のミイラみたいだった。
「こんなの普通、外で飼わない?」
 吉川が囁くように言う。
「普通はね」
 僕は犬の腹に浮かぶ肋骨を眺めながら言った。
「この家、ちょっとおかしくない?」
「相当おかしいよ」
 外出して帰ってきたら玄関の鍵が壊されていて、障子に穴が開けられていたのだ。それなのに彼女はごく普通に、ただいまと言って扉を開けた。家の中に誰かが潜んでいるとは思わないのだろうか。だいたいさっきから物音一つしないのだ。あの女性は昼寝でもしているのだろうか。それともやはり気味悪がって人を呼びに行っているのかもしれない。その可能性は十分ある。だとしたら逃げるならまさに今なのだろうが、吉川の足の重みが思いのほか心地よかったので、僕はそのまま襖を閉めた。
 

 二時間後。
「……どうやら朝までコースね」
 吉川が久しぶりに口を開いた。僕は一応携帯電話を開いてみた。やはり圏外。このまま何もしないでいるのも時間の無駄だ。携帯電話の明かりで英文法の復習だけでもしてみようか。しかし、果たして来週の月曜日に僕は学校にいられるのだろうか。それすら怪しくなってきた。家に帰らないと、遠山のこともあってぴりぴりしている過保護な母親に捜索願いを出されかねない。吉川の母親はどうだろう。市の職員をしているという吉川の母親もきっと帰らない娘を心配するだろう。捜索願い。それだけはなんとしても避けたい。
 それはさておき、僕の足の上ではさっきから吉川の足がしきりにもぞもぞ動いているのだが、どうやら最も恐れていた事態が、
「おしっこしたい」
 訪れてしまったようだ。
「我慢してよ」
「朝までなんて持つわけないじゃない」
 やや緊張を含んだ声で吉川が言った。
「声、大きいよ」
「あんた大丈夫なの?」 
「僕は毎朝一回トイレに行けばそれで事足りるよ」
「…さすがね」
 否定的な賞賛。
「もうだめ。膀胱炎になっちゃう」
 僕はため息をついた。
「どうしても我慢できなくなったら、してもいいよ」
「ここで?」
 見えないとわかっていながらも僕はうなずいた。
「僕は気にしないし、真っ暗で何も見えない」
「殴るわよ。冗談でもそんな気持ち悪いこと言わないで。変態」
 精一杯の優しさのつもりなのだが。
「あーもう無理。トイレ行ってくる」
 馬鹿だろ。
「やめろって」
「あんたにおしっこするところ見られるくらいだったら、おばさん殺してでもトイレに行くわ」
 吉川は鞄をまさぐって何かを取り出し、襖を少し開いて外の様子をうかがった。
 左手にナイフ。
「勘弁してくれよ」
「犬は……、いないわね。あんたはここにいて」
 吉川は襖をさっと開けて外に出て、すっと閉めた。
 僕は足を思い切り伸ばした。吉川の足が乗せられていた部分が素敵に暖かかった。でもそこはみるみるうちに冷たくなってしまった。喪失感。
 僕はまたしてもため息をついた。
 












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