チャプター3
午後四時三十分。
無駄に広い砂利敷きの駐車場に自転車を停めて、懐古的な鐘の鳴る扉をくぐると、吉川が一番奥のいつものソファーで水を飲みながらテーブルの角に物静かな視線を投げかけていた。
一見物思いにふけっているようにも見えるが、単に他に見るべきものがないだけだろう。僕が入ってきても手を上げたりはしないし、もちろん顔を上げたりもしない。
僕は無言で藤椅子を引いて腰を下ろし、メガネを外してケースにしまった。
吉川と会うとき僕はメガネを外すことにしている。吉川がそのほうがいいと言ったからでは決してなく、学校での僕と外での僕を区別しているだけだ。
僕は常に指定の時間ちょうどに来るよう心がけていて、遅れたことは一度もないのだが、僕が来たときに吉川がいなかったことも一度もなかった。一体何分前に来ているのだろう。いつかどうしようもなく暇で話すことがなく、なおかつ沈黙が気まずいときが来たら聞いてみよう。
僕が席に着くと同時に大相撲と水戸黄門をこよなく愛する老人が唸りながら立ち上がり、僕の分の水を携えて注文を取りに来る。この数ヶ月間、何度も繰り返されているパターン。僕はアイスコーヒーを、吉川はホットココアを注文した。
もうすぐ六月なのだが、吉川はいまだにホットココアを飲んでいる。というより僕は吉川がここでホットココア以外のものを注文するのを見たことがない。飲むと体が暖まるから、という一般的な理由で飲んでいたわけではなくて、吉川はきっとただものすごくホットココアが好きなのだろう。吉川にとってアイスココアは邪道なのだろうか。真夏になっても汗をかきながら息を吹きかけてホットココアを飲むのだろうか。僕にはなぜだかその光景が目に浮かぶようで、吉川はたぶん、そうすると思った。
「さっきから何じろじろ見てるのよ」
吉川が怪訝な顔で僕を見ている。どうやら吉川のホットココアへの傾倒について考察を巡らせているあいだ、僕の視点は無意識に吉川の顔に固定されていたようだ。
「見惚れた?」
吉川、得意のニヤリ顔。
「別に。ぼーっとしてただけ」
僕は適当にごまかしてアイスコーヒーを飲む。
「ふうん」
吉川は眉間にきゅっとしわを寄せ、僕を見ながら髪を触って耳にかけて、
「気持ちの悪い奴ね」と言った。
その後、特に会話が弾むこともなく、いつもどおり一杯ずつのドリンクをだらだら飲んで、ロレンスの前で吉川と別れた。
本日の議題であるはずの遠足の予定は、十時に駅前集合という以外何一つ明かされなかった。どうせ何も決めていないのだろう。
日没前の県道を夕陽の当たり方がすごくいいガードレールを横目で見ながらのんびりと自転車を漕ぐ。長袖のシャツを一枚着ていれば丁度いい快適な気温。新緑豊かな田園地帯へノープランで日帰り小旅行、という旅行会社のキャッチコピーみたいな文句が浮かんだ。明らかに金のかかってなさそうなプラン。でも、わりと楽しめそうな気がする。
明日は遠足。
家に着いたのは六時前だった。
玄関からリビングに入ると、母親が夕食の支度をしていて、姉がソファーに寝転んでテレビを見ていて、父親はまだ帰っていなかった。
リビングのドアを開けた僕を姉が見た。面倒の予感。
「ただいま」
「おかえり孝樹。いいところに帰ってきたわ。シャンプー買ってきてちょうだい」
「嫌だよ」
「いいじゃん」
僕は鞄を置いてソファーに腰を下ろそうとした。が、姉が僕の尻を押し戻した。
「ほら、座ったら立てなくなるわよ」
どういう理屈だ。
「どうせ孝樹も使うじゃない」
姉は僕に千円札を押し付けてくる。一応母親に目をやったが、見てみぬふりをしているので、渋々玄関に引き返して、車庫に入れたばかりの自転車を出した。
六歳上の僕の姉は、東京の大学に通っていたのだが、この春、卒業して実家に帰ってきた。姉が大学で何をしていたのかを僕は詳しく知らなかったのだが、どういうわけか教員免許を取得してきていて、現在小学校の教師である。これが先生と呼ばれているなんて、世の中完全にねじ切れている。この姉は僕に対する理不尽な強権を有する人物で、僕は幼いころから幾度となくひどい目に遭わされてきた。なんとなく感じてはいたのだが、姉が帰ってきてからはっきりと思うようになった。姉と吉川は性格が似ている。だからなのだろう。僕がここまで言いなりになる相手は、姉と、吉川だけだ。
コンビニで姉が愛用するシャンプーを購入して帰ってくると、すでに夕食が始まっていた。僕はささみフライを頬張る姉の目の前にシャンプーの入った袋とつり銭を突き出した。姉は口をもぐもぐさせながらシャンプーの銘柄を確認して、「よくできました」と微笑みながら、僕の頭に手を伸ばした。まるで小学生扱い。僕はその手をかいくぐり、無言で姉の正面の席に着いた。姉はにやにや笑って僕を見ていた。
吉川みたいだ。
就寝前にフランス映画のDVDを観て、感想文を書き上げた。月曜日に吉川から渡された三枚のうちの一枚。これで今週の宿題は終わりだ。吉川が選んでくるのはほとんどがフランス映画だが、最近はドイツ映画やイタリア映画、スウェーデン映画やチェコ映画といったものが混じっていることもある。いずれも本国でさえあまり受け入れられていないのだろうなと感じさせるB級作品群だ。それにしても、このマニアックな品揃えのレンタルショップは一体どこにあるのだろう。ちょっと行ってみたい気もする。毎週よくネタが尽きないものだと思うが、最近どうも疑わしい。もしかすると吉川は気になった映画を片っ端から僕に見せて、僕のレポートを参考に借りなおしているのではないだろうか。そのくらいのことは平気でやりそうだ。
とはいえ、吉川が僕のレポートをそれほど重要視するとも思えないのだが。
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