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ディナー
作:松本 由樹彦



チャプター18


 駅に戻ると僕は吉川を駅前のベンチに座らせて無人の改札へと向かい、電車の時刻表を確認した。どうやらさらに一時間待たなくてはならないらしい。僕はそのことを吉川に告げて、何か食べていこうか、と提案した。昨日の昼から何も食べていない吉川は首も振らずに、「なんにも食べたくない」と言った。
 それで僕たちはロータリーに一台だけ停車していたタクシーに乗ることにした。僕も吉川も疲労のピークを五周したくらいに疲れきっていたし、それに時間がたつにつれて吉川の受けた精神的なダメージが結構深刻なもののように思えてきたのだ。バスの中でも一言も喋らず、時折何かを思い出しているのか口元に手を当てていた。電車になんか乗せたくなかった。
 考えてみれば昨日からの吉川は、山の中で迷子になり、蚊に刺されまくり、他人の家の押入れに隠れ、限界までトイレを我慢して、謎の薬を嗅がされ、犬用の首輪を巻かれ、暗闇の中で監禁され、鎖を引かれ、髪を引かれ、怒鳴りつけられ、喉にナイフを当てられ、男の指を噛み砕き、男の背中にナイフを刺し、僕が男を絞め殺すのを間近で見て、挙句の果てにロディがおかあさんを食い散らかすさまを見たのだ。普通の十六歳の女子高生なら意識を正常に保つことすら困難だろう。いくら吉川が吉川だとはいえ、僕がもう少し配慮するべきだったのかもしれない。するべきだったのだ。たぶん。
「一応、病院に行ったほうがいいんじゃない?」
「なんで?」
「おかあさんに変なクスリ、嗅がされたから」
 吉川は転んだ子どもを慰めるように微笑んで、
「だいじょうぶ」
 それから、
「すこし眠る」
 と、窓に頭をつけて目を閉じた。
 僕は憔悴した吉川のために何かできることはないだろうかとかなり真剣に五分ほど考えたのち、帽子を使って吉川の頬に風を送ってみることにした。吉川は鼻をひくひくさせながら寝言のように、「やめて」と言った。
 バックミラー越しに運転手と目が合った。信号待ちをしていた彼は尊大な教師のような顔を作って僕を見ながらゆるゆると首を左右に振った。きっと彼は僕が吉川に何らかのいかがわしい行為を働こうとして、それを吉川に拒まれたとでも思っているのだろう。彼がそう思うのも無理はなかった。今しがたの吉川の静かな拒絶は世界中の男性の庇護欲を一斉にかき立てられそうなくらいイノセントに満ちていたし、吉川の寝顔もまた十一歳の少女のようにイノセントなのだから。
 僕は役目を終えた帽子を頭に乗せて、居心地の悪いシートに身をもたせた。信号が青に変わり、運転手は静かに車を出した。
 僕は何もすることがなかった。

 山笠村から僕たちの町までは遠く、メーターは狂ったように回り続け、やがて僕と吉川の持ち合わせを超えたので、僕はコンビニで一旦タクシーを降りて金を下ろした。ついでに消毒液と包帯と傷を隠すためのリストバンドを二つ買って、車内で傷の手当をした。
 山笠村からだと先に僕の家に着く。僕は吉川に一万円札を二枚渡して、釣りは今度返してくれればいいと告げてタクシーを降りた。吉川は黙ってうなずいていた。
 玄関先に車が停まる音が聞こえたのだろう。部屋着姿の姉が無駄に外に出てきた。僕は後部座席のドアを背にして吉川を隠した。
「孝樹!あんたどこ行ってたのよ!心配したんだからね…って高校生のくせにタクシーで帰ってくるなんて何様のつもり?……あら?そちらは?」
 姉はやかましくまくし立てながら目ざとくもあっさり吉川を見つけた。僕は吉川に早く行くよう言おうと振り返ったのだが、すでに吉川は反対側からタクシーを降りていて、学校でも滅多にお目にかかれない究極の姫スマイルを浮かべて、背筋を伸ばして姉と正対した。うんざりする。
「……同じ学校の、吉川世梨さん」
 吉川は、「はじめまして!」と元気に言って、会釈というには深すぎるお辞儀をした。表情は会心の笑顔から人懐こい笑顔にシフトされた。姉は気持ち良さそうににこにこと微笑んで、「孝樹の姉ですー、はじめましてー」と吉川に笑いかけ、そのままの顔で首を回して僕を見た。憂鬱だ。
 僕は吉川を後部座席に押し戻して、車内に首を突っ込んだ。
「悪いね」
「何が悪いのよ。きれいなお姉さんじゃない」
 吉川はすでに僕用の顔に戻していた。
「また」
「うん」
 走り去るタクシーを見送って振り返る。まだ姉がいた。
「……そういうことか」
「なにがだよ」
「吉川ちゃんかー。めちゃくちゃきれいで可愛い子ね」
 そこは否定のしようがない。
「そうだね」
「礼儀正しいし」
「…そうだね」
「そりゃあんな可愛い彼女がいたら塾なんか行かないわよね」
 どうして知っている。
「そういうんじゃないよ」
「へえー。そういうんじゃない子と無断外泊して朝どころか夕方にタクシーで帰ってくるんだ。うちの孝樹ちゃんは。そっかそっか」
「……母さんには言うなよ」
「ふふーん、どうかなー?」
 絶対言う。
 いつまでも姉の相手をしていても仕方がないので、僕はさっさと玄関に向かった。
 いったいどこに行ってたの連絡もしないで何か事件に巻き込まれたんじゃないかと思って心配したんだからね帰って来ないにしても電話の一本ぐらい入れられるでしょ本当に今晩帰ってこなかったら捜索願い出そうと思ってたんだからそれより塾はどうしたのよちゃんとお休みの連絡はしたのだいたい明日からテストでしょ何やってたのよ本当にもうとうるさい母親に適当な嘘をついて、真っ先にシャワーを浴びて汗を流し、長袖のシャツに着替えて夕食の席に着いた。 
 先に食べ始めていた姉がすでに母親に吉川の話をしていた。最悪だ。しかも今晩母親が用意していたのはよりにもよってハンバーグで、どうしようかと思ったのだが、食べ始めてみると意外においしく平気ですべてを平らげてしまい、僕はどうにも暗澹とした気分になった。
 部屋に戻ると僕はベッドに腰を下ろして、もう一度両手首を消毒して、包帯を巻き直した。適切な処置をしなければこの傷は一生残るだろうが、僕は病院に行くつもりはなかった。
 そのまま仰向けに寝転んで、しばらく僕は包帯を見ていた。よくよく考えてみると僕が包帯を巻くような怪我をするのは初めての事だった。僕は骨折をしたこともなければ、皮膚を縫うような裂傷を負ったこともない。もっと言えばあまり怪我をした記憶がなかった。僕は鼻を近付けて消毒液の匂いを嗅いだ。怪我。なかなか新鮮な気分だった。僕は包帯の白さについて考えて、包帯の向こうの傷のことを考えて、吉川の舌のことを考えた。それから腕に走る血管に目を移し、吉川の血管のことを考えて、吉川に食べられるということについて考えた。僕は何度もあくびを繰り返した。ひどい眠気だった。目を閉じればすぐにでも完全な眠りが僕を包み、あの優しい夢の世界へと連れて行ってくれることだろう。吉川が僕の首を噛んだところで終わってしまったきれいな夢の第二幕。僕はその夢の中に二十時間ぐらい囚われながらゆっくりと吉川に捕食されてしまいたいと思った。そして僕はその夢を細部まで記憶したまま覚醒することができるだろう。そんな大切なことを僕が忘れるはずがない。
 でも僕は閉じかけていた目を強引にこじ開けて、ベッドから身を起こした。立ち上がって首の骨を鳴らす。残念ながらまったく寝ている場合ではない。言うまでもなく明日は期末テスト初日であり、とにかく今は少しでも勉強しなければならないのだから。












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