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ディナー
作:松本 由樹彦



チャプター17


 地下から上がると、吉川は押入れに鞄を取りに行って、ついでにトイレに行ってくると言った。
 僕はバスルームに行って血の付いたパジャマを脱ぎ、置きっぱなしにしていたTシャツに着替えてジーンズを履いた。それから手首の血を洗い流し、パジャマを破って手首に巻いて、帽子を被った。それから鏡を見てみた。見慣れた顔の僕がいた。やっと帰れる。
 おかあさんが死んでいることを吉川に言ってなかったことを思い出して、どう説明しようかと考えながら、とりあえず僕はダイニングに向かった。
 おかあさんの眼球がなかった。
 ロディがおかあさんを喰っていた。
 傷口からおかあさんの皮膚を噛み破り、腹の中に顔を突っ込んでいる。
 飢えた白い紀州犬はすっかり血の赤に染まっていて、前足で体を押さえつけながら、黙々とおかあさんを貪っていた。僕は犬の二メートル後ろに立ってそれを見下ろした。
「岡部ー」
 どこかずうっと遠くのほうから、吉川が僕を呼んでいる。
「あんた私の紅茶飲んだでしょ。気持ち悪いからそういうのやめ…」
 後ろで何かが落下する音。首を向けると吉川が鞄を落として息を呑んでいた。
 僕は死体を喰う犬に視線を戻した。
「なにこのスプラッタ?」
 吉川が僕の隣まで歩いてきて、言った。
「ロディがおかあさんを食べている」
「……なに言ってんの?」
 吉川は、犬と死体に向ける目のまま僕を見た。
「ロディがおかあさんを食べている」
「あんたが殺したの?」
「違うよ」
 ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。
 ロディは僕を見ようとしない。
「ロディはおなかが空いてたんだ」
「……ちょっとさっきからなに言ってるの?大丈夫?」
 吉川は僕の目の前で手をひらひらさせる。
「大丈夫だよ」
 僕は吉川を見ないで言った。
 ロディがエサにありつけたことを僕は単純にうれしいと思った。
 ロディはおかあさんの下腹部を喰い進めた。
「僕は食べる気しないな」
「岡部……」
 吉川は僕の腕にそっと触れた。大丈夫。別に吉川に言ってるわけじゃない。
 僕は目を離さなかった。吉川も僕と張り合うように、人喰い紀州犬とその飼い主をじっと見ていた。心優しい犬はおかあさんの体内から腸を引きずり出して、僕たちが見やすいように外で食べた。
 程なく吉川が吐息を漏らした。それは小さな悲鳴だったのかもしれない。それきり吉川は顔を背けて、目をそらさない僕を見上げていた。
 やがて吉川が僕のシャツの袖を引っ張った。
「……行きましょう」
 それでも僕は目が離せなかったのだが、視界の端に口元に手を当てる吉川が映ったので、家を出ることにした。
 玄関の引き戸は、開け放したままにした。


 よくよく考えてみると僕と吉川は道に迷ったからあんな目に遭っていたわけで、帰ろうと思ってもすんなり帰れるわけがなかったのだが、幸い本日も天気はよく、どうにか僕たちは二時間後には見覚えのある景色の中にいて、三時間後には麓のバス停にたどり着いた。バスが来るまではまだ五十分もあった。僕はバス停から遥か彼方に見えた赤い物体である自動販売機まで一人で歩いて、スポーツドリンクを二本買って、またバス停に戻った。吉川は屋根付きのベンチの隅で両肘を抱えてうつむいていた。 
 喰われるおかあさんを前にした吉川の反応は、正直予想外だった。少し前まで僕のピンクグレープフルーツ化した手首を楽しそうに舐めていたというのに。吉川の中で僕の肉とおかあさんの内臓は違う意味を持つということだろうか。それはそれで悪い気はしないが。
 山を降りる間にいくらか回復したように見えた吉川だが、その代わりに肉体的な疲労が加算され、途中からは僕にもたれかかるようにして歩いていた。僕は吉川の蚊に刺された痕の残る小さな肩に冷えた缶を押し当ててみた。本当は鼻にでも当ててみたかったのだが、髪の毛が吉川の顔全体を守っていたのでできなかった。吉川は特別おもしろい反応を見せず、特に怒ることもないままもそもそと顔を上げた。唇をわずかに開いて、魂を抜かれたような顔をしている。こういう顔も見たことはなかったが、別に嫌いではない。
 吉川は僕が差し出した缶を受け取ると、ありがとう、と言った。ぞくっとした。
「……吉川にそんなこと言われたの、初めてじゃないかな」
「そんなことないわよ」
 吉川は眉をひそめていたが、僕が吉川に礼を言われたのはこれが初めてのことで間違いはない。礼をしたほうがいいか、聞かれたことはあったっけ。
「まいったわ……、リアルすぎ」
 吉川は缶を両手に挟んで持って、スポーツドリンクを少しずつ喉に流した。
「すごかったね」
「しばらく肉、食べられそうにない」
 吉川に昨日の夕食の話をするのはやめにしよう。
 吉川はまぶたの上から指で目をもみほぐしている。それは眼球の存在を確かめているようにも見えたし、網膜に焼きついてしまった光景をどうにか霧散させようとしているようにも見えた。
「あんた、よく目をそらさなかったわね」
「自分でも思うよ」
「気持ち悪くなかったの?」
「さすがに気持ち悪いと思ったよ。でもどうしてだろう。どうしても目が離せなかったんだ」
 吉川は缶を前髪ごと額に押し当て、静かに目を閉じ、ため息をつき、それから僕にひどいことを言った。
「あんた人間じゃないわ」












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