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ディナー
作:松本 由樹彦



チャプター16


「とんだハプニングね」
 吉川がカビの生えたパンでも見るような目で男の死体を見下ろしている。
 僕は改めて吉川の足を見てみた。ちゃんと二本の足を地につけて立っているし、靴も履いたままだった。
「ところでその格好はなに?」
 吉川はぼさぼさに乱された髪を直しながら僕に目を向けた。
「パジャマ」
「なんでそんなの着てるの?」
「いろいろあったんだよ」
「でしょうね」
 吉川は苦々しくそう言うと、死体に唾を吐きかけた。
「いつから起きてたの?」
 吉川は少し考えて、
「最初から。でもよくわからないわ。気がついたら真っ暗の中にいて柱につながれてた。そのうち岡部が来てくれると思って待ってたんだけど、先に変な奴が来たからさ、とりあえず死んだふり」
「ふうん」
 さりげなく非難された気がする。
「いま何時?」
「十一時半」
「夜よね?」
「朝だよ」
「……何日の朝よ」
 僕は今日の日付を伝えた。
「一日か…」
 吉川はほっとしたようにつぶやいた。
「トイレには行けたの?」と僕は聞いてみた。
「そう。トイレから出たら目の前におばさんが立ってたのよ。それで口にタオルを押し当てられて…、何か薬を嗅がされたみたい」
「他に誰か見なかった?女の人」
 吉川は小さく首を振った。
「見てないわ。こいつが言ってたじゅんこのこと?」
「そう」
「こいつは誰なの?」
 吉川は男の肩を蹴りつけた。死体が情けなく揺れる。
「てっちゃん。説明は後でするよ」
「そうして。とりあえずうちに帰りたい」
 吉川は手を組み合わせて頭上に腕をぐっと伸ばした。
「それにしてもすごいわね。刺青って近くで見たの初めて」
 吉川は物珍しそうに男の体を見ている。吉川も右腕の女性の絵が気に入ったようだが、
「それよりこっち見てよ」
 僕は男の左肩を指差した。半笑いで。
 吉川は僕の指が指し示す先を見て、
「プフーッ!!」
 吹いた。
「あはははははは!ジャンコって!絶対ネタでしょこれ!?」
「鉄板だよ」
「あーおなか痛い。ジャンコって誰よ?」
「ジャイアンの妹じゃないかな」
「キャハハッハハ!笑わせないでよもー!」
 吉川は僕の背中をバシバシ叩きながら笑い続けている。
 散々笑ってしまうと吉川は、気を取り直すように何度か咳払いをしてから、髪を持ち上げて僕に首輪を見せた。普通の犬用の首輪だった。自分で外せないから取ってくれというのだろう。僕は首輪を外しにかかったが、どうやっても外せなかった。
「…なんか皮が縮んでて外れない」
「不器用ね」
 吉川はふんと鼻を鳴らして、わずらわしそうに首輪を引っ張りながら死体に視線を移した。
「切って」
 僕は男の背中からナイフを抜いて、着ているパジャマで血を丁寧に拭き取ってから、首輪の下に差し込んだ。一瞬、白い首筋に刃が触れてしまい、吉川がビクッと肩を震わせ、薄い皮膚の下の血管が踊った。
 僕は数秒間、吉川のわずかに盛り上がった青白い血管を見ていた。
「……ちょっと、早くしてよ」
 急かされて、僕は首輪を切断した。
 吉川はすぐさまナイフを奪い取ると、首をさすりながら僕を睨んだ。
「あんたいま、私を殺そうと思ったでしょう」
「違う」
「……まあいいわ」
 吉川はまるで信じていないようで、さっきまでより離れた場所から懐疑的に僕を見ている。そういうふうにされると傷つかないわけでもない。僕はちょっとたまらない気持ちになって、階段に腰を下ろした。
「ねえ」
 首を傾げて吉川が言う。
「あんたのそれ、大丈夫なの?なんか血がダラダラ出てるけど」
 どうしていま気付いたみたいな言い方なのだろう。
 吉川の言うとおり、手首からの出血が止まらない。さっきは骨まで持っていかれるかと思ったが、幸い傷はそこまでの深さではなかった。とはいえ皮膚がめくれてピンク色の肉が露出している。ここまで吉川がまったく心配してくれなかったので意地を張って我慢していたのだが、
「痛いよ。すごく痛い」
 僕は素直に言った。
「私、傷の手当ってしたことないのよね」
 吉川が面倒くさそうに言う。
「別に期待してないよ。どうせ君は傷つけることしかできないんだろう?」
 上手い皮肉を思いついた気がしたのでそのまま言ってみたのだが、どうやら吉川は気を悪くしたらしく、憮然とした表情でツカツカと歩いてきて、好戦的な目で僕を見下ろした。
「なにその言い方」
「ごめんなさい」
「見せてよ」
 全然気が進まない。
「見せてって」
 しぶしぶ僕は手首を上向けて、両腕を差し出した。研修中のバッジをつけたナースに点滴を打たれるような気分だった。
 吉川はしばらく立ったまま無言で僕の傷を見ていた。やっぱり気持ち悪いんだろうな、と思いながら僕も傷を眺めていた。そうしているうちにもまた血が滲み出してきた。
「きれい」
 ふいに吉川が口を開いた。冬の朝の冷たさと透明さに感動しているような言い方だった。僕は顔を上げて吉川を見た。
 吉川の顔から表情が消えていた。
「果物みたい」
 吉川はその場にぺたんと膝をつくと、おもむろに僕の手を取って、口を付けた。
 じゅるじゅると血を吸い込んで、えぐれた筋肉に舌を這わせ、唾液を塗りつけてくる。僕は歯を立てられることを恐れた。でも吉川はそんなことはしなかった。やがて吉川は唇をそっと離した。吉川が口に含んだ僕の血をまずそうに吐き出したので、僕は少し残念に思った。吉川は顔を伏せたまま、もう一方の腕を取り、同じように口付けた。僕は目を閉じて、剥きだしの肉を撫でる吉川の舌の感触に神経を集中させた。昨晩、僕の腹の中にあった熱がそこにはあった。吉川は今度は吐き出したりはせず、その場に手をついて口を開けた。長い髪が床について、吉川の顔を隠している。僕は手を伸ばして吉川の前髪をかきあげた。僕が触れると吉川は、また少し体を震わせた。吉川の唇からぽたぽたと滴る僕の血液と吉川の唾液。明け方に見ていた夢の続きのようだった。
 吉川は笑っていた。
「果物みたい」
 楽しそうに血を垂らす吉川を見ながら、僕はこんなことを思っていた。
 僕はいつか、吉川に喰われるのかもしれない。












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