チャプター14
死んでいるおかあさんの傍らに立つ。
そばで見るとおかあさんの体には四ヶ所以上の刺し跡があった。胸から腹にかけて何度も繰り返し過剰なくらいに刺されていて、床には大量の血液が撒き散らされていた。衣服が所々破れていて、体の中の赤いものが見えた。
おかあさんは目と口を大きく開けたまま、驚いたような顔で死んでいた。自分が殺されているということに対して純粋に驚愕しているような顔だった。それなのに今にもむくりと起き上がって、「てっちゃん、おはよう」と僕に微笑みかけてきそうな妙な迫力があった。この人ならそういうこともやりかねない。
「僕はてっちゃんじゃないんだよ」
僕はおかあさんに真実を告げた。おかあさんは僕の告白に対してもまた驚いているみたいだった。
ロディはまだおかあさんの顔を舐めていた。まるで涙でも拭くように。
僕はロディの隆起した背骨をそっと撫でてから、おかあさんの胸から生えた包丁の柄を握った。深々と突き刺さった包丁はなかなか抜けなかった。おかあさんの死体を踏みつけるのは気が引ける。僕はたっぷり血を吸い込んだエプロンに手をついて力を込め、まっすぐ包丁を引き抜いた。刃には血と内臓の一部が付着していた。
おかあさんの腹を押さえた手に小さな異物感が残った。おかあさんのエプロンの大きなポケットに手を入れる。ポケットの中にはいくつかの小さな鍵が入っていた。僕はそれを全部かき集めて握り締め、部屋を出た。男の姿は見えない。
僕は貯蔵室の扉の前に膝をついた。この家はもう調べ尽くした。未知の領域はここしかない。手持ちの鍵を順番に試す。三本目の鍵で扉が開いた。地下へと続く灰色の階段。その先は深い闇に吸い込まれていた。すぐそばに照明のスイッチがあった。僕はスイッチを押した。
「そこか」
真後ろに男。僕は抵抗する間もなく襟を掴まれ、後方に引き飛ばされた。電話台に頭をぶつけて、電話機が落下して受話器が外れた。
「じゅんこ!」
男は叫びながらばたばたと階段を降りていった。僕はぶつけた頭をさすりながら、もう少し落ち着けよと思った。いい大人がみっともない。ああいう三十歳にはなりたくない。
冷静な十六歳である僕は目の前に落ちていた受話器を耳に当ててみた。無音。まあ電話している場合でもないが。
「おい!」
落ち着きのない男が地底でもみっともなく怒鳴っている。
「じゅんこはどうしたんだよ!?」
男は誰かに向かって喚いていた。
誰に?
僕は階段を駆け下りた。
男が怒鳴りつけていた相手は、吉川だった。
吉川は首輪を巻かれて鎖で柱につながれていた。男は吉川の頭を乱暴に振り回し、「じゅんこはどこだ?」と半狂乱で叫んでいた。鎖を引かれて、髪をめちゃめちゃに引っ張られて、体を反らされている無抵抗な吉川の口がわずかに開く。それは吉川の意思を伴う動作ではなかった。ぐったりとした吉川に意識の兆候は認められず、生きているのか死んでいるのかもわからない。
「さわるな」
僕は男に近づいた。
男の手には吉川のナイフ。僕の手にはおかあさんの包丁。
男は吉川の細い首筋にナイフを当てた。されるがままの吉川。
「やめろ」
「包丁を捨てろ」
僕は男の言うことを無視して、吉川を見ていた。生死の判別はともかくとして、とりあえず吉川の足首はちゃんと二つついていたし、白いワンピースには一点の血も付着していなかった。
それから辺りを見渡す。地下は意外なほどに広く、部屋の隅に衣類や布団や調理器具、掃除機などの生活用品が乱雑に集められていた。その脇に開かれたままのスケッチブックがイーゼルに立てかけられていたのはもっと意外だった。おかあさんの趣味らしい描きかけのデッサン。お世辞にも上手い絵とは言えないが、仮に僕がこの絵にタイトルを付けるとしたら『痩せた犬』と名付けるだろう。『つながれた痩せた紀州犬』では少し説明的すぎる。おかあさんはこの絵のためにロディに絶食を強要していたのだろうか。やはり頭のねじが外れている。
「捨てろっつってんだろうが!」
うるさいな。
僕は包丁を真横に放り投げ、両手を頭の横に上げて見せた。男の顔が不気味に歪んだ。それが彼の笑顔だと僕が思い当たるには少し時間が必要だった。
「このクソガキどもが……。オマエらもあのばばあと一緒か?」
言っている意味がわからない。
「あなたは、てっちゃんですよね?」
「うっせーよ!じゅんこはどうしたんだよ!!」
会話が成り立たない。
「知りませんよ。僕と吉川…、その子は、道に迷ってたまたまこの家に迷い込んで、帰れなくなっただけです」
「オマエさっきじゅんこを食ったって言っただろ?」
「言ってないですよ」
「言ったじゃねえかよ!」
「…はあ、言いましたね」
「どういう意味だよ?」
僕はあごに手を当てて考えた。なんだか僕はこのポーズが癖になってしまったようだ。
「……冗談、ですかね」
「おい」
男はナイフの腹で吉川のあごを持ち上げた。
「コイツの首、切るぞ」
「すいません」
でも僕はもう笑みをこらえきれそうになかった。
さっきから吉川が目を開けている。片目をつぶって、僕に何か合図を送っている。こういう危機的状況にもかかわらず、なんというか、うれしくて仕方がなかった。
僕は笑う。
「……オマエ、ふざけんなよ」
「ふざけてるつもりはないんですけどね」
僕は鼻をこすりながら言った。
「ああ、そうだ。今日はおかあさんと何か話をしましたか?」
「ああ?」
「障子の穴を直せって、そう言われませんでした?」
わずかに目にかかる前髪を指先で払い、
「てっちゃん」
僕は片目をつぶった。
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