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ディナー
作:松本 由樹彦



チャプター13


 ダイニングでおかあさんが死んでいた。

 鎖から解放されたロディが健気にもおかあさんの顔に鼻先をこすりつけている。
 仰向けに倒れたおかあさんの胸には包丁が三本と、一般家庭で料理に使うには不向きなナイフ、おそらく吉川のナイフが突き立っていた。カレーはどこにもなかった。
 流し台の前で男がタバコをふかしていた。
 白いタンクトップと黄色と緑のラインが入った黒いジャージパンツを身につけた、大柄でマッチョな男だった。こちらに背を向けていて、僕にはまだ気付いていない。パンツとセットなのであろう、背中にウサギのロゴマークが入ったジャージの上着が昨日僕が座っていた椅子の背中にかけられている。黒いジャージは黒い血で汚れていた。
 カチッ、という音がした。男が二本目のタバコに火を点ける音だった。
 僕は換気扇に吸い込まれていく意思を持たない霊魂のような煙を見ながら、どうしたものかと考えてみた。
 十中八九、彼がおかあさんを殺した。
 彼がただの押し入り強盗でなければ、おかあさんが何者であったのかのヒントぐらいは持っているだろう。そしておそらく彼は強盗ではない。強盗というのは靴を脱がない。僕は彼と話をしてみるべきだ。
 でもたったいま人を殺したばかりの人間を刺激するような真似はしたくなかった。現に彼の後ろ姿からは余裕というものが感じられず、乱れた心を落ち着けようと必死でもがいているように見えたし、下手なことを言ってしまうと一人殺すも二人殺すも同じだという低次元な発想を誘発させてしまうかもしれない。それは懸命ではない。
 それに彼の風貌が僕をためらわせた。短く刈り揃えられた茶色い頭の側頭部には稲妻をかたどったワイルドな剃り込みが入っていたし、タンクトップの背中からは大きな黒い翼のような模様のタトゥーがはみ出していた。腕にもタトゥー。正直、僕が積極的に話しかけたいタイプの人間ではなかった。
「あああ!!」
 突然男が叫びながらシンクを殴り始めた。僕は彼と話すのが本当に嫌になってきた。驚いたロディが、「ワン」という。ここで振り向いてくれれば逆に踏ん切りがついたものの、彼はロディの声を無視したまま、シンクを爪でコツコツと叩きながら独り言をつぶやき始めた。
 僕は息をひそめて男が振り向く瞬間を待った。ほんのかすかな雰囲気の変化も見逃すまいと彼の凶暴な背中を注視した。しばらくして男が水を流してタバコの火を消し、最後の煙を吐き出した。僕はその場で姿勢を正した。
 男はしばらく換気扇を見つめてから、三本目のタバコに火をつけた。チェーンスモーク。
 僕は声を消してため息をついた。放っておいたら夜まで吸い続けそうだった。こうしていても埒が明かない。僕は腰に手を当てて、ゆっくり左足を持ち上げた。そのままつま先でフローリングを叩く。
 コン。
 振り向いた男と目が合った。
 男は一瞬おびえたような顔を見せてから、それを悔やんで打ち消すように威嚇的な視線で僕を射た。
 眉にも剃り込みが入っている、昨日の僕のような目をした彼は、見た感じ三十歳。
「てっちゃん」と僕は言ってみた。
 男は鼻をふくらませて目を剥いて、タバコを流しに投げ捨てて、おかあさんの体を足で押さえて吉川のナイフを抜き出した。どうやら僕は彼を刺激してしまったようだ。
 男は血を滴らせる凶器を構えてずんずん僕に詰め寄って来る。さすがに身の危険を感じたので、僕はじりじりと後ろに下がった。それはほとんど意味がなかった。男はあっさり片手で僕の胸倉を掴むと、そのまま壁に強く押し当て、眉間にナイフを突きつけた。赤い刃先に焦点が合わないくらいに近い。
「誰だよお前?」
 どすの利いた低い声。片手で軽々持ち上げられて、僕の足が宙に浮く。
 誰だ、と言われても納得してもらえそうな答えを持ち合わせていなかったので、僕は男の腕にあるいくつかのタトゥーを鑑賞しながら黙っていた。右の二の腕に描かれていた祈りを捧げる女性の絵が結構きれいだと思った。視線を移す。左の肩に刻印された五文字のアルファベットを目にしたとき、すべてがつながったような気がした。でもよく見ると、
『Janko』
 ジャンコ。
 本気で吹きそうになった。小文字の筆記体でわかりにくいといえばわかりにくいのだが、それは絶対に『u』ではなく『a』。いくらなんでもそれはないだろう。誰が彫ったんだ。だめだ。おもしろすぎる。
「おい」
 息を止めて顔を背けて必死に笑いを堪えていた僕の頭を男が壁に打ち付けた。それでもまだおもしろかった。
「じゅんこは?」
 ジャンコだろ。
「食べました」
 僕はへらへらと言った。
 ナイフにピントが合った。テイクバック。僕は思い切り首をひねった。ナイフは僕の髪の毛をかすめて、壁に深く突き刺さった。男は両手で僕の首を掴んで高々と持ち上げ、背中からテーブルに叩き落した。腰を強打して体を反って悶える僕のみぞおちをゴールキックでも蹴るみたいに蹴り上げる。さらに腹を蹴られてさすがに吐きそうになったので、僕は背中を丸めてうずくまった。男は今度は僕の頭を狂ったように踏みつけ始めたので、僕は後頭部を手で守った。
「…ふざけんなよ」
 男は最後に僕の背中に踵を落として、壁に突き刺さったナイフに手をかけた。ナイフはなかなか抜けなかった。強く刺しすぎたのだろう。男は壁に足を付けて、ようやくナイフを抜き取ると、ダイニングを飛び出していった。
「じゅんこ!」
 じゅんこを呼びながら。
 僕は腹を押さえて横たわりながらそれを見送った。
 さて。
 彼に殺されなかったのはラッキーだった。僕が完全に無抵抗だったのと、ナイフがなかなか抜けなかったのが幸いしたのだろう。体の痛みはたいしたものではなかったが、腹はちょっとまずかった。いま動くと吐いてしまいそうだ。もう少し回復を待とう。それとも、もう吐いてしまってもいいのかもしれない。僕の中で新しい希望が芽生え始めていた。
 僕ではない『てっちゃん』が現れ、吉川ではない『じゅんこ』を探している。
 間違った流れが正常化され始めている。
 僕は腹筋の力だけで体を起こしてみた。
 もうとりたてて痛いところはなく、頭は結構クリアだった。
 












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