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ディナー
作:松本 由樹彦



チャプター11


 きっと僕は廃人のような顔をしているのだろう。
 
 流れる水音に耳を傾けながら、ぼうっとした頭で、なんとなくそう思った。
 結局、僕は地割れのような頭痛にもだえながらも、おびただしい量の肉を喰らい尽くした。
 気が付くとおかあさんは食べるのをやめて、うれしそうに僕を見ていた。
「たくさん食べてくれてうれしいわ」
 巨大な鍋が空っぽになってしまうと、僕は骨を舐めまわした。おかあさんの皿の上の骨もしゃぶりあげた。そこにはまだ肉が残されていたからだ。おかあさんは僕が骨をしゃぶり終えるのを見届けてから、重そうに鍋を持ち上げて、流し台に運んで残り汁を捨てた。僕は鍋を洗うおかあさんの丸い背中を眺めながら、絞め殺してやろうかと思った。
 でもそんな気力はどこにも残されていなかった。僕は手を組み合わせてその上に額を乗せてじっとしていた。前髪から汗が垂れた。砂漠の日照りのようにぱさついた喉にかろうじて湧いた微量の唾液を流し込み、酸欠状態の金魚のように見苦しい息継ぎを繰り返した。
 首をわずかに右に向けると、ロディと視線が絡んだ。痩せこけたおとなしい紀州犬は物言いたげに僕を見ていた。僕は八つ当たりでロディを睨み付けた。犬の視線は僕を苛立たせた。犬はボンネットに落ちた鳥の糞を見るような目で僕を見る腰の曲がった老人そっくりの目で僕を見ていたのだ。
「なにか御用ですか?」と僕は小さく声に出してみた。犬は何も言わなかった。
 頭がおかしい。
「てっちゃん」
 おかあさんに呼びかけられて、僕は目だけで返事をした。おかあさんはエプロンの裾で濡れた手を拭いていた。いつのまにか皿も骨も片付けられて、テーブルもきれいに拭かれていた。
「いっぱい食べて眠たくなっちゃったんでしょう?」
 さては、という感じでおかあさんが言う。
「眠いよ」
 全然眠くない。
「病み上がりだもんね。お布団用意するから待っててね」
 おかあさんはダイニングを出て行った。
 おかあさんの足音が遠ざかるのを聞きながら、僕はテーブルに体重をかけた。膝がぶるぶると痙攣していて、立ち上がるのにひどく難儀する。僕は震える膝を押さえつけて、やっとのことで腰を上げた。そのままの体勢で流し台までよたよたと歩き、倒れるようにシンクに手をついて、三角コーナーを覗き込んだ。ネットはすでに新しいものに変えられていた。
「……さっきはこんなのなかっただろう」
 僕は独り言を吐く。
 冷蔵庫の前には蓋の付いた青いポリバケツ。
 さっきはこんなのなかっただろう。
 僕はバケツに拳を打ち下ろした。プラスチックな打音が響く。身の危険を感じたのか、声を低くして吠えるロディ。
 僕は蓋をどけてゴミ箱を開けた。
 僕が丹念に舐め尽した悲劇の残骸を掘り進める。

 赤いヘアーエクステンション。

 景色が暗く歪む。
 僕は膝をついてうずくまり、汗まみれの頭をかきむしった。
 もういい。この先は見たくない。
 確かにそう思ったのに、僕はゴミ箱の縁に脇を差し込んで、白骨の海に潜るように両手でゴミ箱をあさっていた。そうせずにはいられなかった。

 くるぶしで切り離された、つめにライトグリーンのペディキュアが塗られている、可愛らしい足。

 僕は震える手を差し伸べて、その重さを確かめた。
 数時間前まで僕の上であんなに暖かかった足が、陶器のようになってこんなにも冷たくて硬い。
「……なに死んでんだよ」
 もう、笑うしかなかった。
「てっちゃん」
 僕は足を放して振り返った。対角線上におかあさん。
「汚いからさわっちゃだめ」
 おかあさんはいたずらをした子どもをしかるみたいに頬を膨らませて顔の横にげんこつを作って見せた。反吐が出る。
 僕は立ち上がって蓋を閉めた。
「ごめんなさい」
 そして流し台で手を洗った。
「お布団、用意したからね。今日はもうおやすみなさい」
「ありがとう」
「歯はちゃんと磨くのよ」
「はい」
 僕は精一杯の虚勢でもっておかあさんに微笑みかけた。おかあさんは満足そうに笑った。
「明日は障子を貼り直してもらうからね」
「わかってるよ」
 僕はダイニングを出る前に思い直して振り向いた。
「おかあさん」
「なあに?」
「あの肉は、まだあるの?」
「あるわよ」
「もっと食べたいな」
「食いしん坊ね」
 おかあさんはあきれ顔で言った。でもうれしそうだった。
「じゃあ、明日のお昼には腰のお肉でカレーを作ってあげる」
 吉川の砂時計のようなウエストを思い出す。肉なんてどこにも付いてない。
「腰は、やめようよ」
「あらそう?じゃあ、どこが食べたい?」
 僕はあごに手を添えて考えてみた。
「……ももかな」
「いいわね。太ももと、あとふくらはぎも入れてたくさんカレーを作りましょう」
「やったー」
「放っておいても傷んじゃうだけだからね」
 おかあさんは不気味に微笑んだ。
「そうだよね」
 僕は唇の端をつっと持ち上げた。
 もう意識が飛びそうだった。


 洗面所の蛇口の下に顔を突っ込んで、ダイレクトに水を飲んだ。たっぷり1リットルは飲んでから、タオルで乱暴に顔を拭って、洗面台に両手をついて鏡を見た。
 そこに映し出されているのが誰なのかわからなかった、というのは嘘だが、とてもそれが僕だとは認めたくなかった。髪は逆立ち、むくんだ顔面は蒼白で、開かれた唇は青黒く変色し、おぼろげな二つの瞳は血走りながらも暗く沈んでいた。スーパーマーケットでラップをかけられて陳列されている魚の目に似ていると思った。わけがわからないままに死んでしまったような目。
「……廃人以下だな」
 鏡の世界に囚われた少年が卑屈につぶやき苦笑した。
 黄色いコップに歯ブラシが一本立てられている。歯磨き粉は見当たらない。お母さんの歯ブラシかもしれないが、とにかく僕は歯を磨いた。歯茎から出血するまで磨いても、口の中で粘りつく感触から解放される気配がなかった。僕はあきらめて口をゆすいだ。あるいはこの感触すらいとおしいのかもしれない。
 水を吐き出すと、歯の隙間に挟まっていたのであろう小さな肉片がこぼれ落ちた。僕は排水溝へと流れるそれを指ですくって、もう一度口に運んで飲み込んだ。
 僕はなにをやっているのだろう。
 頭の中では吐き気がするのに体がそれを強く拒んでいる。あるいはその逆かもしれない。
 僕は膨れた腹をそっと撫でた。
 この中に吉川がいる。
 それはもう可能性のレベルを越え、確信めいたものへと変わっていたし、僕はそうであってほしいとすら思い始めていた。
 どうかしている。
 いまなら涙すら流せるかもしれない。
 僕はまばたきをやめてじっと待った。
 でもそんなものは出なかった。
 












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