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ディナー
作:松本 由樹彦



チャプター10


 クリーム色したサイズの合わないパジャマに着替えてダイニングに向かう。
 四人掛けのテーブルについていたのは、おかあさんだけだった。食事の用意も二人分。
 天井の四本の蛍光灯のうち二本は弱々しく明滅していて、一本は完全に死んでいた。
 部屋の隅にさっきの痩せた紀州犬がくくりつけられていた。憐れな犬は短い鎖を一杯に引っ張って、テーブルの上の料理を求めていた。
「エサはあげないの?」
 僕は犬を見ながらおかあさんに尋ねた。
「駄目よ。ロディは断食中でしょう」
 犬の名前はロディ。ただいま断食中。
 僕は椅子を引いておかあさんの前の席に座った。テーブルの真ん中では二人で食べるには大きすぎる、蓋をされた鍋が煮立っている。それ以外に料理はない。白いご飯もコップもない。
「それじゃあ、いただきますをしましょう」
「じゅんこは?」
 僕は薄暗い部屋を見回しながら言った。
「今日はおかあさん、特別に腕によりをかけて作ったのよ」
 僕の言うことなんてまるで聞いていない。
「なんたって今日はてっちゃんの三十回目の誕生日だもんね」
 てっちゃん三十て。
 突然、ロディが激しく吠えた。
「うるさい!」
 おかあさんは血相を変えてロディを怒鳴りつけた。それでもロディは吠えるのをやめない。おかあさんは鍋の蓋を素手で掴んでロディに投げつけた。それは標的を外れたものの、すぐにおかあさんは沸騰したお湯をたまですくってロディに浴びせた。僕にも少し飛散した。かわいそうなロディは、「ぎゃん!」と鳴いて静かになった。
「さあ、食べましょう」
 おかあさんは僕に優しく笑いかけた。
 僕は鍋の中を覗き込んだ。煮えているのは大量の肉と骨。野菜なんてどこにも見当たらない、野生的な肉料理だった。食欲が減退していく。
「いただきます」
 僕は手を合わせた。
「召し上がれ」とおかあさんが言った。
 凄まじいな、と思いながら箸を取る。そのまま鍋からはみ出した肉をつまんで引きずり出した。僕はそれを皿に置いて眺めてみた。しっかりと煮えた黒い肉と白い骨。これはいったい何の肉なのだろう。
「これは、何の肉なの?」と僕は尋ねた。
「じゅんこよ」
 牛肉よ、というようにおかあさんが言った。
 おかあさんの声が頭蓋の中で反響した。惨劇の予感が僕の心を支配する。
 僕はおかあさんに微笑みかけた。
 今はくだらないことを考えるのはよそう。なんだかんだいってもやっぱりすごく腹が減っているのだ。
 とても箸では食べられそうにない。僕は骨の部分をつまんで持って、肉にかぶりついた。知らない味だった。いままで食べたどんな肉とも違う、柔らかくてくせのある、でもすごく甘い、不思議な味の肉だった。肉は少し咬んだだけでとろんと溶けて、奥歯にぴたりと貼りついた。
 涙腺が刺激された。
 その何よりも雄弁な柔らかさが僕を現実に引き戻す。思考が繋がり、輪ができて、僕の時間が静止する。排除したばかりの取るに足らない幻想がよみがえるのを抑えられない。
 圧倒的な吐き気が込み上げてくる。
 
 吉川がじゅんこ。

 いま僕が咬んだのが吉川。いま僕の口の中にいるのが吉川。
 違う。それは一つの可能性でしかない。それもかなり現実味の薄い可能性。
 でもその溶け方は僕が思い浮かべていた吉川の溶け方。その味は僕が想像していた吉川の味そのものだった。
 待て。
 いつ僕がそんなことを考えた?
 どうして僕が吉川の肉の味について考えなければならないのだ。
 そんなことを考えたことは一度もない。
 たった今脳裏をよぎっただけのイメージを以前から抱いていた妄想と取り違えてしまっているだけだ。
 僕が想像するのは僕が吉川に殺されるシーンだけだ。
 こんなシナリオはどこにもない。
 どうして僕が吉川を食べなければならない?
 
 おかあさんが肉を食いちぎっている。咀嚼して。飲み込んで。僕の目はその光景をスローモーションのように映していた。ほとんど止まって見えるスローモーション。
 スローなおかあさんが心配そうに僕に声をかける。
「てっちゃん、どうしたの?」
 僕は何も答えられない。
「お口に合わないかしら?」
 僕は小さく首を振った。たったそれだけの振動で、胃が飛び出しそうになる。
「じゅんこ、おいしいでしょう?」
 心臓がどくどくどくどくうるさい。僕はどうにか口の中のものを飲み込んだ。僕の喉を肉が通過していく。ぬるぬると。
「じゅんこって……、誰だっけ」
 牛とか豚とか言ってくれ。
「てっちゃんの彼女じゃないの?」
 頭部の皮膚がぎちぎちと緊縮する。
 僕はテーブルに肘を立てて頭を抑えた。首の力だけでは支えられそうになかった。
 僕は目を閉じて不器用な呼吸を繰り返した。
「おいしいでしょう?」
 楽しそうなおかあさんの声。
「てっちゃんの大好きなじゅんこ、おいしいでしょう?」
 全方向からおかあさんのつんざくような声が響く。 
 いったい何なんだこれは?
 この人はすべてを理解した上でこんなことをしているのか?
「おいしいでしょう!?」
 おかあさんが笑いながら怒鳴っていた。
「…おいしいよ」
 僕は頭を抱えたままでつぶやいた。
 こんなのまるで拷問だ。こんなのって、ひどすぎる。
「そうでしょう?そうでしょう?てっちゃんのために足の付け根とかおしりとか、胸の下からおなかの辺りの一番おいしいところだけを使って作ったのよ」
「…へえ」
 誰もそんなこと聞いてないだろう。
「お祝いだもんね」
「……ありがとう」
 湯気が目に染みただけなのに眼球に長い針をずぷりと入れられたような激痛が走る。太平洋の真ん中で船酔いを起こしたような絶望的な吐き気。さっきから手足が震えてどうしようもない。
 鍋は依然ぐつぐつと煮え続けている。とても目を開けていられない。喉が痛い。
「……何か飲み物を」
 僕はほとんど哀願するような口調で訴えた。
「何もないわ」
「水でいいから」
「おなか壊すから駄目」
 ふざけるな。
 僕は奥歯を噛みしめておかあさんを睨んだ。
 おかあさんは僕を見て笑っていた。
 絶望。
 僕はあきらめてまた肉を皿に取った。
 皿の上で湯気を立てる肉はさっきよりも静かで美しく、親密さを増していた。
 僕は完全に混乱していた。
 でも、肉を眺めているうちに次第に僕の思考は次の段階へと歩み始めた。
 とても正気とはいえないが、考えをまとめるくらいはできそうだ。
 もし僕の最悪の空想が真実だとしたら、この鍋で煮立っているのが吉川だとしたら、僕がすべてを食べ尽くすべきだと思う。できることならおかあさんには一口も食べてほしくなかったし、もちろん犬に喰わせる気もしない。
 ただ、もしそんなことをしたら、僕は強烈な背徳感と自己嫌悪に生涯苦しめられることになるだろう。絶対にそうなる。そうでなければもはや僕は人間とは言えない。
 食べられない。
 視点を変えてみよう。
 僕が吉川を食べるというのはどういう状況であればありえるだろうか。
 まず吉川が生きている状態。たとえばロレンスでアイスコーヒーを飲みながら吉川の透き通るような白い肌に歯を立てて噛みちぎる。
 ありえない。というかグロテスクすぎる。そのまえに殺される。
 吉川が目の前で死んでいるとしたらどうだろう。僕は食べるだろうか。
 それもない。いくらなんでも僕は死体を食うような異常者ではない。断じてない。
 では、もし目の前に調理された吉川が現れたとしたら。
 その場合は、やはり僕は食べてみたいと思うだろう。食べると思う。そうしなければ、調理された吉川がむくわれない。
 そしていま、目の前に展開されるこの異常な光景。非現実的な惨状。最悪の可能性。
 食べるしかない。
 違う。こんなのは考えたうちに入らない。もし吉川を食べてしまったら、僕はこれからどんな気持ちで生きていけばいい?一生吉川の亡霊に苦しまされ続ける。そんなのは地獄以下だ。
 でも本当にそうだろうか。
 僕は吉川を食べたいのか?
 そもそもこれが吉川だとは誰も言っていない。じゅんこだ。
 
 じゅんこ=吉川。

 だからそんなこと誰も言ってないだろう。
 しかし、それとは無関係に僕の本能的な部分は絶えず吉川の肉を渇望していた。
 全身の細胞が立ち上がって手を叩きながら吉川コールを上げている。熱狂の坩堝。興奮して暴徒と化した細胞たちがあらゆる手段で僕を痛めつけていた。
「……わかったよ」
 僕は声を出して細胞をなだめた。
 わかっている。こんなのは回りくどいだけのただの言い訳だ。自己の正当化でしかない。
 そうでもしなければ自我を保てそうにないのだ。
 
 僕はこの肉を食べ尽くしたい。
 
 湧き上がる衝動を抑えることができない。
 僕は両手に肉を掴んで噛みついた。暖かな肉は相も変わらず優しく溶けた。溢れ出す肉汁を一滴たりともこぼしたくなくて、僕は顔を上向けた。
「何かかける?」
 いつの間にかおかあさんの傍らにポン酢。笑わせる。
「いらない」
 そんな味じゃない。
 僕は鍋から手ずから肉を取った。おかあさんは、「行儀が悪い」と僕を叱った。僕は無視した。
 すぐにおかあさんは僕の視界に入らなくなった。僕の目は肉と骨しか映さなくなっていった。そして何も見えなくなった。 
 獣のように獰猛に、僕は親愛なる肉を貪り続けた。
 












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