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ディナー
作:松本 由樹彦



チャプター9


 どれだけ待っても吉川は帰ってこなかった。
 まあ、普通に考えればトイレに行ってわざわざまた押入れに隠れに来たりはしないだろう。僕だったらそのまま逃げる。別に見捨てられたからといって傷ついたりはしない。吉川の鞄は残されたままだったが、おおかた僕が持って帰ってくると決め付けているのだろう。それなら僕はそうするまでだ。
 時刻は八時を回っていた。辺りは暗くなっているだろう。今から下山するのは危険が伴う。吉川はちゃんと麓にたどり着けただろうか、と考えていたら、段々心配になってきた。明るいうちからあれだけ迷っていたのに暗闇の中で山を降りれるわけがない。
 僕はしばらく考えて、押入れを出ることにした。ここまで誰かが帰ってきた気配はなかった。それにもしかしたら吉川は、この家に住む中年女性に見つかって、一人で障子を貼り直させられているのかもしれない。考えにくいがそういう可能性もあるにはある。反対に、吉川は彼女を殺してはいないだろう。もしそうしたのならさすがに僕を呼びに来てくれているはずだ。
 僕は静かに押入れを出た。
 とっぷりと日が暮れて真っ暗な六畳の和室。廊下に面した襖の端から明かりが漏れ込んでいる。電気がいつの間にか復旧していた。最初にブレーカーを上げて確かめるべきだったのだ。それにしても犬が出入りしていたのにどうして襖が閉まっているのだろう。吉川が閉めて行ったのだろうか。考えにくい。
 僕は足音を立てないように注意して歩いた。襖を横に滑らせる。目の前に女が立っていた。
 逆光を背中に浴びて、あごを引いてうつむき加減で、数センチ前の僕を見据えている。僕は驚きのあまり後ずさってしまった。女は身じろぎ一つせず、表情も変えず、ただじっと僕に視線を注いでいた。エプロン姿の見かけ五十代くらいの女性だった。
 気味が悪いが、それ以上にばつが悪い。
「てっちゃん。おはよう」
 出し抜けにニコリと笑って彼女が言った。
 意味がわからなかったが、とりあえず僕は、「おはよう」と言った。
「もう起きても平気なの?」
 どういう意味だろう。
「大丈夫だよ」
 彼女は僕の額に手を当てた。予備動作がまるでなく、かわすこともできなかった。肉厚な手のひらだった。
「熱は下がったみたいね」
 僕はうなずいてみた。
「おかあさんのもらってきた薬、よく効いたでしょう」
 僕はうなずいてみた。
「もうすぐご飯だから、今のうちにお風呂入っちゃいなさい。何日も入ってなかったでしょう?」
 僕はうなずいてみた。
「パジャマとタオル、出しておいたから」
「ありがとう」と僕は微笑んだ。
 彼女も微笑む。
「それから、てっちゃん。どうして電気をつけないの?目を悪くするわよ」
 僕は、「そうだね」と言って、天井から垂れる紐を引いて明かりを点けた。
「てっちゃん」
 彼女が僕の足元を無表情に見下ろして言った。僕はゆっくりと視線の先を辿る。
 コンバース。
 僕は慌てて靴を脱いで手に持った。
「よろしい」
 彼女はそう言うと襖を閉めた。
 

 僕は部屋の真ん中まで歩いて、靴を下げたまま腕を組んだ。
 一体なんだろう、これは。彼女がふざけているような様子は微塵もなかった。とりあえず僕は粗雑な仮説を立ててみた。そうすればこの奇妙な家にも一応の説明がつく。
 彼女はちょっと頭のねじが外れている人で、僕をてっちゃんという人物だと思っている。家中の家具をなくして、外出時にはブレーカーを落とし、家の中で痩せた紀州犬を飼っている。
 やはり意味がわからなかった。
 てっちゃん、というのは彼女の息子なのだろうか。てっちゃんは熱を出して寝込んでいた、ということらしい。それなら僕はしばらく病み上がりのてっちゃんを演じるべきだろう。腑に落ちないが好都合だ。しかしそういう風に考えてみると、吉川は案外簡単に逃げおおせたのかもしれない。
「てっちゃん」
 振り返ると、彼女がいた。部屋の中に一歩入り込んでいる。やはり何かしら不気味なものを感じさせる。
「なに?おかあさん」
 言ってみてからわざとらしすぎたような気がした。僕が演技なんて。
 彼女は真剣な顔付きで僕を見ている。
「てっちゃん、障子に穴開けたでしょう?」
「何のこと?」
 とっさに僕はとぼけてしまった。おかあさんが怖かったのだ。でもおかあさんはほっとしたようにエプロンの胸に手を当てた。
「そうよね。ごめんなさい。てっちゃんはそんなことする子じゃないわよね」
「そうだよ」
 少しずつてっちゃんの性格が掴めてきた。
「ということは、じゅんこね」
 じゅんこ。じゅんこ?
「じゅんこはお仕置きね」
「あ、おかあさん」
 僕は手を中途半端な位置に上げて言った。
「うん?」
「あの、ごめんなさい。実は僕がやったんだ」
「でも、じゅんこもやったんでしょう?」
 じゅんこ?
「うん」
「てっちゃんとじゅんこ。どちらがたくさん穴を開けたの?」
 僕はあごに手を添えて、いかにも考えていそうなポーズをとった。僕が演技なんて。
「じゅんこ」
「やっぱりね」
 おかあさんは腰に手を当てた。
「でも、あんまりじゅんこを怒らないで。僕も悪かったんだ」
「てっちゃんは優しい子ね」
 おかあさんは歩み寄って手を伸ばし、僕の頭を撫でた。
「ごめんなさい」と僕は頭を下げて、ついでにおかあさんの手から逃れた。
「いいわ。明日、貼り直してもらうからね」
「はい」と僕は微笑んだ。
 おかあさんは襖を閉めて出て行った。
 非常に疲れる。


 熱い湯船に浸かりながら、僕は吉川のことを考えていた。
 おそらく吉川がじゅんこ、ということなのだろう。
 ということは吉川はまだこの家の中にいて、エプロンをつけておかあさんの料理の手伝いでもさせられているのだろうか。
 吉川とエプロン。
 すごい違和感。しかし、そんなものを思い浮かべたからか、強烈な空腹が僕を襲い始めた。僕は腹の上に手を置いた。何のことはない。風呂から上がればすぐに夕食だ。
 夕食の席にじゅんこと呼ばれる吉川がいるとして、僕はどういうふうに接すればいいのだろうか。
 そもそもじゅんこがてっちゃんの姉なのか妹なのかがわからない。
 さっき僕がおかあさんにじゅんこのことをじゅんこと呼び捨てにしてもそのまま自然に聞き流されたことから推測すると、やはり妹なのだろうか。そうするとじゅんこは僕のことを『お兄ちゃん』と呼ぶのだろうか。吉川が。それはそれで面白いかもしれない。しかし『てっちゃん』という愛称で妹が兄を呼んでもそれほど不自然ではない気もする。やっぱりだんだん面白くなってきた。
 ここまで来たら開き直って、てっちゃんとじゅんこを演じ切ってしまえば、結構楽しめるような気がする。どうせはもう勉強はできないのだ。最後の遠足を楽しむのだ。
 そして夜が明けたら、吉川と二人でこっそり家を抜け出して、山を降りよう。












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