挿話 松陰先生の欧州道中記 3
嘉永七年 十一月十九日
本日は、エゲレス海軍を見学する。
無論、無断であるがこれは日ノ本のために致し方のないことである。
だが、無理を押し切ってでも見学したのは、正解だったと思う。
エゲレス海軍の練度は、相当に高いものであったのだ。
無論、日ノ本のやり方と違うところは相応に多く、小生の知識ではわからぬことも多かった。
それでも、整然と動く兵たちの様子には一糸の乱れもなく、海上においても過不足なくあの大きな船を集団で運用する技術は、敵ながら天晴と言わざるを得ない。
また、武器の差も大きいように感じた。軍艦の良し悪しが、我々にはわからなかったのも痛い。
ペリー氏はその軍艦を視察しておられたようだが、氏は提督であるからして、恐らく理解が及んでいるであろう。口惜しいことである。
だが、かような大国を相手に、いかにして戦うべきであろうか?
これは長くの間、小生らの課題となりそうである。
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嘉永七年 十一月二十一日
本日、エゲレスを出立し亜米利加へ向かう。
正直、食事がこれまでのどこよりもまずかったので、すぐにでも亜米利加に行きたいほどである。
もし今後、この日記を読む日ノ本の同胞がおられたら、エゲレスの食事には注意するよう固く申し上げておく。
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嘉永七年 十二月十日
本日、遂に亜米利加に到着す。
遂に、である。思えば長い旅路であった。
日ノ本を出て半年と少し。この世界の何と広いことであろう。
この国は、我が国を力づくで開国しようと迫った国ではあるが、こうした旅情を理解できぬとは言わぬ。
だが待っているがよい、亜米利加人よ。
明日から、しかとその真の姿を見せてもらうぞ。
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嘉永七年 十二月十一日
どうやら、香港にて袂を分かった艦隊は、まだこちらに辿り着いていないようである。
ペリー氏は、その艦隊が辿り着くまでに小生たちをこの国の要人と顔を合わせる機会を作ると言っていた。
望むところである。
しかしそれまで、我々には即座にすべきことがない。
二人と相談したが、明日よりこのにうよぉくなる街の視察を行うことで合意した。
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嘉永七年 十二月十三日
本日、街で肌の黒い人間と遭遇した。
白人はこのたびの道中で履いて捨てるほど見たが、黒い人間はあれくさんどりあ周辺で見た程度だ。
あちらは我々のような肌の人間を見るのは初めてだったようだが、それでも随分と馴れ馴れしかった。
ただし、得られた情報はなかなかに興味深いものであった。
この国には、奴隷を扱う仕組みがあるそうなのである。
奴隷、奴隷か。実に非文明的なことだ。この国の底が知れるというものである。
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嘉永七年 十二月十四日
おおむね、この街の様子は一通り見終わったと思われる。
今まで見たどの街とも雰囲気が違う街と言えよう。これはやはり、国柄の違いであろうか。
最大の違いはやはり、新しい建物が目立つことか。
聞けば、亜米利加の国の歴史は極めて新しく、ここ百年二百年程度なのだとか。だからだろう。
しかし、我が国で言えば権現様が幕府を開いて以降程度しか歴史を持たぬ国が、ここまで大きくなるとは……。
ちなみに、食事はなかなか美味である。いや、エゲレスがまずすぎただけか……。
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嘉永七年 十二月二十九日
本日、遂に亜米利加の要人と顔を合わせた。
会談の場は非公式とされ、その内容は記録されないとのふれこみである。
現れた男は、白髪ながらもしっかりと頭髪の残った、恰幅のいい男であった。
ミラード・フィルモアと名乗ったその男は、非公式な場であるからとすべての作法を気にするなと述べる。
聞けばこの国の元棟梁であるらしいのだが、あまりそうした雰囲気はなかった。
この国の政治の仕組みはまだ完全に把握したわけではないのだが、大勢の民から選ばれたものが頂に立つことは既に聞いている。
であれば、一度はすべての民に認められた男なのであろう。常に物腰は穏やかで温厚な男であったが、人を率いる才はいかばかりか。
ともあれそれなりの時間を会談に費やしたが、少なくともフィルモア氏は我々を無下に扱うつもりはないらしい。
特別な手形を用意し、遇するということを約束してその日はお開きになった。
あの男が、我が国に恫喝でもって接する道を選択した男でなければ、ここでそれなりの恩義は感じるのだが。
まだまだ信用するわけにはいかないだろう。
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嘉永八年 一月一日
新しい年である。
亜米利加は既に年が明けて一月以上経っているようだが、関係ない。
本日は重之輔君や木島殿とささやかながら宴を催し、新年を祝った。
ところで、遠く日ノ本から離れた小生には、今年の暦を把握するすべがない。
暦については認可を受けた者しか発行できないし、遠く離れたこの地では今年の暦はまず入手不可能であろう。
まあ、めでたい年の初めではある。これについては昨年のものを続けて使うことにしよう。
何、さほど大きな違いはないはずである。
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嘉永八年 一月十日
本日は亜米利加政府筋の人間に伴われ、初めて教会を訪ねる。
日ノ本の切支丹信仰は幕府が禁じており、それでもなおかろうじて命脈を保っていることは公然の秘密とも言えるが、本場の教会は無論初めてである。
旅の道中で外観を見たことはあったが、欧州……おうすとりあで見た教会より、亜米利加のそれのほうが小さく質素な印象を受けた。
中では大きな楽器? が据え付けられており、青や赤などの色鮮やかなギヤマンの飾りが窓にはめられている。
数個の長椅子に座り、信徒は坊主の説教を聞き、祈りをささげるようだ。
……どうもこの様子を見るに、作法や信じるものは違えど、仏教とさほど違いがないようにも思える。
それはともかく、確かに切支丹の教えと御仏の教えは違うようであった。
切支丹の教えは、唯一絶対の一柱が世界の創造主であり、世界のすべてを生み出したのだというものであったか。日ノ本ではデウスと言われた神であろう。
この教会で言われた内容も、おおむねそのような事であったと思う。全知全能の神のもとで、うんたらかんたらと。
小生は軍学者であるためこの手の事には疎いのだが、欧州のものの考え方の基盤にあるのは、恐らくこのデウスの教え、切支丹の教えと見ていいだろう。
聞けば、国で一つの教えを保護し、それによって民の結束をはかる……国教という方法であるらしい。
確かに、国全体がその教えで統一できれば、それは強固な絆となるだろう。かつて戦国の世において、魔王信長を十年に渡り苦しめた一向宗のように。
うむ、この方法は一考の余地があるように思われる。我が国で仮に実施するとしたら、その中心となるべきはやはり帝であろうか。
少々考えをまとめてみてもいいかもしれぬ。
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嘉永八年 二月三日
節分であるが、それより遂に墨が尽きてしまった。
当然だが、亜米利加に墨があるはずもなく、どうしたものか。
先月より、国教についての論文をしたため始めたのも問題であったかもしれぬ。
ぺんとやらの使い方を覚えるべきか否か……。
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嘉永八年 二月・・・……
(初めて思われるペン書きに対応しきれず内容が判読不可能)
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嘉永八年 二月二十五日
ようやくぺんでの筆記に慣れてきた。
慣れるまでは書かぬと決めてはや二十日、前回分との差に我ながら苦笑しきりである。
小生の物覚えの悪さも理由ではあるが、日ノ本から持参していた紙がぺんで書くには向いていないのも問題であった。
何度残り少ないこの書に穴を開けたことか……。
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嘉永八年 三月一日
最近、この国のにうすぺいぱあというものを読むようにしている。
いわゆる瓦版であるが、不得意な英語で、我々を見下しがちな白人から直接話を聞くよりも、多少時間はかかっても文字のほうが理解がしやすいと思うのである。
瓦版と同じく、多分に書き手の主観が含まれているが、そこは複数のにうすぺいぱあを購読すれば判断は容易である。
また、広範囲の情報も得られる。この国は瓦版の範囲が広い。情報が素直に伝播するのは良いことだと思う。
そしてこれを読むところによると、どうやら亜米利加という国は現在、北部と南部の政治的な対立が顕著になっているらしい。
奴隷制を廃止したい北部と、維持したい南部。一見すると北部に大義名分があるように見えるが、北部が廃止したい理由は単に自分たちの産業を推進するためでしかなく、人道的な見地によるとは言い難い。無論真摯に向き合っている人間もいるだろうが。
このままでは、南北の対立はより直接的な争いになるだろう。どうやら、これこそがこの国の弱点とも言うべきもののようだ。
ここをうまくつくことができないだろうか?
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嘉永八年 三月六日
聞いたところによると、明日辺りに香港で分かれた艦隊がにうよぉくに戻ってくる頃合いらしい。
ペリー氏はその出迎えに行くそうで、我々も同行することにした。
無論断られているのだが、無論そんなことは関係ない。
それはともかく、どうやら長く書き綴ってきたこの日記も、今日で最後になるようだ。
明日からは、こちらで購入した日記に記していくことになる。
いずれ日ノ本に帰った暁には、この日記もなにがしかの意味を持つかも知れない。
小生がそれまで生きているかどうかはわからぬが、日ノ本のために全力を尽くす。
では、明日のために今日は早めに寝ることにしよう。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
イギリス食オチは鉄板だと思ってます(真顔
いや、ボク自身は実際に食べたことがないので、ステレオタイプに乗っかってるだけなんですが。あそこまで言われると食べてみたくなりますよね。怖いもの見たさで。
ちなみに、松陰先生の日記は、今回でひとまずおしまいです。
とはいえ、ヨーロッパ側の動向を伝えるツールとしてわりと有効っぽいので、余力があればいろいろと試していきたいところ。