挿話 松陰先生の欧州道中記
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嘉永七年 五月二十六日
黒船、いよいよ日ノ本を離れる。
これより先、我ら三名は正しく船上の人となり、未だ見ぬ亜米利加へと旅立つものである。
暗殺しようとしていた相手から親しくされるのは不思議な心持ではあるが、あの巨体、常に誰かをそばに置く油断のなさから、ペリー提督の暗殺はもはや不可能であろう。
故に今は、敵国の情勢を調べることに専念すべきなのだろう。そしてそのためには、この身の犠牲など厭わぬものである。
ところで、気合を入れなおすべく、重之輔君と立ち会い稽古をしていたところ、乗組員に怒られてしまった。
解せぬ。何故か。
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嘉永七年 六月七日
黒船、琉球に到着す。
木島殿が聞いて回ったことによると、ここで物資を補給して、まずは清国へと向かうそうである。
はて、清国と言えば亜米利加とは逆の方向であったかと記憶しているが、これはいかなることであろうか?
周りの船員に尋ねようにも、我らはまだ英語に堪能ではないため上手くいかぬ。
木島殿は多少できておられるようだが、それでもたどたどしいことには変わりなく、五十歩百歩である。
やはり、敵の情報を得るためには英語の習熟が欠かせぬようだ。情報を重視せよとは孫子の教えであったか。けだし名言である。
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嘉永七年 六月二十四日
黒船、ほんこん(後日、横に香港と加筆の跡)なる土地に到着す。
その様子を見て、我らは驚きを隠せなかった。この土地は清国のはずであるが、あちらこちらに南蛮人がうろついているのである。
しかも、清国人はまるで彼らを恐れ避けるようにしている。これでは、どちらが主であるのかまるでわからぬ。
あちらこちらで建設中の建物も、そのほとんどが南蛮風である。中華帝国の威風はかくも落ちてしまったのか。
阿片戦争の顛末は小生の耳にも多少入ってきているが、これほどとは思わなかった。
確かにこれでは、幕府も弱腰になろうというものである。とはいえ、決して幕府の姿勢は褒められたものではないが。
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嘉永七年 六月二十九日
ペリー提督が語るところによると、艦隊は向こう二、三カ月ほどは修繕などでこの地にて滞在するとのこと。
なるほど、亜米利加は遠い。逆方向に舵を向けたのは、まずは琉球、清国と拠点のある場所で万全整えるということであったか。
その後、ペリー提督より空いた時間を英語の習熟に努められよとの勧めを受け、我ら三名は提督が治める東印度艦隊なるところで師事する運びとなった。
長く待たされるのは不本意という気持ちはあったが、確かに現状ではまるで言葉が通じず、このままではできることもできぬのも事実である。
戦いとなれば我らは大和魂にて、一騎当千の働きをする自信があるが、それだけではどうにもならぬことは小生も理解している。
願わくば、我が大和魂が英語を拒否せぬことを。
それにしても、米とみそ汁が恋しくなってきた。我が心の脆弱さを嘆くばかりである。
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嘉永七年 七月七日
本日は七夕である。重之輔君、木島殿らと共に、月見酒ならぬ星見酒をささやかながら催す。
酒の味も肴の味も、日ノ本のものとはまるで違うが、ないものをねだるわけにはいかぬ。
ただ、織姫と彦星の逢瀬は日ノ本で見る姿と変わらぬものであった。
三笠の山に出でし月かも、と詠んだ阿倍仲麻呂の心境はもしやかくなるものであったかと、故人の想いをしのぶ。
ところで、南蛮では天の川をみるきぃうぇいなる言葉で呼ぶそうである。みるきーとは乳の形容詞系であり、うぇいとは道という意味であるが、南蛮人どもの感性はまるで理解できぬ。
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嘉永七年 七月十五日
本日付で、ペリー提督が提督職を辞す。体調不良が理由とのこと。
だが、傍目には不健康には見えず、いささか首を傾げる。もしかすると、政治的な理由でもあるのやもしれぬ。
亜米利加が一枚岩ではないのであれば、ここに我らがつけ入る隙があるのではないか。
調べるべきこととして、ここに記録する。
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嘉永七年 七月二十日
ペリー氏、香港を出立する旨を全体に通達す。
この後は、民間の移動手段でもって西に向かい、エゲレスを通じて亜米利加へ渡る予定との由。
聞くところによると、この行程ではいくつもの国を通過するのだという。
これを聞いた小生は、重之輔君や木島殿と会談の場を持ち、今後について語り合うことにした。
小生が思うに、亜米利加は強大な国である。あれだけの艦隊を持ち、海の彼方からわざわざやってくる国が、脆弱であろうとはとても思えぬ。
されど、それ以外の国が強大ではないかというと、そうではないとも思うのである。他にも日ノ本の脅威になり得る国は、あるのではないだろうか。
そして、そうした国は恐らく欧州にこそあるのではないだろうか。
ならば、亜米利加以外の国についても視察はすべきではないかと、小生は思ったのである。
いくつか意見を交わしたが、最終的に両名から賛成を得て、我々はペリー氏に同行することを決めた。
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嘉永七年 七月二十一日
ペリー氏に同行を断られたので、ならばと押し通って同行することを決意。
何、東北行で国許を抜け出た時とさして変わらぬであろう。
無理を通せば道理は引っ込むものである。
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嘉永七年 七月二十八日
木島殿がペリー氏の乗船する船を特定し、その乗船手形を入手してきた。
しかも人数分である。これには小生も心底驚いた。
しかしこれは好都合である。ペリー氏の出立は明日であるので、氏に同行する機会を逃さずに済みそうだ。
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嘉永七年 七月二十九日
ペリー氏、香港を出立す。
氏が乗船したのはエゲレスの貨客船であり、定期に欧州と香港を往復する船便であるようだ。
無論我らもそれに乗り込み、香港を発った。
日ノ本に来た黒船とは違い軍船ではないようで、その内装にはかなりの違いがある。居住性は、やはりこちらの方が上である。
ペリー氏は我らを見つけて心底驚愕していたが、我々は正規の手段で乗船している。やましいところは何もない。
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嘉永七年 八月二日
本日も道中の船上にあり。
されど船員や他の客の態度が気に障る。連中はあからさまに我らを白眼視するのだ。
あまつさえ害をなさんとするものさえいる始末。
まったく無礼千万な話であり、正直その場で切って捨てたい気分であったが、日ノ本の将来のためと思いこらえた。
所詮、卑賤なる南蛮人どもに、人間性を求めるほうが間違いなのだろう。
ペリー氏らはさすがに士分であるからか統制は取れていたようだが、その腹の中で何を考えているかはわかったものでもないだろう。
改めて、我らが今敵地にいるのだという思いに身を引き締めねばと思う次第。
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嘉永七年 八月十四日
本日、印度沖のせいろんなる地に寄港す。
食料などの補給目的であるとのこと。船旅とはまこと労苦の連続である。
この地はどうやらエゲレスの領土であるらしいが、当のエゲレスはまだ遥か彼方である。
当地からエゲレスまでまだ二カ月はかかるとのことであるから、相当な遠方である。
それほどに離れた土地を支配するエゲレスとは、相当に強大な国であるのだろう。
実際、この地はエゲレスが侵略し得た土地だという。働かされているのが現地の人間という光景は、香港と似たような空気を感じる。
これはやはり、欧州各国への警戒心を一層強めるべきだろう。
木島殿が何やら色鮮やかな鳥と会話しておられた。気は確かだろうか……。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
吉田松陰という人物は国粋主義者だと作者は思っています。
なので、日記という形態をとった以上どうしても主観となり、ヨーロッパ各国などを見下すような文章のほうが似合うだろうと思ってこのような雰囲気になりました。
物語上の表現ということで、少々表現が過激なところもありますが、ご理解いただければと・・・。