あの黒い翼
彼女は夜の森の女王だ。夜の森において、彼女を捉えることは誰にもできない。そして誰にも悟られることはない。
それは同族はおろか、普通ならば格上の動物に対してもそうだった。
一度の失敗はなく、一度の敗北もない。何をしても、うまくいく。そんな人生が、彼女の人生だった。
だから彼女は、森に飽きてしまった。
何をしてもうまくいくということは、何をしても思い通りに行くということ。それは裏を返せば、予想外という面白味がまるでないということでもある。彼女はそれが、詰まらなかったのだ。
そんな生活が、彼女に耐えきれなかった。その彼女が、森を出ていくまでにそこまで時間はかからなかった。
彼女の種族から言って、これは珍しいことである。彼女たちは本来縄張りを築き、そこを中心に生活する動物だからだ。
けれども彼女は、それにこだわるつもりなどなかった。なぜなら、彼女は女王だからだ。
女王は、どんなところでも女王なのだから。
そう、彼女は夜の森の女王。夜闇にそのすべてを紛れ込ませ、あらゆる獲物を狩ってみせる。同族のすべてに負けぬ、孤高なる女王だ。
そんな彼女が彼に出会ったのは、北国の長い冬がようやく終わりに近づきつつある頃。人間が使う西暦に照らして4月15日頃のことであった。
この頃、彼女は生まれ育った森を大きく離れ、南の海沿いまでやってきていた。
そこには、森に住む生き物とはまるで異なる生き物が多く住んでいると、様々な動物が噂していたからだ。それがどういう生き物なのか、気になったのである。
もしかしたら、自分と張り合える生き物なのではないか。もしかしたら、面白いものが見れるのではないか。そう思ったのだ。
だがその生き物は、あまり彼女の期待に沿うものはなかった。
確かに、その生き物は珍しかった。二本足で立ち、道具を駆使する大きな生き物は頑丈で、また他の生き物より格段に頭がよかった。
だから狩りそのものはいつもより慎重にならざるを得なかったし、時間もかかった。
しかし、それでも彼女にしてみればそれ以上ではなかった。
連中は昼間にはかなりのしたたかさを見せたが、逆に夜になるとまるで無力になってしまうのだ。
そして、夜は彼女のホームグラウンド。その中である限り、誰も彼女をとらえることなどできなかった。後ろから襲えば、まるで気づく様子もなく頭への一撃を許すのだ。そんな状態では、彼女に勝てるはずなどないのだった。
結局、やはりここでも彼女は女王だった。
だが、これでは得られるものはないなと思い、その生き物の縄張りから離れようとした時だ。
彼女は彼に会った。
二本足の生き物の巣、その頂点に鎮座した黒い鳥。鋭い眼光を二本足の生き物たちに向け、微動だにしない黒い鳥。その毛並みは彼女のそれによく似て、しかしそれとはまるで異なる不可思議な輝きがあるように感じられた。
そして何より、彼は多くの鳥を従えていた。鳥たちの動きに乱れはなく、一つの生き物であるかのように動く。いや、動かしている。
その様は、まさに王だった。
そんな彼を見て、彼女は笑った。彼女は直感的に悟ったのだ。この鳥は、恐らく自分に比肩する存在であると。
だから彼女は、彼に挑んだ。それまで培った己のすべてを賭けて、それまで感じていた退屈を吹き飛ばすために。
――結果は惨敗であった。その黒い鳥の動きは、猛禽類である彼女のそれを優に上回り、その力も、体力も、あらゆる能力が規格外だったのだ。そもそも、まるで戦いにならなかったのである。
比肩する、などおこがましい。それどころか、まったく格の違う相手であった。
それでも彼は、彼女の命を取ることはなかった。それどころかその傷を癒し、その力を称え、あくまで誇り高きものとして扱ったのである。
長としての器でも、負けたと彼女は思った。
そして、こうも思った。
夜の森の女王のつがいには、これほどのオスでなければ務まらぬ、と。
その日から、彼女は黒い王へアピールを始めた。鳥としての種族が違うとか、そんな考えはなかった。ただ、これ以上のオスには、もう二度と出会えない。そんな確信があった。
この機を逃してはならない。その予感に、彼女は迷うことなく従ったのである。
しかし数日後、彼はこの地を離れた。この地ですべきことは終わったと言って。
南に向かって飛んで行った彼を、多くの鳥は見送った。
だが、彼女は留まらなかった。その道行への同行を願い出たのだ。
意外なことに、彼はそれを拒まなかった。どう言われようと着いていく気だった彼女としては肩透かしだったが、許されたことには素直に喜びを感じた。
ただし、付け加えられた言葉に彼女は硬直することになる。
彼は最後にこう言った。「俺の速度についてこれるのであれば、来るがいい」と。
彼女は夜の森の女王だ。その頭脳は、他より優れている。だから、彼の言葉の意味が……そこにある真意がよくわかった。
これはつまり試練だ。これがこなせぬようならば、俺には相応しくない、彼はそう言っているのだ。
言いたいことはよくわかる。彼女も、同族の有象無象に求婚された時、あえて無理難題をふっかけてそれをかわしていたものだ。彼の言ったことはつまり、それと同じだろう。
だが、彼女には彼女のプライドがあった。夜の森の女王。ただ一羽、森の中で暗黒の翼を持つ孤高の長。そのプライドにかけて、後退などありえない。
その試練、受けて立つ。彼女はそう答えた。
そうしてその日から、彼女の旅は始まった。彼の姿を追いかける旅だ。そしてそれは、まさに試練であった。
彼の飛翔は速かった。潮風が吹きすさぶ海峡も、強風が吹きすさぶ海峡も、潮風が流れていく洋上も関係なく、他の追随を許さない速度で駆け抜ける。
しかも、彼は急速をしない。常に空にあり、何やら二本足の生き物の縄張りを上から監視し続けていた。
何より、夜行性の彼女にとって、昼も飛ぶということは極めて困難であった。慣れぬことをしている上に、昼間は暗黒の翼を持つ彼女は目立って仕方がない。
疲労の蓄積は当然早く、彼女は早々に彼から離れざるを得なくなる。
だが、彼女は諦めなかった。彼の姿が見えなくなってもなお、どれだけ休息を取ることになってもなお、愚直に飛び続けた。
手がかりならある。
一つは彼の種族が烏であること。
もう一つは、彼の行先が南であること。
そして最後に、彼の名がユヴィルであること。
これだけのことがわかっているのだ。諦めるなど、彼女にはあり得ない話であった。
だから彼女は飛ぶ。ただひたすら南へ。
あの黒い翼を追い求めて、南へ――!
ここまで読んでいただきありがとうございます。
北海道に行っていたころのユヴィルのちょっとしたお話でした。
だいぶもったいぶってますが、「彼女」の正体については次の章で出そうかなあと思ってます。