第六十一話 家定の夢
《インフルエンザについて》
《インフルエンザウィルスによって引き起こされる急性感染症。風邪とは異なり、悪寒、発熱、頭痛、全身倦怠感、筋肉痛などが比較的急速に出現することを特徴とする。
咽頭痛、鼻汁、鼻閉、咳、痰などの気道炎症状や、腹痛、嘔吐、下痢といった胃腸症状を伴う場合もある。
このほか、肺炎や脳症を合併症として引き起こす可能性がある。
主な感染経路は飛沫感染。潜伏期間はおおよそ1~2日が一般的だが、10日ほどかかることもある。
また、発症の前日から軽快後およそ2日は感染能力が残るため、極力他者との接触は控えたほうが良い。
現代において特効薬はなく、偏らない栄養を摂り、十分な睡眠・休息を取ることが肝要。
インフルエンザウィルスは50%以上の湿度に弱いため、この際は室内の湿度を50~60%程度に保つと良い。
致死率は罹患したインフルエンザウィルスによって大きく異なる。》
空間ごと入れ替えた部屋で、今もうとうとと浅い眠りについている家定君を鑑定した結果、彼の病気はインフルエンザってことがわかった。
それについて調べてみた結果が、以上。案の定って言ったらなんだけど、即座に死ぬような危険な病気じゃなかったよ。
どうやら、ベラルモースのインフルエンザと同じ病気みたいなので、よかったよかった。
いや、家定君自身は苦しんでるから、よかったなんて軽く言っちゃうと悪いかもしれないけど……。
らい病と違って、ボクらベラルモース人に対してどれだけの影響があるのかわからないものじゃないから、安心して家定君と接することができるわけで、少しくらい大目に見てほしい。
それに、インフルエンザについては特効魔法がある。ベラルモースでも昔から猛威を振るってきた病気だからね、色んな人があの手この手を尽くしてきたのだ。
まあ、遺伝子が変異しやすいウィルスだから、決して簡単な魔法ではないけどね。ボクなら使えるから、問題はない。家定君も、すぐに治せるはずだ。
ちなみに、ボクらアルラウネ種はインフルエンザウィルスに罹患しない。ボクら以外にも、ドライアド種やトレント種なども同様だ。某論文によると、本質が植物だかららしい。
……しっかし、なんでまったく同じ病気が、同じ名前で存在するんだろう。同じ症状の病気があるならまだわかるけど、同じ名前ってのが……。
ワインの時もそうだったけど、ちょくちょく不思議な一致がある。なんなんだろうね、これ。
まあそれは置いといて……。
「天魔法【アンチインフルエンザ】」
ボクは布団に横になる家定君に、特効魔法を発動させる。彼の身体を空色の光が駆け抜け、彼を蝕むウィルスを死滅させていく。それが十数秒も続けば、もう彼に感染能力はない。
ただ、即座に健康体になるわけじゃない。身体はウィルスに対抗するために発熱なんかの症状を出してるんだ。これが急にぴたっと止まることはない。
もちろん、普通にしてるよりも圧倒的に早く快癒するけどね。大体二、三時間かなあ。
「う……む……」
魔法の発動が切っ掛けになったのか。ここで家定君が目を覚ました。
彼の視線を受けて、ボクはうっすらと微笑む。
「おはよう、家定君」
「……クイン、殿か……? 来て、……くれたのか……」
「うん。病気だって聞いたから、飛んできたよ。大丈夫? 調子はどう?」
「……とてもつらい……余は……きっともうダメだ……」
ぜいぜいと息をつきながら言葉を漏らす家定君は、いつもの元気な様子がまるで見られない。まるで、あれが空元気だったみたいだ。
「何言ってるのさ、君らしくもない。病は気からって、この国では言うんでしょ? そんなんじゃ治るものも治らないよ」
「……いいんだ……余の身体のことだ、余が一番わかってる……昔っから大病ばかり患ってきたんだ……そういう勘は、あるつもりなんだ……」
「……家定君」
まだ焦点が完全には定まっていない視線を、正面から受け止める。
既に病気の根源は駆逐してるから、あとは待つだけでいいはずだけど……。そんなこと言われたら、ちょっと不安になるじゃないか。
「……覚悟はしてきたつもりなんだ……どうせ、長生きはできないって、思っていたから……。ただ……幕府がどうなってしまうのか、それが不安だ……」
「ちょ、ちょっと待ちなよ。何諦めてるのさ? ボクは君の遺言を聞くつもりはまだないよ!」
「余はバカだからな……今の幕府の状態も、よくわからんのだ……でもな、でもな……よくはないってことくらいはわかるんだ……。父祖家康公から二百年以上……万が一、余の代でそれが終わってしまったらと思うと……」
「ああもう、ストップストップ! させないからね、そういうのは!」
ボクの言葉も話半分以下に聞き流して、なんだか自分の世界に入りかけてる家定君を静止する。
それでも彼は言葉を止めないので、ボクは用意しておいた世界樹の花蜜の器をひっつかんだ。
そして横たわる家定君の身体を起こすと、それを彼の眼前にずいっと差し出す。
「はいこれ! ベラルモースの薬!」
「く、クイン殿?」
「さあ飲んで! このまま死ぬなんて許さないから!」
「う、うむ……」
ボクの剣幕に気圧されて、家定君は少し驚いた顔のまま、恐る恐る器を受け取った。そしてその中身を見て、小さく首をかしげてから、ゆっくりと中身を口に含む。
次の瞬間、彼の表情が驚愕で染まった。それからすぐに、今までとは正反対の勢いで飲み始める。どうやら、気に入ってくれたようで何よりだ。
ほどなくして、器は空っぽになった。
「美味い! なんだこれは!? これが薬!?」
「そうだよ。ベラルモースに一本しか生えてない神木の、花から採れる蜜なんだ。ほんのり甘くておいしいでしょ?」
手前味噌だけど。
「うむ、これは美味い! もう少し甘さを抑えれば、菓子の相方にもよさそうだぞっ」
「鋭い指摘だね。その通りさ」
「そうか! では今度……ゲホッ、ゲホッ」
「興奮しすぎるから……。いくらその薬でもすぎに効くことはないから、もう少し安静にしてなって」
「う、うむ……悪かった……。あまりの美味さについ……」
言いながら、再び横たわる彼の表情からは、今までの暗い色はなかった。
……世界樹の花蜜の効果ではない、よね? だとしたら早すぎる。
荒療治っていうか、勢いで突き抜けたのがよかったんだと思いたい。
「……でも、君は今『今度』って言いかけたよね」
「え? あ。ああー……うむ……」
「なんでバツが悪そうな顔してるのさ。それでいいんだよ。君だって、本当はまだ死にたくなんてないんでしょ?」
「…………」
沈黙が返ってきた。でも、それは肯定って受け取るからね?
「死んだらそれでおしまいだよ。どうせ死ぬなら、君が生きた証を残してからだって遅くはないよ?」
「……そんなこと、余にできるなんて……」
「ボクがいてもかい?」
その言葉に、家定君は再び沈黙した。
「友達なんだ。もう少し頼ってくれたっていいんだよ?」
「……クイン、殿……」
「あと、言うタイミングがなかったから今言うんだけど。君の病気、もう治ってるからね」
「……は……?」
「たまたまベラルモースにもある病気だったからさ。魔法で治しといたんだよ。発熱とかまでは一気に治らないから、今はまだ苦しいかもだけど。世界樹の花蜜を飲ませたし、一刻もあれば普通に動けるようになるはずだから」
「…………」
なんでもない風に言うボクに、硬直した家定君の視線が突き刺さる。信じられないって顔してるな。無理もないけど。
そんな彼に、ボクはにやっと笑って見せる。
「そもそも、ボクはまだ君の作ったカステイラを食べれてないんだ。約束は守ってもらうからね」
「……ぁ、……う、うん……わ、わかってる……わかってるぞ……っ」
そうして彼は、遂に泣き出してしまった。
ボクはそんな彼を見守ることにする。彼が泣き止むまで、そんな時間が少しだけ続いた。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
「将軍を辞めたいっ」
泣き止んだ家定君が最初に言ったのは、よりによってそんな言葉だった。
あまりといえばあまりの発言に、ボクは耳を疑ったよ。お菓子が食べたいみたいなノリだったんだもん。
「また大胆なこと言うね。そんなこと幕閣が聞いたらなんて言われるか」
「わかっているっ! だがな、だがな、クイン殿。正直、余は自分が将軍なんて器とは思えんのだ」
言いながら、家定君は少し悲しげに笑った。
表情はともあれ、その顔色はだいぶ良くなってきている。完治までもうちょっと、かな。
しっかし、将軍の器、か。それを言ったら、ボクだって人の頂点の立つだけの器なんてないけどなー。
「でも、しょうがないじゃん。君以外に男はいなかったんでしょ?」
「そうなのだ……」
徳川宗家の後を継ぐのは、そして将軍という位を継ぐのは、開祖である家康から下って男系の男子のみ、ってのがルールだったはず。
そしてそのルールを守れなくなったとき、初めて御三家なんかの分家から宗家を継ぐ。確か、八代将軍の吉宗がその立場だったよね。
でも、家定君の先代……パパさんの家慶君は、なんと14人も男の子がいたけど、二十歳まで生きてこられたのは家定君だけだった、っていう。
彼も病弱だけど、そんな彼より長生きできなかった他の兄弟は、一体どれほどだったんだろう。もし彼らのうち誰か一人でも生きていたら、彼が将軍になることはなかったかもしれないわけで……。
そうなってくると、当然彼とボクの関係も違う形になってたわけで。偶然ってのは不思議だよね。
「だがな、だがなっ。どうせ余は飾りみたいなものだっ。阿部たちがやっていることも、大事なことだとはわかるが、細かいことはよくわかんし! なんか、異人たちと仲良くしていくんだっていう話はわかるが!
だからな、だからな、余が将軍になった時から、次の将軍をどうするかって話が上がっていてな!」
「それは不謹慎な話だねえ。家定君はまだ生きてるのに……失礼なやつらもいるもんだ」
「そう言ってくれるのはクイン殿くらいだ……余は悲しい」
そこで家定君は、はあと深いため息をついた。怒るそぶりを見せない辺り、自分なりに仕方ないって思ってるんだろうか。
「まあでも、余はな、それも考えようかもって思うのだっ」
「ってゆーと?」
「早いうちに余の後継者が決まってしまえば、さっさと職を譲ってしまえるんじゃないかって思うんだっ!」
そう言いきった彼の目は、「名案だろう!?」って言いたげな色をしていた。
「……言いたいことはわかるけど、仮にも元将軍を野放しにするってことはないと思うけど」
「そう、それだ! だからな、だからなっ。余は、いっそ将軍職を譲ったらクイン殿のだんじょんに住んでしまえばいいと思ったのだ!」
「……まじ?」
「うむ!」
いい笑顔するな……体調は完全に戻ったみたいだね。
しっかし……うちに元将軍を移住させるってね。いや、ボクは一向に構わないけど、幕府側が困るだろう。元将軍が行方不明とか、政争の匂いしかしないよ。
けど、ボクの沈黙を肯定と受け取ったのか、家定君はさらに続ける。
「それでな、それでなっ、だんじょんで家族を作りたいんだっ!」
「……家族を?」
「うむ! 庶民のようにな、嫁と一緒にな、夫婦で子を育てるのだ! それでな、それでなっ、いつか自分の子供と一緒に、一緒に、菓子を作りたいんだっ!」
「……っ」
彼の【不能】を知ってるだけに、その発言には思わず声が詰まった。
そうか。それが君の夢なんだね。
家族みんなで一緒に、子供の成長を見守る……そんな、親子の距離の近い家庭……それが、君の。
こう言っちゃなんだけど、それはすごくありふれたもので、なんだったら庶民の多くが普通にやっていることだ。それをどこかうらやましそうに語る家定君は、なるほど将軍じゃなくって、もっと小さな……たとえば、お菓子屋さんのような、そういうあり方のほうが似合うなあって、思ってしまった。
考えてみれば、将軍家の嫡男として育った彼に、そういう家族の……親からの愛ってのはなかなか得られなかったのかもしれない。だからこそ、そんな夢を持ったのかも。
「……わかったよ。どこまでできるかわかんないけど、ボクも協力するよ」
「やった! うむ、うむ! クイン殿ならそう言ってくれると思っていたぞっ!」
「まずは……まずは、とりあえず、お嫁さん探しときな? 別に独身でうちに来てもいいけど、うちで身分は通用しないから、自分で少ない女性の中から探すことになるし。先に結婚しておいたほうがいいと思うな」
「……それもそうだなぁ」
まずは不妊治療から、って思わず言いかかったけど、この辺りは結構デリケートな問題だ。言わずに解決できるならそれに越したことはないんだから、今はまだ言わないでおこう。
っていうか、彼を本当にダンジョンに迎えるなら、まず彼を将軍からどかす必要がある。
けどそのためには、子供が必要だ。そして彼には子供ができる可能性は今のところゼロだ。そしてできたとしても、彼は子供を育てたいって言ってるんだから、自分の子供を将軍にはしたくないだろう。
となると、養子か何かを取らないといけないわけで……。
……うん、この辺りはボク一人で考えてもどうにかなることじゃない。正弘君が復帰したら、相談することにしよう。
「忠震君はいくつか候補は決まってるって言ってた気がするけど」
「そうか! じゃあ、今度話を聞かせてもらおうっ! 次は丈夫な嫁がいいなっ!」
無邪気に言う家定君だけど、ちょいちょい切なさがこみあげてくる発言するのはやめてもらいたい。ボクの涙腺に地味にダメージがたまってる。
彼に言ってもしょうがないことだけどさ。
まあ何はともあれ、彼の今後についてはできるだけ彼の希望をかなえてあげたい。貴種としての責任はあるだろうけど、それでも人は、幸せになるために生まれてくるんだって、思うんだよね。
今まで何かと不憫だった彼には、もう少しいいことがあっていいでしょ。
そう思いながら、ボクはその後も家定君と未来のことについて語り合った。国家のことじゃなくって、家庭のことをだ。
子供はどれくらいほしい、とか、どういう風に育ってほしい、とか。そういうことだ。
この辺りは、ボクも他人事じゃないからね。
今までは忙しくて考える余裕がなかったけど、アメリカとの交渉も終わった今、少しは余裕もできたはずだ。
だからこれはいい機会って考えて、せっかくだし色々とお互いの理想とかを語り合ったのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
阿部に続いて家定にも遂に世界樹の花蜜が投与されました。
果たして彼の【不能】は治るのか? 治ったとして彼の夢は叶うのか?
しかし「大河ドラマにもなった彼女」との結婚はまだ数年先だったり。
前途は多難だ! がんばれ家定君!