挿話 もう戻れない
あたしの名前は藤乃。出身はわからないわ。ただの藤乃よ。
物心つく前に、水戸徳川家に隠密、つまり忍として仕える両親に拾われて以降、ずっとその後継者として育てられたわ。実際その後も継いで、あたしは隠密になったの。
そのために必要な技術は、すべて叩きこまれたわ。変装や監視、追跡の技術はもちろん、武術も一通り教えらえたし、拷問の訓練と称して、毒や痛みも散々に与えられてきた。
そこまでされて育ったあたしは、どうやら同僚の中でも抜きんでた存在になっていたみたいで、数年働くうちに、いつの間にか頭目になっていたわ。
実際、あたしは万事何事においても誰にも負けたことがない。潜入捜査の腕も、武芸の腕も、あたしに敵う同僚は一人としていない。それは男の同僚と比べてもよ。
だからあたしは、そんな自分にそれだけの自信があった。あたしに潜入できないところはないって思っていたし、あたしが探れない情報なんてないって思っていたわ。
隠密として、絶対に失敗をしないこと。それがあたしの自信であり自慢だったの。
そんなあたしに、ご隠居様から新たな指示が下ったのは、先月のこと。
なんでも、重罪の犯罪者を千駄ヶ谷に突然できた洞窟に送り込んで、幕府が何かしているらしいって話。
最近の幕府は、古くから定められた国法を破って外国勢力に迎合してるから、それを憂慮されたご隠居様は、真相を探るために忍を遣わすことにしたらしい。
ただ、昔からあまり老中の会議内容を秘匿しない阿部正弘が、半年くらい前から急に非公開を貫くようになった。その雰囲気は彼の下にも伝播してるみたいで、ここ最近は情報を集めるのが難しくなってるとのこと。だからあたしに白羽の矢が立ったみたいね。
指示を受けて、あたしは早速行動を開始した。重犯罪者が対象になっているらしい、ということだから適当な罪を犯すことにしたわ。
牢屋敷に入るのは、初めてじゃない。獄中の人間が情報のカギを握っているからって、合法的に中に入るためにも過去にやったことがあるのよ。
ただ、今回はどうも重罪じゃないと先に進めそうにないらしいから、選んだのは一等減刑される女であっても重罪間違いなしの放火にしたわ。
最初は水戸家に反目する大名の屋敷を狙おうと思ったけど、それで即日打ち首になるのは本末転倒だし、万が一感づかれて水戸家に塁が及ぶのもまずいから、そこらの長屋にした。
そうして目論みは当然うまくいって、あたしはしっかりと牢に繋がれることになった。
およそ半月くらい、そこでの生活を過ごして……年も開けて。何も起きないなあと思っていたある日のこと。それは突然やって来たわ。
いきなり役人がやってきて、あたしの他数人の女が外に出された(※江戸時代の牢屋敷も、ちゃんと男女で入れられる牢が違う)。
それから一人一人が部屋に連れて行かれ、誰も戻ってこない。事情を察してるあたし以外は、何が起きてるのかわからなくてびくびくしてたわ。あたしも、それらしく振舞って自然を装ったけど。
そうしてやってきたあたしの番。部屋で待っていたのは、なんと南町奉行の池田頼方だった。
これには演技どころじゃなくって、本当に驚いたわ。だって、奉行っていったら町奉行所の頭。そりゃ、たまには視察で牢屋敷に来ることもあるかもしれないけど、わざわざ囚人一人一人に顔を合わせるなんて絶対にありえないもの。
これで一体何が始まるのかしらと思っていると、告げられたのは使役刑への減刑だった。
理由は新年っていう慶事だからってことだったけど、すごいこじつけだと思うわ。でも、あたしはぴんと来た。これがご隠居様が仰ってたことなんだろう、ってね。
連れて行かれるのは、きっと千駄ヶ谷洞穴。そこで何かをさせられるのね。噂では化け物が出てくる危険地帯だけど、そいつらを倒せば金銀財宝が手に入るってことだから、そういうことかしらね。探索者、って呼ばれてるようになってたかしら。
きっと、幕府主導の探索者集団を作ろうとしているんだわ。武士を集めればいいんでしょうけど、泰平の世が続いて、腕に自信があるお人は減ってるものね。だったら、いっそいつ死んでもいい罪人を使おうって腹積もりなんでしょう。
内心でそう納得しつつも、表面的には首をかしげることはやめない。
そうこうしてるうちに池田の話は終わる。次はどこに連れて行かれるかしらと考えていると……池田があたしにガンドウ提灯(蝋燭を筒で覆い指向性を持たせた懐中電灯のようなもの)に似た何かを向けた。
そして池田は、あたしがそれが何かと口にするより早く、光を放った。筒から放たれたそれはあたしの身体を包み込み――気が付くと、あたしは人が大勢いる不思議な場所にいた。
何が何だかわからず呆然としていると、先に連れて行かれた同じ牢の女が声をかけてきて。そこからいろんな話を聞いたわ。
冤罪だって牢でもずっと叫んでたその女は、元々人好きのする気性だったのでしょう。こんなよくわからない状況でも、周りの連中に色々と構って話を聞いていたみたい。おかげで手間が省けたわ。
聞くと、どうやら周りにいる男女は、あたしたちと同じく牢屋敷から連れ出された人間みたい。見たところ50人くらいいる上に、人数は話をしてる間にも増えてるんだけど。一体何人集まるのかしら?
ただ、この部屋は外に出る扉が見当たらない。忍として、様々な訓練をしてきたあたしでも見つけられない代物……というよりは、本当に外と出入りするものが存在しない感じだった。密室、というより密閉された箱に押し込められた気分だわ。
やがて時間も過ぎ、遂に室内の人間が100人に達した時。突然、部屋の中から大半の人間が消えた。本当に何の前触れもなくって、残された全員で絶句したものよ。
でも、驚きは終わらなかったわ。あたし以外の全員が、それに続いて消えてしまったんだから。
そして残されたあたしも、次の瞬間格子で区切られた独房……らしきところに移動していたんだから、もう何が何だかわからない。
そんなあたしのところに、やがて子供がやってきた。まるで異人みたいな顔をした、異人みたいな服装の子供だ。
その子供が部屋の中に入ってきて、どこからともなく現れた机と、いす……? というものに座れと言ってきた。子供の命令に従うのは癪だったけど、どう考えてもこの子供は何らかの形で今回のことに関係してるはず。
そう思って、あたしは抵抗せずに従うことにした。
「始めまして。ボクはクイン、ここの主だ」
「はあ……」
そうして子供――クインは、名乗りながらにっこりと笑った。
でも、すぐには応じない。あたしは少なくとも、ただの罪人としてここに来たはずだからね。なるべく平凡な町娘を装って、薄い反応を返したの。
ところが、その後クインは驚くことを口にした。あたしの素性をずばり言い当て、その目的まで看破して見せたの。
只者じゃない。あたしはすぐに認識を改め、なんとかしてこいつを籠絡しようとしたんだけど……。
こいつに、そんなものは通じなかった。
明らかに日本語じゃない言葉で何かを告げられ、あたしは紫色のもやに包まれた。そして次から、あたしの口は思ったことを言えなくなってしまったのだ。
クインの問いに、偽ろうとした内容は出てこない。出てくるのは、すべて本当のことだけになってしまう。
自分の思い通りに身体が動かず、あたしは遂にご隠居様のことまでしゃべってしまった。
今まで、どんな目に合わされても屈することなく、すべての任務を成功させてきたはずのあたしを、クインはあっさりと攻略してしまったのだ。
気づけば、あたしは泣いていた。自分でも驚くくらい声を上げて、子供のころからもう15年以上はしてないはずの、号泣ってやつをしていた。
ただひたすら、悔しかったの。一生懸命訓練をして、最高の腕前に至ったって思っていたあたしの自負が、無残に踏み砕かれたような気がして。
あの、文字通り血のにじむ訓練は一体なんだったの? あたしのやってきたことは、一体なんだったの?
そう思うと、年甲斐もなく涙があふれて止まらなかったのよ……。
「じゃあ、いっそうちに来ない?」
「……はあ?」
ところが、クインはさらに驚くことを言ったわ。あたしを部下にしたい、そう言ったの。
こいつがどういうつもりでそんなことを言うのかはわからなかったけど、少なくともあたしにはまだ利用価値があるんだって思われてるんでしょう。
それがわかった時、あたしは泣き止んでた。まだ大丈夫、まだあたしは終わってないんだ、って思えたから。
本性を現したクインは花の化け物で、それには心底驚いて、怖くもあったけど……でも、あたしは自分を奮い立たせた。
そう、この誘いはある意味で起死回生の機会だって思ったから。獅子身中の虫になって、情報を外に持ち出す役になれれば、あるいはって。
でも、そう簡単に心変わりするのはどうかとも思ったの。尻軽って思われるのも癪だし、簡単に裏切りうる人間って思われたら、重要な情報を任されないかもしれない。
だから、あたしは抵抗して見せた。金なんて興味はないから、提示されても断るのは簡単だ。拷問も、いくらでも耐えきれる自信があったから。
そう思ったからこそ、あたしはクインの言葉をはねつけたの。
けれど、そうして始まった拷問はあたしの理解を超えていたわ。この世界じゃ絶対にしないことだったの。というより、できないことだったわ。
それもそうでしょう。薬を大量に飲ませて、性的に昂ぶった身体に刺激を与え続けて意思をくじくなんて方法、できるわけがないもの。
単に性的な快楽を与えるだけなら、大陸で使われてる阿片なんかでも大丈夫でしょうけど……あたしに後遺症が残らなかったんだから、明らかに普通じゃないわ。
そう、あたしは薬漬けにされて、不気味な寒天のような物質に全身を嬲られ続けた。それは、今まで受けたどんな拷問よりもつらく、切ないものだったわ。
どんなに刺激を加えられても達することのできない苦痛。高まり続ける欲求。
「ボクの部下になってくれるなら、君の願いをかなえてあげるよ。どうかな?」
そんな時にそう言われてしまったら、もうあたしは耐えることなんてできなかった。
一切思考する間もなく、あたしは叫んでいた。部下になる、なるから……って。
その瞬間、あたしは特大の快感を受けてあっさりと意識を手放した。
そして目を覚ました時には、あたしは完全にこちら側になっていた。身体も、人間じゃなくなっていたの。
肌は褐色に染まり、瞳は金色になった。背中には自由に出し入れのできる黒い翼が生えて。何より、少しでも身体が若返ったのは嬉しくって、こちらに来てよかったって思ってしまったわ。
「や、おはよう藤乃ちゃん。そしてようこそ江戸前ダンジョンへ、ボクは君を歓迎するよ」
「はい、よろしくお願いいたします、上様。この藤乃、上様の手となり足となり、粉骨砕身働いてまいります」
そしてあたしは、かつて徳川斉昭に言ったことをそのまま上様に申し上げた。
けれど、そのことに抵抗感は一切なかった。きっと、上様の言葉に頷いた時に、あたしは身体だけでなく心までこちら側になってしまったんだろう。
そんなあたしに、上様の手が伸びる。そっと肩に置かれたそれに、なぜかあたしの身体はびくりとはねた。気を失う前に感じていたものが、ぞわりと全身を駆け巡った気がして。
「堅苦しいのはなしでいいよ。偉ぶるのは柄じゃないし、堅苦しいのも好きじゃないから。いいね?」
「はっ!……あ、いえ、えーっと、わかったわ」
「オーケイ。それじゃ藤乃ちゃん、君に早速仕事をあげよう」
「何なりと。ただ、その……あの……」
「? なんだい?」
「……成功したら、またあのぷよぷよを使いたいな……って……」
そう言ったあたしに、上様はとてもかわいそうなものを見るような目を向けてこられた。
ところがその瞬間、あたしは自分の身体が高ぶるのを感じて、嬉しくなってしまったの。
きっとあたしは、もう戻れない。あの短くて長かった時間で、あたしはすっかり身も心も堕とされてしまったみたい。
でもそれでいいの。後悔なんてしてないわ。
ああ……そんなことより、あのぷよぷよに全身を嬲られたい。それさえあるならあたし、他に何もいらないわ――。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
というわけで、藤乃視点の一連の出来事でした。
引き抜きです。あくまでも、引き抜き、ヘッドハンティングなのです(真顔