第百四話 四者四様
本日2回目の更新です。
――まだ、足りない。
それは内心でそうひとりごちた。
自我に目覚めてから数年経ち、近づく生き物を喰らってきたが……それでもなお、足りない。圧倒的に、足りないと。それは改めて思う。
だがそれも仕方がないことである。それが今いる場所は、山の中なのだ。人間どころか、獲物となり得る生き物がそもそも少ない。
これでそれが、自らの意思でもって動けるのであればよかったのだが、それは不可能であった。
それは、石なのである。正確には、石に宿っている。この状態では、とても動くことはできない。
それの魂を入れられる肉体を持つ動物が近くを通りかかってくれれば、すぐにでもそちらに乗り移るのに。そう思い続けて、もう数年が過ぎているのだ。
それだけの能力がありながら、この場から一歩も動けぬ己の不運をそれは嘆く。
しかし嘆いたところで、事態が変わるわけでもない。だからこそ、それは今日も退屈と戦いながら、射程範囲内に生物が入り込むのを待つ。
だがここ最近は、それもままならない。それなりの時間、ここで生き物を喰らい続けていたからか、ここいらを通りがかるものがとみに減ってきているのだ。
そうした学習能力の低い、虫やミミズと言った連中ならまだ豊富にいるが、それではまるで腹の足しにならない。かといって、他に糧となるものもないため、そういった雑魚すら無視できない。
そんな己の現状が、それには情けなくて仕方なかった。
かつての記憶は霞がかかり、ろくに残っていない。それでも、己がなにがしかの大事を成した大妖怪であることはわかっていたから。
なのに今は、ただ腐っているだけの日々。それが、歯がゆくて仕方がなかった。
『はあ。なにゆえ此方は石なのでしょう……。一体かつての此方に何があったのでありましょうや……』
などとひとりごちてみるが、当然それへの返答はない。春先の風に揺られて、周囲の木々がざわめくのみである。
そのさざめきの中で、ひとしきり愚痴をこぼし。
それからそれは、意識をその向こう側へ向ける。そこに、それをただじっと見ているものがいるのだ。
『……ああ。あの辺りに鳥が大勢見えるのに。術の範囲外とはまこと、口惜しや……』
ここ最近になって、そうした輩が増えたことはわかっている。どういう意図があるのかはそれにはわからなかったが、それでも己が監視されているのだろうということは理解できた。
無遠慮な視線の数々に当初は憤ったものだが、どれだけ憤慨しようと、今のそれの力では、到底そこまで手を伸ばせない。その距離を常に維持したところから、鳥たちはそれを見つめている。だからそれは、もう彼らをどうこうしようなどとは思っていなかった。
むしろ、純粋に彼らの意図を尋ねたかった。あれだけ統率された鳥たちは見たことがないし、何らかの大きな意思が介在していることは察しがついたからだ。
『はあ……彼らが羨ましい……』
何度目になるかもわからぬつぶやきを漏らして、それは少しだけ身体から魂を出す。
ずぷり、と水中から物体が出てきた時のような波紋が石に浮かび、そこに金色に輝く狐の顔が現れる。
ちらちらと、その状態で周りを見渡すが――。
『……つくづく、此方は不運ですね……』
めぼしいものは見つからず、それは再び身体へ……石へ、とぷんと沈み込んだ。
それ――九尾の一部、ひとかけらは、今日も動かない。
否、動けない――。
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――まだ、足りない。
彼、久坂玄瑞は内心でそうひとりごちた。
長州藩の医師見習いとして、その中に潜伏して早数年。その間に食べた(文字通りの意味である)人間はもはや数えきれないが、それでもなお足りぬ、飢えが満たされぬと彼は感じていた。
むしろここ最近、少しずつ力が回復してきたからこそ、余計飢餓感が彼の中で荒れ狂っているような気すらした。
しかし、ここで逸るわけにはいかないことも承知していた。
人間一人から得られる力は、多くない。だからこそ回復のためには多くを喰わねばならないが、そんなことを一気にやってしまっては、間違いなく足がつく。
人間は一人一人では弱いが、束になった時何をするかわからぬ恐ろしさも持っている。まして今は、不完全。それは玄瑞もよく理解していた。だからこそ彼は、彼自身迂遠と思える方法を取らざるを得ないのだ。
だと言うのに。
「ここに来て、突然家中の綱紀粛正とは……一体いかなる風の吹き回しじゃ?」
突如として、江戸在府中の藩主、毛利慶親を通じて幕命が届いたのはつい先日のことである。
その内容は、「家中の風紀を乱す化生の影あり。ゆめゆめ用心せよ」というものであった。
中身が中身だけに、それが知らされたのは家老などの一部の者だけだ。そしてその一部とて、突然降ってわいたその指示に混乱し、同時に嘲笑したものである。
だが、魅了の術によってその「一部」と密接な関係を持つ玄瑞には、笑うことなどできなかった。その指示の意図がはっきりとわかったからである。「化生の影」が、己を指しているのだと言うことが。
「何か気づかぬうちに失敗を犯していた……? 否、そのような隙を見せたことなど一度もないはず……」
決して断言はできないが、それでも彼は、己のやってきたことに瑕疵はないと思っていた。だからこそ特に妨害されることもなく、今や藩政に多少なりとも影響を与えられるだけのところまで登ってきている。
しかしここに来て、それを揺るがす事態が起きた以上は、計画の練り直しは必須であった。
「……我の成否はともかくとして、この我と比肩しうる者が幕府に潜んでいるということは、間違いないじゃろう。そうでなければ今回のこと、説明がつかぬ」
そう断言しながら、彼は東へ目を向ける。屋内であるがゆえに遠い関東など見えるはずもないが、それでも睨むようにして、彼はそちらを向いた。
「であれば、今少し慎重に動かねばなるまいの。くくっ、敵か味方かまだわからぬが……敵だと言うならば、相手になってやろうではないか」
どれほどの者が相手かはわからない。わからないが、もし己の前に立ちはだかるなら容赦はしない。
そう心中でひとりごちて、玄瑞は狐の様相を呈した顔をゆがめてくつくつと笑った。
「……じゃが、しばらくは大人しくしておくが吉かもしれんな。出来ることと言えば、種をまくくらいが関の山か……」
そうして彼は、思うのだ。まだ足りない、と。
だから彼――久坂玄瑞こと九尾の一部、ひとかけらは、今日は動かない。
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――まだ、足りない。
それは内心でそうひとりごちた。
天井からずらりとつりさげられた蓄え――餌をぐるりと一瞥しながら、それはつくづくそう思う。
餌は人畜の別なく、そこにはあらゆるものが平等につりさげられているが……ここにあるすべてを平らげたとしても、それが求める水準に達しないことは、それ自身が一番よくわかっていた。
石の中にいるという事実にある日不意に気づいて、早数年。その最初の時、偶然近場にいた蛇がなかなか具合のいい肉体だったことは、それにとって幸いであった。あれがいなかったら、こうしてあちらこちらを移動しながら餌を求めることは到底できなかっただろうから。
そして、何もせずただじっと……そう、まさに蛇が冬眠するかのように、ただじっとしていれば、わずかながら力が回復する体質だったのも、それにとっては幸いだったろう。
空気中に一切の魔力が存在しないにもかかわらず、どこからともなくやってくるその力がなければ、こうして亜空間を形成して閉じこもることもできなかったに違いない。
それでも、自由に動き回ることができないのは、不便だし気に食わない。それは何にも縛られることなくただ奔放に、己の思うがままに生きていたいだけだというのに。
「まっこと、世の中というものはままなりませんね……」
ちろちろと舌を動かしながら、それはため息をついた。
このままでは、万全と呼べる状態になるまでにどれだけかかるかわからない。だがこのままだと、この蛇身もいつまでもつかもわからない。
それの魂との適合率は高いほうだが、それでも数百年と使えるほどの逸材ではないのだ。おまけに、今蓄えている餌の中には、これを上回る器がないのだから始末が悪い。
だからこそ、それは遅かれ早かれ動かなければならない、と思っていた。ただ、そのふんぎりをつけることができないでいたのも、事実である。
なぜなら、それも他の欠片と同じく、束になった人間たちを決して甘く見てはいなかったから。
人知れず力を蓄えてきた今なら、小さい軍ならば飲めるだろう。だが、一定以上の敵となると、今のそれでは手に余る。
それは、己の力不足をそのように冷静に判断していた。
「あの天狗を逃したのは痛かったですね……」
だからこそ、あの時いかにも美味そうな天狗を取り逃したのは痛かった。
せっかく相手の狩りにかこつけて、最も他への注意が散漫になる仕留める直前を狙ったと言うのに。あれを喰らうことができていれば、このような寒い土地に留まることなく、とっくに南へ移っていただろうに。
そう思うと、ふつふつと怒りもわいてくる。だが、今はまだ焦る時ではないと言い聞かせ、それは近場につるされていた狼に手を伸ばした。
「……とにかく今は、雌伏の時です。寒さに弱いこの身が、無事に動き回れる時季が来るまでは……」
がぷり、とその狼に食らいつきながら、それはひとりごちる。
肉と魂、双方を取り込みながら、それは、九尾の一部、そのひとかけらは、今日も動かない。
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そして、残る最後の狐はというと。
「――見つけたぞえ」
そう言って、にぃ、っと笑った。
彼女は――動き出す。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
挿話にしようかと思ってたんですが、明らかに本編に大きく影響するのでナンバリング。
次回からいよいよ、九尾との戦いが始まり……ません。
話は動きつつあるけど、対決はもう少し後です……焦らして申し訳ない。