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双転生物語 降臨の章
作:北野 鉄露



降臨の章8


 一方、校舎の中。
「――何なのよ、あいつら! やったらしぶといじゃない!」
「じゃあ、あんた達何なのって、訊いてみたら?」
 廊下の壁を盾にして身を隠しながら、美菜が静かに言う。
 その傍で息を荒げている咲貴と公司。美菜とて落ち着いて見せてはいるが、内心の焦りを隠し切れそうになかった。
 教室を飛び出して恵の元へ向かおうとした矢先、不意をついて出現した幻魔衆によって七人は三組に分断された。
 一足先に教室を出た美菜、公司、そして咲貴。
 それに続いた来未と、追いついた隆幸組。
 もう一組は希香、霞美。
 この組み合わせがどうにも気になっているのは、美菜しかいなかった。あるいは、希香と霞美もそうであるかもしれない。
 彼らが幻魔衆なる不可思議な存在と戦わねばならなくなったのが数ヶ月前、一年生の時のことである。
 最初こそ戸惑ったものの、慣れるにつれて戦闘的に立ち向かっていくようになったのは、男子である公司や隆幸、そして負けず嫌いなところのある咲貴であった。彼らのように闘志など微塵も見せないながらも、いつも最後まで皆の身を気遣いつつその力をもって幻魔衆を退ける大きな役割を果たしてきたのは美菜だった。
 彼女に比べれば、公司や咲貴などは猪武者タイプであったかもしれない。隆幸だけは、常に冷静かつ的確に、襲い来る幻魔衆の群れを片っ端から葬り去るだけの力を備えていた。
 どっちでもなくいつも隆幸の尻にくっついている来未は置いておくとして、問題は、希香、霞美、そして恵であった。
 根が優しい性格の娘達なのである。
 相手が人間の形をしていることに大きな抵抗感があるらしく、公司や咲貴のように力を使えるにも関わらず、幻魔衆の放つ攻撃から身を守ることで精一杯になっていた。幻魔衆を討つ力のない恵に至っては、誰かが守ってやる以外になかった。
 そのことが、美菜の脳裏にある。
 あとの四人がどうなっているかは、離れ離れになっているから知れる筈もない。まさか、もっとも戦いの苦手な希香と霞美がペアで取り残されていようとは、夢に思っていなかった。
 さらに、恵のことが何より気にかかる。
 美菜は、教室の窓から恵の傍にいち早く駆けつけた転入生の姿を見ていた。どうやって一瞬で下りていったのか、それはいい。
 この不可解極まりない境涯におかれている以上、通常であり得ない現象など、幾らでも起こりうると彼女は思っていた。その点、転移という未見の力を目の当たりにして騒いでいた公司や咲貴とは違っていた。彼らの話題に乗らなかったのには、一つにそういうことがあった。そうした意味では、冷徹なようでもまだ美菜の方が想像力を豊富に有しているのかも知れなかった。
 が、会ったことも何もない一介の男子の力など、彼女はさらさら信用する気はなかった。自分が力のない妹を守らねばならないという使命感、あるいは自分だけがそれを成し得るという自負心が多分に彼女の胸中にあった。
 それを思い上がりと言ってやるのは、美菜にとって少し酷であるかも知れない。第一、公司や咲貴などは自分の目前の幻魔衆を討つことしか見えておらず、他の者に至っては全く論外である。
 ただ唯一、隆幸だけがわずかに彼女の心情を察しては恵、あるいは希香や霞美を助けることがあったに過ぎない。
 朝、隆幸の「恵が入学してくる」という言葉を聞いてふと思い馳せたのには、そうした事情があった。
 ただし、公司や咲貴、来未の今の動揺も、察して余りある。
 これまで、幻魔衆が襲い来るといっても、大して頻度があることではなかった。彼らが集まっている時などに限られたものであって、増していきなり授業中を襲われたことなど一度もなかった。何故幻魔衆がそうしていたのか、それは誰も質問などしないから、判る筈がなかったが。
 とにかく、前代未詳の事態が起こっているのは確かである。
 恵については、その力が宿っていることに気が付いたのは皆よりも遅く、ほんの二、三ヶ月前のことであった。ちょうど受験中ということも幸いだったのかも知れないが、一人で学校へ行くタイミングも減り、そこを襲われることも無く済んだ。
 それが、今日になって突然襲われたという。
 さっき廊下で会った時、彼女から話こそ聞けなかったが、どうもそういうことらしいと美菜は直感した。それゆえに外の、自分の目に届く場所に居ろと指示したのである。
 早く恵の許へ、と美菜は居たたまれない。
 このまま手間取っていては、恵がどうなるか判ったものではないし、想像したくもなかった。
 どういう訳が、今目の前にいる幻魔衆はこれまでのとは強さが桁違いになっていた。威圧程度に放った公司と咲貴の力を避けもせずに消し去ったばかりか、その何倍も強圧な力を放って彼らを少しづつ追い詰めつつある。美菜に公司、咲貴が揃っているにせよ、逃げ回らざるを得ない状況である。隆幸や希香、霞美達が駆けつけてこないところを見れば、彼らの方にも別な幻魔衆が立ちはだかっているのであろう。かつて対したことのない、強力な力を持つ幻魔衆が。
 こうなれば、恵を救いに行ける者など七人の中で誰もいないということではないか。
 焦りが、美菜を急き立てた。
「こんなんじゃ埒が開かない! ……公司君、せーので飛び出すわよ! 同時に撃って! 咲貴ちゃんはその後から!」
 口調が指示どころか、強制になっていた。
 が、普段の相手ならともかく、今目の前にいるのはかつてなく強力な幻魔衆である。その力をまかり間違ってもろにくらったならば、ただで済む筈が無い。
 そんな恐れが、まず咲貴に露骨に表れた。
「……美菜、あんた正気なの? あいつの撃った力、見たでしょ? あんなの受けてしまったら、死ぬよりないのよ? 今飛び出せなんて、馬鹿な事言わないで」
「だったら、何か、良い方法でもあるの? 恵もそうだし、希香ちゃんや霞美ちゃんが離れ離れなのよ? 早く行って加勢してあげなかったら、どうなるかわからないじゃない!」
 その事は咲貴も公司も、百も承知している。
 だが、かといって自分達が今飛び出す危険性の方が、彼女達の安否よりも正直重大であった。
 公司が、気のない調子で言った。
「つったってよ、さっき俺達が撃ったやつ、効かなかったんだぜ?もう一回撃ったところで、あいつが素直に消えてくれんのかよ?」
 彼ら一同の致命的な課題が、ここで出た。
 普段それなりに仲を保っているようでも、いざという時にはやはり、自分の身を呈して仲間を救うというような精神がまるでない。たかだか一高校生にそれを要求するのは無理かもしれなかったし、そこまで彼らを追い詰めるような事態は最初の頃を除いては起こっていなかった。
 が、美菜にしてみれば、それを今までやってきたつもりがあり、現に全員とは言わなくても、恵のことを守ってきたと、彼女自身は思っていた。
 要するに、今日に至るまで、この不可解な状況の中で、それぞればらばらに幻魔衆と戦ってきたようなものであった。何とかそれでも撃ち負かしてこられたが故に、彼らの中で大した危機感として発展することがなかったのである。
 それで済まない事態に、今まさに陥っている。
 美菜の苛立ちが、沸騰点に達しようとしていた。
「じゃあ、何? 一発撃って効かなかったら、後は逃げればいいの? それで誰かが私達を守ってくれるの? ここは私達の生命の内側なのよ? 自分でカタつける以外に、誰も守っちゃくれないのは判ってるでしょ? ……もっと言わせてもらえば」
とまで言いかけて、彼女はその後の言葉をぐっと飲み込んだ。
 自分だけ助かればそれでいいの? とは、さすがに口にすることができなかった。
 誰もが、自分の無事と、その課題のジレンマとの間にいる。
 意識の温度の差はあれ、仲間に危難が及び、最悪その生命を失ったとしてもいいと思っている訳では、決して無い。
 ただ、今までそのことに思い馳せなければならない機会が余りにも乏しすぎた。自分の力に任せてさえいれば、何とかあの不可解な存在を退けることができていたからである。
 彼らのような若者にとってこの課題は、その解決策を探させるには到底重すぎていた。誰だって、自分の生命は何よりも惜しい。
 そしてまた、美菜が妹を可愛がっていることは皆が知っている。
 その背後にある理由を、咲貴だけは承知していた。
 今美菜が力めば力んでしまう程、結果的には「どうして恵を助けようとしてくれないのか」という意味に受け取られかねなかった。自分の身の危険を呈して妹を救ってくれなどとは、どう考えても虫のいい要求ではないか。
 が、公司も咲貴も、思った通りに口に出す性格である。
 まして、この状況下で、精神が尋常ではなくなっている。
「あのさ、お前、リーダーになったつもりか? そこまで他人にぶつける前に、自分でやってみてからにしろってんだよ。そんなにあいつらの事が心配なら、勝手に行けよ。ここは俺と咲貴が残るから。……ほら、そっちの廊下空いてるぜ?」
 公司は面倒くさそうにあごでしゃくって見せた。
 彼らが身を隠しているのは、廊下の構造に従ってTの字で表現すると、上の横線の左側の方である。幻魔衆は縦線の部分にいる。
 彼らがいるその先は小さな教室があるだけで、袋小路のようなものである。要するに退く事ができない。
 その反対側はずっと廊下が続いていて、途中に階段がある。
 一瞬の危険を潜り抜けて飛び出していけば、何とかこの場から逃れられるかも知れない。公司はその事を言っている。
 が、咲貴はさすがにそうは言わなかった。
 幻魔衆は、常に神出鬼没である。
 美菜が一人になったところへ、さらに新手が現われてくればどうなるのか。しかも、廊下は一本で身の隠し場所もない。思考に余裕を失いながらも、そういうシュミレートだけはできた。
 ただ、美菜の言い方には腹を立てていたから、
「あたしも公司も、別に遊んでる訳じゃないわよ。希香ちゃんや恵ちゃんも危ないのは判る。あんた一人だけが心配してるんじゃないのよ。それを――」
「だから! 今私達がすべきことはこれだって、言ったんじゃない! 私だけが心配してるとか二人なら怪我してもいいとか、そんなこと一言だって言ったかしら? ねぇ?」
「……でも、お前、逆上せてるぜ。焦ってるようにしか見えねェもの。そんな奴に指示されたって……」
「……そう。じゃ、いいわ」
 これ以上、何を言っても無駄だと思った。
 廊下の向こう側にいる幻魔衆にも、この諍いが届いたらしく、男が可笑しそうに笑う声が陰々と響いた。
「ハッハッハ……これはいい。双転の化身と秘転の化身が仲間割れとはな。面白いものを見させてもらったぞ。……わざわざ我々が出向いてきた甲斐があったというものだ」 
「だあっ、あいつ、笑ってやがる」
 公司が舌打ちした。
 美菜は黙って壁のぎりぎりまで身を寄せて、機会を窺っている。
 男はふと、違う方向を向いた。気配が気になるらしい。
「……ふむ、あやつら、やられたか。双転の化身の片割れめ、やってくれる。この薄異空も余り保たないようだ。こちらをとっとと始末する必要がありそうだ」
 独り言を言っている。
「何言ってんだ? あいつ」
 公司がそっと覗き込むようにした。
 その肩を背後から抑える咲貴。
「迂闊に顔なんか出さないで! 首が飛ぶわよ!」
 二人のやり取りは、美菜の耳には入らなかった。
 幻魔衆の注意は別に向けられている。
 今がチャンスだと思った瞬間、反射的に飛び出していた。
 そして七人の中でもっとも威力の大きな美菜の力が発動されるのかと思われたが――案に相違した。
 飛び出した美菜の目の前に、何と男はいた。
 驚いたのは美菜であったろう。
 突然視界が遮られ、ふと見上げた先で、幻魔衆の男がにやりと笑っていた。意外すぎる近さであった。
 男はすかさず、力を放つべく向けられていた美菜の腕をがしりと掴むと、そのまま片腕だけで彼女を吊り上げた。近くで見れば、男は廊下の天井すれすれになる程の背丈があった。
「ああっ!」
 美菜の悲鳴がこだまする。
 幻魔衆の大きな手は、彼女のよりによって腕の関節を砕けんばかりに握っていたのである。身体の華奢な美菜には、たまったものではなかった。
 苦痛に顔をしかめながら、美菜は幻魔衆を一瞥した。
 笑っていた。
 口元だけで、冷たく。
 かつ、フードの奥で、とても人間のそれではない、何か獣のような瞳が、鈍く光っていた。
 美菜は、怖気がたった。
「ちょっと、美菜!」
「……この野郎!」
 こうなると、怯えも何もあったものではなかった。
 何も考えず、公司と咲貴が一斉に飛び掛ろうとした刹那。
 男の右手から薄緑色の光が洩れ、それはすぐさま直線状に変化して二人目掛けて宙を走った。
 かわせる距離ではない。
 光状のものは公司の右肩、そして咲貴の左脇腹に直撃した。
 貫きこそしなかったが、光はそのまま二人を信じられない程の凄まじい力で跳ね飛ばした。
「きゃあっ!」
「がっ!」
 公司と咲貴は、奥の教室のドアにもろに叩きつけられた。
 スライド式のドアは勢いを支えきれず、内側に勢いよく倒れ、バーンという音が響いた。
 当然、二人の身体は教室の中まで吹っ飛んでいる。
 ドシャ、ガシャンという、机やら椅子やらが乱雑する音が少しの間聞こえ、やがて静まった。
 が、静まったままである。
 公司と咲貴が跳ね起きて教室から出てくる気配はなかった。
「……咲貴……ちゃん? ……公司君?」
 思わずそちらを振り向こうとしたが、宙吊りにされていては思うように身動きができない。
 美菜にはなお、二人を案ずる余裕がわずかにあった。
 が、男はそんな美菜の思念をあざ笑うかのように、
「まだ殺してはいない。雑魚はあとから始末する」
 言って、彼女の顔に右手の甲を近づけた。
 その五本の指が、美菜の目の前でみるみる形を変え、瞬く間に七十センチはあろうかという鋭い爪状の凶器と化した。
 見るからに、触れるだけで切れそうである。
 美菜の顔から、血の気が失せた。
「……まずは早々とお前を殺す。双転の化身」
 男がぐっと右手を引いた。
 美菜の鼻先に、その鋭利な凶器の先端が、ごく触れんばかりの近さで突きつけられている。
 殺されることとは、こんなにあっさりしたものかと、美菜は心のどこかで思った。


 教室の二つや三つは、滅茶苦茶になったであろうか。
 しきりと迫ってくる幻魔衆の追撃を、希香と霞美は必死でかわしつつ、逃げ続けていた。
できれば、逃げるつもりはなかった。
 が、やっとの思いで放った霞美の力を、幻魔衆の男は容易く防いで見せた。霞美特有のクリアブルーの光が敢え無く蹴散らされた瞬間、二人は戦う意志を失った。
 背後から連続で放たれる幻魔衆の攻撃をかわすため、二人は途中で左右の教室に飛び込んだ。
 当然、授業の最中に見知らぬ生徒が乱入してくれば、教師や生徒が騒ぐ筈だが、その教室はまるで、全ての人間が蒸発してしまったかのように、誰の姿もなかった。
 この教室だけではない。
 学校全体、どこに行こうと、彼ら七人、それに恵と涼輔以外の人間の存在はないのである。
 あるいは、学校を離れて街へ行っても、そうかも知れなかった。
 が、逃げ続けている二人は、その理由やら理屈やらは何も認知していない。ただ、幻魔衆が姿を見せている間は他の人間は消え失せ、そして物理的な建設、移動、破壊、その他発生した諸々の事象についても、幻魔衆を撃ち倒して空間が元の世界に返れば、また何事もない状態に回復しているという、その結果のみを知っているに過ぎなかった。
 この理由を彼女らが知るには、さらに時間が進まねばならないが、今はとにかくそれどころの騒ぎではない。
 教室に入ると、最初二人は大急ぎで机を入り口に積み上げ、バリケードを築いた。これで少しは接触を防げるものと思ったのである。
 が、そのバリケードを力ずくで排除することも無くいつの間にか幻魔衆は二人のいる教室に侵入してきていた。神出鬼没であるだけに、物理的な障害は問題にならないということまで、推測している余裕がないのである。
 希香が慌てて入り口をこじ開け、霞美が椅子やら机をどんどん幻魔衆目掛けて投げまくる。
入り口が開くや、一目散で廊下へ駆け出す――というようなことを、彼女達は続けていた。無論、二度目からはバリケードなど築かず、二人掛りで片っ端から椅子や机を放り投げるという作戦に変更されてはいたが。
 このあたり、美菜が心配した程霞美も希香も大人しくはなかった。むしろ、二人共穏やかなだけに互いに呼吸が合い、また揃って優等生という要素もあるのかどうか、必死ながらも知恵を働かせるという作業を忘れなかった。
 幻魔衆の放つあの力は、物理的な障害に遮断される、という点に目をつけていたからこそ、一目散に逃げたりせず教室に駆け込んでは足止めを食らわせていたのである。彼女らが駆け込んだ教室はどれも、大喧嘩が演じられた後のように散乱し、見るも無残な状態にしてしまってはいたが。
 が、それも効を奏さなくなる時がきた。
 教室が左右に無い、旧棟から新棟への渡り廊下に差し掛かってしまったのである。
 しかも、二人は致命的な勘違いを起こしていた。
「あ、希香ちゃん、あいつ、来てるかしら?」 
 長距離の障害物走を続けてきた霞美は、息が切れている。
 希香も、大分呼吸が苦しくなっていた。
「大分離したと思いますけど……。このまま、美菜さんか誰かと合流しましょう。みんな、下の階に向かった筈ですよ」
 そうであろう。
 そもそも、恵が校庭で襲われるのを目撃して、一斉に教室を飛び出しているのである。黙っていれば、恵の許へ駆けつけるつもりだという推測は、誰にでもつくことであった。
「わかった。じゃあ、新棟のそこの階段から下りよう」
「はい!」
 打ち合わせつつ渡り廊下を一気に駆け抜けようとした、その時であった。
「……甘いなぁ、甘い。あんな事でこの俺から逃れられると、本気で思ったのか?」
 薄暗い廊下の先で突然、ほんのり白く光が生じた。
 そして、まるでCGでも使ったように人影がうっすらと現われ、それは瞬く間に実体化した。
「まさか? そんなぁ!」
 行く手に、幻魔衆が先回りしたのである。
 戦う意志の持てない二人は、もと来た方向へ引き返すしかない。
「霞美さん! こっちです!」
 疲れ果てて呆然となりかかっている霞美を引っ張って、希香は逆向きに走り出した。
 背後に大きな光の気配がある。
 霞美ははっとして、このまま走り続けることの危険さを思った。
「希香ちゃん、伏せて!」
 叫ぶや、霞美はほぼ無理やり希香を背中から突き倒した。
 自分も、覆い被さるようにしてその後に転んだ。
 直後、二人の上を、鈍いうなりを上げながら光の球のようなものが、目にも留まらぬ速さで通り過ぎた。
 そのまま、突き当たりの壁に衝突し、キィン、という音を立てて火花と共に四散した。
 当たればどうなるだろうなどと、考えている余裕はない。
 すぐさま霞美は立ち上がると、希香を助け起こしてまた走り出した。
 廊下がやたらと長く感じる。
 T字の突き当たりのところで左側へ慌てて曲がった途端、またも背後で光が弾け飛ぶ音がした。ほぼ、間一髪というところであったろう。
 両側に教室やら教材室が並んでいる。
 が、もはやそういう小細工が効かないことを、二人は思い知らされたばかりである。
 やや、霞美が先行気味で走っている。
 もう心臓が破れんばかりに苦しくなっていたのだが、呼吸を整えている余裕などなかった。立ち止まれば、背後から撃たれてそれまでなのだ。
 少し先に、階段がある。
 もうちょいだわ、霞美がちらりと思った途端であった。
「あっ!」
 希香が転んだ。
「……希香ちゃん?」
 霞美が急いで駆け寄っていく。
 手を取って起こそうとすると、希香は顔をしかめた。
「痛たたた……」
 転んだ時に、足首を挫いてしまったらしい。
 何とか立ち上がったものの、脚を引きずっている希香は当然走ることができないでいる。霞美は焦ったものの、痛がっている希香を急かす訳にもいかない。途方に暮れる思いだった。
 希香の脚は、相当痛むらしい。
 それでも壁に支えかかりながら、
「霞美さん、先に、走ってください。このままじゃ、二人共やられてしまいます」
と、気丈なことを言った。
 絶えず恐怖に支配されながらも、霞美としては、はいそうですかという真似などできる訳がない。動けない希香を一人置いていったらならば、その後どうなるか、判り切った話である。
「あ、希香ちゃん残してなんて行けないよ! 幻魔衆はもうすぐそこに居るんだから!」
 彼女はちらと廊下の先に目をやって
「階段はすぐそこよ。痛いと思うけど、もうちょいだけ我慢してよね? ね?」
 霞美も必死である。
 何とか二人が助かる事を第一に考えている。
 そんな思いは、希香にも伝わってきた。
 これ以上、先に行ってくれとは言えなかった。言ったところで、霞美は梃子でも行かないに違いない。
「……はい!」
 精一杯のテンションで返事をして、希香は前に進もうとした。
「……!」
 やっぱり、痛い。
 霞美が、脇から腕を取って支えるようにした。
 その時――廊下の前方でバタバタと慌ただしい足音がした。
「――おい、大丈夫か?」
 階段とおぼしき場所から人影が二つ吐き出された。
 見れば、なんと隆幸と来未であった。
「来未ちゃん!」
 途端に、霞美は迷子が母親に巡り会ったように、今にも泣き出さんばかりの表情になった。
 ふと張り詰めた気が抜けてしまったのか、希香がふらふらと床に座り込んでしまった。
 駆け寄ってくる隆幸と来未。
「二人共無事で良かった! 気付いたら、いないんだもの」 
 来未が叫んだ。彼女は彼女で心配していたらしい。
「来未ちゃん達は大丈夫だったの?」
「そりゃあもう。富野君がいますから、ね」
 来未は得意そうに片目を瞑って見せた。
 隆幸がふと、希香の異変に気が付いた。
「……風科君? 足をやられたのか?」
 隆幸は、女の子にも君づけをして呼ぶ癖がある。
 痛みをこらえながら、希香は無理に笑顔をつくって顔を上げた。
「……いえ、転んでしまったんです。その時に……」
「大変、早く手当てしないと!」来未が言った。
「それよりも……幻魔衆が……」
「幻魔衆? 何よそれ? 近くに居るの?」
 直感があったらしい隆幸が、何も聞かずに希香らの来た方に向いて立ちはだかった。彼の性格が冷静であるためなのかどうか、隆幸は感覚で幻魔衆の存在を探り当てるということができた。
 もっとも、「近い」という程度でしかなかったが。
「……いる」
 彼が低く呟いた。
 息を呑む他の三人。
 広く、薄暗い廊下に四人の呼吸だけが響いている。
 前後を交互に確認する来未。
 廊下にぺたりと座り込んで動けなくなってしまった希香と、その傍に屈んで彼女を気遣っている霞美。
 そして、一人廊下の真ん中に立って、幻魔衆の気配を窺っている隆幸。
 ふと、霞美は彼の足元に、何かが滴っているのに気付いた。
 よく見ると、血であった。
 隆幸の右手から、ポタポタと一滴一滴、それ程大量の出血というようなものではなさそうであったが、ともかくも怪我をしていることに違いは無かった。
「と、富野君? それ、血……」
 霞美の言葉に、来未も希香もはっとそちらを見た。
 ずっと一緒にいた筈の来未も気が付かなかったらしい。
「やだ、富野君、それ……さっき、幻魔衆の――」
「……いや、今はいい。大した傷じゃない」
 彼はそれきりまた、辺りの警戒に集中している。
 が、三人にとっては衝撃であったと言ってよい。
 これまで、血が流されたことなど、一度もなかったからである。
 巨大な威圧となって襲い来る幻魔衆の力は、彼らの身体を容赦なく弾き飛ばす威力を持っていることを、経験上皆承知していた。が、触れたものを切り裂くという効果は、未知の事象に属していた。それが、今、隆幸の傷によって現実に起こった事を知った。
 三人は戦慄した。
 霞美は、ついさっきまで辛うじてかわしていたあの幻魔衆の力が、そういうものであったら……と想像して怖気がたった。
 そして、隆幸が突如鋭く振り返った。
「こっちか?」
「……へ?」
 三人がつられて、隆幸と来未が来た方向を見た。
 全く、唐突であった。
 廊下をすっぽり埋め尽くすほどの巨大な光の球が、四人に向かって走ってきていた。
 速い。しかも、彼等は不意を突かれている。
 かわす間もなく、四人の身体は光に呑まれた。
「きゃああ!」
「うわっ!」
 小さな風洞実験室の中でで強風を送られたようなものである。
 得体の知れないプレッシャーが四人を押し倒し、そのまま身体をさらって廊下の向こうへと勢いよく跳ね飛ばした。
 立っていた来未と隆幸はもちろん、低い姿勢でいた希香と霞美ですらも、容赦なくその圧を受けた。
 身体が断続的に、壁や床に叩きつけられる。
 光はしばらく長い廊下を走り、反対側の、希香と霞美が逃げ込んでいたあたりまで進んで、ようやく消滅した。
 数十メートルはあろうか。
 その距離を、四人は吹っ飛ばされたことになる。
 あちこちをしたたかに打ちつけられ、転がされた挙げ句、やっとのことで四人は圧力から解放された。
「……う……」
 半分意識が飛びつつ、何とか隆幸は上体を起こした。
 少し頭がはっきりしてくると、全身の痛みが伝わってきた。
 どこをどう打ったのか、全く定かでない。ただ、背中と脇腹がひときわ激しく痛んでいる。
「……畜生」
 はっとして彼は辺りを見回した。
 少し前の方で、希香が仰向けに倒れて動かない。
 後ろを振り返ると、やはり来未と霞美があちらとこちらに倒れていた。皆、気を失っているのか、起き上がろうとしない。
 三人とも激しく吹っ飛ばされ、あられもない格好、姿になっていた。
 が、隆幸には何の感慨もない。
 頭が真っ白なのである。
 ただ、生まれたての子牛のごとく、本能的に立ち上がろうとした。無意識に、幻魔衆が近くにいるということに固執していた。
「……やれやれ、秘転の化身の力とはどんなものかと思ったが。こんなにもあっけないとはなぁ」
 近くで、声がした。
 見れば、もうすぐそこに、白いローブの男が立っている。
 男は、足元に倒れている希香に一瞥をくれると、彼女の身体を踏みつけた。
「逃げ回ってばかりで手を焼かせおって、この小娘が……八つ裂きにして命魔衆へ手土産にでもしてやろうか」
 そのまま、足を上げて何度か希香を足蹴にした。
(……女の子に……何て真似を!)
 幻魔衆の行為を目にした瞬間、隆幸は全身の痛みも忘れて激怒した。そうした汚れた行為が、断じて許せない気質の男であった。
「……この野郎! いい加減にしやがれ!」
 怒りの咆哮が、廊下中に轟いた。 
 目が憎しみを帯びて、幻魔衆の男を捉えている。
「……ハッ」
 男は鼻で笑うと、すっと右手を隆幸に差し向けた。
 平たい光が一直線に飛び、彼の腹部を貫いた。
 一瞬置いて、廊下に軽く血飛沫が舞った。
「……?」
 全身から力が抜け、がっくりと膝をつく隆幸。
 みるみる制服が濡れていくのが判った。
ややあって、光が貫いていった辺りに激痛を感じ、彼は前のめりに倒れて転がった。
「……弱い存在の分際で、黙って死ねばよいものを」
 男の呟きは、果たして隆幸の耳に入ったかどうか。
 次第に意識が遠くなり始めた。
 頭がこの期に及んでも幻魔衆へ立ち向かおうとしているのだが、もはや身体中が彼の制御を離れてしまっている。
 動かない。
(畜生……)
 幻魔衆の男は、もはや彼に関心を示さなかった。
「……さて、一人づつ息の根を止めるか。もたもたしていては、双転の化身をあやつらに先に殺されてしまうからな」
 言いながら、白い左腕で希香の咽喉首を掴むと、ぐっと彼女の身体を持ち上げた。
 意識を失ってはいるが苦しいという感覚があるらしく、彼女の顔が歪んだ。
「うう……」
 男は、右手を希香の胸の辺りに当てた。そのまま、何かしらの力をもって、彼女の胸を貫くつもりであるらしかった。
 が、全く予期せぬことが起こった。
 不意に、男は何者かに左腕を掴まれた。
「!?」
 間髪は、なかった。
 目の前に眩むような閃光が溢れ、何が起こったのかを把握する間も与えられず、男は白い光に呑まれて一瞬で消滅した。全身が細かな光となって分解されていくことすら、判らぬままであった。
 そのほんの僅かな間の出来事を、隆幸はじめ、気を失っている三人の少女達の誰も知れる筈がなかった。
 後で、手当のために駆け付けてきてくれた恵の証言によって、驚くべき事実を知ることになるのである。







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