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双転生物語 降臨の章
作:北野 鉄露



降臨の章4


 恋泉恵は学校の地下一階ですっかり弱っていた。
 広い。中学校とは規模が全く違う。
 今日晴れて入学の彼女は、別にこんな時間に登校している必要はなかった。入学式は十三時半からである。
 数日前に購入した高校の教科書を見て、愕然としたのである。
 中学で学んでいた内容よりもはるかに複雑で、極めて勤勉で成績の良かった彼女でも、ほとんど理解することができなかった。
 しかも、入学前に、予め自習しておくようにと各科目に範囲が設定され、その通知がきていた。彼女は進学クラスに入ったため、そういう課題が出されたものらしい。
「へぇ、大変なのね。あたしの時にはそんな課題、なかったのよ」
 通常のクラスで入学した姉の美菜はおかしがったが、恵にしてみれば、これは一大事である。早めに学習に取り掛かることを思った。
 そのことを姉に言うと、
「じゃ、入学式の日からあたし達も授業だから、学校に入れるわよ。早く行って、図書室で参考書とか探してくればいいのよ。うちの学校、蔵書はすっごく充実してるし、辞典とか参考書の類はいつでもみることができるの」
「でも、私じゃまだ、借りることできないよね?」
「そうね。じゃ、借りたい参考書とかあったら、抜き出しておくの。あたしがそれを昼に、あたしの名前で借りればいいから。で、お昼はあたし達と一緒に食べよ。ね?」
 と、言ってくれた。
 それで今朝、美菜と一緒に公司や咲貴よりも早く学校にやってきたのだった。真面目過ぎる程に真面目だが、こうしたひたむきさは咲貴や来未、希香にも愛され、中学生の時から姉ともども彼女らと行動することが多くなっていた。美菜が一緒に昼食を摂ろうと言ったのはそのことが背景にある。
 蔵書を日光焼けから守るという理由で、図書室や蔵書庫は地下に設けられている。
 恵にとって、初めて入る高校の地下は想像以上に広かった。
 一時間目の真っ最中だから他に人の気配はなく、薄暗く静まり返っている。蔵書ばかりでなく様々授業で使われる教材、あるいは資料なんかもしまわれているだけあって、幾つもの倉庫が廊下の左右に並んでいた。
 その上。迷路のように廊下が分岐しており、姉に教わった道筋などはとうの昔に忘れていた。暗くもあって、どれが何やら全くわかったものではない。元々何かの付属研究機関だった跡が高校に改築されたとかで、その名残があるらしいということだけは、彼女は誰かから聞かされた記憶があった。
 照明を点けたいところだが、勝手にやってきている手前、何だかそれが憚られるような気がした。
 気味が悪い。
 夜に一人で居残りをしていて幽霊に遭ったという怪談なんかをつい思い出し、恵は怖気がたった。姉や咲貴は、こんなところに一人でも来るのだろうか。
(戻って、休み時間にお姉ちゃんにもう一度聞いてからにした方がいいかな……)
 誰か教師にでも見つけられて咎められたりはしないだろうかという、現実的な恐れもあるにはあった。
 そうしてすぐ、恵の胸中、ついに向学心よりも恐怖が打ち勝ってしまった。
(……戻ろう)
 そう決めると、くるりと反転して一目散に駆け出した。
 沢山の教材室の窓から、誰かに覗かれているような気がしてならない。それは勝手な想像の世界ではあったが、とにかく恵はここから早く出なくてはいけない気がした。 
 一階へ上がる階段は一箇所。というより、彼女はそこしか知らない。
 何も考えずに廊下を駆け抜け、勢いよく十字路を左へ曲がった瞬間であった。
 突如背後で起こった、凄まじい光。
 それはただの光ではなく、鈍いうなりを上げながら、渦を巻いて恵に向かって突き進んでいく。光というよりも、あたかもネオン管のようにその部分だけがじんわりと暗闇に浮かび上がり、明らかに悪意そのものをもって恵を狙っていた。
(……!)
 はっと気が付いた瞬間、恵は反射的に転んだ。
 彼女が今いた空間を、光は切り裂きながら直進していく。
 光は急に大きく軌道を乱すと、廊下の壁に激しくこすれた。
 キキキキッと耳障りな音と共に白い火花のようなものを散らしたあたり、まるで光というよりも実体のある光り物、という方が正確かも知れなかった。まともに当たっていたら、体を貫かれていたであろう。
 そのまま、光はすうっと溶けるようにして消えた。 
 恵は咄嗟に転んで避けたものの、床に体をぶつけた衝撃ですぐに起き上がることができない。放り出した鞄の中身がぶちまけられているのが目に入った。
 再び暗くなった背後に、気配がある。
 それはコツコツとゆっくり足音を立てながら、こちらに近づいてきていた。
「……クックック……」
 小さく笑っている。
 恵は、背後の正体が何者なのかを悟った。
 途端に、背筋に冷たいものが流れた。自分の置かれた状況を理解したからである。
「……こういう所には、せめて奴らと一緒に来るんだったなぁ。お前一人では何もできないんだろう? クックック……」
 低い声で笑っている。
 恵は転んだ姿勢のまま振り返った。
 一人の男が、灰色とも何色ともつかないローブのようなものを頭からすっぽりと被り、右腕をさし上げてこちらに向けている。
 顔の上半分こそ見えないが、僅かに覘いた口がうっすらと笑っている。冷酷そのものであった。
 逃れようと必死で身体を前へ前へずらす恵。
 が、恐怖で全身が凍りついたように動かなかった。
(こんなときに現われるなんて……)
 頭の隅に姉の顔がちらりと浮かんだが、すぐに消えた。
 神でも仏でもない姉が、自分の窮状を察して駆けつけてくれる筈がなかった。
 男の右手の平から、淡く白い光が漏れ始めた。光は次第に大きくなり、やがて手全体が眩さで見えなくなった。
(やられる!)
 恵は恐怖に慄いた表情でそれを見た。見たところで、彼女に何ができる訳でもなかった。
 男は何の宣告もなく、いきなり大きくなった光の玉を、恵目掛けて放った。
 目の前に大きく白いものがみるみる迫り――彼女の脳裏には何もなかった。ただ、邪な光が彼女の全身を捉える、その瞬間を待つだけだった。
 だが、その刹那。
 彼女の視界は黒い影に遮断された。
 間髪を措かず、予期せぬ何者かの腕にしっかりと、彼女は上半身を抱き起こされていた。
 力の入らない恵の身体が、大きく仰け反る。
 そのまま何者かが彼女を庇うように光の前に割って入ったと思われたのと、ほぼ同時であった。
 キキキキと耳をつんざく金切り音と、目が潰れんばかりの閃光。
 まるで放電でも起こっているかのように、無人の廊下を白い光が断続的に照らし出す。
 恵は、何かが足元で激しく連続でフラッシュする、ただそれだけを感じていた。他に、彼女には一切何もわからなかった。
 ほんの二、三秒ほどであったろうか。
 光が消滅して、あたりがまた薄暗い状態の廊下に戻った。
(……?)
 ぼんやりとした彼女の視界に入ってきたのは、一人の少年の姿であった。
 見上げると、思わぬ近さに彼の顔があった。
 やたらと前髪が長く、顔の上半分が隠れていてよくわからない。前を留めていない学生服の下に着ているTシャツの白さだけが、無性に恵の網膜に残った。
 その彼の左腕ががっしりと、明らかに救いの意思をもって彼女の左肩を抱いている。
 空いた右腕が、ローブの男に向けて突き出され――そして恵はかすかに理解した。
 この少年が自分と男との間に入り、あの殺意そのものの光を受け止めてくれたのである。
 しかし、あのほんの僅かな間に、どうやって?
「……あ、あの」
 何か言いかけようとしたが、心臓が激しく波打っていて、言葉が後から出てこない。
 一言も発さず、少年は無言で男の方を見ている。
 男はじっと少年をみていたが、やがて
「……貴様か。双転の化身」
とうめいた。
 少年は恵から手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
 恵からは見えなかったが、彼に表情はない。まるで、恵を救ったことも、眼前に危険な男がいることも、全く意に介していないようであった。
「……あァ、そうだ」
 短く、少年は言葉を発した。
 やおら首を左右にひねった。ゴキゴキと骨の鳴る音がした。
 波立ちのない静かな闘気が、恵にも伝わってくる。彼は男を見据え、一言付け加えた。
「お前らのお尋ねモンさ」


「このように、二大雄藩が同盟を結ぶことによって、不可能と思われた倒幕が一挙に進むことになったのです。この同盟は――」
 一時間目の授業が始まっている。
 新学期早々最初の授業は日本史であった。
 まるで講釈のように綿々と進められる解説は、生徒達にとっては子守唄でしかない。しかも、春のうららかな日差しが容赦なく差し込んでくる。
 早くも、公司は撃沈寸前であった。
 さすがに授業中の居眠りなんぞはやかましく注意されるので、堂々とやる馬鹿はない。
 が、この眠ってくれといわんばかりの状況で、一体どうしろというのか。公司は自分でつねったりこっそりミントのタブレットを口に入れたりしたが、本当に眠い時というのは、何を試みようと到底抑えきれるものではない。
 隣でも、さすがに咲貴が生あくびをかみ殺している。前の座席で来未がぴくりとも動かない。授業を聞いている振りをして居眠りを始めたのだろう。来未は聞いている振りをして居眠りするのが実に上手い。堂に入っている。
 公司は、いよいよ視界が半分になりかけた。
(……いかん、マジで落ちそうだ)
 どうしようもなくなりつつ、ふと左隣に目をやった。
 そこには、例の不思議な転入生がいる筈であった。
(……?)
 いない。
 広げられたままの教科書とノートが机の上にある。椅子が座っていた時の状態で、少し斜めを向いていた。
 つい数分前、ぼんやりと外を眺めているのを、公司は目撃したばかりであった。
 訳がわからない。
 彼の眠気は一気に消し飛んだ。
「……おい、咲貴」
 隣の咲貴をシャープペンの後ろで小突くと、咲貴ははっとしたようにこちらを見た。眠ってしまう直前だったらしい。
「何?」
「ほれ」
 公司はあごで左隣をしゃくって見せた。
「まあ」
 瞬時に目が覚めたような顔の咲貴。
「もうフケたの? あのコ」
 とんちんかんな彼女の反応に、思わず椅子から落ちそうになるのを、公司はこらえた。
 咲貴にいたっては、公司よりもなお集中力を失っていたらしい。
 説明しようかと思ったが、私語をして教師にとやかく言われるのはかなわない。彼はただ頷いて見せた。
 彼らは一番後方の座席に座っている。転入生が席を立って教室を出て行こうとするものならば、当然二人は気がつかなければならない。後ろの壁までは人一人余裕で通れるスペースはない。
 だからどうやって抜け出たんだ、と公司はそこを言いたい。
 残念ながら、咲貴はそこまで気が付いていなかった。
 呆れたように無人の座席を一瞥し、咲貴は前を向いた。
(前に希香ちゃんがいるから、気付かれなかったのねぇ)
 希香は彼らと違い、しゃんとして細かくノートをとっている。いわば転入生の座った位置は教師からは死角で、そのために席替えの度にそこを狙う者も多い。
 咲貴も決して真面目な方ではないと自分で思っているが、かといって授業中に堂々と教室を抜けるような真似などしたためしがない。
 しかも、転入したその日にやるとは。
(……いい度胸してるわね。どうぜどっかの学校で素行不良で追い出されたんでしょ)
 勝手な想像が、彼の印象を次第に悪くしていく。
 その時、左隣でガタン、と椅子の音がした。
「……!」
 咲貴も公司も、目を疑った。
 いた。
 いなかった筈の転入生が。
 見えているかどうかわからない前髪の下から黒板を見て、こつこつとノートを写している。
 二人は、思わず顔を見合わせた。
「……今、いなかった……よね?」
「……ああ。いなかった」
 小声だから、転入生に二人の驚きは伝わらない。
 もう一度、二人は揃って彼の方を見た。
 そんなことをやっているのが教師に見えてしまったようで、余計なことをやっていると不審に思われたらしい。
「そこの二人、どうかしたの?」
 鋭く注意がとんだ。
「すんません! 何でもないです」
 慌てて応える公司。
 すると、居眠りしていた筈の来未が振り返ってにやりと笑った。
「……何やってんのよ? お二人さん」







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