双転生物語 降臨の章(23/23)PDFで表示縦書き表示RDF


双転生物語 降臨の章
作:北野 鉄露



降臨の章23


 美菜のそれをも包括した涼輔の命術の威力は、文句なしに強大だった。
 ゴゥン、という大爆発、そして純粋な生命力が放つ白い閃き。
 簿異空自体が激震している。いうなれば、すっぽりとガードされた密室にいるにも近いから、中で大きな衝撃があれば、そういう現象もあり得るのである。
 光は視界を奪い去り、廊下の先で何がどうなっているかは、二人の位置から確認することはできない。ただ、いつまでも閃光の嵐は収まらなかった。
「……」
 美菜がくらりと膝をついた。
 あまりの揺れに立っていられなかったというのもさることながら、持てる限りの意識と生命力と、そして――勇気を振り絞った彼女は、もはや体力も限界にきていた。身体にダメージを受けてもいる。
 眩い光を断続的に浴びながら、気が遠くなりかけるのを、必死にこらえていた。
 ふと、隣に目をやると、涼輔もまたこらえきれないように、しゃがみこんでいた。
 立ち上がろうと壁に手をかけるものの、身体に力が入らないらしい。立ち上がれずに、背中で大きく呼吸をしていた。
「あ、浅香、君……?」
「……あ、ああ、問題ない。ちょっとだけ――」
 美菜の方を向いて、弱々しく笑って見せた。「……疲れたな。はは」
 そんな涼輔の姿を注視しているうち、美菜は目の前が涙でぼやけてきた。
 どこまで強がるのだろう。いや、強いのだろう。自分でもよく理由がわからなかったが、胸の奥がきゅっと締められるような切なさが込み上げてきて、始末に負えなくなった。
 そっぽを向いて、そっと目頭を拭う美菜。
「……馬鹿。そんなぼろぼろの姿で、笑ったりなんか、しないで」
「ああ、悪ぃ。ちょっと、軽率だったかな」
 しかし、涼輔はもう一度笑顔になった。今度は力強く、自信に満ちていた。 
「でも、正直なトコ、俺は嬉しい気がする。ああだこうだ言いながら、一緒に戦える人達がいて、んで――」彼は間をおいた。「……俺自身が、誰かを守ったりできて」
 ふと、その表情が曇ったのを、美菜は見た。
 何かあったのだろうか? と、その変化を怪訝に思いつつ彼女は
「誰かを守ったりできて、って、それは――」
 問いかけた途端である。
 周囲の白さが、まるで掃除機に吸われていくかのように廊下の先へと集約され、一瞬のうちに辺りは簿異空の薄暗さを取り戻していた。
 はっとしたようにそちらの方へ視線を走らせる美菜。
 涼輔も表情を険しくして、口を真一文字に閉じている。
 闇の向こう側で、うっすらと灰色に濁った光が点り、そこにゆったりと人影が現れた。ちょうど逆光になったようで、影は黒く、その正体が全く現認できない。
「……まだ、いるの? あいつ」
 うんざりしたように、美菜が言った。
「だな。……だけど、あいつだけじゃないようだ」
 目が慣れてきている涼輔。中央のそれ以外にも、周囲に幾つもの人影が現れてきているのがわかる。
 それらが何者であるのか、、彼はすぐに理解した。
 狂性、暴性、虐性、乱性――その他、今日吹っ飛ばした幻魔衆、否、その姿だけを利用された影達である。またもあれらを操って攻撃を仕掛けようとしているのかと、涼輔は察した。
 美菜にも、ようやく状況がつかめてきている。
「浅香君! またあれよ! さっきのインチキ、やるつもりじゃない?」
 確かにインチキといえばそうであろう。そんな彼女の表現を可笑しく思いつつ、いつでも対応できるように、涼輔は意識をそちらに集中させていく。
 幾許もせず、影達は現出を完了した。全部で十体もいるであろうか。
 と、影達の輪郭がぼやけ始めたかと思いきや、突然それらは叫び声を上げた。
「――ぎぃひいいいいぃ」
「がっ、がっ、がはあああぁ……」
「……くぅあっはぁああああぁ」
 あれだけ表情のなかった影達が、今は目にするのも憚られるような苦悶の相で、凄惨な悲鳴を咽喉の奥からほとばしらせている。映画であるような、悪霊が悶絶する光景、あるいは残忍な処刑のシーンにも似ていた。目を剥き出し、裂けんばかりに口を開け、顔面ごと破れてしまうのではないかと思われた。それ程にこの様子は、見るに耐え難いものであった。
 眉をしかめる涼輔の隣で、呆然としている美菜。
「……な、何? どうして、ああ……なる、訳?」
「今に見てなよ。一匹だけ、様子の違う奴が、いるぜ」
 彼の言う通り、最初に現れたあの真っ黒い影だけは、相変わらず静かに佇んだままなのである。なおも、その姿は闇の状態である。
 哀れな影達は、ややも苦しみ続けていたが、次第にその実体がうっすらと、風景に溶け込んでいくかのように薄らぎ始めた。が、それも束の間、頭の先から吸引されていくが如く、次々と黒い影にズーッと吸い込まれていった。
 あっという間もなく、幻魔衆の影は消えていき、同時にあの耳障りな絶叫も聞こえなくなっていった。
 しかし、異変は終わらない。
 今度は、黒い人影が身体の中央からもぞもぞと蠢きだした。
 蠢きは頭、腕、脚へと広がっていく。
 すると、肩の辺りがぐっと盛り上がり、それははっきりと人の顔を模していった。身体のあちこちで同じ変化が生じ、あたかも全身にお面でもつけたかのような、そんな風に見えなくもない。ただし、肉体と一体化してそこから派生しているのだから、不気味といえばこれ程不気味な存在もないであろう。
 最後に一つ、胸の辺りに顔が浮き出てくると、体中の顔という顔の目がカッと見開かれた。目だけではない。口も大きく開かれ、よくよく見れば、さっきまで苦悶していた影達のあの苦しみの表情そのものであった。目の一つ一つには瞳孔がなく、白目は濁り、血走っている。顔は頬が張り出し、筋が浮き、口からだらりと唾液が垂れ、もはや地獄の亡者を寄せ集めた塊である。
 あまりの凄惨な姿に、美菜は嫌悪感を露にした。
「……何て姿なのよ。どういう趣味なら、ああいう風になるのかしら」
 それは涼輔にも判らない。
 ただ、あれがあらゆる人間の生命悪を、具象化した例えの一つなのだろうとは思っていた。判りやすいといえば判りやすいが、果たしてああいう、見た目にそうと取れる姿でいいのか、という気はせぬでもない。本当はもっと、ああいう醜悪だけに集約されるのではなく、違う姿形をとることがあるのではないかと、ふと思った。そう、最も紛らわしく、そしてすっと人間の生命の弱さを衝くような巧妙な連中が。
 ただし、それは予感に過ぎない。
 今はとにかく、目の前に気持ちの悪い化け物がいるだけのことである。
「――ァアアアアアァ」
「……ガァアアアアア」
 顔の一つ一つが、先程のようではないにせよ、またも呻き声を上げ始めた。
 そして、最後に人影の頭部、顔の辺りにすうっと相貌が浮き出てきた。
 冷酷な目付き、狡猾そうな頬や口元。やや神経質そうな眉間。
 酷性のそれである。
「……さすが、双転の化身だな。こうまで、私を苦しめてくるとはな」
 地の底から発されているかのような、低い声が聞こえてきた。
「私の実体も、とうとう掻き消されてしまったよ。だから、こうして我が同胞達の残存する念をもって、私の身体になってもらった。まぁ、この私に利用してもらえる事自体、感謝してもらってもいいのだが、ね」
「――ィイイイイイイイイ」
 左足に浮き出ている顔が、一際大きな声を上げた。
 ほとんど、悲鳴である。
 とてもではないが、酷性の所業に服しているとは思われなかった。その叫び声の中に、利用されきって消滅していく幻魔衆の哀れな末路の何事かを、涼輔は感じずにはいられなかった。その、後悔や無念の表現が今の悲鳴なのであろう。
 が、同情などできたものではないから、彼は代わりに違うことを言った。
「……奴さん、自分の本体が吹っ飛んじまったものだから、最後は味方の姿を手前に取り込んでしまいやがった」
 そこで舌打ちをする涼輔。「ああいうのって、ムカつくんだよな」
 あまりの酷さに言葉を失っていた美菜も
「……同感。誰かを踏み台にして自分がのし上がろうなんて、終わってるわね。その先に、何がある訳でもないのに。最低すぎ、ってくらい、最低ね」
「……ついでに、しつこいしな」
 そんな二人のやり取りが聞こえたらしく、酷性は
「しつこい、か。そうだ、人間の生命に具わった負の部分は、果てしなく大きく、そして深い。それは人間というものが誕生してから、今に至るまで人間そのものを苦しめてきた。当然だろうな。そもそも具わっているものだ、消し去ることも封じることも出来る訳があるまい。その具われる人間の生命悪という象徴が、私なのだよ。……クククク、簡単に消えぬのはそのせいさ」
 突然カッと目を見開く酷性。
「しかし! お前達の存在は、いかにも煩わしい! こうまでして、この私を妨げるのだからな! 人間如きが、自分の生命を見極めようなどとは――」
 どす黒いその腕が、二人に差し向けられた。
「――小賢しいのだよ!」
(……くる!)
 当然放たれてくる酷性の命術を支障すべく、涼輔は光壁を展開しようとした。
 が、酷性の腕に宿った闇の力は、生じるや否や、パッと消滅してそれきりである。
「……?」
 何と、酷性の命術は二人の足元に、いつの間にかひっそりと忍び寄ってきていた。
 二人を取り囲むように床が円形に黒く澱んでいる。そこから、得体の知れない放電のような、しかし黒いスパークがバチバチと散っている。
 背筋が凍るような狂気の気配を、涼輔は咄嗟に感じて取った。
(――まずいって!)
 右側にいる美菜を抱えつつ、同時に転移して回避しようと試みた涼輔。
 が、しかし。
 転移が半ばの状態で、影の円陣は突然効果を発動した。
 ドッと、地雷のようにそれは爆発した。
 爆発という表現なのか、どうか。影は下から上に放射状に浮き上がり、あろう事か無数の小爆を繰り返していくのである。小爆といっても、その半径は小さくない。そして、容赦のない破壊力を秘めていた。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 元いた位置から弾き飛ばされるようにして、二人の身体は持って行かれた。
 転移で生じた異次元のフィールドが緩衝の役割を果たしてくれたため、命術の直接的なダメージは受けずに済んだ。
 が、派手な爆発のあおりをくったまま、中途半端に転移してしまったから、その現出は悲惨であった。
 ドカ、と壁に叩きつけられる涼輔と、床に打ち付けられた美菜。
 二人共、たださえ身体に相当なダメージを抱えている。
にも関わらず、したたかに衝撃を受けては、たまったものではなかった。
「……う」
「くぅ……」
 床に転がったまま、呻く二人。
 全身がバラバラになったようで、得体の知れない痛みの感覚しか伝わってこない。
 命術の余波がそこら中に浮遊していて、視界も気配もつかめないのであろう。すぐには追撃がこなかったのは幸いだったかも知れない。
 やっとのことで顔を上げると、すぐそこにお互いを確認することができた。
 美菜があたかも涼輔を非難するように呟いた。
「……何よあいつ、どうすれば消えてくれるのよ?」
「あいつら幻魔衆ってのは、他人を犠牲にしても厭わない、人間の最も悪質な欲望の結晶だぜ。そう簡単にゃくたばらねぇ……」
「……そうなの? どうして、そうだって言えるのよ?」
「教えてもらった」
「誰に?」
 よっこらしょ、と涼輔はのろのろと、やっとのことで上体を起こした。
「……俺が守ってやれなかった、女の子」
 さらりと涼輔は言った。
「……」
 そこで美菜は黙った。黙るしかなかった。
 さっき彼女が問いかけて中断された、疑問の答えである。短い言葉ではあったが、彼の驚くべき強さの裏側にあるものが何なのかが端的に象徴されていた。
 ただ単に強くなった訳ではなかった。口に出すのが憚られるような辛い過去を経て手に入れた強靭さ。それは、決して簡単に失われるようなものではない。涼輔は、乗り越えて手に入れた強さをもって恵や美菜を守れることが何よりも嬉しかったのであろう。そしてまた、自分が今、どこまでこれたのか、彼は彼なりに確かめていたともいえる。
 どんなに酷性が卑怯で執拗であろうとも、この男は何度も立ち上がって挑んでいくだろうと、美菜は思った。
 言葉を失くした彼女に、涼輔はちょっと笑って
「……俺達の戦いってのはさ」
 命術には、奥義も必殺技もない。
 ただ、撃つ側の生命力の強さによる。
 生命力や一念が強ければ生命力や一念が強ければ術も強大になり、弱ければ貧弱なものとなる。それだけのことでしかない。だから、命術を鍛える目的の修行や特訓などは意味がないのである。
 涼輔は、そのことを言った。
「結局、そいつの生命力の強さ、イコール命術の強さ、さ」
 誤解があると思ったのか、一言だけ付け加えた。
「……だからって、俺が強いって訳じゃあないけど」
「強いじゃない。十分」
 今は、心からそう思えた。でなければ、これだけ壮絶な死闘に、恐れなく立ち向かっていける筈がない。ずっと見ていて、要するに彼には「恐れ」というものが微塵も見られないのである。霞美や希香、あるいは恵らとの根本的な違いである。
 しかし、当の本人は余り関心がないように、
「……これでも、必死だもの」
 何気なく呟いて、涼輔はよろよろと立ち上がった。
 そんな彼の姿を目にしながら、であるなら、いつでも必死になれる人間こそ、強いのかもしれない、美菜は思った。
「……そうね。そうかも知れないわね」
 床に手をついたが、すぐには力が入らない。
 すっと、涼輔が手を差し出した。
「悪いけど、もうちょっとだけ、付き合ってくれ。ここまで粘られると、俺一人では――」
 その手にそっとつかまる美菜。
「……何を今さら。これはもう、あたし達の戦いよ。浅香君一人の、じゃなくて」
 静かに微笑んだ。建前でも迎合でもなく、本心であった。
 涼輔も、彼女の想いに応えるように、しっかりと頷いて見せた。もう、何も蟠るものも、躊躇うものもない。あとはただ、あのどうしようもない生命悪の塊を、二人でぶっ潰すだけである。
 並んで廊下の先を見やる二人。
 宙に漂う命術の余波が晴れていき、その向こう側に奇怪な酷性の姿が見えた。
 一歩前に踏み出した涼輔。
「なんだかんだ言っても、あいつも俺達の生命の中にあるものが具象化した存在であることに違いはない。結局、決着をつけるしかないのさ」
 言いながら、すっと右手を差し向けた。
「自分で、自分の生命に、打ち勝つまでさ!」
「……以下、同文!」
 ほぼ同時に、命術を撃ち放った涼輔、そして美菜。
 たちまち真っ白な光芒が空間に満ち溢れた。
 二筋の光は、闇に佇む酷性目掛け、一直線に宙を駆け抜けていく。
 が、直撃するかと思われた瞬間、酷性はニヤリとしただけであった。
「……何ィ?」 
 涼輔が放った命術は酷性の身体を素通りしていき、美菜のそれは直前で弾かれてしまった。全く、酷性に影響を与えていない。それぞれの光は、前後して虚しく霧散した。
「な、何よあれ? あたしのはともかく、どうして浅香君のも効いてない訳?」
 精一杯の一撃がかすり傷一つにもならず、悲鳴に近い声を上げる美菜。
 それは俺が聞きたい、と口の先まで出しかけて、涼輔は言葉を飲み込んだ。言えば、美菜を不安がらせてしまう一方ではないか。
 問題は、弾かれた美菜の命術ではない。涼輔のそれが、素通りしてしまったことである。
 命術がまったく作用していない。弾かれたり遮断されるならともかく、素通りしてしまうなどというのは、彼にとって未知の事象であった。まるで、幽霊を相手にしているようなものである。生命作用の具象である以上、命術は単なる物理現象などではない。生命から派生される存在に対して影響を及ぼすものであるからには、何らかの干渉があって然るべきであった。
 が、そこで思い悩んでいる余裕はなかった。
 今度は、酷性がその両腕をこちらに向けているのである。
「……クククク、どうした、双転の化身? 驚いているようだな。幾ら強がろうとも、人間は所詮、己の生命悪には――」
 両手の平に、漆黒の小さな球体が生まれた。それは見る見る肥大していき、酷性の姿が見えない程になった。禍々しい、闇のスパークが散っている。
 あっという間もなく、放たれた。 
 再びあれを食らっては、もはや自分も美菜も再起はままなるまい。
 光壁で遮断しようとして涼輔は判断を翻し、咄嗟に彼女の身体を抱き抱えた。
「――真っ向から受け止めるだけじゃ、ただの無謀だ!」
「――あ? うん!」
 ふっと転移して消えたその直後を、黒い波動が通過していく。
「無駄だな、双転の化身。私が創り出した中異空であることを知らぬでもあるまい。どこに転移しようが、逃げ回れるものではないぞ。……クククク――」


 酷性の仕掛けは、よほど手が込んでいるらしい。
 無作為に発動させた転移であったが、ほとんど遠くへは飛んでいなかった。さっきまでいた場所が旧棟で、今はどうやら新棟の同じフロアに現出したらしい。酷性の創出した異空が、彼等の転移に干渉しているせいであった。逃がさない、というつもりなのであろう。
「……やれやれ」
 美菜を下ろしてやりながら、涼輔は息をついた。表情には出さねど、正直途方に暮れる思いがせぬでもない。
 まともに命術が効かなかった以上、この後何度やっても同じ結果になるであろう。
 これでは、戦いようがないではないか。
(だけど……)
 一つだけ、疑問はある。
 何故、涼輔の命術は素通りしたにも関わらず、美菜のそれは遮断させたのか。
 命術を無効化させる術を身につけているなら、美菜の命術もまたやり過ごしてしまえばいいのである。あるいは、今までさんざん作用していたものが、どうして突然効かなくなってしまったのか? 要は他の幻魔衆の残存する生命の余波を吸収してあの状態になったのだが、それがどうして新たな能力の獲得になるのであろう? どう見たって、ただ単に気味の悪い顔が身体中に浮かび出ただけのことではないか。吸収された幻魔衆も、ろくでもない連中ではあったが、これといって特別に強力なのがいた訳でもない(と、彼が思っているだけだが)。
 思案に沈んでいると、すぐ傍から美菜が
「……今、困ってるんでしょ?」
 覗きこんでいる。
 彼女に余計な不安を与えたくない涼輔としては、正直に「はいそうです」とは言い難い。
「いや、別に。困ってなんか、っていう程も、ねぇ……うん」
「……やっぱり、困ってるんじゃない」
 田舎育ちのせいなのか、どうもそういうカムフラージュが出来ないらしい。下手くそな言い逃れをしてみたものの、あっさり美菜に見破られてしまった。
 彼女はちょっと怖い顔をして
「状況があんまりっていうか、かなり不利なんだから、一人でくよくよ考えていても仕方がないでしょう? こうやっている間にも、あの変な奴が近づいてきてるんだから。――で、何を困ってるのよ? 命術が効かなかったこと?」
 打ち明ける間もなく、美菜は簡単に言い当てた。
「まぁ、ぶっちゃけ……」
 そもそもが生命という不可解な存在から発生した相手なのだから、考えてみても仕方がないといえばそうかも知れない。が、それでは二人揃って命を落とすしかないのである。
 取り敢えず、涼輔は疑問に思ったことを話して聞かせた。
「そうねぇ……」
 美菜も難しい顔をして、
「あたしと浅香君の、術の違いなのかしら。……って言っても、浅香君が「命」の属性であたしが「光」の属性、くらいしか違いってないんだっけ? 公司君の好きなゲームじゃあるまいし、そんなことで効くとか効かないとか、ねぇ。今のあたし達は現実にいる訳だから」
 ぶつぶつと、呟いている。
 そんな様子が、どうも彼女の柄じゃないような気がして、涼輔は可笑しかった。
 が、そこで彼ははっと閃いた。
 光――。
 思い至れば、今の酷性は、同胞達の「影」を取り込んでいる。
 影はあくまでも、影でしかない。意志をもたず、まして生命そのものではないのである。涼輔がどれだけ強力な命術を放とうが、影には生命がない以上すり抜けて行くだけである。命術は、生命から派生された存在に対してその威力を発揮するものであり、生命の産物でない存在に対してはどれほどの効果ももたない。これだけ校舎の中で命術をぶっ放そうと、校舎が破壊されることがないというのが、いい例である。
 どこまでも、酷性は策士であった。「酷」とは、生命悪の一事象を表すものであるが、しかしながらその意は漠然としていて、具体的な対象を具えていない。それゆえに、様々に紛らわしい形をとって生命を侵していく、何よりも厄介で忌避すべき生命悪だといえる。同胞の姿形だけを利用して命術の作用しない影という存在を創り上げ、それらをして涼輔を攻撃せしめているなど、その最たるものであるといえよう。
 しかしまた、一方で生命は「生きよう」という強い意志を得たとき、偉大な知恵をも生み出すものである。
 影に対して大いにその脅威を制する存在。
 即ち「光」である。
 涼輔は「命」を象徴する命術を駆使するが、美菜のそれは「光」であった。
 命術というだけであれば影には効果をなさないが、影を生みあるいは消し去るべき光を源とするならば、影を盾にしている酷性の本体にも作用させることができるのではないか。かつ、そう考えれば、酷性が美菜の命術を防いでいたことにも理由がつく。つまり、まともに受けることが出来ないのである。命術が作用してしまうために。
 そこまで考えが至った時、涼輔はパッと明るい表情で叫んだ。
「……わかった! あいつの、カラクリが」
 急に様子の変わった涼輔に、美菜はびっくりして目を見開いている。
「カラクリ?」
「うん、あのね――」
 手っ取り早く、結論を伝える涼輔。
「なぁにそれ? あの変な奴、自然現象まで悪用してるって訳なの?」
「まあ、そういうことになるかな」
「何て狡賢いのかしら。そこまでする? 普通」
 美菜は呆れたように言った。
「さぁね。とはいっても、あれも人間の生命現象の片割れだもの。俺達の中にもそういうものがあるってことなんだろう」
 それはともかく、美菜が彼の疑問を聞いてくれた上で、彼女の呟きが突破口になったことは確かである。
「済まない。助かった」
「別に……あたしは何もしてないけど……」
 とまで、言いかけて、彼女はぱんと手を叩いた。
「で、それはわかったけど、具体的にはどうすればいいの? あたしの命術、防がれちゃったのよ? あれだけ気合入れて撃ったのに」
 その事については、既に涼輔には奥の手があった。
 ついさっきは涼輔と美菜が同時に命術をぶっ放したが、それでは本質的に力を合わせたことにはならない。要は、二人が酷性を討つべく呼吸を合わせて生命力を発動させ、その力を相乗させなければ意味がないのである。
 人間対人間のあり方というのは、結果としてそういうことなのであろう。
 立場や建前、利害を超えて同じ方向を向いて一気に推し進めるとき、物事は障害を越えて成就されていく。しかし、どんな小さな目的であっても、そこにいる者達が互いにあさってを向いていては上手くいかないし、また目標点に到達できたにせよ、その成果は粗々なものにしかならない。
 涼輔は、簡単に説明した。
「さっきは同時に撃っただけで、力を合わせていた訳じゃない。要は俺達の生命力が、一つにならなきゃ駄目だ。さっき、異空に転移させてもらった時みたいにね。でないと、生命力がシンクロしないから、結局それぞれが別々に撃つのと同じになっちまう」
 彼の言いたいことは、美菜にもわかる。
 恵を助けるために、深異空へと涼輔を送り込むべく、生命力をシンクロさせるという所作を既に行っている。今初めて言われたなら理解できなかったかも知れない。しかし、幸か不幸か、あれもまた酷性が原因だったのである。
「そう……。じゃ、心が一つになるようにしなくちゃね」
 言いながら、美菜に思案が浮かんだ。
「……あたし達、とにかく今はあいつをやっつけて、生き残ることが目標よね?」
「まあ、そうだ」
 涼輔が頷くと、美菜は我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべた。
「なら、あたしは浅香君、浅香君があたしを守る、って念じればいいんじゃない? 自分で自分の身を心配しても、心は一つにならないわ。一緒に生きて帰るなら、お互いに相手のことを想う。それなら、なんとかなりそうでしょ?」
「……」
 驚いたような、不思議そうな、そんな顔で彼女を見ている涼輔。
「……何よ? 駄目?」
 折角のアイデアが却下されたのかと思い、美菜は口をとがらせかけた。
 が、涼輔は
「……違うよ。俺には思い付かなかったから、びっくりした」ちょっと笑って「それでいこう。それしかないと思う」
 大きく頷いて見せた。
 美菜もまた、無邪気に
「でしょ? ここは一念の強さがものをいう世界、だものね?」
「……ってことで――」
 涼輔が言いかけた途端、美菜の目前の景色がぐるっと流れて、別のそれになっていた。一瞬の間に、彼女を連れて転移したらしい。
 すっと着地して、前方を見やっている涼輔。
「……きやがった。いきなり撃ってくるし」
 闇にぼうっと人影が浮かんでいる。
 重苦しい沈黙を破るかのように「……ァアア」という呻くような悶える様な声が聞こえてくる。例の、取り込まれた幻魔衆の思念が、悶絶しているのであろう。
「……逃げ場はないと、言った筈だ。双転の化身」
 酷性の声がした。
 二人はとっくに悟っている。背後の数メートル先は壁であった。
 しかし、涼輔も美菜も、もはやこの場から立ち去るつもりは毛頭なかった。どちらも全身がぼろぼろで、涼輔に至っては思い出したように血がしたたっている。美菜もまた、華奢な脚が打撲や傷だらけで痛々しい。さらに死闘が長引けば、勝ち目は薄くなっていくしかない。何せ、幻魔衆・酷性は策士である。あの手この手と不意を衝くような卑怯な真似をなおも繰り返していくことであろう。今、決着をつけるしかない。
 それでも、やるべきことを見出せた以上、二人に迷いはなかった。
 今度こそ――ここであの忌まわしい酷性を葬り去る。
「……思えば、異空最強の化身を相手にできて、私も戦った甲斐があったというものだ。本来の身体こそ、失ったがね」
 酷性が何やら言っているのを無視して、涼輔は横の美菜にそっと囁いた。
「……俺が、光壁で防ぐ。その間に撃てるようにしていてくれないか」
「いや。あたしが引き受けたげる」
 きっぱりと、美菜は言った。
「それはまずい。光壁を展開していたら、力を溜めることが出来ないだろう? だから、俺が――」
「やるって言ったら、やるから。心配しないで」
 彼女の態度は、揺ぎ無い確信に満ち満ちていた。断言されてしまって二の句を継げなくなった涼輔に、彼女は
「……それ以上血を流したら、浅香君、死んじゃうわよ」
 悪戯っぽく、笑っている。
 信じていい。涼輔は一瞬のうちに決断した。
「わかった! 任せる!」
 四の五の言っている余裕はない。
 言うが早いか、彼は美菜の傍らでぐっと一念を集中させることに取り掛かった。たちまち、彼を取り巻くように、足元から白く光が立ち上り始めた。
 しかし同時に、涼輔の全身から血が飛び散っていく。光壁でなくとも、生命力を発動すれば全身にそれだけの負荷がかかってしまう。前を向いているから気が付きこそしていないが、美菜が見れば青ざめてしまったかも知れない。
 それでも、彼は念を緩めない。
 彼の一歩前に立ち、キッと厳しい表情で、無言のまま立ちはだかっている美菜。
(さぁて、いらっしゃい。恵の分のお返し、きっちりさせてもらうわよ)
 そんな彼女の高ぶる闘気が、いつの間にか結晶化してちらちらと周囲に舞っていた。闘気の光は次第に増えていき、瞬く間に空間全体に及んでいった。真っ暗な闇の中で、美菜のそれは満点の星のように、そして涼輔の放つ光は天の川を思わせた。それぞれの力の結晶が時に交差し合い、時に融合し合い、二人のいる範囲はたちまちのうちに美しい光のイルミネーションを描き出し、白く床や壁、天井を照らし出していった。
「……双転の化身、あくまで、歯向かうか」
 それまでとは全く様子の違う二人に、異様なものを感じた酷性。しげしげと二人を眺めていたが、やがてその表情を固くした。
「……ふん。小賢しい存在よ! 所詮は弱い人間の分際で!」
 両腕がぐっと八の字型に開かれた。
 そのまま力を込め始めるや、身体中に浮き出た顔面が
「……ウォオオオオオオォ――」
 と一斉に叫んだ。
 目が飛び出る程に見開かれ、それぞれ苦悶の表情がさらに濃くなった。口という口から、濁った霧状のものが吐き出され、宙に漂っている。
 構わず、力を蓄積していく酷性。
 みるみる両腕に黒い霧のようなものが生じ、次第に大きくなっていく。やがてそれは一体化し、なおも膨張を止めない。酷性は、巨大な闇を抱えているような状態になった。黒弾は、吐き出された霧をも吸い込み、ついには廊下をすっぽり塞ぐ程の大きさにまで膨れ上がった。
 もうそれ以上拡大は不可能ではないかと思われた途端、
「……消え去れ! 遥空の者奴!」一声と同時に、それは酷性を離れた。
 速い。
 しかも、間合いはほとんどない。
 怖気のたつような真っ黒い、生命の闇の部分がそのまま象徴化されたのではないかいうような弾丸が、二人の目の前に迫ってきた。
 しかし、涼輔は微動だにせず、ひたすらに生命力を高め続けている。
 彼を庇うように立った状態で、すっと目を閉じ、一呼吸する美菜。
 次の瞬間。
 彼女は眦を決し、両手をぐっと突き出した。
「――てえぇぇ!」
 気合いと共に、美菜の両手、そして足元が一閃した。
 同時に、一本の白いラインが彼女の前に、横にパッと走っていく。それはいきなり上下左右に伸張し、ウォールとなって黒弾から美菜を遮るようにした。
 間髪を容れず白と黒が衝撃し合い、キィイイイと甲高い、耳障りな音を発した。
 ぐっと両腕にプレッシャーがかかる。
 押し込まれてしまいそうになるのを、懸命に踏ん張って持ち堪える美菜。
「……くくっ、こ、の……!」
 黒弾の重圧は、途方もなかった。
 必死に歯を食いしばっても、次第に押され気味になっていく。白い光壁が、少しづつ中央から歪み始めた。押し込まれ、突き破られそうな様相を呈しだした。
 しかし、美菜は怯まない。
(あたしだって、あたしだって、今度は、今度は、浅香君を――)
 渾身の一念を込めつつ余念がすっかり絶たれた途端、光壁はカッと更に激しく輝き出し、その眩しさのために向こう側の黒弾がかすんでしまった。迷いのない彼女の一念は、なおも留まることなく、その象徴たる光壁はその分だけ厚みを帯び、輝きを増し、美菜にかかるプレッシャーはほとんど失われていった。
(――今だわ!)
 彼女がそう感じたのと、涼輔が叫んだタイミングは、ほぼ同時であった。
「……んじゃ、あとよろしく!」
 光壁の展開に必死だった美菜にはその様子こそ見えていなかったが、涼輔が発する生命力の煌きは、既に彼自身の姿が見えなくなりそうな程に強くなっていた。
「ええ、よろしくってよ!」前を向いたまま、応じる美菜。
 二人の呼吸には、僅かなズレもなかった。
 涼輔が纏っている光がふわりと羽毛のような軽さで、美菜のそれと一体化していく。白に白の絵の具を足す自然さで、光は完全に一つのものとなった。
 全身に、柔らかな感覚が伝わっていく。彼女を信じる涼輔の生命力の所以であろう。暴力的に同胞の存在を我が身に取り込んでしまった酷性とは、丁度正反対の作用ということになる。
 完全に光に包まれきったと同時に、美菜は咆哮した。
「――いっけぇ!」
 彼女の一念は、一気に護りから攻勢へと転化した。
 涼輔がよくやるところの、光壁を展開した状態から命術をぶっ放す荒技をそのまま真似したようなものである。無茶といえば無茶だったが、あらゆる雑念を捨てて彼女を信じようとしている涼輔は、ただ黙ってそれを見守った。余計な横槍など入れれば、そこで一念が乱れてしまっていたかも知れない。
 しかし、彼女が張り巡らせた光壁自体、既に強力な生命力で構築されていたのである。あとは、それを酷性に向けて放てばいい。
 一瞬、美菜の両腕からキラリと細い光が幾本も漏れた。
 と、その途端である。
 一切の視界が、失われた。
 どこもかしこも、目に入る限りが真っ白である。
 かといって攻撃的な眩さがある訳ではない。ただ、柔らかな白さが、一面に広がっているだけである。物音もない。さすがの涼輔もこの状況は予想しておらず、美菜に力を移譲したままの体勢で固まってしまった。
(……)
 それが本当の生命の強さであることを心のどこかで覚知しながらも、想像を超えた発動の様に、彼は瞬間的に我を見失っていた。強力な命術を放つことができる涼輔でも、こんなことは初めてといってよかった。
 随分と長く、その世界が続いたように思われた。
 いつしか次第に光がやわらぎ始め、僅かに元の中異空の闇が取り戻されていく。
 と。
 ズン、と突如、突き上げるような衝撃がきた。
 一呼吸おいて、先程の比ではない強烈な激震がやってきた。中異空全体がバランスを失い、崩壊を始めたのである。
 美菜はといえば、合製の命術をまだ完全に離しきれずにいた。
 というより、発動が余りに強大すぎて、自分の目の前で何がどうなっているのか、さっぱりわからないのである。ただ、爆発的なエネルギーのようなものが自分の両手を核としてとんでもない勢いで放出され続け、一向に途切れないということだけは認識していた。
 その威力たるや、両方の腕が千切れ飛び、体中の血液やら内臓全部が飛び出ていきそうなほどである。術自体が安定していないのか、衝撃が凄まじい。
「くっ、くっ……」
 純白の閃光に包まれながら、美菜は無我夢中でこらえていた。もはや、前面で我が命術やら酷性がどうなっているのか、把握する縁はない。
 ただひたすらに、彼女は絶え間ないインパクトに耐えながら、前方の忌むべき存在に向かって両手を突き出し続けた。目の前に凶悪な命術が迫ってきていたことなど、すっかり念頭にはなくなっていた。
 そんな格闘が、一体どれくらいの間続いたであろう。
 突然、ぽん、と全身が軽くなったのを感じた。
 少しづつ、彼女を包む異空全体を揺さぶった衝撃はフェードアウトしていき、やがてそれは全く感じられなくなっていった。
 ただ、純白の閃光だけが、消滅しきることなくふわふわと残っている。
 目映い光の中、いつしか、暖かく、そして柔らかな感覚に襲われていた。
(これって……浅香君の、生命、力……?)
 力をすっかり使い果たし、ぼんやりとなった頭の中で、何とはなしにそんなことを考えていた美菜。
(あ、あさ、か……君……)
 涼輔に呼びかけようとしたが、声にならなかった。
 そのまま、彼女の意識はふっと遠くなっていった。
「……!」
 すっと静かに崩れ落ちていく美菜に気が付いた涼輔。命術は完全に離れていたから、力に干渉される危険はもはやなかった。彼は後ろから彼女の身体をさっと抱き止めた。
 彼の胸の中で、ぴくりとも動かない美菜。全身がぼろぼろで、顔や体中のアザや傷がこの上もなく痛々しい。まだ、十六歳の乙女なのである。
 が、真っ白な光に照らされたその容貌は、まるで幼い子供のように純真で、美しかった。軽く笑みすら浮かんでいて、全て悔いなくやりきった充実の相であるように、涼輔は思った。
「……お疲れ。君がいてくれて、良かった」
 力の限り自分を支えてくれた光の女神に、偽りのない、心の奥底からの感謝の言葉をかける涼輔。彼女を見つめるその瞳が、どこまでも優しくなっていた。
 彼は、静かに美菜を傍らの壁にもたれかけさせた。
 そして自らはゆっくりと立ち上がると、廊下の先へ視線を走らせた。
 なおも酷性がいることは判っていた。
 しかし、これ以上戦う必要がないこともまた、彼は知っている。だからこそ、力尽きて倒れた美菜を受け止める余裕があったのである。
 あの邪で凶暴で執拗な気配は、もうほとんど感じられなくなっていた。
 勝った、という程の実感もないまま、その場に立ち続ける涼輔。
(――そういえば……)
 過去のいつだったか、これに似た出来事があったのを思い出していた。
 幻魔衆の大群に取り囲まれて無数の命術を撃ち込まれ、もはや助からぬと思われた瞬間、涼輔はありうべからざる光景を目にした。
 彼にとって大切な、かけがえのない人が――我が身を盾にして、彼を庇っていた。
 ぼろきれのようになって彼の腕の中へ倒れこみながら、かの人は言った。
(ごめんなさい。でも……必ず、あなたを待っている人達がいるから――)
 そうして最期に残された生命力を受け取った涼輔は、その力をもって幻魔衆の群れを退けた。今と同じように、何もかも真っ白に染めつくすような、眩い光で。
 が、それが彼とかの人との、別れの瞬間でもあった。
 満天の星空の元、光が消滅した後には、彼一人だけが残されていた――。
 それ以来心を閉ざしてしまった涼輔は、思い出さぬよう、心に残らぬよう、封印したつもりであった。二度と、触れたくなどなかった。
 だが、きっかけを得て別の天地へと赴いた彼を待ち受けていたのは、思いがけなくも、心から迎え入れてくれた仲間と、そんな辛い過去をしっかりとキャッチしてくれた美菜であった。この土壇場ゆえに、詳しい話をして聞かせた訳ではない。が、彼の強さを認め、彼を全力で信じてくれたことは、その辛い過去を受け止めてくれたにも等しい。
(……なるほど、な。こういうこと、だったんだな)
 独り、納得の表情を浮かべて佇む涼輔。
 彼はふと、思念の赴くままになっていたことに気が付いた。思い出したようにそちらを一瞥すると、すっかり無力化した生命悪の象徴が、そこにあった。
 酷性は、影を自らの内部に取り込んでいたのが、致命的な仇となった。
 核爆発のように強烈で無限とも思われた程の光は、ことごとく彼の本体に吸収され、作用していった。
 報いの時は訪れた。
 自らのみを尊び、何の躊躇いもなく他者を利用し、切り捨て、裏切っていく、人間の卑怯、そして臆病な生命がもたらす結末を、酷性は我が身をもって体現し始めた。
「ひぃいいいい――」
 ゆっくりと、地獄の苦痛を味わいながらその身を削り取られてゆく酷性。命術が侵食したところから、皮や肉をつままれむしられてゆくように、次第に一粒一粒と光の結晶になって消滅していく。まさしく、獄卒に責められる亡者のような、情けない哀れな悲鳴が、いつ止むともなく響きわたっている。
 が、もはや涼輔はそんな姿に何の興味もなかった。
 くるりと背を向けたまま
「……ふん。死んでも泣いていやがれ」


「――お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
 誰かに激しく呼びかけられている声で、美菜はうっすらと意識を取り戻した。
 夕陽が造り出した黒と赤がコントラストになって、彼女の網膜に満ちている。
 ぼんやりとした視界に間近に飛び込んできたのは、必死の形相をした恵と、希香であった。その背後から覗き込んでいる、咲貴や来未、霞美の姿もある。
「……め、ぐみ?」
 次第に頭がはっきりしてきて、美菜は無意識に身体を動かそうとした。
「……!」
 痛い。
 どこが、というよりも、あちこちが、である。打ち身やら擦り傷やらで、ほとんど満身創痍になっていたことを、それとなく思い出した。
 意識を取り戻した姉を見て、恵はほっと安心した表情をした。
「良かった。もの凄い衝撃があったから、どうしたのかと思ってきてみたのよ。そうしたらお姉ちゃん、傷だらけで倒れていたから――」
「み、みんな……は?」
 咲貴がやれやれ、といった顔をして
「この通りよ。何とか、生き延びたわ。あんとき、美菜が来てくれなかったら、完全にお亡くなりよ。……そうそう、回復させてくれた恵ちゃんもね」
「本当な。今回ばかりは、だらしがなかったな、俺達」
 少し離れたところで、公司があっちを向いて同意するように言った。
 女性陣がみんな、ぼろぼろであられもない格好になっているから、気をつかっているらしい。日中は美菜を非難していた彼であったが、我が身を省みずに助けに飛び込んできてくれた彼女に対して、今は敬意にも似た念を抱いていた。普段は勝手気ままな公司も、美菜の魂の叫びに触れ、我が身の至らなさを思い知っていた。
 それでも、一つの大きな嵐を乗り越えたという実感があるのか、彼らのテンションはいつもより高くなっていた。
 といっても、ただ単純に強力な幻魔衆を撃退できたという、それだけのことではないであろうと、美菜は感じている。
 そして、その突破口だが――。
「……お姉ちゃん、浅香さんは?」
 恵が怪訝な顔で尋ねた。
 そうと気がついた咲貴や希香も
「そうよ。浅香君、恵ちゃんを助けに行って、またここで幻魔衆とやり合ったんでしょ? どこ行ったのよ?」
「まぁ、そういえば浅香さん、さっきからいないですよね?」
 今日戦った幻魔衆の大部分を一人で引き受けた功労者の姿がないことに、美菜もはっと気がついた。
 二人で生命力をシンクロさせて渾身の一撃をぶっ放した直後、その反動と衝撃で美菜は気を失った。その時点までは、確かに涼輔は傍にいたのである。とすれば――やられてしまった筈がないから、あとは、彼特有の、お決まりのパターンである。
 そう気がつくと、半ば呆れつつも、しかしながら好意的な皮肉を交えて美菜は答えた。
「……また、消えちゃった」
「消えたって……あんなに、怪我してるのに?」 
 悲鳴に近い声をあげる恵。この一連の死闘の中で、彼の姿を見ていたのは美菜と恵の姉妹しかいない。が、涼輔ががどういう働きをしていたかは恵がとうの昔に皆に伝えていたから、その活躍については全員が知っている。
 しかし、さすがに大怪我のことまでは聞いていないから、恵の声に、
「何よそれ? 怪我って、どういうこと?」
「彼、負傷してるのか?」
 来未や隆幸が騒ぎ出した。
 騒がれたところで、美菜はどうすることもできない。
 どうすることもできないが、根拠のない安心感というか、ちょっと違うようだが信頼感のようなものが、彼女の中にある。共に強敵に立ち向かったからこそ、美菜にだけ生まれた連帯感のようなものであろう。
 彼女には、一つの予感があった。
「……何とも、言えないけど、彼は大丈夫よ。きっと、また明日、ふらっとやってくるわよ」「だって……」
 涼輔のことが心配でならない恵がさらに何か言いかけようとしたのを、美菜は
「大丈夫。あたしがついさっきまで、一緒に戦ってたんだもの。本当に、浅香君は強いのよ。あたし、よく判った。だから、大丈夫」
 まだ怪訝そうな顔をしているが、姉にそこまで言われては、恵も食い下がる訳にいかない。
「そうよね。きっと、疲れているかも知れないし、あたし達に色んなこと言われたら、浅香さん、嫌かも知れない……」
 彼という人間をよく理解しきれていない一同は、そこですっかり黙ってしまった。
 すると、
「あんなに強いヤツが、怪我とはねぇ……」
 公司が、大真面目に考え込んでいる。
 そんな彼を、咲貴が横から小突いた。
「あんたがバカだからよ。それで浅香君が一人で苦労したんじゃない」
 からかっている。
 いつもの公司なら、それで反撃に出たであろう。が、今は様子が違った。
「……うん、俺、もう少し、しっかりしなけりゃな。今日はちっともいいところなかったし、全部、浅香がやってくれたようなモンじゃねぇかよ」
 しんみりとした口調でそう言うと、隆幸が
「だな。俺も帰り際、彼と会って話をした。親切に色々教えてくれて、それでその後幻魔衆に遭遇したけど、自信をもって戦うことができた。彼のアドバイスのお陰だと思っている」
「なぁんだ。実は、あたしもそう」
 得意げに、来未が胸を張った。
「……え? 来未ちゃん、幻魔衆と、やりあったの?」
 驚いて尋ねた霞美に彼女は
「まぁね。もう駄目かと思ったけど、ぎりぎりで浅香君に言われた一言がひっかかってさ。本気になれば、あたしでもできるんだな、って」
「ほーっ……」
 これまでの来未からは想像も出来ない発言に、その場の誰もが声を上げた。
 隆幸や咲貴について回ってばかりで、まともに一人で戦うことなどできなかったのである。それがこの短い間に成長を遂げたのが、皆驚きだったのである。その裏には涼輔の存在があったことに、不思議の念を抱かずにはいられなかった。
 どこへ去ったのか、今この場に彼はいない。
 鮮烈な夕陽をじっと見つめながら咲貴が
「……今日はもう、仕方がないわ。いないんだもの。でも、次に会ったら、みんなで感謝しましょ」そこまで言ってパッと表情を明るくし「お昼でも奢ってあげてさ」
 皆、そこここで頷いて見せた。 
 唐突に現れ、そしてそれぞれの胸中に力強い何事かを与えてくれた涼輔。日中こそ色々とあったが、今は誰もが彼を認める気持ちになっていた。彼の必死がそうさせたに違いないのだが、そのことはこの場では、美菜だけが知っていた。
「さって、帰るとするか」
「やだ! 制服、ぼろぼろじゃない! どうしよう?」
「ご愁傷様。咲貴ちゃん、明日はジャージ娘ね」
 思い思いに言いたいことを口にしながら、ぞろぞろと動き出した一同。
 その一番最後に、美菜と恵がいる。
「ねぇ、お姉ちゃん。明日、浅香さん、ちゃんと来るかしら?」
「……そうね」
 ゆったりと立ち上がり、そっと遠くを見やる美菜。
「……大丈夫。浅香君は、大丈夫よ……」
 祈りのように、彼女は何度も呟いていた。

 こうして、嵐のような一日は過ぎていった。
 


 今日も気持ちよく空が晴れ上がっている。
 舞い散ってくる桜の花びらを浴びながら、涼輔はあのお気に入りの場所で転がっていた。恵に宣告した通り、気分の赴くままに行動、という訳である。
 校舎の方で、何事か放送が流れている。
 彼は一向に気にした風も見せず、手を頭の後ろに組んで、そのままうとうとし始めた。授業に出なければとか何とか、考えもしなかった。ちらと美菜や恵のことが頭を過ぎったが、これという不安はなかった。
 昨日の激闘で美菜は負傷し、それにどうも公司や咲貴も相当な手傷を受けたらしいと、涼輔は耳にした。しかし、恵だけは度重なる襲撃を払い除け、何とか無事なままに守りきることができた。その彼女が、昂揚した生命力をフルに駆使して姉や他の連中の手当てをするであろうと、涼輔はふんでいた。
 彼もまた、恵の施術を受ければよかったのだが――酷性を完全に倒した後、彼はそのまま姿を消してしまった。
 理由という程の理由はない。
 ただ、昨日のあの混乱の中、最後に寄り集まるであろう仲間達の輪の中に彼自身がいては、誰もが戸惑うような気がしたのである。それぞれが様々な思いを抱き葛藤しながら戦い、勝ったり傷ついたりした。途中経過として彼が助言したり助けたりもしたが、最後の場面でそこに割って入ってしまっては、彼らなりに自分達の気持ちに決着をつけにくいと思ったのである。
 もう一つ。
 初めて様々な仲間達の存在を背負って戦うことになり、実は彼自身、こんなにも重たいことだとは想像できなかったのである。それを何とか戦い抜き、幻魔衆がこぞって消え去った以上は、半分どうでもよかった。どうでもよいというか、やることをひたすらやり抜いたからには、その場に残って良くも悪くもわいわい言われることが、どうも場違いであるように思ったのであった。
 そんな気分が一晩経っても抜けきれず、この際今日一日も行方不明で通してしまおうと思っていた。正直言って、ずっと対人関係がなかったから、多少の煩わしさもあるといえばあった。
 都合のいいことに天気は快晴。桜も美しい。
 青くさいような軟らかいような春の匂いを感じながら、涼輔は目を閉じている。
 ぼうっと、意識が遠のいていくような心地がした。
 その時。
「――サボってると、単位、出ないわよ?」
 頭高で、聞き知った声がした。
 美菜であった。
 手を後ろに組んで、上から涼輔を覗き込んでいる。
「……」無言で、涼輔は起き上がった。
 その隣に、身軽に腰を下ろす美菜。
「何で、ここが解ったんだ?」
 美菜は悪戯っぽく笑った。
「恵よ。あのコ、もうずーっと、浅香君の話ばっかり」
 気に入られた反面、こんなところで怠けていることまで姉に喋ってしまったらしい。
 が、美菜はさしてそのことには突っ込まなかった。それよりも、彼女には彼女なりに気になっていたことがあった。
「……ケガ、大丈夫なの? 恵、手当てしてないんでしょう?」
「いいんだ、別に。問題ない」
 実を言えば、回復してはいない。
 ただ、恵を庇って悪戦苦闘する最中、いつの間にかほんの微々たるものではあったが、やや傷の具合が良くなっていたのであった。
 そのことには、恵自身も気が付いていないに違いない。
「家族の人、びっくりしたでしょ? そんなになって帰ったら」
「いや、でもないんだ」
 そう言って彼はやや黙っていた。
 やがて語り出した彼の口調は、からりとしていた。
「……俺は両親、いないから。親父は飲んだくれてどこで死んだかもわからないし、母親は病気なのに無理して俺を生んですぐに死んだらしい。だから、今まで富良野のじっちゃんとばあちゃんに育ててもらった。そういう田舎から這い出てきたから、今は一人暮らしさ。どうなって帰ろうと、誰にも怒られやしない」
「……」
 何と言っていいか解らずに黙る美菜。
 あれだけの負傷をして誰もいない家に帰り、一人で手当てをしていたというのであろうか。その間の彼の気持ちのあれこれが想像ではあったが浮かんできて、美菜は何だかやりきれなくなってきた。
 大切な妹を身を挺して守ってもらい、かつ自分もまた助けられているのに、傷ついた涼輔をそうやって放っておいたことの重さと後悔が、水面の波紋のように彼女の心の中に広がりつつあった。
 そこまで考えた時、美菜は今もっとも彼に言わなくてはいけないことを思い出した。
「……恵のこと、ありがとう」
「ん?」
「あの時、真剣に叱ってもらったから、あたし、目が醒めた」
 ちょっと恥ずかしそうに苦笑する美菜。
「とか言っても、結局助けてもらっちゃって、あたしは何にもできなかったんだけど」
「……そうでもないな」
 涼輔がきっぱりと言った。
「……何て言っていいのか判らないけどさ。今まで独りで戦って、独りで勝ったり怪我したりして、どこにも心の行き場がなかった。でも、恵ちゃんとか皆、一緒に戦える人達と出会えたからね。このことは大きい。恵ちゃんにも言ったけど、皆で強くなろうって目標ができたし」彼はちらりと美菜を見やった。「あの土壇場で、よく力を貸してくれたと思っている。あれが俺一人なら、今はなかった。礼を言いたいのは俺の方さ」
 さらりと言っているように聞こえるが、彼にしては異例の長台詞である。そういう形で、彼なりの、旨く表現しきれないだけの感動と感謝を述べているつもりらしかった。
 今はそれが理解できる美菜としては、無性に照れくさかった。
 そんな感情が、彼女に新たな心を開かせたのだった。
「――あたしね」美菜が徐に口を開いた。
「好きな人がいたんだ。何ヶ月か前になるけど」
 涼輔は黙ったまま、散っていく桜の花びらを見つめている。
「秘双の化身だったの。一緒に戦って、何度も助けてもらって、それで、いつの頃からか、好きになってた」
 遠くでホイッスルの鳴る音が聞こえた。サッカー部が朝練でもやっているのであろう。
「でも、いつだったかな、ある夜に突然、もう会わないからって言われて。何で、って聞いても何にも教えてくれなくて、納得できないから、しつこく聞いたら、お前の存在は俺には必要ない、って。どうしようもないくらい、ショックだった」
 それから、美菜はしばらくの間沈黙していた。
 涼輔はその先を訪ねない。相変わらず寝転がったまま、遠くを眺めている。
 遠くで、生徒達の歓声が聞こえた。
「……本当に、好きだと思ったから、辛かった。彼はそのままいなくなってしまうし、どうしたらいいかわかんなくて。それであたし、単純だから、こんなに辛い思いする位なら、男の子なんかには近づかないでおこうって、思った。どうせ人を好きになったら、きっとまた同じ思いしなくちゃならないんだからって。だから、周りの男の子達をみんな無視して、わざと冷たいフリしてさ」
 彼女は隣の涼輔に視線を向けて、苦笑した。
「実は一番自分勝手だったの、あたしかも知れないね?」
 恵を守らなければという必死な責任感と、裏切られた悲しさを堪えようとする気持ちの狭間で、彼女は何とか自分を支えようと懸命だったのである。
 そんな美菜の本当の気持ちを、恐らく聡明な恵も気付かない筈はなかったであろう。が、姉思いの彼女は、知らない振りをして一切口にすることはなかった。涼輔に心を開いて色々話した時でさえ、姉の態度は自分を守ろうとする余りなのだと言った。
 ただ、彼女が実際に味わった気持ちである以上、尊重すべきだと涼輔は思った。しかしまた、この先築かれていく人間関係の中で発動する必要性などほとんどないだろうとも思われた。
 全くといっていいくらい、新しい局面が始まろうとしている。
 各人が意識を変えて押し寄せる困難に真っ向から、時には協力して立ち向かうことが一番大切なことであり、彼も含めて、過去の云々はまず価値を持たないに違いない。
 そこまで思い至った時、涼輔はのんびりとした声で言った。
「……いいと思うよ、それで。そういうものもみんなまとめて飲み込んで、俺達はそれぞれ自分を強くしていくんだから」
「……そう。そうだよね」
 美菜は静かに微笑んだ。
 いい加減なようでいて、でもふんわりと包み込んだ答えをくれた涼輔の気持ちが嬉しかった。
 ふと、涼輔が起き上がり、思い出したように
「……何で俺達が『双転生』っていうか、知ってる?」
と 言いかけて涼輔は「……訳がないんだっけ」
「なんでなの?」
 子供みたいに質問する美菜。
「人間の生命を産み、育み、守るもの。それは大きく言えばやっぱり生命ってことで、一つでしかないんだけど、護る役割と産み慈しむ役割と、この世の中は二つで構成されている」
 涼輔は、人差し指と中指を立てて見せた。
「それってつまり、男性と女性ってこと?」
「その通り。二つが揃って初めて一つ。どっちが欠けても駄目。だから『双』。そして、生命世界の象徴が俺達っていう姿形をとって現れた。それで『転生』。だから双転生。幻魔の連中は双転の化身って呼んでくるけど、意味的にはおんなじ」
 そこで涼輔はちょっと首を傾げた。「……らしいよ」
「でも、なんか嫌だな。誰かの生まれ変わりとか実は別物だとか、そういうんじゃ、何のために生まれて来たかわからないわ。あたしはあたしだもの」
「ああ、だろうな」
 するっと間の抜けた答え方をする涼輔。「……俺もそう思うもの」
 美菜は可笑しくなった。「なぁんだ。じゃ、一緒じゃない」
「俺達は俺達、さ。それ以上でもそれ以外でもない」
 また、彼はごろりと仰向けに寝転んだ。
「……で、あたしと浅香君とが双転生だと、何かあるの?」
「そいつは、俺にもわからない。……嫌かね?」
「まさか! 嫌な訳、ないでしょ」
 嘘偽りなく、本心である。普段はこれっぽっちも飾り気がない癖に、いざとなればあれだけ必死になって守ってくれた彼に対し、今は人として好感を抱いている。
 美菜が即答で否定してみせると、
「……安心した」
 のんびりとした調子で、涼輔は言った。
 そのまま、二人はグラウンドの向こう側、河川敷に広がる桜並木のピンク色を眺めている。
 ふと、美菜が思い出したように
「一つだけわからないのよ。どうして、幻魔衆はあたし達をこうも狙うのかしら?」
「過てる生命の働きってヤツは、正しい働きを嫌う。正しい働きを邪魔したり消そうとすることが、そもそもの道理に反しているだろ? その生命の働きの象徴が、幻魔衆なのさ。だから、奴らは俺達を狙う。俺達がいる限り、あいつらはいつまで経っても目的を果たせないから」
「幻魔衆の目的……って、何?」
「俺達のこの世界、現界を侵すこと、だそうだ。侵してどうするつもりなのか、それはわからない」
 人間は誰しも、その生命の内側に悪い部分を具えている。
 そうした真実を認識することが人間にとって重要である反面、その存在理由を突き詰めてみても、恐らく正確な答えは出ないに違いない。そもそも具わっているのだから、人間は冷静にそれを覚知すべきなのだ。最も大切なことは、生命悪の存在云々を分析するのではなく、、その生命悪にやられてしまわないことである。
 つまり、人間として生きていく以上、常にそれを戦い続けなければならない。
 漠然と、涼輔はそんな気がしている。しかし、くどくどと講釈をたれずとも、聡明な美菜はきっと遠からぬ時期にそのことを自ら悟るであろう。
「……ふーん。教えてくれてありがと。初めて聞いたわ」
 突然双転生の話を始めた彼の真意はよくわからなかったが、少なくとも昨日までの彼女に対してなら、涼輔はこうも話さなかったであろう。色んな葛藤と蟠りを乗り越えた彼女であればこそ話そうという気になったに相違なく、それはまた、そういう意識にまで高めてくれるきっかけになったのは、最終的には涼輔なのである。
 ぎりぎりという時点で、彼らが感知し得ない不思議な何事が遣わしてくれたもの、それこそが涼輔であり、自分達で解決し得ない困難を克服するべく、彼が『降臨』してきた。根拠は何もなかったが、美菜はふとそんな気がした。
 だとすれば、生命という存在は、決して理不尽なものではないのかも知れない。悩み、苦しみ、辛い思いをしただけ、それなりの答えをくれる、否、答えを出せる自分になるということなのであろう。
 美菜はゆっくりと立ち上がった。
「さ、行こ? 授業、始まるわよ?」
「……」
 行くとも何とも言わずにいると、美菜がすっと手を差し伸べた。
「行こ、浅香君」
 彼女はもう一度繰り返し、そして言った。「……仲間の姿が見えないと、心配だから」
 微笑んでいる。
 もうそこには、初めて顔を合わせた時の刺々しさはなかった。
 そして、美菜自ら『仲間』と呼んでくれた。
 涼輔は首だけ傾けてじっと美菜の顔を見つめていたが、やがてその差し出された手を取った。
 美菜がぐいと勢いよく引き起こす。
 二人は向かい合う形になった。
「……よろしくね? 浅香君。これから、先も」
「……ああ。よろしく、頼む」
 幾片もの桜の花びらが、二人の上に舞っていく。
 ふと見上げた先で、眩しいほどの青空が広がっていた。


 <降臨の章 了>


ここまで書き終えて、半ば呆然としています。
構想から、約13年を経て、ようやく一つの区切りに辿り着くことができました。
13年。思えば、かかったものです。
あらすじそのものではなく、「生命」という、人間のいわば本質をモチーフにしたために、非常に苦しみました。どういう表現方法をとれば、よりその主題を的確に伝えることができるのか、人間として未熟な私には、途方に暮れる思いでした。でも、自分が感じ、思い、考え、養った思想や哲学、そして生き方というものを何らかの形で表しておきたい。この願望だけは終始一貫変わらず、結果としてとんでもない時間をかけてしまいましたが、やっと一つの里程に到達することができたようです。
人間の生命は、善だけでも悪だけでもない。両方を兼ね備えているものです。これは間違いありません。ただ、その現れ方によって人はそれぞれ全く異なった生き方をしてしまいます。生命の負の方向性に引き摺られず正しく生きていく、そこに必要なものが「強さ」であり、強さは困難に立ち向かってのみ養われていくものです。綺麗事でも何でもなく、真実はそこにしかないと確信しています。
それをどうしても表現したくて、小説、そしてこの作品という手法をとりました。
元々ネットにアップしたり懸賞に応募するつもりもなかったので、非常に長いストーリーになることを承知で書き始めました。きっかけを得てこのような形でアップしたのですが、多くの方が見て下さっているということが、こんなにも支えになるのだとは、正直思いませんでした。
そういう理由で、この章はプロローグに過ぎません。
人間の生命を表現するのだから、この先どれだけ紙数を費やしてしまうのか、想像もつかないです。もしかすると、結末まで辿り着くことはできないかもしれないという恐れの中にいます。でも、間違えたことは書いていないつもりなので、その確信がある限りは筆を進めたいと思っています。
次章からは、もう少し書きやすくなるのではないかと、淡い期待をもったりもしていますが。
とにかく、この章を読んで下さった方に篤く御礼申し上げます。ありがとうございました。
引き続き、次章以降もお目通しいただけましたら、こんなに幸いなことはありません。
よろしくお願いいたします。


北野 鉄露






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