降臨の章21
今度こそこれまでかと思った。
恵を助けに行ったまま、涼輔はまだ戻って来ていない。
まさに命を奪われようという土壇場ではあったが、不思議に美菜にはそれほどの恐怖はなかった。それがどういう精神の作用なのか、彼女にはよく解らない。
ただ、これまでの自分の中の蟠りが涼輔の一喝によって綺麗に霧散していて、純粋に仲間を助けるべく傷つきながらも全力でここまで戦ったこと、そういう懸命な自分に初めて向き合うことができた満足が、心のどこかに清清しく広がっていたことは確かであった。
捕えられた恵が心配ではあったが、恐らく――涼輔が約束を果たして無事に現界まで連れ戻して来てくれることであろう。
もし、美菜が命を落としたことを知れば、恵のことである。生きていく何物も失ったかのように嘆き悲しむであろうが、その後のことは涼輔がしかるべくやるであろう。
美菜は、がくりと全身の力を抜いた。
抜いた瞬間、目の前をさっと光る何かが通り過ぎていくのを見た。
間髪をおいて、彼女は急に重力を感じた。
一瞬、落下していく感覚があり、そのまま何か柔らかなものが崩れていく美菜の身体をしっかりと受け止めていた。
「……?」
振り返るより早く、眼前の幻魔が突如絶叫していた。
「ぐっ、があぁぁッ、う、腕がぁぁっ!」
上腕から先を失った幻魔が、左手で押さえながらのたうち始めた。
何が起こったのか飲み込めずに呆然としている美菜。
「大丈夫? お姉ちゃん」
聞き慣れた声が、不意に耳元に届いた。はっとする美菜。
ゆっくりと首だけ振り向いてみる。
恵であった。
彼女が、力の抜けた美菜の身体を懸命に、しかししっかりと支えていた。間違いなく、異空へ連れ去られてしまった筈の妹の恵であった。
頭が回らずにぼんやりとその顔を見つめていた美菜。やがて事情が飲み込めてくると、知らず胸の奥から込み上げてくるものを感じた。何度も瞬きをしているうちに、その眼に涙が溢れ始めた。
「……恵、あなた、よく無事で……」
自分の無事を歓喜している姉の涙を見て、思わず恵も涙ぐまずにはいられなかった。姉を支えている腕に、自然に力がこもる。
「うん。私よ、お姉ちゃん。もう殺されるかと思ったけど、浅香さんが助けにきてくれたの。だから、こうやって戻ってこられたの」
そういう彼女の制服がずたずたになっていることに、美菜は気が付いた。腹や脚が露になっていて、こういう状況下でなければ、とてもではないが人前に出られる格好でなくなっていた。
「それ、制服……。ぼろぼろね」
「あ、うん、これ……」恵は恥ずかしそうに、ちょっと顔を赤らめた。
「幻魔衆に脅されて、こんなにされちゃった」しかし、すぐにパッと表情を明るくして「……でも、怪我していないし。傷の一つもないのよ? 浅香さんがずっとあたしのこと、庇ってくれたから……ね」
ふと見ると、恵の背後に涼輔が立っていた。
無事の再会を果たした姉妹を、静かに見守っていたのである。
美菜の視線に気が付くと、彼は微笑して見せた。
「……よう」
「浅香……君」
それ以上、あとから言葉が続かなかった。
この男は、困難と思われた恵の救出を約束通り果たしてきたのである。にも関わらず、どういう気取りも驕りもなく、ただ笑顔を見せているだけである。
何という奴なのか、とは美菜は思わなかった。
余計な思念をさし挟む余裕すらない程に、恵が無事で戻ってきてくれたその喜びは大きかった。
そんな歓喜は、怒り狂った幻魔の咆哮によって現実へと引き戻されていた。
「この、この、人間共がぁ! よくも、俺の腕を!」
巨体の幻魔は、憎悪に満ちた視線を足元の美菜と恵に向けた。
狂性というその名のごとく、平静を失った、人間の生命の乱れ狂える様をまざまざと象徴しているかのようであった。
激しく身体を揺すり、掻き毟り、何度も地団駄を踏んだ。
目の前で繰り広げられているその狂態に、思わず息を飲む恵。
狂性は残った左腕をぐっと振り上げた。
天井に向かって突き出された手の先には、数十センチにもなろうかという鋭利な爪が伸びていた。
「殺してやる! この、この、双転のォ――」
そのまま、絶叫が最後まで轟くことはなかった。
懐にすっと音もなく飛び込んだ涼輔が、一瞬にして下から上へ、零距離で命術を打ち放っていた。
暗い廊下に、白く閃光がフラッシュする。
力強い生命の一撃は無様な狂性の上体を微塵にふっ飛ばし、欠片も残さなかった。後に残っていた下半身も、見る見る細かな光の結晶と化して、宙に舞い上がって消滅した。
「……やかましいっての。目障りな奴だ」
すぐ後ろに、美菜と恵がいる。
涼輔の命術が炸裂した直後、微かに何かがふっと散った。
それをまじまじと眺めていた美菜は、それが赤いものであることを確認した時、血だと知った。
「……」
見上げた先に、涼輔の背中がある。
制服が、ずたずたに裂けていた。
はっとして恵の顔を見ると、彼女は悲しそうに表情を曇らせた。
「浅香さん、私を庇って……幻魔の命術を受けてしまったの」
美菜は言葉を失った。
(浅香君、恵のこと、庇って――)
得体の知れない感情が、美菜の心を貫いた。
口が利けなかった。
少なくとも、これまで彼女が出会ってきた人間の中には決していなかった存在である。我を立てずに争いを収め、確信をもって一言を吐き、やると言えば傷ついてでもその通りにやってのける。なのに、何一つ功を誇ることなく、春のそよ風に吹かれているかのような涼しい顔をしている。守られたのが自分の妹であるというのもさる事ながら、目に前にいるこの少年の尋常ならぬ人間としての、もとい生命の強さの現証に、彼女はあらゆる反感と敵意を喪失していた。
やや呆然としていた美菜は、彼に何か声をかけることを思った。
「……あ、あ、浅香……君?」
「……ん?」
涼輔は、犬が呼び止められて振り返ったみたいな、他愛もない顔をしている。
「そ、それ、背中……。傷、ひどい、よね?」
いっぺんに色んな事がありすぎて心地が定まらない美菜は、語調がおかしくなっていた。そんな彼女に、涼輔は
「ああ、これ?」ひょいと自分の背中を肩越しに一瞥して「……油断した」
情けなさそうな顔をして見せた。
「は……」
大怪我を負った割にはあんまりにも悲壮感のない間の抜けた彼の仕草と言葉に、するりと心の間合いを盗まれた美菜。恵を庇ってそうなったくせにその事すら言わず、自分のドジにして片付けてしまおうとしている。途端、色んな思いが一気にぶち抜けて、美菜は思わず笑みを浮かべてしまった。
「ふっ……」
「へへ……」
大した言葉こそなかったが、これが二人の和解しあった瞬間であることに気付いた恵。彼女もまた、ちょっと困ったような、それでも安堵したように笑顔を見せた。
「もう。任せてくれなんて、あんなに大見得切ったくせに」
美菜はそっと俯いた。「……ドジ」
そのまま、堪えきれないようにくっくっと笑い出した。
「お姉ちゃんたら! 何てこと言うのよ!」
怒った風を装いながらも、恵も可笑しさを隠せない。
「ドジ、か。ホントだよな」
涼輔も笑い出し、とうとう三人とも笑ってしまった。あの川べりで恵が連れ去られた時はそれぞれがそれぞれの位置で辛い思いをしていたが、涼輔の一歩も退かない強靭さと、そして自分の心の壁を突き崩した美菜の勇気とが、こうして三人の笑いという形になって結実したのである。
が、ひとしきり笑ったところで、恵がふと表情を消した。
狂性を打ち破ったというのに、薄異空特有の、空間全体がくすんだような心地の悪さが、いつまで経っても残ったままなのである。
「浅香さん、今ので、終わりでしょうか? まだ、気味の悪い感じがするんです」
修羅場を潜ってきて、恵にもそうした感覚が養われつつあるようだった。
ようやく命の保証を得たばかりの美菜にはさすがにそれが解らず、答えを求めるように涼輔の方を見やっただけであった。
彼は長く暗い廊下の先にじっと視線を送りながら
「……ああ、だな。とんでもないのがもう一匹、寄ってきやがってる」
五感でも直感でもない。頭か胸中なのか、それも定かではない。
とにかく、意識の中に何者かが「いる」ということだけが、明確に流れ込んできているのである。それは、期待で胸が躍るような感じは決してない。いかにもおどろおどろしく、ねっとりと絡みつくようで、ひたすらに嫌悪すべきものであるように、彼は感じた。ただの幻魔衆なのかといえば、これまでに出会ってきたそれとは、まるで別の気配であった。
もう少し具体的に迫ってこないと、どこにどういう奴が現れようとしているのか予想が出来なかった。ただならぬ存在、としか言いようがない。
(こいつは……明らかに、ヤバい奴だな)
長い前髪の下で、彼の表情がぐっと険しくなった。
涼輔は、当然ケアしておくべき存在のことを思った。
「恵ちゃん、お姉ちゃんを連れて、ここから姿を隠すんだ。もうじきやって来る馬鹿は、俺が接待しておく」
彼の実力を知っている恵は「はい!」と素直に返事をし、姉を抱き起こそうとした。
しかし、美菜は優しくその手を押さえた。
「恵。先に行って、公司君と咲貴ちゃんを手当てしてあげて頂戴。あの子達、かなりひどく怪我してたの。だから――」
「え? でも、お姉ちゃん……」
ゆっくりと立ち上がり、振り向く美菜。
その表情は、すっかりと穏やかで優しい姉のそれになっていた。
「あたしなら、大丈夫。あちこち打ったりしたけど、直接打撃を受けたりした訳じゃないから。それに――」
涼輔の背中に視線を向けた。
乱刃でも浴びたように、縦横斜めお構いなしに制服が裂けていて、その下に着ている白い筈のTシャツがほとんど白くなかった。暗いためにはっきりとは見えなかったが、恐らくそのTシャツも切り裂かれていて、もっと言えば涼輔の身体自体がそういう状態になっているに違いない。
といって、美菜の心はそれがぞっとするとか痛そうとかいう風に反応した訳ではなかった。
大事な妹を救うために――という一点が、彼女の胸中を満たしていた。
涼輔は身体を張って妹を助け、あまつさえ自分自身をも一度ならず救ってくれたというのに、一体、自分は何が出来ていただろう? と、美菜は自問した。今日という一日を振り返り見るとき、彼女は咆えてばかりで幻魔衆の一体すらまともに撃退できていないではないか。昼間は涼輔に対して感情的に逆切れしてしまったが、今度は、少なくとも今は、何よりも彼に報いるべく行動すべきことを思った。
(そうでなければあたしは――)
単に、見栄とかギブアンドテイクのレベルではない。
自分を盾にしてまで誰かを守り戦い抜く涼輔の姿勢が、美菜の心に明らかに作用し、衝動的に突き動かしているのである。
そんな彼女の思いが、ごく自然にこんな事を言わせた。
「……浅香君、あたしも、手伝う。上手く手伝えるか解らないけど、でもさっきみたいにやれば、何とかできるかも知れないと思うの」
脳裏に、あの川べりで力を合わせて涼輔を深異空まで転移させた情景がある。
「……」
首だけを動かして、彼女をじっと見ている涼輔。
もしかすると繰り返し「逃げろ」と言われるかも知れないと美菜は思ったが、案に反した。やがて彼は深く頷き、
「……頼む」と言った。
短い言葉ではあったが、その一言にやたらと重みがあるように、傍の恵は感じた。姉が今まで自分から誰かに助力を申し出たことなど、なかったように思われたからである。そんな姉が、進んで涼輔に協力しようとしている。そしてかつ、これほどの実力を持つ涼輔が、美菜の力を借りたいと言っている。それぞれ傷を負っていることが非常に気がかりではあったが、それでもこの二人が力を合わせることで、きっと大丈夫なのではないか、と恵は思うでもなしに思った。
美菜もまた、涼輔が自分に居てくれと言ったことが、何より心地よく思っていた。
涼輔の賛同を得た美菜は、恵に頷いて見せた。行け、という合図である。
そのことを理解した恵もまた、こっくりと首を縦に動かし
「……じゃ、気を付けて、お姉ちゃん。浅香さん」
くるりと身を翻して、長い廊下の向こうへ駆けて行く。公司や咲貴は、さっき狂性の命術で吹っ飛ばされていたから、恐らくこの先に倒れているに違いなかった。
その足音が消えていくのを見送っていた涼輔と美菜。
二人は再び、無言で奇怪な気配のする方を見やった。
恵がさらわれ、涼輔が異空へ飛び、美菜が咲貴と公司を助けに戻り、そんな色々があってかなり時間が経過したのではないかと、美菜はふと考えた。が、ずっと薄異空の状態が続いているから、美菜と恵が川沿いの道を歩いているあの時間から止まったままなのである。しかし、今の美菜にそんな知識はなく、薄異空状態で空間自体が妙に澱んだようになっているから、時間が経過したように錯覚しても、無理はなかった。
しばらく沈黙が続いた。
ややあって、ちょっと焦れたように、美菜が口を開いた。
「……ねぇ、浅香君。ほんっとうに、まだ幻魔衆がいるの?」
彼女には、まだ幻魔衆が忍び寄る気配を探る感覚がつかめない。
それには答えず、なおも前方に注意を払っていた涼輔。やっと振り向くと
「……なんか、よく解らない。一匹いるのは確かなんだが」
彼はそこで首を傾げた。「その周りに、何かがうようよしていやがる。それが実体なのか単にそいつの生命力の余波が放出されただけのものなのか、はっきりしないんだ」
と、解説してもらったところで、美菜にはどういう意見も呈しようがない。
「ふーん……」
感じたままを伝えただけだが、正直なところ、こんな得体の知れない気配は涼輔にとっても初めてであった。幻魔衆との戦いは多くの場合、サシとは限らない。大抵は彼ら本体が作り出した人形のような手下「核徒衆」や、あるいは命幻術という「迷い」「惑い」を具現化した術の効果によって、何体もの幻魔衆を相手にしなければならなかった。涼輔がさっき倒した狂性などは生命の「個」としての働き故に単体であったが、虐性や酷性などはそういった命幻術をもって彼に挑んできた。
とはいえ、術の使い手そのものははっきりしている訳だから、彼らの存在を明確に認識できればそれまでなのだが、まるで何体もいるかのような、かといって一体かも知れないというあやふやな状態は、経験豊富な涼輔のデータの中にもなかった。例えるなら、中に一人しかいないといわれた部屋に入ろうとして、何人もの人間がいるかのような気配を感じてしまうことに近いかも知れない。一人だと言われているのに、実は大勢がいそうだと疑ってしまったら、誰だって気味悪く思うものである。
程なく、疑問の一端は氷解した。
虐性、狂性など倒した筈の幻魔衆、それに二人が知らない他の幻魔衆の姿が幾体も、暗い空間にじんわりと明確に現れだしたのである。あたかも、CGで編集された映像のようである。おかしいのは、そのどれも身動き一つせず、亡霊のようにすうっと、その場に佇んだままでいる。悪口やら挑発を投げかけてくるものもない。
「……あ、あれ! またあいつがいるじゃない!」
狂性の姿を認めた美菜が声を上げた。が、すぐに様子がおかしいことに気が付き
「何で黙っているのよ? さっきは、あんなに咆え狂っていたのに」
そのことよりも、姿を現出し始めた幻魔衆の一団に、どれも確実な気配がしないことを涼輔は奇異に思った。気配が無、つまり、姿があるだけで生命の働きや意志が全くないというに等しい。
(わざとやっている訳でもないだろうに。……それとも、奴らのそもそもはとっくに消滅しているから、姿だけで核徒衆に成り下がったとでもいうのか?)
それらはやがてくっきりと実体化したかと思いきや、一斉にふっと消えた。
刹那、涼輔は周囲に強烈な悪意を感じて取った。言うなれば、敵意、憎しみ、恨み、そして殺意。どれ一つとして、真っ当な生命の働きではない。囲まれる危険性を、彼の鋭い感覚が察知した。
「……何ィ!」
咄嗟に身を翻して美菜に飛びつくと、一気に意識を自分の外に弾き出した。
途端に二人の姿がふっと揺らぎ、一呼吸おいて廊下のずっと先で再び実体化した。
ほとんど同時に、彼らが今しがたいたポイントで、青白い光がまるで巨大な打ち上げ花火の様に猛烈に爆発した。ドドドドという爆音が轟き、普請全体が振動した。それらが止むと、煙のようなもやのようなものが立ち込め、視界を奪った。
「……へ?」
何が起きたのか理解できず、呆然としている美菜。
彼女から手を離しつつ、涼輔は今いた方向を向きながら静かに身構えた。
「……いきなり、ごめん。だけど、余裕がなかった」
「あ? ……うん、ああ、そう、いうことね」
美菜の頭の中で、たった今起こった幾つかが、やっとつながり始めた。涼輔が予告なしに彼女を抱き抱え、しかも突如転移をかましたことを謝っているのだと気が付くまで、やや間が要った。が、それらは殆どどうでもよかった。涼輔の直感と機動力がなければ、さっきの時点で彼女は殺されていたのである。それに、本来の美菜は、いちいち細かい事をとやかく言う趣味もなかった。
「……ありがと。また、助けられたね」
礼を言いながら、自分で自分が可笑しくなっている。簡単に誰かに礼を述べられるような自分ではなかった筈なのである。場合が場合だったからかも知れないが、今の彼女の心中では、これまでと明らかに違う作用が起きていた。
「……礼する程のことじゃないさ。次は、俺が助けられるかも知れない」
そんなことがあるのだろうかと、美菜は何気なしに思った。
涼輔は、じっと廊下の先を注視している。
見えない向こう側で、いかにも凶悪な本能だけが蠢いている気配がある。彼は頭の片隅で、今の幻魔衆らがもしかすると単なる「影」なのではないかと思った。影は意志を持たない。その代わり、本体と同じ動きをする。その本体が各幻魔衆のそれぞれでないとすれば、本体は別にいるということになる。当然、明確な存在はその一体のものしかつかめないであろう。
影を消し去るには、影を狙っても意味がない。
影を作り出す存在を打ち消すしかない。
(……親玉見つけて、吹っ飛ばすしかないか)
独り、合点する涼輔。
頓悟した瞬間、彼は再び迫り来る邪気を感じていた。執念深く、しかも念入りに、二人を追い詰めてきているようである。蜘蛛の巣のように、それは彼らにまとわりついて離れないのであった。
「……しつこいっ!」
またも美菜を連れて回避しようと試みる涼輔。
一瞬、深異空で恵を抱えて転移した時のことが脳裏を過ぎり、そこで彼ははっと気が付いた。
(これって、もしや――)
が、そんな閃きが涼輔に転移の発動を遅らせた。
美菜を抱き抱えてその場から消えようと意識を集中させかけた瞬間、あろうことか視界に暴性の姿が飛び込んできた。
目と鼻の先である。既に、囲まれていた。
「……ちっ」
咄嗟に、転移は諦めた。間に合わない。
視野の片隅で、幻魔衆、否「影」の生み出した命術の鈍い光を認めつつ、涼輔は美菜もろとも、わざと背中から倒れようとした。重力に引かれて倒れかけながら、巧妙にも彼は思い切り床を蹴って勢いをつけ、より遠くへ倒れこもうと試みた。
抱えられている美菜には、涼輔の意図が解らない。
「あ、浅香君? 何を――」
「――くっ、かわしきれない!」
すぐ傍に、影奴が殺到していた。
無言、無表情で音もなく接近してきて、それぞれがすっと腕を振りかざした。
たちまち、あちこちに鋭利な刃が何本も生まれた。この状態で振り下ろされたならば、間違いなく涼輔も美菜も膾斬りにされるであろう。
(……まずったか!)
計算違いを悟った涼輔。
仕掛けておいて急に中断した転移の命術が、完全に解放しきれていなかったのである。涼輔の命術の発動とその転換があまりにも早過ぎた。自分達を空間的に跳躍させるために集約していた生命力がそこに残留していて、物理的な運動に干渉してしまっていた。そのせいで、思い切り背後にすっ飛ぼうとして床を蹴ったにも関わらず、殆ど功を奏さなかったのであった。むしろ、背後にゆっくり倒れていくという、スローモーション状態にすら陥っている。
正面百八十度、直近はほぼ幻魔衆の姿しか見えない。それだけ、もうすぐそこまで迫ってきている。
「……!」
さすがの涼輔も、ここにきて焦らざるを得なかった。
が、それは彼だけのことである。
その腕に抱き抱えている運命の女神がどういう判断を下すかということにまでは、計算が及んでいなかった。幾多もの過去の戦いが全て単独で立ち向かわねばならなかったが故のいわば習慣のようなものであり、少しでも自分以外の何かに頼る思想があったならば、今日の彼はなかったといっていいかも知れなかった。
今の彼の幸運は、その傍にいたのが恵ではなく美菜であった。
その運命の女神は、ついこの瞬間まで、涼輔のなすがままに任せていた。が、ただの素人ではない証拠に、この娘は自分の周りで進行しつつある事態をきちんと認識していたのである。
理由は何だかよく解らないが、倒した筈の幻魔衆がなおも出現して襲ってきつつあり――触れ合わんばかりのすぐ隣で、涼輔が「かわしきれない」とか口走っている。
彼女自身が決して冷静になれていた訳ではなかったが、要するに二人とも危険な状態であることだけは、把握した。
涼輔が焦りかけたのとほぼ同時に、咄嗟に右腕を幻魔衆の一団へ差し向けた美菜。
向けるが早いか、ありったけの念を手先に込めた。
たちまちのうちに右手に眩い光が宿り、そして右腕全体へと伝わっていった。こぼれ散った光がちらちらと乱れ飛び、ラメの粉末が吹き散らされて宙で輝いているようである。二人は上から下に沈みつつあるから、光の粒は左右へ大きく振りまかれ、その様子はあたかも白い翼を広げたようである。
「……ってぇ!」
一瞬の気合で、光は放たれた。
廊下全体を呑み込むほどに肥大化したそれは、驚異的なプレッシャーをもってあやふやな存在の「影」達を一撃で微塵にふっ飛ばし切り裂いた。
勢いは留まらず、壁や廊下や天井を真っ白く染めながら、神速をもって突き進んでいく。ずっと前方まで光は駆け抜けていき、やがて「ゴォン」という唸りと共に、一際激しい閃光が起こった。稲妻のように二、三度ピカピカとフラッシュを繰り返し、光はすうっと終息した。
あっという間に辺りは、元の闇にフェードインしていく。
「……うわっ!」
「きゃっ!」
自ら創り出した転移の呪縛に捕らわれていた二人は、美菜の命術の発動によって解き放たれた。途端、慣性と重力の法則が忠実に作用し、二人の身体は一気に後方へ吹っ飛んだ。ついでに、美菜が術を撃った反動も付加されていたのである。
暗い廊下を派手に滑り転がった二人は、すぐには起き上がれなかった。
危機一髪を回避したばかりで、全身に力が入らない。それに、涼輔も美菜も負傷している身である。
「……あ、あのさ」
ややあって、天井を見つめたまま、涼輔が口を開いた。
「……な、何?」
鼓動の高まりが収まらない美菜。
「……言った通り、だっただろ?」
「え? 何が?」
一足先に、やっとのことで美菜が上体を起こした。
「俺が、助け、られたでしょ?」
何か予感でもあったのか、この男はそんなことを言った。自分の功は億尾にも出さない反面、他人のそれには誠実であろうとしているらしい。が、美菜は大して気にする風もなく
「何とか、ぎりぎり」微笑して「……でも、お互い様でしょ?」
少しも恩を着せるようなところがない。そういう部分では、この二人は限りなく似ているのかも知れなかった。
首だけで美菜の方を見ている涼輔。何か言いかけようとしたが、黙って身体を起こすことに意識を集中した。彼といえどもダメージの大きさはカバーしようがなく、やっとのことで立ち上がった。
ぺたりと床に座り込んだまま、美菜はその様子をじっと見ている。
ふと、彼の背中が接触した部分の床に延々と血が付いているのが目に入った。
今さらどうすることも出来ないが、余りにも痛々し過ぎて、美菜はその様を正視できなかった。辛そうに表情を曇らせたが、幻魔衆の気配が気になっている涼輔には、そんな彼女の変化などは解らない。
その時。
闇の先から「――ォオオオオォ……」という、低い唸り声のようなものが聞こえてきた。
無言で立ち上がりかけた美菜は、はっとして動きを止めた。
「……来やがったぜ、お客さん」
涼輔は普段の声色のまま言った。癖なのか、ポケットに手を突っ込んでいる。
そろそろと立ち上がった美菜は、スカートの裾を払いながら
「……何、あれ? なんだか、獣みたいな声がしたけど」眉をしかめた。
「獣、だな。ただの獣ならまだ可愛いモンだけど、あいつは人間の生命がよほど狂って出来上がったヤツだから、ただの獣より相当性質が悪い」
「浅香君」
「……ん?」
彼女はむんずと、涼輔の腕をつかんだ。
「ポケットに手を入れてたら、いざという時に危ないわよ。結構気になってたんだけど、小銭でも入ってるの?」
言われてみれば、そうかも知れないと、彼は思った。見られていないようで、彼女は見ていたらしい。涼輔は素直にポケットからスポンと両手を抜き、決まり悪そうに笑って見せた。
「ああ、ごめん。癖だなぁ。……ほら、北海道って、寒くて」
「言い訳しないの」
「……はい」
見た目淡白でシリアスな割に、妙に愛嬌があって意外と気を遣ったりする。今に初めて感じた印象ではないのだが、彼のそんな部分が垣間見える度に、美菜は気持ちのどこかがふっと軽くなるような気がするのであった。
しかし、二人はすぐに闇の方に注意を向けた。
再び「オオオオォ……」という声が聞こえてきたのである。
ごくりと生唾を飲み込む美菜。
彼女とて様々な幻魔衆を相手に戦ってきたが、こうまで得体の知れない不気味な存在と相対するのは、初めてのことであった。空間の奥からずしりと重たいプレッシャーを絶えず吹き付けられているようで、あたかも、前から不良グループがやって来るのに出くわした新入生のような心地がした。
「……」
涼輔は一言も喋らない。じっと、狂気の気配を窺っていた。
少し間をおいて、またも例の唸り声がした。
と、同時に、闇にぽつりと一点の鈍い光が点った。
白でも青でも黄色でもない。赤かった。遠くに見えた信号機の様かといえばそうでもなく、赤は紫を帯びた、毒々しい色彩であるように、美菜は感じた。
次第に光は揺らめきながら大きくなっていき、うっすらと床や壁、天井をも映し出す程になった。しかし光には一切の閃きがなく、ぼうっと、どちらかといえば闇に浮き出ている、という感じである。ネオン管の、あの状態にも似ていた。中心付近の色が妙に濃く、周りにいくに従って形状が安定せず、ゆったりした炎のようにぼんやりとしている。
その光の中心あたり、色の最も濃い部分が透明度を失っていき、向こう側が完全に透けて見えなくなった頃、ぐっとTの字が浮かび出てきた。
よく見れば、厳密には、Tの字などではない。
人の顔を模していた。瞼や口は閉じられている。
眉のあたりがちょっと神経質そうな、しかしそれ程単純なものではなく、憂い、苦悶、苦悩、そして憎悪、そういう生命の負の働きばかりが滲み出て来たような、見るからにおぞましい感覚を与える相貌であった。
(……やっぱり)
涼輔が心の内で呟いた瞬間。
異形の幻魔衆が、カッと目を見開いた。
瞳孔が、ない。血走った白目だけが、微かにギョロリと微動した。
同時にその口が醜いばかりに大きく開けられ
「――オオオオォ」
と、本当に獣のように絶叫した。地獄でのた打ち回る亡者を彷彿とさせた。
その咆え声が轟くや、得体の知れない何かが吹き荒れた。
さっと身体を縦にして涼輔はその抵抗をかわし、美菜は片腕で身を守るようにした。
最初は強い風のようなものかと二人は思ったが、どうも勝手が違った。触れた箇所だけが、異様なな力でぐぐっと圧されていくのである。気を抜くと、そのまま背後に持っていかれそうにさえなる。
「な、に、これ……?」
必死に体勢を保ちながら、美菜が呻いた。風ではない証拠に、彼女の長い髪やスカートには、なんら作用していない。「命術……なの?」
違う、と涼輔は直感した。
明確にはわからないが、恐らく他者に対する憎悪や威嚇を象徴したインパクト、とでもいうべきものであろう。生命対生命の作用だから、命術でなくともそういう現象は時としてあり得る。ただ、それだけに相当性質の悪いものであると言わねばならない。
ふっと、インパクトのプレッシャーが弱まった。
「……双転……の、化身……。殺してやる……」
怨念に満ちた、搾り出すような禍々しい声が響いた。
耳障りで、聞く者をことごとく呪い殺してしまいそうな波長である。耳から脳を抜けて、胴体の奥まで陰々と震わせ、そこから破壊されるような心地にすらなる。余りの不愉快さに、美菜は顔を歪ませた。
が、涼輔は黙って表情も変えない。
彼には、すでにその正体の見当がついていた。
酷性である。
異空でさんざんやりあった末、涼輔の一撃によって消滅した筈の酷性。しかしながら、涼輔の妙な予感は的中し、やはりこうして執念深く彼を追ってきていたのであった。凄まじく狂いに狂った、想像もつかない程に破滅した生命の働きの具現である。
といって、人間の生命が生み出したものに他ならない。
我が生命を冷静に省みることなく、他者や環境だけを目の敵にし、恨み、妬み、憎み、呪い、ただひたすらにその存在の消滅だけを欲してしまった時、人間の生命は浄化もままならない位に乱れ狂ってしまう。こうなってしまっては、ちょっとやそっとの表面的なケアなどで復旧されることはあり得ない。犯罪者が釈放後にやはり犯罪を繰り返してしまうように、人間の生命というものは、根底から見つめなおし、メスを入れなければ到底修正さるべきものではない。
彼は、美菜の気持ちを解きほぐしてやるかのように、
「……あの馬鹿の薄ら汚い面に、見覚えないかい?」
「……よく、覚えてないけど、なんかどこかにいたような――」
一度見たような気もするのだが、何せ身体全体が固定化することなく、絶えず崩れかけたり戻りかけたりするものだから、はっきりと認識することができない。
眉間にしわを寄せながら凝視していると、涼輔が答えてくれた。
「そう、あいつさ。酷性の奴だ」
「……酷性? って、一体……?」
「あいつが、俺を異空に誘き寄せるために、恵ちゃんをさらうように外の幻魔衆の連中に入れ知恵しやがったのさ。今回の一連の襲撃を背後で操っていた、黒幕はあいつなんだ」
「……あの幻魔衆? 恵のことを、さらっていった……?」
「ああ。妙に悪知恵の働く、ろくでもない野郎さ」
そして涼輔は、こうも言った。
「ただ、要注意だな。一見冷静そうだったのが、やりあっているうちに独りで興奮して狂ったように笑い出しやがった。とんでもない猫かぶりだよ。」
美菜は、自分の内に、ふつふつと怒りが湧いてくるのを覚えた。
戦う力もない無垢な妹を、ただ自分や涼輔を罠にかけるために異空まで拉致し、抵抗もできない彼女を殺そうとさえしていたらしいという。そういう救い難い汚らしさを、彼女は何よりも許せなかった。
表情をキッと一変させた美菜。
「……あたし、恵の分の借り、あいつにきっちり返してやる。あたしが邪魔ならあたしに直接ぶつけてくればいいものを、よりによって恵に――」
彼女の闘気そして生命力が一気に高揚していくのを、涼輔は感じ取った。怯えるよりも、完全に戦おうという姿勢を見せた美菜を頼もしく思いながら
「賛成。あの馬鹿、今度こそ死ぬほど泣かせてやる」
彼にしても、恵の一件は腹に据えかねている。
深異空に飛んだ時は、とにかく恵を助けることに意識が動いたが、今という今は顧慮するべき何物もない。妹の身を案ずる余り、美菜が涙を浮かべた姿が脳裏を過ぎった。美菜が言う通り、自分を引きずり出すために可憐な恵に、どれだけ恐ろしい思いをさせたと思っているのか。
だけではない。
時間を巻き戻して考えれば、彼らは朝からしつこく恵を付け回していたのである。
自分よりも弱い者を狙うという、この卑怯という醜い悪質。かつ、どうも酷性は自ら手を下さず、他の幻魔衆に小出しにあたらせていたという形跡がある。涼輔によって彼等が脆くも駆逐された後、仕舞いには彼等の残留する念をかき集めて気味の悪い命幻術まで仕立てあげて見せた。
「ホント、しつこい野郎だよな。だから、幻魔衆なんて趣味の悪ぃ生き物なんかになっちまうんだぜ」
そうぼそりと毒づいている涼輔が、何となく判じ物めいていて、美菜は不意に可笑しみを覚えた。要するに目の前にいる幻魔衆は、彼すら持て余してしまうほどに執拗で陰険な奴なのだと、彼女自身も妙な部分で納得していた。
「……じゃ、さっさと片付けましょ。その、趣味の悪い生き物を」
すっと片手を差し向けたのを、涼輔は手で制するようにした。
「……待った。下手に撃ち込みなんかすると、あの馬鹿がどういう訳のわからん事を仕出かすかも知れない」
彼独特の勘が働くのか、そんな慎重なことを言った。
「それじゃ、どうすれ――」
気勢を削がれた美菜が苦情を口にしかけたのと、異変が始まるのと、ほぼ同時であった。
酷性の両眼が突然一閃したのである。
途端、彼の不定型な胴体がアメーバ風に波打ち出した。そこから幾本もの細長い触手が突き出て行く。毒々しい赤の触手は、鞭のようにしなっていたかと思うと、うねうねと海中の昆布のように宙を漂ったりしている。
それが一斉に、ぴたりと、動きを止めた。
止めたと思った瞬間。あっという間もなく、二人を目掛け伸びてきた。
迫り来る、などというものではない。目にも止まらない程のその早さは、あたかもレーザーの様である。しかも一本や二本ではなく、無数に、廊下という空間を埋め尽くしている。
明らかに、逃げ場などあるものではない。
「……!」
美菜ははっとしたが、身体はそう早く反応できない。
背中に冷たいものが流れた。
だが。
間髪を容れず、真っ白な光芒が空間を満たした。同時に、ギャギャギャと、不快な音が轟いた。
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