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双転生物語 降臨の章
作:北野 鉄露



降臨の章18


 間一髪逃げ込んだ瞬間だった。
 ギィン、と頭上で金属音のような、、何かが弾けた音がした。
 一気に冷や汗が吹き出た。
(やばいやばい……あんなん当たったら、命がないわよ)
 息切れを起こしているのだが、恐怖心のためにそのことに気が付かない。
 放課後、来未は仲のいい級友達と教室でいつまでも喋っていた。
 特に部活をやっている訳ではなし、かといって遠く故郷を離れて独りで暮らしているため、このまま帰ったとてテレビでも観ているよりないのである。希香や霞美でもいればまだ(半ば強引に、だが)彼女らの自宅まで押しかけていき、あわよくば夕飯までご馳走になるというシュミレーションも成立するのだが、新学期となって部活が始まってしまった以上、それも到底望めなかった。
 来未自身、自分に真っ向から向かって自己分析などしたことがなかったからはっきりとした形では意識にないのだが、どこかで寂しさを感じやすい自分というものを垣間見ずにはいられなかった。さらにそれは、近くに誰かがいると途端に頼りやすくなるという傾向に陥り、日常的に希香や霞美、あるいは幻魔衆が出現すると隆幸に、といった具合で、とかく誰かに接近していることで、得をしたり危険を回避したりしてきた。どう思っているかは別として、彼女とは逆に自分のあるべき姿を模索する性格の隆幸は、そのことに対しては特に苦情を言ったこともなく、淡々と自分の戦う術に工夫を凝らすことに専念していた。その結果、仲間内では美菜の次に実力を発揮する存在となり、丁度その傘の元に来未は守られ続けてきた、ということになる。
 しかし、今日、これまでにない強力な幻魔衆の出現によって、その平穏が破られたばかりか、潜在していた一同の課題が露骨に顕れた。爆発した美菜によって彼らの一人ひとりがその課題を真っ向から突きつけられたような格好になってしまったが、必ずしも皆がそれを受け止めて自覚した訳ではなかった。
 他人の長所をよく認める反面、自らのそれを低しとして恥じ入り、そのまま改善の努力まで至らない希香。対人面の美徳ではあっても、決して成長にはならない。
 そして――楽天的な視点をもてる余り物事のタカをくくる癖がつき、突きつけられた課題を開き直って拒絶してしまう来未。言い換えれば、耳に痛い事は聞けない、ということになるかも知れない。
 故に、腹の奥底で自分を強烈に罵った美菜を許すことが出来ず、一日中口を利くことがなかったのである。もっとも、話しかけたところで、同じように我を張っている美菜もまた黙殺したのであろうが。
 級友達が散って行き、残った来未は已む無く帰宅することにした。
(……つまんないの。誰か、何か誘ってくれたって、良さそうなものよね)
 心の中でぶつくさと呟きながら、人気の消えた廊下を歩いていく。
 西日が鮮烈に赤く、校舎の中を染めている。
 既に夕方の時間帯になっているから、日の当たらない教室や廊下は黒く影を落としていた。
 しんと静まり返り、他に物音はない。彼女の足音だけが、陰々と長い空間に響き渡っていく。 新学期も早々ということで、用のない生徒達は早々と帰宅したせいであるらしい。
 途中で、来未はふと思い返した。
(待てよ……希香ちゃんか霞美ちゃん、もしかしたらまだいるかも)
 部活に行っている彼女らなら、まだ学校に残っている可能性がある。
 美術室や化学室といった専門教科用の教室は、その設備の充実を図るために新しく建てられた新棟の方にある。普段生徒達がいる教室は、旧棟に位置している。二人の在非を確認するには、新棟へ向かわねばならない。
 棟自体が別に建てられた新棟は、旧棟の各階から渡り廊下で繋がれている。
 日中、幻魔衆に襲われた希香と霞美が右往左往していた場所である。
 来未はくるりと翻って、もと来た方向へ歩き出した。
 一面ガラス張りの渡り廊下を抜け、新棟に足を踏み入れた。
 建ってからまだ大分新しいので、旧棟とは雰囲気が違う。
 特に何の予感もなく、来未は歩いていた。
 廊下の両側に教室があるため、廊下自体は明るくない。むしろ、昼間でもほの暗く、怖がりな生徒などは日が落ちてから新棟へ行くことを嫌がる者もいた。しかし、根が楽天的な来未には、そういう自分で創出したイメージに怯えるようなところは、微塵もなかった。
 ダンジョンのように行く手が暗く、ぼうっと視界が悪い。が、階下へと通じている階段は、棟の思いっきり端にある。
 と、左側の教室の壁に、美術部の新入生勧誘ポスターが掲示してあるのが目に止まった。明るい色彩で海を描いた風景画の下に、新入生に向けて告知する様々な勧誘のくだりが並んでいる。
 通り過ぎかけて、来未ははっとそのポスターの方へ寄って行った。
「画・2年C組 風代 希香」
 というのがちらりと見えたからである。
(……お、希香ちゃん?)
 全く、何気なかった。
 ひょい、と子供が飛び跳ねるような調子で、壁際に寄ったに過ぎない。
 ほぼ同時であったろう。
 一呼吸前に彼女がいたその空間を、素早く何かが水平に飛び抜けていった。
 さすがの来未も、背後にただならぬ気配を感じた。感じた瞬間、廊下の向こうで鈍い光が生じ、ギイィン、と音が響いた。光と音はすぐに止み、元の暗がりに戻った。
「……!」
 もはや、希香の画などは視野に入らなかった。
 今、自分に起こっている事象を一瞬の後に理解した彼女は、血の気が引いた。
(げ、幻魔衆? うそ? こんな時に?)
 焦りが来未を即刻動転させた。彼女は鞄を放り出し、ほうほうの体で駆け出した。
既に無我夢中にすらなっていた。
 しかしこの場合、その行動が彼女を結果的に救った。
 その場を離れた瞬間、またも悪意の一撃が見舞われていたのである。光の弾丸のようなものが、今しがた来未が寄って行った壁に衝撃し、四散した。希香が描いたであろうポスターがあっという間もなくずたずたになった。
 そんな度重なる幸運など、今の来未が気付く筈もなかった。
 必死の形相で、廊下を疾走していくその様は、あるいは無様であったかも知れない。他に誰もいないという状況が、彼女をすみずみまで恐怖に染め上げていたからである。
僅かな闘気もあったものではない。自分が秘双の化身の力を有しているなどとは、増して夢にも思い出さなかった。
(隠れなきゃ、撃たれちゃう!)
 狙撃手に狙われたような心地で、来未は咄嗟に身を隠すことを思った。
 このまま直線の廊下を行けば、ストレートに撃たれてそれまでである。
 急に横っ飛びして右側の教室のドアに取り付いたそのすれすれを、三度光弾がかすめていった。逃げること、隠れることしか頭にない彼女には、幸か不幸か、それに気が付かなかった。
 渾身の力を込めてドアを引くが、びくとも動かない。カギがかけられていた。
(ああっ、もう! 何だって、鍵なんて――)
 反対側の教室に飛び込むことを試みようと、身を翻した途端。
 動揺していた来未は、足がよろけてそのままヘッドスライディングした格好になった。あられもない姿を晒したが、薄異空の状態で誰もいなかったのが幸いであったろう。
 その転倒は、彼女にとってもう一つの幸運でもあった。
 転んだ背中をかすめ、今度は低い軌道で命術が通過していったのである。ただしゃがんだだけなら、間違いなく命中していたであろう。 
 が、来未にとってはそれどころの騒ぎではない。
 地を掻くようにして慌てて身体を起こすと、目の前のドアに飛びついた。
 死ぬような思いで力一杯にドアを引く。
 しかし、力一杯は余計であった。教師が施錠していなかったらしく、ドアは簡単に開いた。勢い余って、来未はドアに引き摺られるようにして、右側へ転がった。
 転がった後を追うようにして放たれてきた光弾が間一髪で外れ、ドアの桟に当たってけたたましく火花を散らした。転がっていなければ、今度こそ背中にでも命中していたであろう。
 動作のいちいちがみっともないのだが、そのくせどれもこれも幸運の発動に繋がってしまっているあたり、来未という娘のもっている何事かを象徴しているのかも知れなかった。
 ただし、本人はそんな幸運などこれっぽっちも顧慮していない。
 そういう時だからこそ、幸運は巡ってくるということなのか、どうか。
「ひっ!」
 開いた戸口へ命からがら飛び込むと同時に、もう何発目かの光弾が襲う。
 そしてそこで
(やばいやばい……あんなん当たったら、命がないわよ)
 という台詞を内心で吐くに至るのである。
 とにかく回避することに必死で、相手の幻魔衆がどういう奴なのか、そいつの駆使する命術がどういうものなのか、彼女は全く確認していない。
 息が、切れている。
 距離にして大したことはなかったが、それでも派手に右へ左へ飛んだだけあって、身体中が悲鳴を上げていた。が、日頃の運動不足のせいだとまで考えるような余裕は、今の彼女にはなかった。
 教室の中は暗い。一部にほんのりと赤く夕陽が差し込んでいるが、窓の外にびっしりと立ち並んでいる樹木のせいで、ほとんど光が入っていないのである。
 よーく目を凝らして見れば、魚だの両生類だの標本があちらこちらにある。それで来未は、そこが生物室だということに気が付いた。普段から暗いため、生徒達から評判の良くない教室ではあったが、標本類を日光から守るという意味では、あながち外れでもないのかもしれなかった。
 教室は縦に長い。
 実験のために大きめな卓が揃えられており、授業のときはグループに分かれて一卓に5、6人が座ったりしている。来未は生物を履修していないからこの教室に縁がなかったが、蛙の解剖などがあるときには、女子生徒が嫌々ながら入っていき、授業が終わると皆、青い顔をして出てきていたりしたのを思い出した。
 ずっと前の方に黒板があるから、彼女は後ろのドアから飛び込んだことになる。
 呼吸を整えながら廊下の方の気配を窺ってみる。
 シンと静まり返り、足音一つしない。
 そこで来未は幻魔衆が神出鬼没だったのを思い出したが、同時に背中が薄ら寒くなった。安心などしていられない。物理的な障害に関係なく、奴等は侵入が可能なのである。
 と、思った途端である。
「……ケケケケケ。こんなところに逃げても、駄目だって」
 はっとして見ると、窓際にうっすらと青白い光が立ち上り、影のようにあわあわと人影がゆらめいていた。
 影は次第に濃くなっていき、その実体が明瞭に見え出した。
 相も変わらず、白いローブのようなものをすっぽりと被り、袖から先露になっている腕が気味悪いほどに細い。フードの下に、薄緑に鈍く点滅する二点の光。それはよくよく見れば、幻魔衆の目であった。
「――ひっ!」
 来未は、顔から血の気を引かせた。
 思わず後ずさろうとして、背後のドアにぶつかった。閉まっている。というより、自分で閉めたことなど恐怖のあまりすっかり忘れていた。
 ちらと背後を見やろうとした瞬間、何かが横顔すれすれで弾けた。
 ギィンという鋭い音が耳の直近で響き、耳の感覚がほんの少し失われていた。
 はらはらと、切れた前髪が行く筋か宙に舞っている。
 金縛りに遭ったように、動けなかった。首が、そちらを向けない。
 目だけをそうっと動かしていくと、幻魔衆の男が来未に向けて右手を差し向けていた。恐るべき早業で、命術を放ったのであろう。しかも、どう見ても今の一撃は、意図的に外していた。それも、彼女の顔すれすれに。
 老婆のような、鼻にかかったようなやや甲高い声で、幻魔衆は笑い出した。
「ケケケケケ……逃げられないよ、この私からは。他の連中と違って、私は瞬発的に命術の発動が可能なんだよ。……ほれ、こんな風に」
 言った途端である。
 来未の頭と左右すれすれでギギギィンと火花が散った。
「きゃっ!」
 思わず、蹲る来未。
 そんな彼女の姿に、幻魔衆は愉快そうに
「ケケ、いいねぇいいねぇ。そうやって怖がってもらうと、こっちも殺し甲斐があるってものだよ。私は乱性といってねぇ、人間が他者を傷つけようとする時の、生命の動きから派生したんだ。救い難い、救い難いよ、人間は。でも、お前の中にもあるんだから、私に殺されるのは、それはお前がお前自身を殺すようなものだがね」
 幻魔衆・乱性は、言った。
 俯いて、ただただ怯えている来未。このままでは、乱性の手にかかって命を奪われるだけであろう。
(いや! どうして、こんなことになるのよ、もう。富野君でも浅香君でも、助けに来てよ! お願いだから――)
 そう念じてみても、何かが期待される訳でもなかった。
 しかし、無我夢中で助けを求めて浅香涼輔の名前を念じた時である。
 そういえば――と、何気なく来未は思い出した。
 涼輔の一言である。
 放課後、級友達が一度部室や用事を足しに行き、教室には来未が一人きりになった時間がある。その時、たまたま彼が入ってきたのに出くわしたのである。
「……お、浅香君じゃない」
「……君か」
 二時間目後の対立以降、姿を見せなかったことを思い出し、来未はふと興をそそられた。この風変わりな転入生は、一体何者なのか。
 彼女はつかつかと近寄っていき、傍の机にひょいと腰掛けた。
 なんとも不行儀だが、来未は何とも思っていない。
「……ねぇねぇ、何処行ってたのよ? 授業サボってさ」
 涼輔はせっせと自分の鞄に道具を詰め込みながら「色々ね」と淡白に答えた。
「色々って、何よ? 教えてくれたっていいじゃん」
 言いながら、悪戯っぽく身を乗り出した。
「……ね、美菜の事、ムカついたんでしょ? それで顔も見たくなかった、とか?」
 すると、彼は手をとめてぐっと彼女を見た。
「……それ、君のことだろ? あれから、話もしてないんだろ?」
「な……」
 図星である。むしろ、美菜の態度がどうにも許せず、さっきも帰宅しようとした彼女に声もかけなかった。
「な、何で、解るの? 今日、いなかったじゃん」
「解るさ。あの調子でキレられたら、なかなか口なんか利けたモンじゃないな」
「だってさぁ――」
 来未は、今までの一同のことを掻い摘んで聞かせた。
 希香や霞美が怯えて何も出来ないこと、隆幸は独断専行、公司はいい加減でタカをくくってばかりいること、そして美菜は恵を心配するあまり、自分を守るのに精一杯な仲間達に批判的であること、などなど。
 ね、ひどいでしょ? と、それは暗に美菜が、という含みなのだが、お互いに反りが合わないということを暴露したようなものであった。
 涼輔はこれといって反応せず、ちょっと首を傾げただけである。
 その仕草が、来未のカンに多少触った。
「なぁにソレ? あたしの方が悪いって、言いたい訳? ……まぁ、しゃーないよねぇ。どっちかっていえば、性格悪くても、あの子の方が可愛いし」
 ちょっとふてくされている来未。
 冗談めかしく聞こえるが、美菜にムカっ腹の彼女にしてみれば、冗談半分本気半分といったところである。
 そんな彼女に、涼輔は意外な事を言った。
「……そろそろ本気、出してみれば?」
「へ?」
 突然妙な事を言われ、来未は眉をひそめた。
「何、言ってるの? 本気って……何?」
「彼女のこともそうだし、幻魔衆のこともそう。真っ向から立ち向かったことないんだろう? やりやすい方にばかり向いている時って、そんなものさ。誰かが守ってくれるとか、助けてくれるとか、止めてみなよ。そうした途端に、実力って出るぜ」
 涼輔は淡々と、だが来未には突き刺さる言い方をした。
 立ち回りが単純に上手いだけでなく、巧妙に相手を納得させてしまうことの出来た来未に対して、これまではっきりと苦言を呈した者はいなかった。
 しかしそれは、彼女に都合の悪いことから逃げ隠れさせる、実は本人にとって負の技術を助長させたに過ぎず、いつしか来未にとっては、本来立ち向かわねばならない筈の負の生命の具象体・幻魔衆に対しても同じ感覚しかもてないようになっていたのであった。
 そうであろう。
 普段から都合のいいように立ち回ることしかできない人間が、生命悪が人の形をとって現れた幻魔衆と、対等にぶつかっていける道理がないのである。
 昼間、美菜から浴びせられた言葉にしても同じことであった。
 富野の尻について回ってばかり――本質を衝かれてカッとなった来未は、残念ながらまだそのことに思い至れるほど、我が身を振り返ったりなどしていなかった。
 それでたまたま捕まえた涼輔に愚痴った訳なのだが、勝手が違った。
 さらにトドメを刺され、いよいよ彼女は腐った。
「なーによ。結局、美菜ちゃんの味方じゃん。いいわよね、何でも出来る人は。そうやって、他人のコト、馬鹿にするんでしょ? あたしだって言わせてもらうけど、今日会ったばっかのあんたに、そんな言い方される筋合いないわよ! あんたに、あたしの何がわかるってのよ? 実力だかなんだか知らないけど、わかったような口、たたかないで欲しいわね」
 プツンときて、一気にまくし立てた来未。
 だが、涼輔は一向にひるんだ風も見せず、却ってニヤリとした。
「……うん、わかんない。これから、わかるんだから」
 意味ありげな一言を残し、来未の反応を待たずに彼は背を向けて出て行った。
 独り腹の虫が収まらない来未は
「……何なのよ。ふざけたコトばっかり言って。どいつもこいつも」
 美菜のことも合わせて思い出し、むしゃくしゃした来未は傍の机をガンと蹴っ飛ばした。
 ――という一幕が、彼女が帰宅しようとした直前にあったのだった。
 その時は単純に腹が立ったが、今、涼輔の一言が妙に彼女を捉えて離さなかった。
『誰かが守ってくれるとか、助けてくれるとか、止めてみなよ。そうした途端に、実力って出るぜ――』
 そうなの? そうなのかな――? 
 今日の昼間といい、これまでの自分の姿がふっとフラッシュバックした。
 幾度となく繰り返されてきた、幻魔衆との戦い。
 脳裏に過ぎる光景には、いつも自分の前に、誰かの姿があった。
 隆幸、咲貴、公司、隆幸、隆幸、咲貴、隆幸――。
 常に誰かが自分と幻魔衆との間にいて、戦ってくれていた。否、誰かがいるところへ彼女がいつも、頼って行っていた。戦ってもらっていた。
 美菜はただ怒りに任せてそのことを罵倒しただけだったが、涼輔は最後に「実力が出る」と、言ってくれた。あるいは、実力があるんだから、と、言ってくれたようなものかも知れなかった。
(それって――あたしにも、出来るって、こと、なんだよね? 浅香君?)
 そんな回想と逡巡は、ほんの僅かな一瞬の間だったに過ぎない。
 たった今、彼女は生死の崖っぷちに立たされているのである。
 ほとんど死の底に落ち込みかけた彼女を、涼輔の言葉がぐっと掴まえて引き戻してくれようとしている。この場にあっては、彼が助けてくれるというものではない。しかし、明らかに彼女の胸中、先ほどまではなかった一点の閃きが生まれていた。
 そして、涼輔はこうも言った。
 これからわかるんだから――。
 胸の奥で、小さな閃きがぱちんと弾けた。
 蹲っていた来未は、ぐっと顔を上げた。
 怯えていた表情が、一変している。闘気に満ちた瞳で幻魔衆・乱性を見据え、ゆっくりと立ち上がった。
「……そうよね。あんた、あたしの生命の中にいるんだものね」
 急に雰囲気の変わった来未に、乱性は一瞬怪訝そうに
「そう言ったよ? だから、何だい? お前は自分の生命の闇であるこの私に、今から殺されて死ぬんだから――」
「誰が、死ぬって?」
 声を張り上げる来未。
 こうとなれば、驚くほど開き直りの利く娘であった。
「ふざけてんじゃないわよ! だーれが、あんたみたいな変態に殺されてたまりますかっての! いい加減にしないと、タダじゃ済まないわよ!」
「ケケケケ、誰が変態だって? 私を変態扱いする前に、自分の身は自分で守ってから、言うんだねぇ」
 乱性が笑いながら右手を右から左へ、水平に振った。
 その手の軌道から薄緑色の光が生じ、半円状の刃のような形状と化して一直線に来未目掛けて飛んでいく。
 ピッチャーの投球のごとく、それは速かった。
 が、来未は、ほんの数分前までの彼女とは一変している。
 受け止めようとしたのか命術を放とうとしたのか、それは定かではなかった。両手を突き出し、ありったけの念を手先に込める。生きようとする思いが極限まで彼女を満たした瞬間、一念は思わぬ形で具象化した。
 ただし発動の直前、彼女はこう叫んでいた。
「……いい男と付き合えないまんま、死んで、たまるかぁ!」
 それで、良かった。
 咆哮と同時に、来未の両手が一閃し、その閃きは間髪を容れずして空間中に拡散した。一面が霧でも吹いたように真っ白く濁ったが、視界は決して閉ざされてはいない。かつ、来未の両手から先の空間において展開されており、彼女自身がいる位置は白く染まってはいなかった。
 そういう状態は、ほんの一瞬でしかなかった。
 白い煌きの空間自体がまるで意志をもったかのように、一挙に乱性に向かって収縮したのである。乱性が放った光弾などは空間の圧倒的なプレッシャーの前に簡単に蹴散らされていた。
 来未は、無我夢中で命術に意識を傾け続けている。
 相貌が、戦闘的に必死になっていた。その場に誰かがいたなら、かつて見せたことのない彼女の懸命さに、驚いたことであろう。
 縮まった空間は何の躊躇もなく乱性の全身に作用し侵食し、瞬く間に光の結晶に変換してゆく。あたかも、ピラニアの大群に食いつかれた肉塊のようである。
「お、お、お、お、おおぉ……ぐっぎゃああぁ……」
 乱性にとって幸福だったのは、身体が分解されるまで、ほんの数秒もかからなかったということである。あっという間もなく乱性をひねり潰し、空間は小さな小さな一点にまで収縮し、最後に一度、真っ白く閃光を発すると消滅した。
 そのままの姿勢で、固まっていた来未。
 ふと我に返ったように、ゆっくりと両腕を下ろした。
「……ふーん」
(確かに、浅香君が言った通りね。逃げ回ること、なかったじゃん)







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