降臨の章11
「――わぁ……」
昼休み突入と同時に修羅場と化した購買の光景を離れたところで眺めながら、恵は呆然としていた。
さすがに喧嘩などはしないものの、要は先に掴んだ者勝ちなのである。男女関係なく入り乱れ、後から後から来た者達が必死で腕を伸ばす。勝者達はその下を、戦利品を大事そうに抱えながら潜り抜けては教室に戻っていく。
こういう場合、安くてボリュームのあるパンから真っ先になくなっていくのが、ほぼ常識である。幾ら味が良くても、小さくて高いパンはなかなか消えない。早く駆けつけて来ないと、そういう不人気のパンを泣く泣く買わざるを得なくなっていくのである。
遅れてきた連中は、無念そうに売れ残っているパンの品定めをし、取り敢えず食えそうな物を手にとり、おばちゃんに小銭を渡すと力なく去っていく。
購買の前から人だかりがほぼ消えるまで、その間約十分。
嵐のように生徒達がやってきて、嵐のように去っていった、という風に恵の目には映った。
中学は給食が主流で、当然購買などはないから、恵にとっては初めて目にする光景である。
彼女は家から弁当を持って来ていたから、その嵐に巻き込まれる必要はなかった。ただジュースでも買おうとやってきたところ、たまたま目撃してしまったのである。
余りの凄まじさに、恵はジュースを買うのも忘れ、弁当を胸元に抱えたままぼんやりと眺めていたのだった。
やがてその場から誰もいなくなり、購買のおばちゃんと彼女だけが残っていた。
おばちゃんは恵の姿に気がつくと、
「おや、お姉ちゃんも買いに来たのかい? 残念だったね、みんな、売り切れちゃったんだよ」
と、哀れむように声を掛けた。
「はぁ……。私は、別に……」
おばちゃんは、トレイを片付けると、照明を消してどこかへ行ってしまった。
(……高校って、色々知らないことが多いのね……)
ふらふらと、恵もその場を離れた。
(お姉ちゃん達のところへ行かなくちゃ……)
まだ何も買っていなかった恵は飲料の自動販売機を探し出すと、小銭を投入しようとした。
「――あら、恵ちゃん」
振り返ると、希香と咲貴の姿があった。
恵は思わず笑顔になり、
「身体は大丈夫ですか?」
「うん、さっきはありがとね。もう全然OKよ。……何? ジュースでも買うの? ――希香ちゃん」
「はいはい」
希香が、小銭を投入した。
「ほい、恵ちゃん、おごり。ささやかながら、お礼、ってことで」
自分が入れた訳ではないのに、咲貴が言った。
希香が苦笑しながら
「もう、咲貴さんたら、今日はずっとこうなのよ。お財布、家に忘れたとかで」
「へへ、お優しい希香様に助けていただいてまっす。ま、明日にでも返すから、さ」
購買の袋を抱えている。今日はたかりっぱなしの咲貴なのであった。心のどこかで、返す当てなど全くないという切実な経済状況をちらりと思ったが、すぐに忘れようとした。
例え踏み倒しても決して希香は怒る事などないのである。
しょうがないですねぇ、くらいで許してくれるのが常だった。
咲貴とは違って律儀な恵は
「え、別に大丈夫ですよぉ。私、ジュース代くらい持ってますし。別に、そんな――」
「いいのよ、それくらい。さ、これからお昼でしょ? 一緒に食べましょう。今日は天気も良いし、いい入学式になりそうね」
恐縮しつつボタンを押した。
咲貴と希香は恵を伴って外へ出ようとした。
そこで、恵は、はたと気がついた。
姉がいなかった。
「あの、希香さん、お姉ちゃんは……?」
「ああ、美菜さんなら――」
と言いかけて、希香は表情を曇らせた。正直な娘だから、心情がすぐ顔に出てしまう。
咲貴が取り繕うように、無理に笑いながら言った。
「あ、美菜なら、別のクラスのコに用事あるとかでさ、ちょっといないのよ。折角、今日から恵ちゃんがいるのにねぇ、はは」
恵は怪訝な顔をした。
「でも、でも、今日、お姉ちゃんから、お昼一緒に食べようって言ってきてたんです。お昼休みになったら、教室までおいでって聞いたから……」
咲貴は沈黙した。この姉妹に、そんな約束があったとは知らなかった。というより、何もなければ当然彼女も居たのであろうが、二時間目の後に起こった例の諍いでほぼ断裂状態になってしまい、あれ以来誰も美菜とは口を利いていなかった。
それを知れば、純粋な恵は心を痛めるに決まっている。
咲貴も希香も、彼女にどう言えば良いのか判らなかった。
黙ってしまった二人を見て、恵は何かあったのだと悟った。
「あの……お姉ちゃん、どうしたんですか? 何か、私が原因でみんなと喧嘩してしまったとか……?」
多少結末が異なるにせよ、本質ではほぼ、図星である。
咲貴も希香もドキリとするのを隠せなかった。
が、こういう場合いち早く度胸が据わるのが咲貴である。
隠しても無駄だと感じた彼女は、傍の柱にもたれながら口を開いた。
「あのね、恵ちゃん。実はさ――」
あの時あった出来事を、掻い摘んで聞かせてやった。
もちろん、美菜が暴言に近いことを皆にぶつけた、などという言い方はしなかったが、ともかくも皆と上手くいかなくなってしまったこと、そしてその挙げ句涼輔が三時間目以降姿を消してしまったこと、等々。
恵は黙って聞いていたが、姉と涼輔の間に対立が生じたことを知った時、殆ど信じられないという表情になった。
「……どうしてですか? どうして、浅香さんとお姉ちゃんが喧嘩しなくちゃならなかったんですか?」
「どうしてって、それは……」
いい澱む咲貴。ああいうのを、どのように表現していいか判らなかったのである。
一方的にキレまくった美菜と、何も反論せずに黙ってその場を去った涼輔。どっちもどっちと言いたいところだが、強いて判断してしまえば、四対六くらいで涼輔に分があるだろうか。と、咲貴はおぼろげながらも思っている。が、姉思いの恵に、その通りに伝える訳にはいかないではないか。
咲貴が返答に困っていると、またしても恵は先回りして言った。
「……お姉ちゃん、何か浅香さんに言ったんですね?」
恵は、既に涼輔という人物に触れている。
まだ彼女と面識がないというのに、誰よりも早くしかも二回も駆けつけてきてくれた事、やたらと強いくせに尊大なところが微塵もなく、それどころか、馬鹿みたいに桜を眺めて喜んでいる横顔。そして何より、「無事で良かった」と一言だけ言って見せた、あの笑顔。
さらに、恵は姉が誰よりも好きであったが、妹である自分以外の人間に対しては、酷薄なくらいに愛想というものを見せないことを知り抜いていた。それが元で、無用の摩擦を度々引き起こしたりしたことも、彼女は実際に聞いたり見たりしている。
詳しい事情を、まだ咲貴や希香から聞いた訳ではない。
が、どう考えても、涼輔が悪いとは思えなかった。
その涼輔が、美菜との軋轢を避けるために姿を消したという。
姉が何を言わんとしたのか、おおよその見当はつく、妹である自分が戦えないことに対して、周囲が積極的に守ってくれないとか何とか、そういう趣旨のことを、姉は激しい言葉で公司や咲貴、そして涼輔にぶつけたのであろう。自分のためとはいえ、そのことで仲間割れをされては、恵は誰にも合わせる顔がない。何よりもまず、自分の責任を感じる恵であった。
恵は、自分が今何をすべきかを思った。
「……」
少しの間床を見つめて考えていたが、突然彼女は駆け出した。
その勢いに驚きつつ、慌てて声を掛ける二人。
「恵ちゃん! どこ行くのよ?」
後から咲貴や希香の声が追い掛けてきたが、構わずに恵は走った。
涼輔を、探さねばならないと思った。
探して、何を言ったらいいのか、それは判らなかったが。
とにかく、探し出して会う事だけを考えた。
この広い学校のどこにいるのか。もしかしたら、帰宅したかも知れない、ともふと思ったが、彼女には心当たりがあった。
涼輔がもし、まだいるとすれば、あの場所しかなかった。
時間は、刻々と入学式のそれに近づきつつあった。
校庭へ飛び出ると、親と共にこれから三年間通うであろう新しい学校を見学している新入生の姿を幾度か目にした。
もう少しすれば、恵の母もやって来るであろう。子煩悩な父も、仕事を休んでも入学式に出席すると主張して母に窘められていた。
「小学校ならまだしも、もう高校生なんですから。両親揃って出席するような家庭なんてありませんよ。みっともない」
その光景を見て、美菜と恵は笑ったものである。
「あたしの時はパパ、そんなこと、言わなかったよね?」
ちょっとだけ美菜がすねて見せたりしたことが、ちらと脳裏に浮かんで消えた。
が、今は入学式など気にしていられなかった。
恵はひたすらに駈けて行く。
駈けないと、大事なものを失ってしまいそうな、無性にそんな気がした。
薄桃色の花びらが、ひらひらと落ちてきて胸の上に乗った。
頭上で鮮やかに咲き乱れている桜の花を、もう、どれくらい眺めているだろう。
それでも、飽きたとは全く思わなかった。
むしろ、眺めていれば眺めている程、より一層の美しさとして心の奥に染み入ってくる。あらゆる人間の醜さも憎悪も哀しみも、ただ儚いもののように思えてくる。
恵と逃れてきて知った、あのグラウンド脇の桜の綺麗な場所に涼輔はいた。
ひょんなことから、言葉通り授業をさぼって桜を眺める羽目になってしまっていたが、彼は何とも思わなかった。むしろ、こうして好きなだけ桜を眺めていられるこの瞬間を、何よりも愛しく思った。
ふと、今日が入学式であったことを思い出したりしたが、ここなら人目につく心配はなかった。新入生の親子などは絶対に来そうもない位置だったからである。運動部志望の子などが、自分が将来活躍するであろうフィールドを見にやってきそうなものだが、グラウンドへ通じる道というのはグラウンドの左側に辿り着くようになっていた。まさかこんな獣道、でもないが、を通って行くような新入生がいるとも思われなかった。
あの時の事は、特に気にはしていなかった。
いつまでも引きずって苦にするような神経は、涼輔にはなかった、また、何かを苦にする習慣も持っていなかった。ここにやってくるまでの様々を思う時、多少のことなど胸中に残さない自分になっていたからである。それを強さというのかも知れなかったが、涼輔自身、自分が強くなったとはどうしても思えなかった。
ただ、醒めた目で物事を見るようになっただけだ、という気がしてならない。それでも、良かったのかも知れない。今までは。
しかし、今日、彼は自分以外にも守らねばならない存在と出会ってしまった。恵はもちろんだが、彼女以外の連中にしてもそうだった。これまで無事でいたのが不思議なくらい、彼らは幻魔衆という存在を恐れ、かつ矛盾するようだが軽視していた。
涼輔は、幻魔衆やこの不可思議な世界というものが一体何であるのかを悟った時から、その強さを得た。
幻魔衆、そして彼らが生み出す異空という存在は、いうなれば我が生命に宿る生命悪の結晶だといっていい。具現化したものである。異空は、自分の生命の内側に存在する世界である。突き詰めれば、自分の生命と、自分の生命の内で戦うことだと考えて外れはない。でなければ、幻魔衆の出現中に他の人間達の姿が消えるという現象の説明がつかないのである。
人は、自分と向き合わねばならない時、自分の影の部分を恐れ、恐れるがあまり侮って見せることもある。が、それは、そうしないと自分の弱さに負けてしまう恐怖を振り払えないからだ。
だから、どうしても彼らにこの事態が一体何を意味しているのか、とにかく悟らせる必要性を感じていた。是が非でも悟らせなくてもいいといえばいい。ただし、強くならなければ、自らの生命悪に、自らの生命の内側で消し去られてしまうばかりである。
そのことは、もはやその個人の生命というものが存在しなくなってしまうという事を意味する。とにかく打ち勝つ以外になかった。
なぜ、そうした世界が生み出されることになり、彼らだけが引きずり込まれることになったのか、それは涼輔にも判らなかった。
困ったことに、美菜や公司達は、その重みというものをまるで覚知していない。彼らの中で負担になりこそすれ、重大さを理解しているとはお世辞にも言えたものではない。
覚知していないが故に、心が合わさっていない。本当の危機感を感じたならば、本気で一つになり、幻魔衆に立ち向かっていくことが出来るであろうと彼は考えていた。
ただ、どうやって悟らせるか。
口で説明することは、すぐにできる。が、耳で聞いたところで彼らは頭では理解するものの、結局幻魔衆がやってくれば怯えて自分しか見えなくなるのがせいぜいであろう。本当に自分の力を、命術をフルに発動して幻魔衆という自分の生命悪を完膚なきまでに叩き伏せられるようでなければならないのである。
どうにも、至難なことのように思われた。
彼以外、八人全員の勝利ということが条件なのだから。
一人だって、幻魔衆にやられてしまっては意味がないのだ。
よ くは判っていなかったものの、どうやらそういう仕掛けらしいということを、涼輔は異空の中の味方である存在、遥空の者と思しき人物の声で聞かされていた。
(……やれやれ)
正直なところ、途方に暮れる思いがせぬでもなかった。
今までは、自分一人の身を守りさえすれば良かった。が、今日から自分も守らねばならない上に、他の八人の仲間がいる。が、仲間という存在の重みを受け止めねばならなくなった、ということでは、八人の立場と然程大差はない。要は、お互いに課題に直面している、ということになる。これまで意識しなくて良かったことを、意識しなくてはいけない、という要素も一緒である。
そこまで思い至った時、涼輔は不意におかしみを感じた。
よくよく考えてみれば、自分一人で物の判った振りをしてみても、結局彼らと土俵は変わらないのである。
一緒にやっていく他、ない。
彼自身気付いてはいなかったが、そういう客観性をして、あの時、あれ以上の無用の摩擦を回避したともいえた。対立が収拾つかなくなった時点で、違った切り口をもってその方向性を変えてしまったというのは、誰もが異論を出し難い、どこまでも客観的な態度でなくてはなし得ない。
それはいい。
ともかくも、一人利口ぶることから免れた涼輔は、何となく気持ちを軽くして草むらで寝転がっていた。
若々しい青い匂いがする。
もう少し経てば却って邪魔なくらいに伸びてしまうのであろうが、今のこの時期は丁度いい長さの草が、頭を動かすと視界に飛び込んでくる、
程々、眠気がある。それに、腹が減ってもいる。
桜の景色は美しいが、残念ながら空腹まで満たしてはくれない。
涼輔は少し迷った。
(どうしよう。何だか、教室帰るのも上手くないし、かといって財布は置いてきちまったしなぁ……。みんな、あれからどうしただろうか)
そんなことを考えていると、花びらが落ちてきて、彼の眉間の辺りにのった。
手を上げてそれを除こうとした時、頭高に人の気配がした。
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