降臨の章1
病室の白い壁が、ほんのりと青空を映し出している。
無機質な空間の中で、吊るされた点滴の透明な黄色だけが妙に目立って見える。
先ほどから遠くで激しく泣く赤ちゃんの声だけが響いている。
横向きに置かれたベッドに、若い女性が横たわっていた。
整っていてもの優しげなその相貌にはすっかり血の気がなく、顔色がシーツのそれの様に白い。仰向けになったまま身動き一つせず、じっと眼をつむっていた。
呼吸の間隔が短い。時折苦しそうに口で息をしている。
ベッドの傍らでは、二人の老夫婦がもう長いこと彼女を見守っていた。
夫婦とも質素な服に身を包み、夫は丸イスに腰掛けもせず、ずっと立ったままでいる。齢を重ねたその面相は穏やかではあったが、風雪に耐えた大木を思わせる力強さがあった。しかし今は悲哀を噛み締めた表情を少しも動かさず、横たわる女性から視線を離さずにいた。
妻はベッドの端に寄りかかり、やはりじっと女性を見守っている。が、時々思いがただならなくなるのか、涙をこぼしては手にしたハンカチで幾度となく拭うのだった。すっかり白くなってしまった頭髪が、それまでの何事かを象徴しているようにも見える。
どれだけの時間が経ったであろうか。
ふと、女性がうっすらと眼を開け、ゆっくりと二人の方を見た。
何かを言いかけようとしているのだが、容態がそれを許さないらしい。声が声にならなかった。
老夫婦は急いで彼女の枕もとへ身を寄せた。
女性は二人の姿を認めると、かすかに笑みを浮かべた。あまりにも弱弱しく、今にも消え入りそうな、そんなか細い笑顔である。
「……いらっしゃってたんですか」
やっとのことで声を出した。
妻の方は耳をくっつけんばかりに顔を近づけ、何度も何度も頷いて見せた。
「ええ、ええ、昨日病院から連絡があったんよ。雪子さんの容態が大分よくないって……。ずーっと眠ったままだったから、もうもう心配で心配で――」
感情の抑制が効かなくなったらしく、妻は喋りながらもうそれだけで涙声になっていた。
「そうですか……。私のために申し訳ありませんでした」
雪子といった女性は申し訳なさそうな表情を浮かべ、そっと眼を反らすように天井を見た。
そのまま静かに眼を閉じ、しばらく無言でいた。
まだ、どこかで赤ちゃんが泣き続けている。
「……夢の中で、あの子の大きくなった姿を見ました」
彼女はやがて目を開いた。
遠く何かを見ているようで、ひどくもの優しげな安らいだ表情になっていた。
「……とっても大きくなっていて、私のことを、母さん、と呼んでくれました」
傍らでじっと聞いている老女。
夫は立ったまま、身じろぎ一つしない。
「どんなことになっても、私はあの子を産み育てようと決めていましたから……お義父さん、お義母さんには色々ご迷惑をおかけしました。でも、お陰様であの子を無事産むことができました」
「何も迷惑なんぞないのよ。かえって雪子さん、あなたをこんなことにしてしまって、私等はもう――」
妻は両手で顔を覆い、それ以上言葉にならなかった。
後を引き取って、黙っていた夫が口を開いた。
「あの石潰しの責任は全てわしらにある。……雪子さん、本当に申し訳ないことをした。済まなかった」
苦渋に満ちた老人の詫びに、女性は辛そうな表情をした。
「……そんな事、仰らないでください。あの人を好きになったのは私自身です。それにお義父さんお義母さんには、すごく良くしていただきましたから……。私は幸せに思っていました」
そこまで喋って苦しくなったのか、彼女の呼吸が荒くなった。
「雪子さん?」
「余り喋らない方がいい。体に障る」
老夫婦は慌てて看護婦を呼ぼうとした。
が、女性はそれを抑えた。
「……それより、私の息が続くうちに、どうか、お願いしたいことが、あります」
彼女は、懸命に呼吸を整えようとしている。
この程度の会話が苦になっている以上、もはや少しの無理も許されない筈であったが、その訴えたげな表情は必死といってよかった。老夫婦は沈黙した。
やがて彼女は口を開いた。
「本当は、私の手であの子を育ててあげたかった。でも、私がこんな体ですから、それも叶わないでしょう。せめて、一度だけでも、私が自分の腕で抱いてあげたかった……」
天井を向いて閉じた目から、涙がこぼれている。
そこにはわずかな打算もない、母親としてのごく当たり前の望みだけが切ないほどに満ち溢れていた。
それすら叶わないその辛さを、一体誰が理解できるであろう。
老夫婦は、ただ黙って彼女の最後の願いに耳を傾けるしかなかった。
「……どうか、私に代わってあの子をお願いいたします。何もかも頼らせていただいた挙げ句に、こんなことをお願いできる筋合いでないのは十分わかってますが……」
布団から差し出された白い手を、妻は懸命に握り締めていた。
夫の、握り締められた拳が目にわかるほどに震えている。
「……なにも、なにも心配するんじゃない。わしらの命に代えても必ずあの子を成長させてみせる。だから、だから――」
あとは、声にならなかった。
自分達の子供が奪い去った、一人の女性の人生。
老夫婦は、ただ黙ってその重みに耐えるよりなかった。
しかし女性は老人の言葉を聞くと、透けるような白い表情でうっすらと微笑み、
「……どうか、よろしくお願いいたします……」
とだけようやく言った。静かに天井を向き、それきり、言葉を発することはなかった。
窓の外で、相変わらず空が眩しい程に青かった。
彼女はその日、短い生涯をひっそりと終えた。母親としてのささやかな願いを果たせることなく。
息を引き取った彼女の頬には、無念の思いをあらわすかのように、涙の跡が残ったままであった。
何もかも、何一つ後に続かないと思われるような悲しいこの日のこの時から、全ては始まった。
が、一人の母の狂おしいまでに切実な想いを、人としてごく当たり前の心を、一体誰が止めることなどできたであろう?
そして、それから十七年の歳月が経った。
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