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無印、小箱編
小箱:ダンボール箱に平凡を
『結婚をしてよかったか』
 職場の同僚に聞かれたことがある。
「そりゃいいものだ」
 僕はこう答えた。
 最も愛する人と一緒に生活をし、最も愛する娘の成長を見守る。
 そのことに勝る喜びはないし、家族がいるからこそ仕事に打ち込むことが出来ると僕は思っている。
 つい最近だって、このようなことがあった。
 土曜日のことだ。



「優佳さん。まだ?」
「す、すみません。あともう少しです」
 これで一体何度同じことを繰り返したか。
 僕が呼ぶたびに優佳さんは生返事を寄こし、佳乃が退屈そうに手で口を覆って欠伸をする。
 別に優佳さんは化粧をしなくたって十分に綺麗なんだから。
 一度、それを言ったら本気で怒られたから二度と言っていない。
「……あー、眠い」
「とーさま、あくびうつった」
「そうだね」
 それにしても優佳さんは遅いなあ。
 時間に余裕を持たせてはいるが、あまりもたもたしていたら間に合うものも間に合わなくなる。
「ママおそいね。ようす、みてくる?」
 佳乃も気になって仕方ないようだ。
「佳乃、それじゃお願いするね」
「うん」
 佳乃は靴を脱いで廊下の奥へと消えて行った。
 すぐに連れて来てくれるだろう。僕は佳乃の脱ぎ捨てた靴を並べてもう一度奥の部屋に視線を送った。

 ……。

 しかし、十分経っても戻って来ることはなかった。
 代わりに聞こえてくるのはきゃっきゃっと楽しそうに笑う佳乃の声。
ミイラ取りがミイラになってしまったようだ。
 仕方ない。呼びに行くとしよう。僕は靴を脱いで優佳さんと佳乃のいる部屋へと向かった。
 扉は開いたままだったので、そのまま声をかけようとして僕は思わず言葉を飲み込んだ。
「ママ、おきものなんだね」
「ええ、そうですよ。旦那様とわたくしが初めて出会った時に着ていたものです」
 ああ、着物だから時間がかかっていたのか。
 最近は滅多なことでは見かけることもなかった。
「とーさまと?」
「そうなの。旦那様はね、お着物が好きなんですよ。……でも、佳乃のことはもっと大好き」
「わたしもきてみたら、もっとすきになってもらえるの」
「うふふ、それはそうです。佳乃だったらわたくしよりもずっと着物が似合うはずですよ」
 おそらく優佳さんは本気で言っているだろう。
 間違ってはいないが、優佳さんが似合っているからこそ、娘である佳乃も似合うと僕は思う。
「佳乃。今から着物に着替えますか?」
「ううん。とーさまが、このふくよくにあうっていってた」
 今日は言っただろうか。
 いや……前にそう言ったことを覚えていたのだろう。
「そう。……もう少しだけ待っていてね」
 様子を見ていると優佳さんは鏡の前で笑顔を作ったり、髪形を気にしている。
 佳乃もそれを真似て優佳さんによく似た愛くるしい笑顔を浮かべていた。
 しかし、すぐにきょとんとした顔になって優佳さんの髪を見つめる。
「どうして、ママはおきものもかみがたもおけしょうもきにするの?」
「佳乃。女の子はね、いつだって大切な人の一番でなければいけないの。お化粧はね、そのために必要なのですよ」
 それに対して佳乃は分からないとばかりに小首を傾げた。
 優佳さんはその顔を見て困ったように佳乃の頬に手を当てている。
 しばらくそのまま優佳さんは佳乃の顔をまじまじと見つめていた、と思ったら櫛を取り出して佳乃を手招いた。
「椅子に座って少しじっとしていてね」
「うん」
 そしてヘアアイロンを持ってきて佳乃の髪にかけ始めた。
 手慣れたものだ。僕が感心している間に佳乃の髪は少しウェーブがかったものになっていた。
「はい、できました」
 優佳さんがそう言うと、佳乃は普段することのない髪形が気になるのかそっと手で髪を触っている。
 優佳さんは嬉しそうに笑い、目を細めてその様子を見ていた。
「わたし、とーさまにもみせてくる」
「はい。いってらっしゃ……い」
 不意に優佳さんの動きが止まった。表情も先程までと打って変わって硬く苦り切ったものになっている。
 視線は鏡に向いているのに、これは如何に。
「あ、あの……。いつから見ていましたか?」
 優佳さんは相変わらずこちらを向かない。
 佳乃は僕に気づいてこちらに駆け寄って来る。
「ねえ、わたしきれい?」
「うん。とても綺麗だよ」
 けれども、いつもみたいに僕は頭を撫でたりすることはなかった。
 折角、綺麗にしたのに崩してしまってはいけない。
 その代わりに右手を出して佳乃と手を繋いだ。
「優佳さん。準備が出来たら言って。僕達はリビングで待っているから」
「急いで支度します」
 そんなに慌てなくても時間はまだまだたくさんあるというのに。
 ただ、ほとんど準備が出来ていたようでものの十分ほどで優佳さんはリビングに出てきた。
「優佳さん。今日は一段と綺麗だよ」
「ありがとうございます」
 歯の浮くような言葉も優佳さんにだからこそ言える。
 随分と昔の着物は色褪せていることはなく、当時のまま変わらない。
 けれど、僕達の関係は大きく変わった。
 きっと、着物よりもずっと色鮮やかだと思う。



 仕事が終わり、僕は付き合いがなければすぐに家路を急ぐ。
 家に帰れば灯りが点いてて、おかえりの一言をかけてくれて、暖かいご飯があって……。
 家庭が幸せあふれる場所であり、心落ち着く場所だから自然と足が急くのだ。
 ――今日は早いからまだ明るいな。佳乃にも会えそうだ。
 道路からマンションの自分の部屋を見上げると、まだ多くの部屋に明かりがあり、当然僕の家もまた灯りがある。
 エレベーターで五階に登り、家の扉の前に立つと僕はポケットから鍵を取り出そうとした。
「おかえりなさい」
 しかし、突然扉が開き中から靴も履かずに佳乃が飛び出して来た。
 どうやら僕が帰って来たのを上から見ていたようだ。
「ただいま、佳乃」
 そのまま抱っこして家の中まで連れて僕は玄関のマットに佳乃を下ろした。
 まだ足りないのか佳乃は両腕を挙げて甘えたがる。
 どうしてこんなに甘えっ子なんだろうか。もちろん嬉しいけれど、ほんの少しだけ心配でもある。
「しょうがないなあ、佳乃は」
 あくまで仕方ないという様子を装って僕はもう一度佳乃を抱き上げる。
 すると、佳乃は僕に向かって屈託のない笑みを見せた。
 何かいいことでもあったに違いない。話を聞いてほしい時に見せる顔だ。
 着替えたらすぐに聞こう。そう思ってリビングの扉に手をかける。
「おふろにする? ごはん? わたし?」
「…………優佳さんか」
 思わず手が止まった。
 優佳さんが悪戯っぽい顔をしてやることはあるが、佳乃もそれを見て真似してみようと思ったのだろう。
 言い方はややおかしいが、僕に遊んでほしい、もしくは構ってほしいと見える。
 でも、この言い方は変だ。着替える前に優佳さんとは話し合いをする必要があるな。
 リビングに入ると僕は真っ先に優佳さんの姿を探した。
「優佳さん、ただいま」
「おかえりさない旦那様。……もうっ、佳乃ったら、旦那様はお仕事で疲れているのですよ」
「ああ、それはいいよ。佳乃と一緒にいると疲れなんて感じないからね。それよりも優佳さん。話がある」
 僕が真面目な口調で話を切り出すと、優佳さんはきょとんと眼を丸くした。
「佳乃に変なことを吹き込んだのは優佳さんだね?」
 一応、質問としているけれどほぼ断定に近かった。
「はい」
 優佳さんも悪びれる様子もなくエプロンをして手をタオルで拭きながらうふふと楽しそうに微笑んだ。
 ……これじゃ怒るに怒れないな。
 佳乃を抱っこしたままだし、優佳さんに言っても流されるのは目に見えている。何より僕が悪い気分ではない。
「とーさま――」
「佳乃、少しだけ待ってね。……あまり佳乃に冗談ばかり吹き込んでいると嘘つきになるよ」
 これくらいしか言えずに僕は引き下がった。
「うふふ。わたくしに言ってほしかったですか? それとも旦那様がおっしゃってみますか?」
「いや、まったく」
「わたくしはいつでも待っていますよ。……そろそろ着替えてきてくださいね」
 ああ、それもそうだ。
 優佳さんの一言で僕はまだスーツのままでいたことを思い出した。
 よく着替えもしないまま家族の顔を見に行くことが悪い意味で癖になってしまっている。
 おかげでスーツがよく皺になってしまうのだ。
「それじゃあ、佳乃。ちょっとだけ待っていてね」
 そうして佳乃を下ろそうとする、嫌だとばかりにスーツを握りしめられてしまった。
「どれにするの?」
 放っておかれていると感じた佳乃が僕に抱っこされたまま拗ねている。
 しまった。佳乃が僕に何か言おうとしていたんだった。
「それじゃ佳乃にしようかな。何して遊ぼうか?」
 機嫌を取るべく下手に出て僕はお姫様抱っこをしてあげる。
 佳乃以外なら優佳さんにしかする機会のないこの抱っこは佳乃には割と評判がいい。
「えーとね、おままごとしていい? いい? いい? ……ダメ?」
 随分と古典的な遊びを要求してきたな。
 てっきりトランプなんかをするものとばかり考えていたので不意をつかれた気がする。
「……ダメ?」
「いいや、そんなことないよ。それじゃ、僕は着替えてくるから佳乃は準備しておこう」
 じっと見られてお願いされたらどうして断ることが出来ようか。
 僕は佳乃の足がつくまでそっと床に下ろす。
「とーさま、はやくきがえてきてね」
 佳乃はそう言うが早いかバタバタと奥の部屋へと引っ込んだ。
「……旦那様。もうご飯の時間なのですが」
「それじゃ先にご飯にしてしまおうか」
 優佳さんは微笑んで頷き、料理を並べるべく台所へ戻っていく。
 しかし、何かを思い出したかのように振りかえって佳乃が入った部屋に一度視線を送って僕に目を向ける。
「旦那様。……愛しています」
「唐突だなあ」
「あら。昔はすぐに照れていたではないですか」
 照れさせることが目的なんじゃないのか、とたまに思う優佳さんの愛の言葉。
 気持ちを疑ったことはないが、たまに遊ばれているのは気のせいじゃない。
「優佳さんが突発的に言うからなあ。慣れた」
「あら、ひどい。わたくしの愛は本物ですのに」
「本物ならシチュエーションにもこだわってほしいんだけど」
「あら、旦那様はロマンチストなのですね。ですけど、本当にある気持ちならばいつ如何なる時にだって伝えたいものなのですよ」
 ああ言えばこう言う。埒が明かない。
 ところで、優佳さんは何故、あら、なんて言うのだろう。
 言っている所なんて見たことはないのだけど。
 ――何か意図があるような気がする。
 そう思うと同時に、誰かが背中に体当たりをしてきて、思わず僕は前につんのめった。
 振り向くと当然佳乃がいて、怒っているという顔をしていた。
「ママずるい。わたしも、わたしも、とーさまのことだいすきだよ」
 ああ、佳乃が僕の後ろに立っていたのか。
 佳乃は丸まったレジャーシートを抱えてこちらを見ている。
「佳乃はどんな役をしたいのかな?」
「とーさまはわたしのことすき?」
 ……話聞いていたんだな。
 答えを出すまでは許さないとばかりにシートを開く気配を佳乃は見せなかった。
 改まって言うと恥ずかしいのだけどなあ。僕は本心を見せることにした。
「僕は佳乃も優佳さんのことも愛しているよ」
 今日も僕は家族に愛されている。
 同じように僕も愛している。
 僕はこの世界で最も幸せな人間なのだ。

 昔も今も未来もそれが変わることはない。
「よかったね、佳乃。わたくしも旦那様に負けないくらい佳乃のことを愛しているのですよ」
「うん。わたし、とーさまもママもだいすきだよ」
 僕達は家族なのだから。
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