朝の目覚めがどうにも今日は悪い。
倦怠感と言うか疲労感と言うか、そういうものがどうも抜けきれない。
昨日の夜の出来事が原因であり、その相手は今はすぅすぅと小さな寝息を立てている。
寝顔をまじまじとそばで見るのは初めてなのだが、まだまだあどけなさがどことなく抜けきっておらず、普段は大人びているのは背伸びなのかなと思ってしまう。
ところで……今、何時だ?
え? 時計の長針が8をさしていて、短針が……。
「うわっ、まずい、遅刻だっ!?」
俺は慌てて風呂場へと走った。
まさかこのまま大学に行くわけにもいかない。昨日は行為後にそのまま寝てしまったのだから。
シャワーを急いで浴びて服を着ると、俺は台所に駆け込む。
いつもはこんなことはしないのだけど、牛乳をそのまま飲み、そして買い置きの緊急用の固形型携帯食料を口に放り込む。
腹持ちは悪いが、大学で水でも飲んで腹を膨らませておこう。
さて、あとは大学へ、そう思った時、眠っている優佳さんがいることを思い出した。
朝食のことをメモにして残しておこう。パンを食べておいて……これでよし。
そして、そのメモをテーブルに置くと今度こそ家を飛び出そうとする。
しかし、ちょうど寝返りをうった優佳さんの目が開き、俺の方に向いた。
「だ、旦那様……。おはようございます……」
まだ眠たそうに目をこする優佳さんがもぞもぞと布団から這い出そうとする。
その仕草もまた愛らしい。
けど、俺は昨夜の寝る直前を思い出して慌てて彼女の肩まで布団をかけ直す。
「優佳さんはまだ布団にいていいから」
彼女は裸なのだ。昨夜のことが少し思い出すと本当に恥ずかしいのだが、今はこの慌ただしさがむしろありがたかった。
「それじゃ俺は大学に行くから。朝食のことはメモにあるから。ゴミは出しておくから気にしないで。それじゃいってくる」
早口でそれだけを言うと俺は玄関に走った。
これはいよいよ走らないといけないほどに時間は切迫している。せめて自転車くらいあればまた話は違うのだけど。
ないものねだりはできない。俺は靴を履いてつま先を地面に打ち付ける。
よし、行こう。
玄関のドアノブに手をかけて扉を開こうとする。
「旦那様、待ってください」
しかし、すぐにその手を動かすのをやめた。
「ちょっ、まさか裸じゃ……」
期待も込めて慌てて振り返ると、俺はほっとしたような残念な気分になって息を吐いた。
「あ、服着てたんだ。よかったよ」
「全裸でうろつくようなはしたない真似はしませんよ」
「20年後は分からないぞ」
「旦那様こそ分かりませんよ。……あ、20年後も一緒なんですね」
私がおばさんになっても。こんなフレーズが頭に浮かんだ。
優佳さんはおばさんにもなってもきっと可愛らしいだろう。年相応の可愛らしさを見つけることができるだろう。
「そりゃそうだ。無茶苦茶な形で一緒にはなったけど、俺は優佳さんが好きだ」
「わたくしも旦那様を愛しております。確かに無茶苦茶ですよね、こんな出会いを認める人なんているのでしょうか?」
「いないだろうな。でもいいんじゃない? これが俺達らしさなんだろうし」
「それもそうですね。こうして、わたくしがシャツ1枚でいることも『らしさ』ですよね?」
「それはない。シャワー浴びてちゃんと服を着てくれ……」
「認められませんか……」
若いうちからズボラを覚えると年を取ってからよりひどいことになってしまう。
優佳さんを風呂場に押し込むと俺は今度こそ家を出ようとした。
だが、急いでいるときに限って問題は起こるものだ。
「だ、旦那様!」
「優佳さん、何かあったの!?」
優佳さんの叫び声に俺はノックもせずに脱衣場の扉を開くと、シャツで体を隠す優佳さんの姿があった。
恥ずかしいようでその顔は朱が混じり、視線があちこちに泳いでいた。
「ご、ごめん……。ところで何かあったんじゃ……」
「す、すみません……。着替えを取って来てないのです……」
「そ、そうなんだ……。それじゃ俺はそろそろ行くよ…………あっ」
そこで俺はハッと気がついた。
そもそもぎりぎり間に合うかどうかと思っていた時間が、完全に間に合わないということに。
諦めて時計から視線を外すと、小首を傾げる優佳さんが心配そうに俺を見ていた。優佳さんも時計を見る俺の顔を見て事態に気付いたようだ。
「今日はこのままサボってしまいますか?」
「……いや、2限からは出るよ。ゼミは出ないとまずいんだよ、あの教授うるさいからなあ」
すると、優佳さんはどこかほっとしたような嬉しそうな笑みを浮かべた。
聞いたところによると別に俺が遅刻するのが嬉しいのではなく、もう少し一緒にいられるからだそうだ。
「でも、さ。まずはシャワー浴びたら? 風邪ひくよ?」
「……服とって来たらすぐに浴びます」
あれ? テンションが下がったぞ。
「早くシャワー浴びておいで。俺は優佳さんの朝食を用意して待ってるから」
「っ! は、はい。すぐに出てきます」
「カラスの行水はよくないよ」
体洗ったりしたら結構時間かかると思うんだけどなあ。それはそうと元気になったみたいだからいいか。
優佳さんがシャワーを浴び始めたので、俺は早速台所に立って優佳さんの朝食の準備を始める。パンしかないので、ベーコンエッグでもつけておこう。
そして、汚れた布団は洗濯しよう。
あの布団で寝るのは考えられない。
「だ、旦那様!」
風呂場から優佳さんが俺を呼ぶ声が聞こえる。
石鹸だろうか、それともシャンプーが切れていたのだろうか。
「どうした、ゆ……」「きゃあっ!?」
「っ!? ごめん……」
俺は慌てて扉を閉めた。
またノックしないのがいけなかったのだが、それよりもどうして優佳さんが裸でいたのか気になる。タオルくらい巻いて出るものじゃないのだろうか。それにまだシャワーを浴びて体を洗うにしては早すぎる。
気になったとはいえ、直接目を見て話すには恥ずかしいのでドア越しに声をかける。
「優佳さん。どうかしたの?」
「……え、あ、えっ、その、ですね。そ、そうっ、石鹸の場所を聞きたかったのです」
「あ、石鹸か。あれは……買ったまま置いていたなあ。すぐに取ってくるから風呂に戻っておいて。俺が洗面所に置いておくから」
「はい、お願いします」
昨晩、裸を見ていて恥ずかしがるってのもどうかと思うけど、恥ずかしいものは恥ずかしい。
石鹸を置いた後は、ベーコンエッグを作り始める前にふと考える。サラダはあったほうがいいだろうか。冷蔵庫を覗くとトマトやキュウリがあるのでそれを取り出して皿に入れる。
しばらくして風呂場の戸が開く音が聞こえてきたので、ベーコンエッグを作り始める。
さっと作ればそれほど時間のかかるものではなく、もうすぐ出来上がる頃になって優佳さんが台所に顔をのぞかせた。
「あ、優佳さん。髪の毛乾かした? 新しいのは使いやすかった? もうすぐできるから座って待ってて」
「はい。ところで何か手伝うことはありませんか?」
「いいよいいよ、本当にもうすぐだから」
優佳さんを台所から押し出して、そしてすぐにベーコンエッグを作るとテーブルへと運んでいく。
ついでに布団を洗濯機に放り込んで回すのも忘れない。
それを終えて戻ってくるとちょうどパンの焼き上がりを告げる音が鳴り優佳さんが皿にそのパンを1枚置いていた。
「ジャムにする? それともマーガリンで?」
「ジャムをお願いします」
ジャムを出して、それを塗ってパンを口にする優佳さんの姿を見ていると物欲しそうに見えたのか、こちらに食べかけのパンを出そうかと気にするので俺は笑って食べるように促す。
「いえ、そんなに食べてないようでしたので……」
「俺はもう食べたからなあ。それよりも食べ終わったら布団干すから手伝ってくれる?」
「はい。それならあまりゆっくりとしていられませんね」
「あー、そういうつもりじゃないから。洗濯もまだ終わってないし」
今日が晴れじゃなかったら、家の中は晴れた気分じゃなかっただろう。
さすがに昨日の布団で寝る気にはなれない。
優佳さんの朝食後は、ささっと皿を洗って布団を干していたら時間がすぐに過ぎてしまった。
……あれ。また間に合わない時間になってないか……。
「旦那様、……ファイト!」
「……」
優佳さんの何とか俺にエールを送ろうという必死になって考えた末の苦笑いが、俺の今日を暗示してるようだった。
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