きっかけはたった1つのメールだった。
『ドウカワタシヲタスケテ』
カタカナに変換されたこのメール。
俺はこれを見て思った。
無駄な労力だ、と。
5月。
それは転機の季節。
5月病と称されるそれにより大学から人が消える季節である。
「長月、その格好どうした? 荷物も多いな」
「……汚れてもいい服で来いって言っただろ、しらないぞ」
「初芝の家で泥遊びでもするのか?」
「まあ、近いかもなあ」
俺と千葉が向かっているのは初芝の家だ。
端的に言うと、初芝がここ1週間、講義にも出てないらしい。
俺や千葉はいつものこととあまり気にしてなかったが、1人だけ違う人がいた。
「……旦那様。もしかすると病気になって助けを求めているかもしれません」
優佳さんだ。
「まあ、病気なんだろうけどさあ……」
5月病は認定されていないと思うんだ……。
「それに大学に1人でいると何か知らないけど色々起こるからたまには休みたいんだ……。今日は講義ないしな」
「……千葉、実はそっちが本音だろ…………」
「言うな……。トラブルの仲裁ってさ、結構疲れるんだよ」
その原因は間違いなくお前だ……。
鈍感なくせに人が良いものだから面倒事に首を突っ込んではさらに女が寄るという。
トラブルの原因の大半は千葉を巡る女同士の戦いから始まっていることを、きっと千葉は知らないだろう。
「4人で何をするでなく集まる時間のありがたみをつい噛み締めるよ」
「旦那様はあげませんからね?」
「心のオアシスを俺から奪わないでくれ!」
「……優佳さん、千葉。バカやってないで初芝の家に行くぞ」
この中で唯一冗談なのは千葉の二言目だけだ。
まあ、俺が本気だと思わないだけだけど……。
千葉は友達だけど、それ以上は……ちょっとなあ……。
あくまで俺はノーマルなのだ。
初芝の家は、俺の家の最寄り駅の隣になる。
各駅列車しか停まらないが、比較的家賃相場が安いために学生が多く住む地域でもある。
駅前の商店街を抜けると、学生が多く住む住宅街へと周りの景色は変わっていた。
「そういえば初芝さんの家に行くのは初めてです」
「俺もそうだ。何か知らないけど初芝って家に他人を呼びたがらないんだよな」
……そりゃ呼びたくはないだろうなあ。
この中では唯一初芝の家に行った事のある俺はそう思うしかない。
何だか期待しているようだけど、現実は……。
と、初芝の家を見たらこの2人はどういう反応をするだろうかと思っていると、優佳さんがこちらを向いた。
「旦那様は行った事がありますか?」
「外では――」
「正敬さん」
「……分かっててやってるわけだ」
それに対して優佳さんは屈託のない笑顔を見せた。
どうやら直すつもりは皆無のようだ。
「正敬さん」
「千葉は言うな、気持ち悪い」
「その呼び方をしていいのはわたくしだけです」
「旦那様って言うよりはましじゃないか」
「千葉。前提が間違ってるぞ」
それからしばらくバカをやりながら住宅街の狭いを道を進んでいくと、ようやく初芝の住む家が見えてきた。
「さて、初芝の家に着いたぞ」
そこは女性が住むにはややセキュリティーに欠ける気がする築10年ほどのアパートだった。
俺は迷うことなく階段を上がりすぐの部屋の呼び鈴を鳴らした。
「おーい、初芝。とっとと開けろ、お前は完全に包囲されてるぞ」
「旦那様、周りの迷惑を考えてください」
「長月……その水鉄砲はないだろ……。せめて大型の物をだな」
「……千葉さんはまともな人だと思っていたのに」
千葉の素はこれなので、きっと千葉の周りにいる女も大抵はがっかりするだろう。
それを知っているから、千葉は気を許すまでは素を見せないのだけど。
「俺の友達がまともなわけないだろ」
「……そうですね」
「んー、なんか納得いかないぞ」
俺が振った話題で俺が自爆していると、扉が重い音を立てて開いた。
そして、部屋の中が勝手に見えた。
ああ、やっぱりそうだ。
「……」
「……」
俺の後ろから覗きこんだ2人は絶句して固まっている。
特に優佳さんはあまりの惨状に目に涙さえ浮かんでいた。
部屋からの風で何か臭うもんなあ。
「…………ま…………」
ん? 地面を這う何かが足元に……。
気になって足元に視線を向けると、正直見たこともない汚女がいた。
「……掃除するぞ! 臭い、これが5月病の原因だ」
「千葉……だから言っただろ? 小奇麗な恰好はやめとけって。それに、はっきり臭いって言うもんじゃないだろ」
「旦那様だって臭いって言っているはないですか。…………臭いですけど」
……本人がいるのに随分な言い草だ。
「なあ初芝もそう思うだろ?」
すると、地面から急に手が伸びてきて、俺の脚に絡みついた。
「うわあああんっ。まさ、助けてっ! 私1人じゃこの惨劇は手に負えない!」
「うわっ、臭いがつくから寄るなっ!」
足を掴まれてるから逃げられない!?
思うようにいかない俺とは対照的に他の2人もしっかりと距離を取っていた。
まさか地面にいるとは予想もしてなかったようで驚いた顔が引きつっている。
そう、初芝が大学に来なかったのは家の惨状と臭いのせいだったのだ。
それから30分後。
駅前で掃除のための道具を揃えてきた俺と千葉は初芝の家の玄関に仁王立ちしていた。
「さて、始めようか、家の大掃除ってやつを――」
「長月……鼻をつまみながら言われても締まらないぞ」
「いや、臭いものは臭いんだよ」
きっとゴールデンウィーク後は何も手をつけなかったのだろう。
洗ってない服とか食いかけの食事とかが散乱している。
とりあえず、このゴミの山をどうにかしないといけない。
勇気を出して手を突っ込んで中身を1つ取り出してみた。
「千葉! パンツが落ちてるぞ!」
「ああ、こっちにはブラがある」
「「色気ないな」」
そして、本人がいないのをいいことにげらげらと笑った。
別に初芝云々じゃない。
こんな汚い部屋に落ちている下着なんてそんなもの。
持ち主の初芝は優佳さんに頼んで現在臭い落としのための銭湯中だ。
外に出るときの服だけはクローゼットにあって無事で、外に着ていく服がないと言った優佳さんの二の舞は避けられた。
「衣類は後でまとめてコインランドリー行きだな。1回で出来るか……?」
「長月、それは初芝に任せよう。男の俺達が仮にも女性の下着をべたべたと触るものじゃない。それよりもゴミ袋を1つくれ」
「あいよ。まずは床からだな。食べ物は処分しよう……うげっ、汚いなあ」
片付けようとして最初に手に取った黒いカビの生えたパンに嫌悪感を隠すことができなかった。
「……俺、思うんだ。掃除するなんて言うんじゃなかったって。明日、体からキノコが生えてるかも……」
「千葉……後悔先に立たずって言うだろ……」
しかし文句を言う割にはテキパキと片づけをするあたり、流石としか言いようがない。
「うえっ……吐きそう。長月……辛いなら俺1人でやるぞ?」
「……辛いのはお互い様だろ」
この後もお互い何度も涙目になりながら黙々と俺達は作業を続けるのだった。
俺達が掃除を始めて1時間ほどが過ぎた頃、初芝が優佳さんを伴って戻って来た。
その顔にはすっかり生気が戻っており、初芝の復活の早さを物語っている。
で、隣の優佳さんは何故にガスマスク?
「そんなに見ないでください。…………恥ずかしいです」
「いやー、お風呂っていいよねえ、綺麗さっぱり。コーヒ牛乳も飲んでいつも通りの私に戻ったよ! ……まさ、千葉、あんた達臭うよ」
「……千葉、こいつ絞めていいか?」
「今は待て。今は働き手が1人でも欲しい所だ、後で俺も手伝うから我慢しろ」
「……ごめん、冗談」
こっちも冗談なのだけど、酷い場所にいたせいで随分と殺伐としていたようだ。
男2人で必死に作業した結果、床はすっかりゴミが無くなり、台所用洗剤の香りに俺と千葉は癒しを覚えていた。
それほどに様々な臭いに蹂躙され続けたのだ。
「……とりあえず落ち着いてください。飲み物と軽食を買ってきました」
「お前の奥さんは気が利くな。ガスマスクだけど」
「いやですよ、奥さんだなんて」
「その格好で照れてもすごいシュールでしかないぞ。……飯にするか」
優佳さんから受け取ったお茶とパンを口に入れると少しばかり気持ちが落ち着いた。
そうすると、ふと気になることがあった。
ところで、どうしてこの部屋はこうまで汚れたのだろうか。
俺達には聞く権利がある。
「で、ここまで汚れた理由は? ゴールデンウィークはうちにいただろ」
初芝には答える義務がある。
「いやさ、しばらく私留守にしててさ。その間、友達に部屋貸してたんだけど……それが帰ってきたらあの惨状で……。私も掃除を試みたんだけど臭いし、疲れるしで……。それで疲れて寝たら部屋の臭いが移ったような気がして大学行く気が失せた」
「――というお話でしたとさ」
「家でごろごろしてたら汚れた。まさに手伝わせるつもりだった――――って言わせないでよ!」
予想はしていたが、この汚女、まさに外道だ。
さらに詳しく話を聞くと、最初はうちに来たとき日に食器や服やらを放置していたのが始まりらしい。
ゴールデンウィーク明けに家に帰るとあら大変、室内が異臭まみれに。
とはいえ、帰って来てひと眠りしたかったので寝たら、何だか自分に臭いが移った気がする。
そういう被害妄想に囚われたせいで、外に出られない。かと言って気持ち悪くて掃除もしたくない。
以下、繰り返しだそうだ。
「じゃあ、クローゼットの服は何で着られたんだ?」
「行く前に優佳にも嗅いでもらったけど、特に大丈夫だって。あれだね、防虫剤のおかげだね」
「シャワー浴びて外に出ればいいのに……」
「……今考えたらそうなんだけど、被害妄想って怖いよね」
しかし、あっけらかんとするその態度は、今となってはただただ憎たらしい。
と、そんな俺の気持ちを察してかゴム手袋、長靴、そしてガスマスクという戦闘体制を整えた優佳さんがすっと俺の隣にやって来た。
「わたくしも手伝います。旦那様達が重いゴミはあらかた片付けてくださったので、後の拭き掃除はわたくしに任せてください」
気持ちはありがたい。
が、換気して空気を入れ替えたにもかかわらず臭いが消えてないような気がするので、ガスマスク以外はそのままの優佳さんを見ても檻の中の猛獣に裸で近づくのと大差ないように思えてしまう。
「あー、後でお香を焚こうか……。平安時代の貴族はそうやって臭いを誤魔化していたらしいぞ」
「旦那様は風流を好むのですね。いとあわれなり、です」
本当は初芝をバカにするために買ったお香がこのような形で役に立つとは思いもしなかった。
「まさ、とてもあわれなり」
「お前が言うと意味が違うようにしか聞こえない……。ああもうとりあえず焚くぞ」
お香を焚き始めると段々と臭いは匂いへと変わっていき、俺達の気持ちが晴れやかになるのが分かった。
「そうか! 私の家は平安貴族の家だったんだ!」
「「ねえよ」」
千葉と声が思わず被ってしまった。
そもそも貴族の娘なら片づけしてくれる人がいるだろ……。
バカは馬鹿にするまでもなく馬鹿だった。
「……いやさ、私だって分かってるんだけど。そこはお約束ってことで」
「無理はするな。こんな酷い部屋にいたら誰だっておかしくなるさ」
「お約束って何だよ……。そんな約束捨ててしまえ、バーカ」
でも、汚屋敷の中にいると、この晴れやかな気持ちに当てられてついバカにしたくなってしまうのが俺の性のようだ。
千葉と比べると精神的にあまりに幼い。
とはいえ、俺と同じくらいに初芝も幼かった。
「何よ、まさ。バカって言う方がバカなんでしょ!」
「ふっふっふっ、全てギリギリで単位を取得した俺に隙はないぞ。紙一重でバカとは違う」
「なんだ、ただのバカか。私は優ばかりだけどね」
「その代わり半分落としてるけどな」
「ふんっだ。だってつまらない講義多すぎなんだし。教授が悪い、大学が悪い」
傍から見れば程度の低い言い争いだろう。
「……おーい、お前ら、バカ言ってないで働け」
「ちっ、うるさいなあ」
「こればかりは初芝に同意するぞ」
「だよねえ。私達の敵だもんね」
ちなみに千葉は全部優秀だ。
傍とはこの友人のことである。
「だから試験前以外にも勉強しようって言っているのに」
「だって学生の本分は遊ぶ事なんだしいいじゃん、単位は取れてるから」
「追試の女王は格が違うなあ」
「どうして……その努力を試験前に発揮しないんだ……」
それからしばらくは黙々と4人で部屋の片づけをすることにした。
俺と初芝があまりに不毛な言い争いに飽きてしまったからだ。
そして、掃除が終わるとみんな一様に綺麗になった床に座り込んでいた。
「あー、無駄に体力使った……」
「あはは……まーた風呂行かないといけないかも」
「き、着替えて正解でした……」
「長月の言った意味が今更嫌になるくらいに分かった」
半日、ゴミと格闘することになるなど誰が想像しただろうか。
「……やべっ、気持ち悪い。初芝、シャワー借りるぞ」
「それじゃ俺、千葉の次に借りる」
ほぼ半日掃除をしていた俺と千葉はすっかり埃も被っていたし汗もかいていた。
俺達の要望に初芝は特に気にする様子もなく快く貸してくれた。
シャワーを浴びると汚れが落ちていくような気分を覚えたが、できれば友達のためとはいえ2度と他人の家の掃除はごめんと思う今日の日だった。
翌日、初芝は何事もなかったかのように大学へと来ていた。
俺と千葉が話をしている所にひょいと顔を覗かせると、開口一番に言った。
「ねえ、まさ、千葉。昨日ね、お風呂掃除してたらさ――」
おおっ、初芝が掃除に目覚めただと!?
よほど汚部屋になったことが堪えたようだ。
「すごい陰毛が風呂場の排水溝の蓋にあったよ」
「え……?」
サークル室の雰囲気が一気に変わった。
これを嬉々として当の本人達に伝える初芝って女としてどうなんだ……?
「暇だったから分けてみたんだけど――」
「俺、2度とお前んちは行きたくない」
「俺も行きたくないな」
いつもの初芝が戻って来た。
悪い方向にパワーアップして……。
どん引きする俺達を余所に初芝は豪快に笑っていた。
こんなだからきっと女として扱われないのだろう。
それを再認識するサークル室での朝だった。
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