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M氏

作者:貞治 参
 目の前に、一人の女性が後ろを向いて立っている。

 私は、人の波に揺られながら、彼女とつかず離れずの距離を保っている。ふとした瞬間に、うなじのあたりから香りが漂ってくる感覚を覚えるも、実際は周りの有象無象の放つ匂いで何が何やらわかりはしない。

 額から汗が流れ落ちる。暖房が効きすぎだ。それともこれほど人が密集しているせいだろうか。あるいは、これは、心因性の……?

 顎を引いた私の頭はずっと下を向き続けていた。

 誰でもよかった、などとは言うまい。事実、何日もかけてターゲットを選定してきた。せっかくのチャンスなのだ。これを捧げるべき対象は、選りすぐらねばなるまい。

 私は、いったい、何をしようとしているのか? 興奮によって血のたまった脳で自問する。ほんとうに事の重大さがわかっているのか? とんでもないことだ。馬鹿げている。こんな、大それた……。

 しかし、後ろ向きな自分を弄びつつも、私は視線をある一点からはがすことができずにいた。身体は正直だった。こんな魅力にとても抗うことなど、もとより不可能だったのだ。

 視界の外から、すうっとブツが現れる。

 ゴツゴツした特徴のある男の手が、今まさに彼女の臀部に這いよりつつあった。

 * * *

 結婚はしていない。それどころか、彼女ができた経験もない。そんな三十男の私が、自分の欲求を満たすためには、こうするしかないのだろう。あるいは、お金を払えばそういうサービスをしてくれる店もあるのだろうか。詳しくはわからないし、勇気もないので突撃することなどとてもじゃないが、できない。

 彼女のことは、何度も駅のホームで見かけていた。いつもスマホの画面を眺めている若いオフィスレディ。初めの印象はそれだけだった。しかし、事を起こすと決めてから、彼女ほどの適任はいないと思うようになった。日がたつにつれて、彼女はますます魅力的に、私の目には映った。

 20代半ばだろうか。シャツに紺のニット、その上にライトグレーのアウターを羽織っている。白のフレアスカートからは、タイツに包まれた健康的な足が伸びる。鈍く光を放っているのはヒールの高いパンプス。決行の日の彼女は、また一段と美しく見えた。

 いつものようにいつもの時刻にいつもの電車に押し込まれながら乗る。いつもと違うのは、彼女の真後ろという立ち位置だった。第一段階は成功したと言える。

 ここからいくつか狙い目のポイントがある。そこまでは我慢して、この位置を死守し続け、隙あらば、すぐさま行動に移る必要がある。

 ベストポジションで態勢を整えた私は、チャンスが来るまでの間、一心に祈った。

 どうか、私に祝福を……!

 * * *

「こいつッ……。痴漢だァ、痴漢!」

 男の声が電車内に響いた。それと同時に、彼女に迫っていた手はその隣に立っていた男によって強くつかまれ、ひねりあげられた。

「いだだ!」

「観念しろ! 次の駅で警察に突き出してやる!」

「すみません、もうやりませんから、それだけは……!」

 二人のやり取りが続いている間、彼女はまさに自分の身に起こりつつあったことを知り、両手で自身を抱き、乗車口のほうへとそそくさと移動していった。

 私は、その様子を目の端で確認しながら、たった今捕まえた男の両腕をがっちりと拘束していた。

 * * *

 計画は失敗に終わってしまった。

 あんなイレギュラーな要素が発生すると、どうして予想できただろう? 全くの予定外だ。まさか、決行日のまさに今日、ターゲットの女性に痴漢を働く男がいるだなんて。

 駅員に連れられて行った男をぼんやりと見送りながら、私は途中下車した駅のホームにたたずんでいた。

 なんにせよ、これで終わりか。あっけなかったな……。

 ゆっくりと首を左右に振って、次の電車を待つべく列に並ぼうとしたそのとき。

「さきほどは、ありがとうございました」

 ターゲットが目の前で頭を下げていた。

 罪悪感が膨らんだ。いや、端から見れば、私は彼女を痴漢の魔の手から救った男なのだから全く気に病む必要はないのだ。しかし、彼女を計画に巻き込もうとしていた私は、もう純粋な気持ちで彼女を見ることはできないのだった。

「いえ、いいんですよ。当たり前のことをしただけですから」

 軽く頭を下げて列を離れた私は、彼女から逃げるように、駅のトイレに駆け込んでいった。

 この日のために奮い立たせてきた欲求が、急速にしぼんでいくのを感じた。



 私は、彼女に、足を踏んでほしかった。あの堅そうなヒールで私の指先を思い切り踏んでほしかったのだ。ただそれだけのために、何日も苦労(?)して自分を奮い立たせ、シミュレーションを繰り返し、やっと今日、実行にこぎつけようとした。

 急カーブや駅の付近では、電車内の人はよろめく。場合によっては態勢をくずすこともある。そんなときを狙って、私は足をすっと、彼女の浮き上がった足の下に差し出すつもりだった。

 はあぁ、と長いため息をついた。もう当分気力は湧き起こらないに違いない。

 用も足さずに、水を流した私は、ストレスと圧迫感だけが待ち受けている日常へと、肩を落とし帰って行ったのだった。
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