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ちえちゃんと落書きとカレーシュークリームと
作:カエオルーン


「カレーシュークリームいかがですかー」

 彼女に出会ったのは、僕が普段行き来しない駅でのことだった。
 そもそもの発端は、高校からバスで帰宅する途中で、座席の背もたれををキャンバスにした、エロティックな落書きに目がとまったせいだ。
『わたし、ちえ』
 べつにちえちゃんがエロいわけじゃない。
 むしろ、ちえちゃんと思わしきカエルのような生物と、のばされた吹出しに書かれた幼稚な文字に、気分は萎えていた。
 だが、僕はその簡潔な自己紹介に隠された秘密に気づいてしまったのだ。
 逆から読んだら、
『えち、したわ』
 おかげで気がついたら、本来とまるべきバスの停留所を二つも過ぎてしまっていた。
 更にいえば下半身の一部に集まった血を体中に分散させるのに時間をかけてしまい、収まったのはバスが終点である駅に着いたときだった。
 妄想力豊かな僕の、悲しき性。
 もちろん家までの距離を歩いて戻るわけにも行かず、戻りのバスの出発時刻を確認すると、三十分も待たなければならないかった。
 しばらく馬鹿な自分に辟易としていたが、発想の転換というか、いい機会だし辺りを散策することにしたんだ。
 その結果が――
「カレーシュークリームいかがですかー」
 売り子の彼女だった。
 
 べつにシュークリームにカレーを突っ込もうが、僕は文句を言いやしない。
 ただ、その売り子が妙なのは、その発音。
 かわいらしい売り子の口から発せられるカレーシュークリームは、中高年特有の香りがする。
(加齢臭クリームいかがですかー)
 思わずそういった煽り文句が脳裏に踊った。
 ちなみにその売り子の設定は、『定年間際でリストラされた、頭のテカリが眩しい、メタボリックしんどろーむ気味のおじ様』。
(加齢臭クリームをなめれば、アラ不思議。全身から加齢臭が――)
「誰が買うか」
「そ、そんな……ひどい……」
 ああ、ごめんよ。今のは心の中への突っ込みだよ。
「カレーシュークリーム二つ」
「え? あ……加齢臭クリーム二つですね、五百円になります」
 謝罪の気持ちもこめて二つ頼んだが、復唱されるとなんかいやな感じ。
 しかし、シュークリーム二つで五百円とは……
「ぼったくりか!」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい」
 軽い気持ちで突っ込んだだけなのに平謝りをされるとは、ずいぶんと貧弱な売り子だ。
「なら、お前の舌でそれに五百円の価値がないか確かめてみるがいい……と言うのが真の漢」
「え? で、でもわたし女……」
「だったらまけてください」
 うん。正直、バスで家まで帰ることを考えると五百円は予算オーバーなんだ。
 残金六百五十円也。
 バス代に三百円かかるから、ここで使えるのは三百五十円以下。これが僕の絶対領域。
「そ、そんなこといわれても……」
「本当にお願いします! そうしないと家に帰れないんです!」
 だったら注文取り消せばいいんだけど、なんか譲れないんだ。
 必殺泣き落とし作戦。
 これが決まれば貧弱な売り子はいちころに……
「……わかりました。四百九十円にします」
 訂正、売り子はしたたかだった。
「バカヤロウ! 人が下手にでりゃあ調子に乗りやがって! まけないといわすぞこらぁ!」
 今度は一転、泣き落しとは対をなす、ヤクザ風味作戦で攻める。
「ひぃっ、ご、ごめんなさい。四百八十円にしますから、いわしなんてやめてぇ!」
 この子はいわすってどういうことか知ってるのかな? たぶんノリだろうな。
「ちょっと店員さん、これ、他のものより小さいんじゃない? だから少しまけてよ、ね?」
「うう……四百七十円にします……」
 あの手この手で攻めるものの、十円ずつしか下がらないじれったさ。
 こうなったら奥義を出すしかない!
 決断した僕は、ゆっくりと仰向けに寝転がる。
 売り子や通りすがりの人が怪訝に視線を向けてくるが全く構わない、この奥義は周りに聴衆がいてこそ真価を発揮するんだ!
「やだやだ、これが四百七十円だなんてやだ〜、もっともっと安く、三百五十円ぐらいじゃないとやだ〜」
 子どもが親をおとすために使う奥義、通称だだっこ。
 手足をじたばたさせながらもがく幼児の姿には、見るものに神が宿ったかと錯覚させるほどの力がある。
 …………まあ、僕がやっても気持ち悪いだろうけど、破壊力だけは折り紙つきだ。
「わ、わかりました、三百五十円にしますから、もうやめてくださいぃ〜」
 案の定、売り子の少女は半泣きになりながらもこちらの要望を受け入れた。
 即座に演技をやめて立ち上がれば、辺りの聴衆は興味を失って流れ出す。
 その様子に僕は軽く息を吐いた。
 だだっこは強力だが、もし正義感の強い人やお巡りさんに見つけられれば、ジ・エンドだからだ。
「加齢臭クリーム二つになります……」
「うん、ありがと」
 そう言って御代を渡し、丁寧に包装されたカレーシュークリームを受け取る。
 そこまで欲しかったわけじゃないのに、勝ち取った戦利品を見ると思わず顔がにやけた。
 そのまま浮かれた気分のまま食べてもよかったけど、ふと、重要な何かを忘れているような違和感を感じて辺りを見渡す。
 ……そういえば……ずいぶん暗くなっているような……時間!?
 すぐさま時計を確認すれば、既にあれから一時間経過。
 しかも次のバスは四十分後に来るという最悪な状況。
 時間をつぶす為のはずが、なんて無駄の多い人生だろうか。
 本当ならもう家について、黙々と妄想に励んでいるところなのに。
 そもそもあの落書きがいけないんだ、あれが僕のインスピレーションを掻き立てて……

 今度こそバスを逃さないためにバス停のベンチで鬱々と考えていると、ふと横に誰かの立つ気配がした。
「あの……それ、食べないんですか?」
 さっきの売り子が私服姿で立っている、バイトが終わったんだろう。
 彼女に促され、僕は結局一口もかじっていない戦利品を見やる。
 物悲しい気分に襲われて、僕はカレーシュークリームをひとつ、彼女に差し出した。
「え? くれるんですか?」
 うなずいて見せると、彼女は変な人、と呟いてから受け取った。
「なりたくて変人になったわけじゃないやい」
 欝な気分を晴らそうと、包装を乱暴に引き裂いて、カレーシュークリームを一口で収める。
 歯で皮を貫くと、その中からカレーの味わいがふんわりと広がって、僕を癒して――くれなかった。
 どろどろと舌に絡みついてきて、カレーというより汗のような塩っぽい味わい、そして何よりも鼻腔をくすぐる中高年の香り。
 そう、カレーシュークリームは、本当に加齢臭クリームでできていたのだ!
「うげぇぇぇえっ」
 僕は思わず吐き出した。
 口の中にはびこる加齢臭クリームを一刻も早く払拭するために、急いで自販機に駆け寄って飲み物を買い、それを口内全体にいきわたらせる。
 適当に選んだせいで缶コーヒーのブラックを飲んでしまった。
 ……今度は苦い……。
 勢いで飲み干した缶コーヒーを片手に、息も絶え絶えで戻ってきた僕の様子をみて、クスクスと彼女が笑った。
「当たりだったみたいですね」
「当たりだって!? なんだよ! 本当に加齢臭クリームじゃないか!」
 手に持った空き缶を振りかざして言うも、彼女のクスクス笑いが激しくなるだけだった。
「だから、当たりです。百個に一個、店長特製加齢臭クリームがはいってるんですよ」
 ――どうやら僕は百分の一の不運に見舞われたようだ。
 店長はきっと、『腹黒で陰険で社会不適合もはなはだしい、定年間際でリストラされた、
頭のテカリが眩しい、メタボリックしんどろーむ気味のおじ様』に違いない。
 おいしそうにカレーシュークリームをほお張る彼女を見て、恨めしげな視線を送る。
「……一体なにを考えてるんだか……」
「ちょっとしたユーモアですよ」
 これはちょっとした、では済まされない。
 そう反論しようとしたが、なんだかどうでもよくなってきた。
 文句を言っても、缶コーヒーを買うために使った百二十円は戻ってこないのだから。
 徒歩での帰宅が決定した僕にとって、推定一時間半はかかる道のりを踏破するべく、準備運動をするほうが重要なのだ。
「どうしたんですか?」
 そんな僕を不思議に思ったか、彼女はキョトンとした目で聞いてきた。
「徒歩で帰るんだよ。缶コーヒーを買ったせいで、帰りのバス代が足らなくなったから」
 そう言うと、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「そうですか……」
 準備運動を軽く済ませてから空き缶をゴミ箱に投げ捨てて、さっさと彼女に背を向けて歩き出す。
 バイバイという意味をこめて、彼女に向かって手を軽く上げる。
 別れはすっきりと、だらだら粘るのは納豆と好きな人だけで十分だからだ。

 夜空を見上げると、星一つない暗黒があった。
 僕は視線を暗黒の中に彷徨わせながら、今日の不幸を振り返る。
 バスの落書きに始まり、加齢臭クリームで度肝を抜かされ、お金が足りなくてバスが使えず徒歩帰宅。なんて不幸な一日だろうか。
 ――そして、今の状況もそう。
 僕が歩くペースにあわせて、つかず離れず一定の距離を保って、後ろから響く足音。
 早く歩けばそれも早くなり、遅く歩けばそれも遅くなる。
 それの正体は――
「ストーカー?」
 振り返って聞いてみる。
「ちがいますよ」
 ストーカーはえてして自分のことをストーカーと認めないものである。
「あ、警察ですか? 実は今、ストーカーが、ええ、駅の近くなんですけど……」
「なにいってるんですか!?」
 裏声で警察に証言すると、耳にあてた携帯を乱暴にひったくられた。
 ストーカーはえてして自分が窮地におちいると乱暴を働くものである。
「人が親切心でついてきてあげてるのに」
「頼んだ覚えはないけどね」
 だったら、百二十円をくれたら二人してバスに乗れたのに。
 切られた携帯を返してもらいながら、その旨を伝える。
「まあ、いいじゃないですか」
 …………そうだな、まあ、いいか。
 もともと、あまり深く考えるのは僕の性に合わない。
 ぐだぐだ考えるのは、もうやめにしよう。
「僕、斉藤浩二っていうんだ。よろしく!」
「な、なんか急に吹っ切れましたね……」
 とりあえず満面の笑みでさわやかに挨拶したけど、逆に引かれた。
「ほら、挨拶されたらどうするのか、ママに習わなかったの?」
 自分でやっといてなんだけど、気持ち悪い。
「………………」
 やっぱりドン引きされた。
 まあ、このくらい気にしない、気にしない。
「ええと、とりあえず自己紹介しようよ。
僕は斉藤浩二、A高校の二年」
 普通のテンションに戻して聞いてみることにする。
 何事もほどほどが肝心なのさ。
「あ、わたしは赤月ちえ、同じA高校の一年です」
「へえ、じゃあ後輩か」
「学校で会うかもしれませんね」
 なんか、学校で会うというのは……
「……むふふふふ」
「……ふふふふふ」
 なんだか面白くて、僕達は笑いあった。
 笑い声が気持ち悪くて自分でもちょっと引いたけど、ちえちゃんは気にしてないようだ。
 いや、これは慣れというものだろうか?
「部活は何やってるの?」
「あ、バレー部で――」
 僕達はたわいない話に花を咲かせた。
 聞いてみればちえちゃんの家は僕の家のすぐ近くらしい。
 おかげで、踏破すべき一時間半はあっという間に過ぎていって、名残惜しいけれど、ちえちゃんの家の前に着いてしまった。
「それじゃ、こんど学校で」
「はい。あ、また加齢臭クリーム買いに来てくださいね」
「うーん……そうだね、もちろんいくよ」
「ありがとうございます! それじゃあ、失礼します」
「うん、じゃあね」
 そういってちえちゃんが玄関に入ろうとしたとき、僕はそういえば、と思い直した。
「ちえちゃん」
「なんですか?」
 ちえちゃんを呼び止めた僕は、これから言うべきセリフに深みを持たせるため、息を深く吸った。
 それを見たせいか、振り返ったちえちゃんも少し緊張しているようだ。
 そう、僕がちえちゃんにいうべきセリフ、それは――
「ちえちゃんってもう、エッチしたの?」
「…………最っ低!」
 僕はこっぴどく振られてしまった。
 でも今度、ちえちゃんと一緒に駅へのバスに乗ろう。
 あの、エロティックな落書きを一緒に見るために――――。














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