月≪ツキ≫
もうすぐ、秋が終わろうとしていた。
紅葉も終わり、チラチラと葉が舞い散っていく。
これが、近い内に雪に変わるのだろう。落ちた葉の裏に冬の顔がちらつく度、私は不快感を積み重ねていった。
冬が来る。
秋が、終わる。
私はいつも通り、紅い自転車に乗って登校した。
バイト先のコンビニ前を通り、淡くなった秋の風が私の体に縋り付く。そのようにされても、悪いが私は冬が廻ってくるのを止めてやれない。
「あら、どうも。」
「ああ。」
元樹に会い、適当に挨拶をされたので、私も適当に返事をする。
「あなたの自転車、目立つからすぐに分かるわ。」
最悪だ。目立つ事は望んでいない。これに男が乗っていたら、さらにどれだけ目立つのだろう。兄貴の気が知れない。
「私、赤と見ると、どうしても彼等を思い浮かべてしまうの。」
彼女はそう言って、自分の背後を指差した。
「示されても、見えない。」
「ああ、そうよね。でも……、」
彼女が私の顔をまじまじと見つめる。
今まで私達は真っ直ぐに前を向き、お互い相手の顔をほとんど見ずに会話をしていたものだから、何だか、違和感がある。それに耐え切れず私が、何?と尋ねると、
「あなた、見えないのよね。」
と、しみじみ呟いた。 何を言い出すのだ。突然。
「いえ、私は初めてあなたを見た時、てっきり見える人だ、何て思っていたから。」
「馬鹿?」
彼女は、浅く溜息を吐く。
私は彼女の、全てを静かに受け入れて、全てを容赦なく突き放すような、この溜息が好きだ。
「きっと、あなたが赤い髪をしているからね。」
彼女は自分の黒塗りの髪を弄り、溜息混じりにそう言った。
教室の扉を開ける。
気持ちの悪い空気と、いつもの光景。
「あのね、あのね、こんど、だいがくせいのひとと、あそぶのぉ。」
扉の前で、うっとうしい小動物が、その他と話していた。
「いいな。でもあんたカレシ出来たでしょう。いいの?」
「いいのぉ。だって、いまのカレシにあきたあと、かわりのひとがすぐにいないと、さみしいでしょ?」
そのような会話が、聞きたくなくても聞こえた。
「邪魔。」
こういう時に、元樹の溜息が使えたらどんなに良いのだろう。
「こわいよぉ。」
私の一言で、すっ、と退いていく。
なるほど、もっと早くに胸ぐらを掴んでおけば良かった。これでやっと、窓から景色がゆっくりと眺められる。
そんな日の放課後に、珍しく元樹が話し掛けてきた。私が小動物から解放されたためだろう。
「一ヶ月前に、コージさんが帰って来たらしいわね。」
「ああ。」
「兄さんに聞いたわ。一ヶ月前にだけれど。」
「それより、何故あのクソ兄貴と彼は友人なんてしているんだ。」
「コージさんが人に興味がないからよ。」
彼女はこれ以外の答えはないように、スッパリと言った。
恐らく、彼に直接聞いたわけではないだろうが、なるほど。確かにそれ以外に答えはない。全て、納得できた。
「それで、何か用?」
「……放課後、気が向いたら屋上に来なさいよ。」
そう言い残し、彼女は教室から出て行った。
私はまた、窓の外を見る。
冬は、嫌いだ。
昼間だというのに、月が出ている。
元樹が見ている幽霊は、もしかしたらこのように見えるのかもしれない。
本来ここにいるべき存在ではないのに、ここにいる。だけれど遠く、触れられない。絶対的な距離。
そのやるせなさは、何度、彼女の頬を掠めたのだろうか。
きっとそれは、そっ、と近づき、血と一緒に体中を流れていく。
彼女はそれに慣れただろうか。だからきっと、あの溜息が吐けるのだ。
ねぇ、月。お前はこの世に必要ないものなど、あると思うか。
もしもないなどと綺麗事を言うのなら、お前は何故そこにいる。何故、ここにいると言うの。
ねぇ、月。答えられるか。答えてくれ。
分かっているさ。私の事は自分が一番良く分かっている。でも、あと少し、待っていて。今日はまだ、気が向かないのだ。
バイトは10時00分を過ぎた。
いつも通り慣れてきた仕事をこなす。
私は毎日、真面目に夜中までバイトをみっちりいれて働いてきたので、大分金は貯まっていた。
禿げた身長の低い親父がニヤニヤしながらエロ本を買って行き、チャラついた、格好だけの男がメールアドレスを聞いてきた頃だ。私が、よし、バイトを辞めよう、と思ったのは。
私は無事、そのナンパ男を殴り、バイトを辞める事が出来た。
疲れた体でゆらゆら自転車をこぐ。
ライトが真っ直ぐ行く道を照らしてくれない。ああ、照らさないでくれ。このままずっと。
誰にも照らされたくない。兄貴にだって、元樹にだって、奈美にだって、あの、満月に近い月にすらだ。
ああ、そろそろだ。ゼンマイをあと、一巻きだけだ。たった、一巻き。それで、私は……。
月と目が合った。何だその目は。絵本の挿絵のような柔らかな瞳は。私を見下ろすな。私を照らすな。
私の道は自分が決める。このゼンマイは自分が巻く。例え、手から血が出ようとも、指が折れようとも。
だから、照らすな。その瞳で私を見るな。地球の重力に負けたくせに。太陽がなければ、輝けないくせに。
私はペダルをこいだ。
今から行けば明け方になるだろう。だが、そんなこと、今の私には関係ない。
足を限界まで押し出し、こいだ。風を感じる。秋と冬を感じる。
ああ、そうさ。認めるよ。私は冬が来る事に対して焦っていた。
冬が来るまでに何とかしなければ、きっとまた、流されて行くばかりだっただろう。しかし、明け方には、明日には……。
『おじゃましまあす。なあ、外に停めてある自転車、俺のだろう。懐かしいなあ。何、お前使ってんの?』
『だったら、何だ。』
『別に。奈美ちゃん、アップルティー。』
『奈美なら辞めた。』
『へえ、何でだよ。』
『何で、お前に教える義務があるってんだ。』
『お前が追い出したってか。酷い子っ!』
『じゃあ、明理さんに会って来よう。』
『……。』
『部屋は変わってないよなあ?』
彼は明里の部屋の封印を解く。
良くこの部屋を出入りしていたのは、彼が出て行く前の事で、必ず、彼を先に入れた。
彼が出て行ってからは興味をなくし、全くここに入る事はなくなった。
『ふうん。ちゃんと綺麗にしてあるんだな。』
久々に明里の顔を見た。あの時から何一つとして変わらない笑顔。しかし、紙きれに心はない。
『こうして見ると、本当にアキラに似ているよな。アキラを笑わせた感じ。』
ふざけんな。
『線香の、匂いがする。』
……。
『毎晩、磨いて、線香焚いて、手を合わせて、アキラとコージを見守ってやってくれ。なんて言っているだろうな。』
……。
『メイドに任せりゃ良いのに。罪滅ぼしのつもりかな。葬式に来なかった事を明里さんが恨んでいないなんて、俺にも分かるぜ。』
全くだ。
『母さんは、幸せだった。』
クソ兄貴にクソ親父、
『私だって知っているさ、それくらい。』
そして、二十歳という若さで死んだ馬鹿女が、私の家族。
『だよな。俺達の親になれたんだ。光栄な事だぜ。』
朝日が顔を出す前の、空が明るむ頃、月は淡くなった。
私は筋肉痛でピシピシする足を引きずり、あの砂浜を歩く。海と向かい合わせになると、別荘が後ろにある、あの砂浜。
息が上がったままで、喉の奥が熱い。その場で倒れるようにして仰向けになった。
頭の上まで潮の跡がある。どうやらここまで満ちていたようだ。背中が湿ってきたので、横を向く。
砂と同じ目線になり、私は遠くに何かを見つけた。
貝殻か何かと思ったが、あんな色をしたものは滅多にないだろう。もしもあったなら、着色料を作れるのではないか。まあ、貝殻では無理でしょうが。
だとしたら、あれしかない。あの、ドキツい……。
私は体を起こし、それに近付いた。貝殻より一回り大きい程度を残し、埋まっており、しかし、固さは貝殻より遥かに柔らかい。
私は紅いマニキュアを塗った指でそれを掘り出した。
あの、不可解な財布。
母の、形見だ。
母は若かった。若く、美しく、そして儚かった。
母は幸せ者だった。
彼女は金持ちの家の一人娘で、生まれたときから美貌と地位と膨大な金を持ち合わせていた。
20年間、思い通りにならなかった事はない。親の権利を使い、私達の親父とも結ばれた。
しかしそれは戸籍上でのみだ。
父には、そのために引き離された恋人がいた。良くある話だ。
2人の絆は、唯一、母にはどうしようも出来ないものだった。
しかし、母が生まれてから死ぬまでの20年間、思いのままだったのは事実なのだ。
「ママはね、思い通りにならなかった事はないの。」
これは、今は仏壇のある部屋の中の思い出。
「でもね、今度はなかなか難しかったわ。お父さんの力を使っても、やっぱり完璧には無理だったみたい。」
母は最高の笑顔で明るく私達に語りかけた。
「でもね、」
兄貴は母と私が似ていると言うが、兄貴もそっくりなのだ。
使用人の寮に火を付けた時の、あの悪戯な兄貴の笑顔。それを見た時、あ、お母さんだ。と、思ったのを覚えている。
「良い事を思い付いちゃった。」
「なあに?」
幼い兄貴が尋ねた。
「ママはね、思い通りにならなかった事はないの。」
その時、彼女の目は白をなくし、半月型の闇になった。
「私が今死ねば、これから思い通りにならない事なんて、ないんだわ。」
キャハハと、高い声で笑う。
母親は懐から銃を取り出した。手首をきったり、首を吊るなどの生温いやり方、彼女には似合わない。
兄貴が銃を見て、格好良いと喜んでいる。
パン。
銃声はドラマや映画でやる程大きくはない。そう感じただけだろうが、それが私の感想だ。
弱い母親。
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