わたくしの知っている弟と違う
※「僕の知っている世界と違う」の更に裏話
―――最後に逢った弟は、とても怒っていた。
双子の男女の片割れ、数十分違いの妹として産まれた当時、通常一人の赤ん坊より出てくるのに時間がかかったこともあり、けっこうな難産だったらしい。母は双子出産の苦しみから「もう二度と子供は産まない」と言い放ち、父との閨も断るようになった。お家が決めたお堅い結婚、互いに高位の貴族らしいプライドの高さもあり、元々そんなに仲が良くなかった夫婦。取り敢えず男は生まれたので後継ぎを作る義務も解消され簡単に縁は遠くなり、互いに愛人が出来た頃には家庭には寒々しい風が吹くようになった。わたくしも兄も、それが当然という雰囲気のまま育つ。男女分けられて育てられたせいもあり、最も近しいきょうだいであるのに、幼い頃は会話もあまり無かった。
そんな環境に一石が投じられたのは、父に何人目かの愛人が出来た時のこと。世間にバレないよう巧妙に複数間を渡り歩いていたはずの父が、その女性一人にのめり込み始めた。そして同時期に、子供に対する態度も微妙に変わった。義務的な挨拶と興味の無い態度から一転、不器用ながら柔らかな笑顔を向けてくれるようになったのである。
兄もわたくしも父の変化を敏感に感じ取り、戸惑った。母親は相変わらずすべてに無関心だった現状、父親の不思議な変調は寒々しかった家庭に今まで無かった種類の温みを齎してくれた。わたくし達は幼心にこのように父を変えたものはなんなのだろう、今度の愛人はどんな人なのだろうと考えた。ぽつりぽつりと兄妹で会話をするようになり、性差や性格より価値観が似ていることにも気付き、いつしか普通の双子のように仲が良くなっていた。いわば、それが始まりだったのだ。
貴族にとって愛人というものは、当然の存在。ただ、現代の時代情勢下では明るみになると非難されるため、皆が巧妙に隠しているだけのこと。現代貴族の常識として、愛人は作れども外面は清廉潔白に振舞う。地位の高い者ほど情報が洩れないよう、ヘマは犯さないよう気を遣う。
だから、当の父がそのヘマをやらかした時は一同仰天した。なんと父は、その女性を公的な妾とすると宣言したのである。愛人を公表し近くに住まわせるなんて、一体いつの時代の話なのだろう。今の時代だとバッシングどころか、下手をしたら当主の座も追われかねない愚挙なのに。しかし父は、投資事業で今まで以上の利益を挙げる公約と引き換えに押し通してしまった。
父の妾となった女性は、没落貴族。市井で父と知り合い子供を身篭り、極秘に出産すらしていたらしい。母は怒り狂った。互いに愛が無い夫婦だったが、プライドの高さがその事実を受け入れがたかったのだろう。兄とわたくしに「絶対に関わるな」と念を押した。子供達は神妙に頷き、そして内心は「絶対に関わってやる」と息巻いた。
寒々しい家庭に慣れていた子供にとっては親の不義に対する嫌悪より何より、純粋な興味の方が強かったのだ。実際父は優しくなったし、事業の成果も上々、仕事は増えたがそのお陰で手土産も増えた。「あの父がここまでする人はどういう人なのか」そして家庭にひとときの温みを齎してくれたものの正体を知りたかった。そうして浅慮な興味のまま、彼女に逢いに行った。わたくしより慎重な性質の兄は渋っていたが、わたくしが無理矢理引っ張っていった。
こっそりと妾宅の様子を伺いに来た男女の子供に気付き、その女性は赤ん坊を揺り篭に抱き下ろし手招きした。質素な装いをしていたけれど、母とは違う、どこか物柔らかな雰囲気の女性だった。そして優しい笑顔で、赤ん坊に触れさせてくれた。ふくふくほちゃほちゃのその生き物を恐る恐る抱っこした時、兄は赤ん坊の頬を突きながら「なんだか、すぐ壊れそうだな」と言った。「壊れないわよ」とすぐ言い返した自分に驚く。ミルクの匂いがほのかにするこの生き物に情が湧きあがったのは、その瞬間からである。
それから暇を見つけてはちょくちょくとわたくし達はその家を訪れ、父の愛人と語らい、赤ん坊と遊んだ。彼女は正妻の子供であるわたくし達の正体を知るや遠慮の意を示したが、「ならバレないようにするから」と押し切った。母がピリピリとしている自宅より、この子供好きな女性の居る妾宅に来て紅茶を飲む方が断然落ち着いたから。たまに顔を見せにくる父は驚いた風であったが、直に慣れ、自宅では見せない砕けた態度で接してくれるようになった。父の更なる変化には、特に兄が喜んでいたことを思い出す。わたくしはわたくしで、赤ん坊を抱っこしたりあやしたりするのが好きだった。そして、父とその女性が二人で漂わす柔らかな雰囲気も好きだった。母より愛人のほうが父とお似合いだなんて、今思い起こしても滑稽というか、奇妙な感慨であったが。
だんだんと大きくなった赤ん坊は男の子で、歩けるようになってからはよたよたとわたくし達の後に付いてまわった。「あねうえ」と舌足らずな声で呼びかけてくるのがなんともくすぐったく、心地よかった。一緒にお人形遊びをしようと持ちかけたわたくしに対し兄は野蛮なチャンバラごっこをさせようとし、兄妹で喧嘩になった。可愛い異母弟を取り合う双子を父は苦笑して見つめ、父の愛人は――わたくしにとって乳母を除けば実母より慕わしい存在となっていた彼女は――ほんのりと憂いを秘めた瞳で優しく微笑んでいた。内実を考えれば滑稽で奇妙ながら、どこまでも暖かな空間。思えばあの時が一番平和な時期だったのかもしれない。
束の間の平穏が破られたのは、親族の一人が母に密告したことによる。よりにもよって我が子が夫の愛人宅に入り浸ってることに母は当然ながら怒り、ならばとばかりに妾宅を取り壊して当の愛人母子を屋敷に住まわせる、現代貴族としては凄まじい行動に出た。すべては父が遠方の投資視察へ行っていたあいだの出来事であり、夫への嫌がらせに他ならなかった。
わたくし達は、浅慮な行いの責任を取らされる。母に、仕置きとばかりに殊更厳しく躾けられることになったのだ。興味の無い態度から一変、少しでも作法を外れた行いをすると手を打たれ頬を張られる毎日。勿論、可愛い弟と仲良くすることも目をあわすことすら許されない。わたくしが慕うあの女性は、本家に連れて来られてから毎日下働きのような仕事をさせられ、厳しい環境でこき使われていた。わたくしはせめてもと、母の目を盗んで温かいものを差し入れたりあかぎれの薬を届けたりすることしか出来なかった。兄は規律の厳しい学校に追いやられ、父が帰ってくるまで日々の話相手すら失った。唯一の安らぎは、小さな異母弟が一人で遊んでいるのを遠くからそっと眺めることだけ。
父が遠方から帰ってきて、やっと地獄の日々は軟化した。衝撃を受けただろう父は感情を抑えた素振りですべてを取り収めた。下女となっていた彼女を使用人底辺の住まいから別の場所に移し、母親の元から引き離した愛人の息子を貴族専門でない平民混在の学校に通わせることで妻を宥めて。一見、日常は落ち着いた。
だが、引き換えとして父は娘の前であまり笑わなくなってしまった。そして可愛い弟も、学校に通い始めてからはわたくしと目を合わせてくれなくなった。避けられていると、その時はとうとう嫌われたのだと信じ込んだ。
慕わしい、親しいと思っていたものが次々と去っていく。すべては、わたくしの浅慮な行動のせい。いや違う、わたくしのせいじゃない。この環境、貴族の閉塞的な環境のせい。孤独感が強まった世界にて八つ当たりめいた思いを募らせていたわたくしは、ある時激しい後悔に見舞われる。
異母弟が、通い始めたばかりの学校から裸足で帰ってきていたことにやっと気付いたのだ。ボロボロの鞄、殴られたような顔の腫れ――貴族の妾腹ということが知られ、あの子は虐められていた。
すべてが分かったあの時の衝撃、襲った後悔は、今思いだしても辛い。無力感と自分に対する悔しさで息も詰まるほどだった。弟はずっと我慢していたのだ、その小さな身体で。理不尽な環境下で、それでも誰にも当たることなく、母親と自分の居場所を護るために誰にも言わず。それなのに、わたくしは気付かず一人でいじけ、自己満足的な思いに浸っていた。そして今も、確実な対応策すらとれない。貴族という強くも弱い立場、そして女という性の壁が問題に割り入ることを許さない。父とは最近会話をすることが出来なくなったし、ただでさえこの子を目の仇にする母に事態を知られるわけにもいかない。なんて自分は無力なのか。
打ちのめされつつ、それでも何もしないわけにもいかない。母の留守を狙い、弟を部屋に引っ張り込んで遅まきながら傷を手当し、滅茶苦茶にされた教科書の代わりにこっそりと購入した書物を譲った。健気な弟は平気な素振りをしていたが、ぎゅっと抱きしめるとぐすんぐすんと泣き始めた。わたくしも泣きたかったけれど、すべてを胸の内に隠して謝った。気付くのが遅れてごめんなさい、あなたを護ることが出来なくてごめんなさい、わたくしには泣く資格なんて無い。わたくしがもっと賢かったのなら、もっと立場上力のある男だったのならあなたにこんな思いをさせていなかったのに。
わたくしのもどかしい思いは、わたくしの片割れにより解消された。そう、双子の兄がやっと寄宿学校から帰ってきたのだ。挨拶もそこそこに弟が陥っている現状を話すと、兄は次の日から彼に稽古をつけ始めた。「強くなれ」そのシンプルでいて何より響く指針は、弟の目を輝かせた。我が子と愛人の息子が関わるのを良く思わない母も、「これは男児の勉めなのです」と押し通されてしまえば口を挟めない。元々頭の良かった弟は兄仕込みの対応策をすぐに実行し、適度な口添えもあって自力で虐めを周囲から遠ざけていった。それだけのものを持つ子であり、そうさせることが出来たのは兄だった。女のわたくし一人ではやはり、出来なかったこと。
ほっとすると同時に嫉妬めいた、諦めのような感情も湧く。しょせん、わたくしはこの立場以上のことが出来ず、誰かに助けを求めるだけ。いつだって兄にフォローされてばかりだと。どこまでも自分勝手で独りよがりなわたくしに対し、数年の寄宿学校生活でだいぶ器が大きくなった兄は言う。「そんなことは無い、弟があの状態を耐えられたのはお前が居たからだ」そして父そっくりの顔で付け加えた。「人にはそれぞれ役割があるのだから、無駄に卑下することはない」。
たかだか数十分年上なだけで、随分偉そうなことを言うようになったものだ。むくれたわたくしを、片割れは苦笑して宥めてくれた。
そんな一連の出来事から更に時間が経過したある日、事変は起きる。父が、とうとう倒れたのだ。
遠方出張に続く出張、連日のハードな業務、気の抜けない取引先とのやり取りと家庭不和による心労、気付けのための飲酒依存。諸々の事情が重なり、健康だったはずの父の身体は病の巣窟となっていた。もとは自分が引き起こし押し通してしまった愛人騒動、しかしその責任を一人で負うにはさすがに限度があったのだ。倒れてのち体力気力が大幅に低下した父は、しばしの療養のち「自分は引退し、長男に家督を譲る」と宣言した。そして親戚一同をまたも仰天させる。「当家は財産縮小の道を選ぶ」と付け加えたのである。
古代王政下の代から続く領地の一部を売却、投資事業も大幅に縮小するとのお達しに当然ながら非難はあったものの、思ったより反発は少なかった。今の時代、古代からの形骸化した遺産を維持することじたいにあまり意味など無く、貴族第一でなくなったこの世界ではその労力にも果てが見えることを、皆が皆、薄々と感じていたのだろう。周到な父が前々から少しずつ無駄を縮小削減していたお陰であまり不自然な流れでなく、余りの仕事を息子に手伝わせていたお陰で次期当主の面識もわずかばかり各地に散らばっている。そういうわけで、わたくし達の住まう屋敷も大幅な転業及び人事改革がおこなわれた。
しかし、ある程度の贅沢に慣れてしまうと生活レベルを落とすこと自体赦せない人間がいる。プライドの高い箱入り貴族な母は、人一倍そのたぐいだったらしい。お決まりのように憤慨し父を罵り、あっさりと実家に帰っていった。立場上離縁はしないが、もはやそれも同然の結果であった。まあそれこそ父の真の狙いでもあり、結構前からわかっていたことだったので、置いておくとして。
問題は、兄が家督を受け継ぐ年代だ。わたくし達は共に成人して幾ばくも無い十八歳、如何に優秀といえど、仮にも我が国有数の知名度を誇る名家当主となるには若すぎる。経験の他、個人の信用や顔も知れていないのに後見人が満足に出歩けない状態で、初っ端から上手くいくはずがない。手放せない領地の中には、国境の治安が良くない場所も含まれているのに。手薄となった箇所が国際犯罪の温床になってしまえば当家の信用もガタ落ち、下手をすれば取り潰されてしまうこともあり得る。
そういう問題の手っ取り早い解決策は、手っ取り早く「縁」を作ってしまうことである。そう、相手方のトップと質を交換し合い、信用を無理矢理売買して結びつくのだ。当主となるべく近い血筋の女、例えば実妹のわたくしなどが人質として手ごろだろう。政略結婚というものは少々時代遅れな感もあるが、現状としては最も妥当であり、仕方の無い流れである。
納得と共に輿入れの準備をしていたわたくしに、怒り心頭となったのは弟だった。「姉上はそれでいいのですか」「政略結婚なんてバカバカしいものに、どうして従うのですか」と何度も言い、駄々を――最初はそうとしか思えなかった――捏ねた。わたくしも兄も困ったが、彼の言いたいことはわかっていたので殊勝めいた言葉で場を濁すしか出来なかった。
嫁ぎ先へ赴く当日、弟はわたくしを見送ってはくれなかった。だから、わたくしの想い出に最後に残る彼は、怒った顔をしている。まるで喧嘩別れした恋人みたく。
花嫁道中、弟の姿を探しつつ、やっぱり見つからなくて。そんな自身に失笑したくなったのを思い出す。
――明るい未来を見つけるかは自分次第、だなんて。
なんて薄っぺらい言葉なんだろう。物分りの良い顔をしつつ、最も納得いっていないのは他でもない自分だ。結婚したくなくてたまらないのはわたくし自身だというのに。
弟はきっと、それを見透かしていたのだ。あの子は聡くて、優しい子だから。
そしてわたくしは、そんなあの子にまたも救われた。外には出せないわたくしの感情をあの子が慮って代わりに怒ってくれたから、もうそれでいいと思った。あの子の怒りの言葉に、逆に背中を押されたのだ。しかし結局のところ、恩人である弟に対してお礼や謝罪どころか、あんな上から目線の言葉しか出てこなかった。厭われて当然だ。
所詮、どこまでも独りよがりで自分勝手なわたくし。こんな姉を――あなたがまだわたくしを姉だと思ってくれるのだとしたら――どうか赦して。わたくしは、わたくしなりに精一杯つとめるから。遠く離れた場所で、あなたの幸せを心から願うから。
どうか、世界を嫌いにならないで。幸せでいて。
弟の怒った顔は、わたくしの心残りとしてずっと胸の中に留まることになる。
◆
「さあ、焼けた。熱々だよ」
「ありがとうございます」
じっと持っていたら火傷してしまいそうなほどのそれを手早く包み、買い物用の手提げに入れて布をかけて、わたくしは笑顔になる。このお店のパンは夫と子供たちの好物なのだ。蒸気を逃がさずちょっと柔らかくなった辺りが美味しい。
すっかり顔なじみとなっている店主の態度も、慣れたものだ。
「毎度あり。今日はいつもより多めだね。お客さん?」
「ええ。久々にわたくしの」
「男? 女?」
「男性です」
「ロリコ……じゃなかった、ご領主サマの溺愛奥方に逢いに来る男か。しかもその顔は、けっこう重要人物?」
「ええ」
「命知らずだねー。この前だってナンパされてたのご領主サマに見られて、相手の男半殺しにされてたのに」
「ご心配は無用ですわ。そういう相手ではありませんもの。あの人ももう少し落ち着いて欲しいわ。わたくしも、もういい歳ですし」
「そのキンキラキンのお顔とダイナマイトボディでよく言うよー」
都だと死語そのものの形容である。わたくしは苦笑して軽口を流す。こういう言葉遣いもこの店主、というかこの地域民の特徴だ。嫁いだ当初は遠慮の無いこの言いように戸惑ったが、今では愛嬌と思えるようになった。
「ウチのも『奥方ファンクラブ』に入ってんだぜ。しかも亭主に念押してくんの、『奥さまにご贔屓になってもらうよう上手くやりなさい』って。あ、これ秘密だった」
「まあ」
くすくすと笑う。なんだかんだで、地域民はわたくし共を慕ってくれているのだ。こんなところが照れ臭くも、とても嬉しい。都と違って地方は人と人との距離が近い。
お金を払って手提げを持ち上げ、お店の入り口で優雅にスカートを摘んで一礼。
「ではごきげんよう」
「ああ、ごきげんよう。元貴族のおじょーさま奥方」
「平民の夫には首ったけですがね」
「おお、言う言う」
笑い合って茶化せるくらいには、わたくしも慣れたものだ。
この地に嫁いでから十九年。いつの間にか、結婚してからの年数は当時の年齢以上となった。子供も生まれ、そのうちの一人はつい最近成人を済ませたばかりである。
上記の会話が示すよう、わたくしの結婚生活は順風、といったところだ。全部が全部満帆ではない、しかし、貴族のしがらみと離れた場所での平民生活は思った以上に性に合った。別世界の人間がやってくること、一帯を取り仕切る国境主の妻の座に世間知らずの娘が納まることに反発はあったものの、時間経過と共に和らいでいった。苦労もしたことはしたが、本当の意味で苦しいと思ったことは無かった。過去の貴族生活に比べれば窮屈という感慨からは無縁だったし(むしろ身分を慮る者がいないという意味では好き勝手出来た)、何より、一番最初に家族となってくれた男性が味方だったから。
夫は、わたくしよりも二十歳ほど年上だ。先祖は国境警備の職に就いていた傭兵で、時代の戦火から民を護るうちに信頼を集め、平民ながら貴族並みの財産保有を赦された一族である。この地の領土名義は我が家だが、実質的な支配権ならび威光は彼の一族のもの。いわば、土地に根付いた平民のエリートだ。当主は代々そういった教育を施され、一種独特の責任意識を培っている。すなわち、「何がなんでもこの土地と民衆を護る」「それを一緒にやってくれるんならどんな奴でも受け入れる」といった強固で寛大な器を。
世間知らずな貴族出のわたくしが上手くやれたのも、風土が肌に合ったことに加えそんな年上の夫の無骨ながら気高い志を尊敬できたからである。彼個人の性格や気性も、無骨ながら愛すべきものだった。そして彼も自分よりだいぶ年下の妻に無骨ながら優しく接し、愛してくれた。
最初の子供が生まれる頃には、遠く離れた場所で当主として奮闘する兄の仕事も軌道に乗り始めていた。二人目の子供がお腹にいるとわかったときに、弟が成人し家を出たと知った。三人目の子供がハイハイを覚えた時期、母の実家が取り潰され財産が国に返上されたとも。
初めて妊娠したとき、弟は兄と一緒にお祝いの手紙をくれた。そして今に至るまでぽつりぽつりと、途切れずやり取りをしている。故郷の様子や当家情勢の変移はそのお陰で知れたし、出回る新聞では判りづらい都の内実も把握することが出来た。夫は「弟御は歳若いが賢いな」と褒めてくれた。当然だ。
弟の就職後、解決した事件の幾つかは新聞にも載った。もちろん地味な捜査官の名前なんて載らないけど、それでも少しでも関連あるものが手元に届くのが嬉しくて、兄から教えてもらったものを全部切り抜いて収集している。危険な場所に行ったことを報らされるたび、願掛けをして無事を祈る。誕生日や記念日には毎年ささやかながら贈り物をする。したためる手紙には、精一杯の思い遣りを込める。そういうことしか出来ない自分が歯痒くも、これがわたくしの分際であり、わたくしにしか出来ない役割であるのだと今ではわかってもいる。
時代において人の一生など、ごくわずかなもの。でも、その営みが何千何万と繰り返され、時代は作られていく。どんな道を選ぶか、どのような結末になるかは人それぞれ。誰にも、そのすべてを予測など出来ない。自分の人生だって困難なのに、人一人に完全に歩調を合わせること、導くことは殊更難しい。道が分たれたのなら、尚のこと。
でも。
目に視えないものは、どんな距離も飛び越えると。大切な人のちっぽけな幸福を願うことくらいなら、誰にでも出来るのではないかと思う。いや、信じたい。
「ママ、ぽんぽん痛い?」
「痛くないわ、どうして?」
今年で五歳になった娘が、一緒にお皿をテーブルの上に並べながらそう訊いてくる。
「痛いおかおしてる」
じっと見上げてくる聡い表情は、一体誰に似たのやら。隠していても、すべてを見透かしてしまうような瞳。そしてこちらの本当の望みを理解し思い遣ってくれる、どこまでも優しく暖かな光。
「大丈夫よ。でも―――そうね、本当はそうなのかもしれないわ」
心配げに手を伸ばしてくる娘を抱き上げ、彼女と自分両方を落ち着かせるよう、柔らかな髪に顔を埋める。いい歳して、成人済みの長男がいる身で、情けないけれど。
正直な気持ちを、幼い娘にだけ打ち明けた。
「ママ、きっと緊張しているのね。久しぶりに、弟に逢うから」
「おとうと?」
「そう、弟」
子供と語らっていると、まるで自分自身と内省しているかのような気分になることがある。子育てに悩んだときも、周りの人達に助けてもらいながら自分の小さかった時のことを思い出していた。あの頃のように、そして眼前の彼らのように、シンプルな指針を取り戻したい。
脳裏に過ぎる顔は、未だ怒ったままだ。でも。
「ママはおとうとに逢いたくないの?」
「……いいえ。逢いたいわ」
そう、そうなのだ。色々と考え、緊張してはいるけれど、根本の思いはやっぱり一つなのだから。
「逢いたいわ。だって、可愛い弟だもの」
「可愛いおとうと、わたくしもほしい」
「……。パパに相談してみるわね」
甘いミルクのような子供のにおいと、懐かしい紅茶の香り。あの暖かい空間を思い起こさせるものが、この場には溢れている。
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そろそろ約束の時間だ。天気が良いので、娘と手を繋いで外に出た。見晴らしの良い小高い丘上に建てられた屋敷は、地方らしく緑豊かな自然に囲まれている。
その一角、ぽつんと見慣れない馬車が見えた。徐々に大きくなるそれに乗っている人を、わたくしは知っている。
やがて屋敷の近場に辿り着き、馬車の扉は開く。最初に地面に足をつけたその姿に、目を奪われる。当然ながら記憶に残るより断然大人びており、想像以上に立派な男性だった。
わたくしより七歳年下の弟。そして、彼が伸ばす手を取り、彼に続くよう地面に降り立ったのは――
「ママのおとうと?」
手を繋いでいた娘が嬉しげに声をあげた。馬車から降りたあとこちらに気付き、挨拶をするよう手を上げてくるその人とそっくりな表情。
なのでわたくしも、誇らしげに応える。
「そうよ。あなたにとっての叔父さま。そして、叔母さまもいらっしゃるわ。ご挨拶しましょうね」
そうして、いつかの彼の母親と同じように笑顔で手招きをした。
―――久しぶりに逢った弟は、可愛らしい女の子をエスコートしながら、とても幸せそうに笑ってくれた。
旦那様と姉婿は意気投合しそうです(共にロリコン呼ばわりされてるから