失ったもの
バサッと物の落ちる音がした。
コナンも博士もほぼ同時に、音のしたほうに顔を向けた。
立ちすくむ哀の足元に雑誌が何冊か落ちていた。
「灰原」
哀はさっと背を向け、地下室へ続く階段を駆け下りていった。
「待て、灰原!」
追うコナン。しかし、コナンが階段を下りきったとき、目の前のドアは閉ざされ、中からロックする音が聞こえた。
「灰原、話がある。ここを開けてくれ」
何の反応もない。
当然だが、ドアのノブは回らなかった。
コナンは自分の気持ちを落ち着かせるために、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐いた。
「灰原、俺は別に、さっきの話をお前に隠そうとしてたわけじゃない。これは本当のことだ」
大きな声でそう言った。すると、ドアのすぐ裏側でわずかに物音がした。
『…工藤くん、やっぱり、あなたは工藤新一に戻るべきなの。私のために、本当の自分を失ってはいけない』
とりあえず、哀の言葉が聞こえたことにほっとした。
「何度も言っただろ、俺は江戸川コナンであって、工藤新一ではないんだ。そうなったきっかけにお前が絡んでいるとしても、そんな事はお前が気に病むことじゃない」
『それは、本当にあなたの意志なの?』
「何度同じ質問されても、答えは同じだ」
『さっき、あなたは言ったわよね。私にあなたをあてがったのは、私に不老不死の研究から手を引かせるためだって。その、あてがったのは誰?』
「博士だろうな。だが…」
『私は…』
高い調子でそう言いかけてやめ、続く言葉は低かった。
『…私は、博士を恨んでなんかいない。感謝してるの。これは本当よ。でも、私のために、あなたの人生が狂わされるのは、私には耐えられない』
「いいじゃないか、狂わされたって。本人がそのことを、狂わされたと思っていなければ」
『それさえも何者か、いえ、博士の、洗脳のせいだとしたら?』
「…今でお前には黙ってきたが、この際だから言っておく。工藤新一は、法的には、すでに死んだも同然だ」
『どういうこと?』
「親父が捜索願を出したんだ。失踪から七年後、つまり今から五年後、失踪宣告をするために。これはもちろん、俺の意志でもあり、親父も母さんも納得した上でのことだ」
ドアに何か擦れるような音がしたが、哀の声は聞こえない。
「これは一つのけじめなんだ。親父も母さんも、そのことでお前を責めるなんてことはあり得ない。お前だって、そのことは知っているだろ?」
工藤夫妻は出版記念パーティや取材のために、年に十数回日本に帰国するが、二人の哀への心遣いは、コナンへのそれを上回っているかのようだった。コナンへの土産は、せいぜい日本で入手しにくい図書くらいのものだが、哀には服やバッグ、アクセサリーなど、金額からいってもコナンの数倍、いや二桁三桁違うこともざらだった。
『それでも、あなたは元に戻るべきよ。私のためなんかに、偽りの姿と名前で生きて行く必要なんてないのよ! …そんな体にしてしまった私を恨んでるって、そう言ってくれたほうが、私は…』
「もう何度も言ってるだろ。俺は、お前と出会えて良かったって。それが偶然でなかろうが、そんなことは関係ない。工藤新一はもうこの世にはいないんだ。その…つまり、お前といっしょに生きていきたい、それ以外何も考えていない、江戸川コナンというこの俺がいるだけなんだ」
『…ありがとう。本当にありがとう、工藤くん…だけど、私は…私は、あなたの、本来あったであろう幸せばかりか、名前や姿まで奪ってしまった。あなただけじゃない、ご両親やそして蘭さんから、あなたという人を奪ってしまった。それは、誰が何と言おうと、たとえあなたが、他の皆が、どんなに許してくれようと、事実なの。事実なのよ!』
ふう、とコナンは息を吐いて、自分の心を落ち着かせた。
「確かに、こんな体にならなかったら、工藤新一としての別の幸せがあったかもしれねえな。だけど、それは仮定の話さ。本当にそれが幸せだったのかどうななんて、わかったものじゃない」
『工藤新一としてやり直して。お願い。私も宮野志保に戻るから』
「…つまり、元に戻る方法を開発したってことか?」
ドアの向こうから返答はなかった。そして、どさっと何かが倒れる音がした。
「灰原? おい、灰原! どうした!」
無駄と知りつつ、ノブを回そうとするが、もちろん回らない。
そのとき、博士がゆっくりとした足取りで降りてきた。
「博士、この部屋の合い鍵は!」
緊迫感のなかった博士も、コナンの顔を見て表情が一変した。
「どうしたんじゃ?」
「灰原が倒れたかもしれない」
「何!」
博士はズボンのポケットをごそごそと探り、マスターキーを取り出した。それをコナンはひったくるように奪い、素早く解錠した。しかしドアを慌てて押し開けるようなことはなかった。ドアの前に哀が倒れているかもしれないからだ。
幸い、ドアのすぐ前には異常はなかった。しかし、部屋の真ん中に哀が仰向けに倒れていた。
「灰原!」
駆け寄ろうとするコナンを、博士は片手で制し、哀の手首を取った。
「…これは、急性低血糖ショックじゃな」
「何だって!」
全身は細かい痙攣し、顔面はまさしく蒼白、顔中に浮いた汗が粒となって頬を流れた。
博士は冷静に哀の机の上を見た。コップに入った水とカプセル薬がいくつか置かれたアルミトレー。そして皿の上に盛られた白い結晶状の物質。
博士はその白い結晶の塊をつまむと自分の口に入れた。
「ふむ、ブドウ糖じゃな」
哀の口にもブドウ糖を差し入れる。
「わかっとるな、お前なら。ブドウ糖を少しづつ水で胃に流し込むんじゃ。わしゃ点滴セットを持ってくる」
コナンが相づちを打つやいなや、急いで部屋を出て行く博士。
机の上には水差しも用意してあった。ブドウ糖を用意していたことといい、哀自身も低血糖ショックが起きるかもしれないことは予想していたのだろう。
顎をしっかり支え、震える唇に、咳き込まぬよう、少しずつ水を流し込む。う、と声が漏れたが、うまく胃のほうへ流れたようだ。
点滴セットを抱えて戻ってきた博士は、手早く哀の腕にブドウ糖液の点滴針をセットすると、薬液袋を点滴スタンドに吊し、注射器で茶色の薬品を注入した。それから、そっと抱き上げて長ソファの上に寝かせ、再び脈を取る。
「…とりあえず当面の危機は回避できたようじゃ。発見が早かったから、大事には至らんじゃろう。ああ、すまんが、タオルケットを持ってきてくれんか」
「わかった」
コナンは少しほっとした表情で階段を駆け上がった。
タオルケットを持って戻ると、哀の痙攣はほとんど収まっており、表情も呼吸もかなり穏やかになっていた。
コナンはそっとタオルケットをかけた。
「博士、博士は灰原がこんなことになった理由、ある程度わかっているんだろ?」
コナンは博士に背を向けたまま、ことさらに冷静な声で言った。
博士は粉末の入ったカプセルをつまみ上げた。
「哀くんが飲んだこの薬、簡単に言えば成長ホルモンの混合物じゃ。つまり、哀くんの計画はこういうことじゃろう。一年かかる成長を、たとえば一ヶ月に短縮するとする。すると十ヶ月もたてば元の体、というわけじゃな。成長には当然じゃがエネルギーが必要。哀くんも万一に備えてブドウ糖を用意しておったようじゃが、立ち上がりで血中のブドウ糖が予想以上に消費され、一気に枯渇した、ということじゃろう」
コナンはくるりと振り返って、カプセルを凝視した。
「…この間、研究上わからなかったことが今頃になってわかった、と言っていたが、その薬のことだったんだな」
「いや、そうではない。この薬に必要な成長ホルモンは、すでに医療で使われておるものばかりのはず。ようは組み合わせの問題だけじゃ。投与計画も子供の発育不全治療法を参考にすれば、それほど難しいものではない。今まで存在しなかったのはブレーキのほうじゃよ」
「ブレーキ?」
「成長速度を一気に上げることは既知の薬の組み合わせで可能じゃが、そのままではアクセルしかない自動車のようなもの。当然、成長の速度を適切にコントロールせねばならんが、スピードが非常に高い分、飲む量の調節だけでは難しい。命にかかわるような逸脱も起こりかねん。つまり、いざというときにこの薬の効能を止める薬も必要だった、というわけじゃ。そのブレーキの役割をはたす物質も、未発見だったいうわけではない。すでに人の松果垂体から分離されておる。ただ、これまでは化学的に合成する方法が知られていなかった。哀くんはその方法を開発したんじゃろう。おそらくは…」
博士は黄色いペースト状の物質が入ったカプセルをつまみ上げた。
「これがそうじゃ。ノーベル賞級とまでは言わんが、これの化学合成法を確立したとなれば、大業績じゃぞ」
「…博士がさっき点滴に入れたのもそれか?」
「いや違う。あれは漢方由来の薬でな。哀くんが用意したものが緩やかに止める普通のブレーキなら、点滴に入れたのは一瞬で止める急ブレーキじゃな」
「その漢方薬、灰原には隠してたんだな」
「この薬だけ特に隠すつもりはなかったんじゃよ…まあ、今回は緊急事態だからやむを得ず使ったが…」
「いや、別に博士を責めてるわけじゃないんだ。その存在を灰原が知っていたら、とっくの昔に同じ行動に出ていただろうからな」
博士はもう一度哀の手を取って脈をみた。見るからに顔色も良くなってきていた。
「だいぶ落ち着いてきたな。もう大丈夫じゃ。寝室に移動するぞ。薬液袋を持ってくれ」
「わかった」
博士は点滴スタンドから薬液袋を降ろすと、そっとコナンに手渡した。
「体より高い位置に保つように。それからチューブにはくれぐれも気をつけてな」
「ああ」
寝室のベッドの上に寝かされた哀は、表情もずっと穏やかになり、ただすやすやと眠っているだけのように見えた。脇に立つ点滴スタンドがなければ。
不安げな表情のコナン。博士はやや強引に笑顔を作った。
「もう心配はいらん。後は目を覚ますのを待つだけじゃ」
「体のほうはな。だが…」
博士の顔もさっと曇った。
「少し不用心じゃったな」
「いや、灰原のことだ、さっきの話の内容が受け止められないなんてことはない。ある程度は予想のうちだったろう。問題なのは、俺もうかつだったんだが、灰原が失ったものの大きさを、俺があまりにも軽く考えすぎていたってことさ」
「失ったもの?」
「物心ついたとき、両親はすでに他界していた。唯一の肉親だったお姉さんは殺され、肉体の姿形も、そして本当の名前さえも…」
コナンは哀の枕元に椅子を引き寄せて座った。
「灰原…いや、彼女は、俺のことを絶対に工藤としか呼ばなかった。その意味を、もっと深く受け止めるべきだったんだ」
眠る哀に、いとおしげな視線を向ける。
「俺にとっては、工藤新一という名前はすでに過去のものなんだ。今さらこだわることなんか何一つない。ただ、それが自分のものであることには違いないから、彼女が工藤と呼ぶのことも別段気にしていなかった。だが彼女は、俺はあくまでも工藤新一なんだ、ってことを強く意識してたんだ。俺にとっては工藤新一が過去のものであったとしても、彼女にとって、宮野志保が同じように過去のものであるはずはなかった。俺は、そこのところに無神経すぎた…それが、どれほど彼女を苦しめているかも気がつかずに」
博士は微笑んでいた。
「いや、哀くんは、お前には心から感謝しておるぞ。哀くんとてわかっておるのじゃ。もう過去のことにとらわれることなく、これから灰原哀の人生を築いていけばいいのだ、ということをな。だが、自分のせいで新一、お前の人生を狂わせてしまったのかもしれない、という恐怖、そう、恐怖じゃな、それは、どうしても消し去ることはできんのじゃろう」
「消し去ることなんかできっこない。それが人間なんだ。違うか? 博士」
コナンは顔を上げ博士をまっすぐな目で見つめた。博士も真剣な眼差しでその視線を受け止めた。
「お前の言うとおりじゃ」
コナンは哀の頬にそっと手をやった。
「俺は、そういう恐怖を抱いている彼女、過去の宮野志保も、今の灰原哀も、全てをひっくるめて、愛している。たとえ何者かの目論見どおり、予定どおり、仕組んだ結果であったとしても、そんなことは関係ないんだ」
しかし、一週間たっても哀が目覚めることはなかった。
つづく
○本小説の参考情報コラム→(http://ncode.syosetu.com/n9064d/)
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