命を狙われる理由
開館直後の区立図書館。夏休みではあるが、さすがにまだ閑散としていた。
薄曇りの空。窓からやわらかい光が差し込んでいる。
図書館入口手前のロビーには光彦と歩美の二人しかいなかった。
「ねえ光彦くん、本当に今日話すのね?」
歩美が念を押すように言うと、光彦はしっかりうなづいた。
「コナンくんたちも正体に感づかれたことは気が付いているでしょうし、今さら何事もなかった、というわけにはいかない…それは二人もわかっているはずです」
歩美も決心したようにうんとうなづいた。
その時、光彦の胸ポケットに入っていた携帯電話機がぶるぶる震えだした。
「電話…」
ディスプレーに表示された先方の電話番号を見る。
「阿笠博士?」
二人は急いで図書館の建物を出ると、図書館前にある小公園のベンチに並んで座った。
「お待たせしました、光彦です」
『ああ、阿笠じゃが、光彦くん、今電話いいかね』
「ええ。図書館にいたんですけど、外に出ましたから」
『そうか。実は、わしは今札幌におるんじゃが、コナンと哀くんからいろいろ話を聞いてな』
二人は顔を見合わせた。
「いろいろ、とは?」
『まあ、いろいろじゃ。ここはな光彦くん、真正面からあの二人に疑問を突きつけてみることじゃよ』
「ふふ…ちょうど今、歩美ちゃんとその件で話してたところなんです」
『そうか。ま、わしのアドバイスはそれだけじゃ』
光彦の顔から笑みが消えた。
「博士」
『ん?』
「僕たちがコナンくんたちの正体を知ったことで、博士に迷惑がかかるようなことはありませんか」
一秒の沈黙。
『…わしは、君たち二人を信じておる』
光彦は電話に向かってにやりと笑った。
「わかりました。わざわざお電話ありがとうございました」
『がんばりなさい』
「失礼します」
光彦はピッと電話を切ると、胸ポケットにしまった。それからきょろきょろと周囲を見渡した。
「どうしたの?」
「いえ、もしかして誰かが僕らのことを監視してるんじゃないかと…一応ですが」
「監視?」
「偶然にしてはちょっとタイミングが良すぎる、とは思いませんか?」
歩美も一応といった感じで周囲を見渡した。
「その監視してる人、子供に見破られるようじゃ…ええと、プロ失格」
「ははは…なるほど、そういうことにしておきますか」
*****
コナンと哀は昼食の後かたづけをしていた。
「片づけ終わったら今日のうちに行こうか? まだ二時開場に充分間に合うぞ」
コナンはわくわくしていた。
そんなコナンのまるで子供のような、いや外見はまさしく子供なのだが、そんな様子に、哀も抵抗できなかった。
「わかったわよ、つき合ってあげる」
「そうか!」
「ええ」
コナンは哀の表情を窺うような顔をした。
「やっぱ、違う映画のほうがいいか?」
「いいわよ、たまには。そういう映画も」
「よし。それじゃ…」
コナンは嬉しそうに食器を棚にしまうと、洗面所に向かった。
その時、静かな阿笠邸にチャイムが鳴り響いた。
哀がモニターを見ると、予期せぬ来訪者は歩美と光彦であった。
「ふふ…向こうからやって来た、ってわけね」
洗面所から戻ってきたコナンは、哀の不敵な笑顔に首を傾げた。
光彦と歩美はいつものように居間のソファに腰掛けた。光彦はいつもと同じ、というわけではないが一応平静を装っている。歩美はかわいそうなほどに緊張していた。
テーブルにクッキーの皿を置いた哀。
「何か、私たちに話でも?」
ソファに座るなり、機先を制して光彦に言った。
光彦は一つ呼吸すると、キッと哀を見つめた。
「お互い、腹のさぐり合いはよしましょう」
「え?」
「これから僕たちが知り得たことを全てお話します。間違っていたら言ってください」
コナンが紅茶の乗ったお盆を持ってやってきた。
「お前たちが知り得たことって何だ?」
光彦は余裕のある表情だった。
「もちろん、コナンくんと灰原さんの正体についてですよ」
立ったままのコナンは、来たか、という表情を隠しきれない。一方、哀は非常に落ち着いた真面目な表情だった。
「江戸川くんはともかく、私にも、正体なんてものがあるのかしら?」
哀の言葉にコナンははっとした。そうだ、光彦はなぜ、哀の正体にまで言及したのだ?
「ある人に教えてもらったんです。二人の正体について。念のため言っておきますが、そのある人とは阿笠博士ではありません」
「そう…いいわ、そのある人が誰かってことはとりあえず詮索しないでおきましょう。それで、私の正体って?」
光彦の目が険しい光を帯びた。
「灰原さん、アポトキシン4869、ってご存じですね」
「な…」
コナンは思わず声をあげそうになって、慌てて喉で飲み込んだ。
「ふふ…そのアポ何とかを私が知っていたとして、それがどうしたの?」
哀は妖艶とでも言うべきか、大人の表情で光彦を見つめかえしていた。
「灰原さんが開発していた薬の名前でしょ。そう、高校生を小学生に若返らせてしまう奇跡の薬ですよ」
コナンは驚愕のあまり声も出ない。しかし、哀はなおも悠然と微笑んでいた。
「へえ…そんな奇跡の薬があったとして…」
「灰原さん!」
哀の言葉を遮って、光彦は叫んだ。
「灰原さん、コナンくん、二人はそのアポトキシン4869を服用して若返ってしまったんです。コナンくんは、蘭お姉さんの恋人で今現在も行方不明の工藤新一、そうですね、コナンくん」
コナンはあまりの展開の速さに、とっさの返答ができない。そのコナンに代わって、哀が落ち着いた口調で言った。
「江戸川くんの正体が工藤新一なら、私の正体は誰だと言うの?」
哀は試すような視線で光彦を見つめる。光彦はその眼光を跳ね返すように、不敵な微笑みを口の端に浮かべた。
「宮野志保、それが灰原さんの本当の名前、ですよね?」
いちばん驚いたのは歩美だった。
「光彦くん、それ…」
「僕なりにいろいろ調べたんです。この件については黙っていてごめんなさい、歩美ちゃん」
申し訳なさそうに歩美に謝る光彦の表情に、哀は、なおも微笑みを失わなかった。コナンにはそんな余裕、あるはずもない。
「なるほど、歩美ちゃんを巻き込むと危険なソース、ってわけね」
「ええ、そうです」
「よく調べたわね、円谷くん」
哀は本気で感心していた。
「僕の言ったこと、間違っていましたか? 灰原さん、コナンくん」
哀は、一応、という感じで立ちつくしたままのコナンを見上げた。コナンはまだ事実を受け止めるだけで精一杯だ。光彦の目に視線を戻す。
「そうね…私の本名が宮野志保で、アポトキシン4869を開発していたこと、そしてその薬で私と工藤くんが小学生の姿になってしまったこと…全て円谷くんの言うとおりよ」
静かに、深く、光彦はうなづいた。コナンはようやく初期の驚きを脱して、頭脳が回転し始めた。
「光彦、お前にそこまでの情報を漏らしたのは誰だ?」
光彦は複雑な笑顔をコナンに向けた。
「あの、コナンくん…って呼べばいいんでしょうか?」
「ああ、俺は江戸川コナンだよ。他の誰でもない」
「大まかなことを教えてくれたのは園子さんです」
「なに?」
コナンはその意外な名前に、真面目に驚いた。
「園子が…」
「ふふ…あり得る話よね」
哀はさして驚いた様子もない。
それまでずっと黙っていた歩美がきっと顔を上げてコナンと哀を見た。
「あの、哀ちゃん、コナンくん…」
二人が歩美を見つめる。
「…その、私たちのこと、怒ってる?」
コナンにも、ようやく余裕が戻ってきた。
「いや、別に…俺たちのほうこそ正体隠してたわけだから、謝らなきゃいけないのはこっちだよ」
「それじゃ私たち、これからも友達だよね!」
歩美の強く同意を求めるような表情に、コナンと哀は同時にうなづいた。
「もちろんよ、歩美ちゃん」
「いつかはこちらから話さなきゃいけないことだったんだ」
歩美はほっとしたような表情を浮かべた。
「でも、二人ともすごいですね。僕ならパニックに陥って、小学校に通うなんてこと、想像もつかなかったと思います」
光彦は思わず本音を言った。
「俺だって想像もつかなかったよ。だけど、この格好で小学校に通ってないんじゃ、世の中通らないからな」
コナンはそう言って、ようやくソファに腰を下ろした。
*****
新千歳空港にほど近いホテルの一室、博士は和服姿の老人と相対していた。
「君のところの子供達の正体が、とうとうばれたそうだな」
「はあ、まあ、円谷くんはすでに気が付いていたことですし、遅かれ早かれ、というところです」
「円谷くんは、私たちの想像以上ではないかね?」
「はい、それは、もう…ときどき恐ろしくなるほどです」
「ははは…恐ろしい、か」
「波多野先生」
「ん?」
「コナンと哀、あの二人、あれでよかったのでしょうか?」
「よくなかった、ということはあってはならない」
「…はい」
「君が迷ってどうするね?」
「いえ、迷うなどということは…」
「君に迷いというか、多少ためらいがあるのもわからんではない。だが、君には、生き残った者の責任、というものがある」
博士は厳しい表情でその言葉を聞き、重い声を出した。
「もう一人、生き残った者がいます」
「む…」
「いったい、いつまで彼をこき使うおつもりですか?」
「彼自身望んだことだからな。それに、彼の仕事も必要だ。いまさら言うまでもあるまい。これは需要と供給の関係だよ」
「二人は、この先成長していきます。もし、彼が二人に気がついたりしたら…」
「心配はいらん。彼には二人のことなど思い出している暇はない。まあ、万一の場合は…」
老人はそこでいったん言葉を切った。
「…人柱になってもらおう。もっとも、彼にはあまり時間は残っていないようだがな。私と同じように」
老人は軽く笑って、冷めてしまった茶碗を手に取った。
「ただ、万全を期すべし、との意見が出るのはしかたないことだ。工藤新一には気の毒な話だが、宮野志保は危険な領域に接近しすぎたのだからな」
膝の上に置かれた博士の両手が、震えていた。
「そ、それは…」
「私の目が黒いうちは大丈夫だ。あの二人に関して積極的に、という者はおらん。だが、客観的に考えてどうすれば最も安全か、ということは明白だ。これは動かない」
老人は窓の外に目をやった。
「私も、あの二人が大きく成長することを信じている。だからこそ、君の責任は重大なんだ。違うかね?」
*****
夜、博士は帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
出迎えたコナンの表情は明るくなかった。
「ん? 何かあったか?」
「今日、光彦と歩美の二人がたずねてきたんだ」
「ほう、さっそく二人の正体についてか?」
「ああ。博士に頼んでたシナリオ、全く役に立たなかった」
博士は上着をハンガーにかけた。
「ひょっとして、予想よりもあの子らが深く踏み込んできた、ということか?」
「俺のことはいいんだ。光彦もとっくの昔に気づいてたことだろうからな。だが、問題は灰原さ」
「そういえば哀くんは?」
「地下室に行ってるよ」
「哀くんについて二人は何と言っておった?」
「光彦は、アポトキシン4869という薬品名はおろか、宮野志保の名前まで口にした」
驚く博士。
「どこからそんな情報を?」
「園子から」
「園子くんが? むう、なるほどのう」
「ただ気になるのは、宮野志保の名前だ。これはどうも園子からではないらしい。あの二人、園子の家に行って、直接彼女から話を聞いてきたんだそうだ。だが、宮野志保の名を聞いて歩美が驚いた。つまり、その場では宮野志保の名前は出ていなかったということだ」
「光彦くんに宮野志保の名を教えた、誰か別の情報源がいるということじゃな?」
「ああ。鈴木財閥が例の研究にどこかで絡んでいることは、ある程度想像のつく話さ。園子の姉さんが旦那の家庭に入ってしまった今、園子が後継者というのはビジネス界の常識。となれば、情報を持っている、いや、本人が積極的に調べたというのも納得がいく。だが、さすがの園子も宮野志保という固有名詞は知らなかったのか、あるいはそこまで話さなかったのか」
「ふうむ…」
「博士に心当たりは?」
「と、言われてものう…」
「光彦はその情報源については、何も言わなかった。まあ、毛利のおっちゃんか妃先生あたりがすぐに思いつくところだが…」
「その二人なら安心なんじゃが、その他となると…」
「博士は本当に、何も把握してないのか?」
「残念ながらな。園子くんと会って、そこまで聞き出した、というのも驚いたわい」
コナンは口の端に奇妙な笑みを浮かべた。
「博士も知らない情報源となると、かなりやばいんじゃねえか?」
「毛利夫妻には確認を取ってみたのか?」
「俺が? そんなことできるかよ。仮に問いただしたところで正直に答えてくれるとは思えない」
「まあ、そうじゃろうなあ」
「博士が直接、光彦から聞き出す必要があるんじゃねえか? 光彦自身の秘密と引き替えに」
博士は難しい顔をした。
「いやまあ、光彦くんが誰から聞いたにせよ、あの子は哀くんとは違って…あ、いや」
博士は急に言葉を止めた。
「灰原とは違う? 何が?」
「…いや、すまん、その先は詮索しないでくれ」
博士は正直に失言を認めた。
「あいつと違って、命を狙われる恐れはない、ってか?」
コナンはにやりと笑った。
「なあ博士、灰原が命を狙われる理由って何だ?」
「そりゃ、裏切り者だから、じゃろ。すでに存在せぬとはいえ、あの研究所の秘密を漏らす恐れがある」
「俺はどうもそこが引っかかるんだ。灰原がサボタージュを始めたのはお姉さんの死がきっかけ、それはおそらくそのとおりだろう。で、そのことを咎められ、死を覚悟したあいつが隠し持っていたアポトキシン4869を飲んで自殺を図った、そこまでは一応納得がいく。唯一の肉親であるお姉さんが殺されたんだからな。しかし問題はその先さ。幼児化したが死ななかった灰原を保護した奴が研究所にいる。そいつが個人なのか複数人なのか、あるいは組織としての研究所の意志なのか、それはわからねえが、とにかく灰原を、俺の一件で実績のある博士の元に預けた。ってことはだ、研究所の中にアポトキシン4869の効能を知っている奴がいる、もしくは組織としての研究所が、ということ。違うか?」
答えない博士。
「それなら、その誰かは、あるいは研究所は、ある意味毒よりもはるかに危険な代物を、ジンたちが単純な殺人薬に使うことをなぜ許してたんだ?」
博士の目に不安な光。
「答えは簡単。アポトキシン4869の人体実験さ」
博士は静かに語り出した。
「新一…」
そこでいったん息を吸い、ふうと吐く。
「お前は、研究所が本当に不老不死を実現するために活動していたと思うか?」
「なるほど、つまり、そうじゃねえ、ってことだな。灰原本人は不老不死を研究していたにもかかわらず」
博士の表情、雰囲気は、今まで見たこともない、哀しみに満ちた異様なものだった。
「仮に、不老不死が可能になったとして、それを一部の者が独占することなど、およそ不可能。そうなれば、いったい何が起きると思う?」
「まあ、単純な話、人口爆発が起きるだろうな」
「それだけか?」
「ふ…いろいろ問題は起きるだろうが、何が起きるか、なんてことはとりあえず脇に置いといて、つまり、不老不死の実現を阻止しようとする勢力がある、ってことだろ? 研究上それに近づいた者を無慈悲に殺してでも」
呼吸が微妙に乱れる博士。
「ようやく確信を持てたぜ、灰原が命を狙われる理由が。灰原は、研究所から逃げ出したから命を狙われているんじゃない。放置すれば不老不死を完成させる恐れがあるからだ。そして、アポトキシン4869を人体実験したのは、不老不死に迫る薬だということを確認するためじゃない。動物実験の結果、期待を持った灰原に、やっぱり駄目だった、と思わせ、研究対象を別の方向に向けさせるためだ」
「もしも、お前の言うとおりなら、わしは、哀くんを助けないほうがいい、ということにならんか?」
コナンの目がぎらりと光った。
「やっぱりそうだったんだな、博士。博士は、灰原が不老不死を完成させることのないよう、あいつを監視していたんだ」
「そんな、そんな無駄なことをする理由がどこにある?」
博士の声は細かく震えていた。
「無駄なこと?」
「哀くんに不老不死を完成させる可能性があるとして、その可能性を確実に0にする方法は…」
「問題はそこさ。不老不死に近づきそうな研究者を次々に闇に葬ってきた連中に、さすがに未成年の少女はかわいそう、なんて考えがあるはずもないからな。ってことは、博士はそいつらから灰原を守っていることになる」
再び沈黙の博士。
「複雑怪奇な話だが、こう考えれば納得がいく。不老不死の需要ってものは確実にある。それを切望する者たちは、持てる財力でもって研究所を設立し、実現を推進しようとした…ってのは表向きの話で、実際はその逆。つまり、表の学会では相手にもされない不老不死の研究を、安心して行える場所をあえて提供し、危険な研究者を一箇所に集めて研究させる。そうすりゃ、どこに埋まっているかわからない地雷を、探し出す手間が大幅に省けるってことさ。後は、やばくなった研究者には適当な理由をつけて消せばいいわけだ。で、不老不死の阻止では一致しても、そのあまりに非人道的なやりかたには反感を覚える一派、博士はそこに入るんだろ? 灰原に俺をあてがったのは、あいつに不老不死の研究から手を引かせるため。違うか?」
つづく
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