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小学生日誌三年生編
作:銀河



夢の後


「誰!」
「私よ、志保。もしかして忘れちゃったの?」
「お姉ちゃん!」
「ふふ…大きくなっわたね」
「何言ってるの、私は…」
「コナンくんとうまくやってる?」
「え? ええ、まあ」
「彼はすごい子よ。彼を信じてついていきなさい、たとえ何があっても」
「そのつもりよ。だって、彼がいなかったら私は、今頃この世にはいなかったもの」
「志保、その気持ち、大切にしなさい。人を頼るということ、それは何も恥ずかしいことでもない、自分が弱いということでもないのよ」
「お姉ちゃん…」
「あなたの人生はこれからよ、志保…がんばりなさい」
「あ、待って、お姉ちゃん!」
「志保」
 後ろで呼ぶ男の声。
「だ、誰!」
「お父さんだ」
「お母さんよ」
 二人の姿は逆光ではっきりしない。
「知らないのも無理はない。写真の一枚さえ残してやれなかったのだからね」
「本当に、お父さん? お母さん?」
いくら目をこらしても、二人の表情は見えなかった。
「お前は本当によくやった。よくぞあそこまで研究した。お父さんもお母さんも、おまえには感謝している」
「え…な、何!」
 怒濤のように、膨大な数の化学式が頭の中を駆け抜けた。

 哀はゆっくりと体を起こした。
「まさか…」

「おはよう」
 コナンはいつものように挨拶した。
「ええ、おはよう」
「ん? どうした?」
「え?」
「いや、ぼーっとしてるって言うか…」
「ああ、ちょっと、お姉ちゃんの夢を見ちゃって…」
「…そうか」
 コナンの顔から笑みが消えた。そう、コナンは、宮野明美から最後の言葉を託されたのだ。
『もしも妹に会ったら、妹を…お願い』
 あのとき、彼女は二人が出会うことを予測していたのだろうか? しかし、現実に二人は出会った。
 コナンはとりあえず、言うべきことを言った。
「博士を起こしてきてくれ」
「ええ」
 去年の夏休みとほぼ同じ、平穏な日々が始まるはずだった。

 朝食を済ませると、博士は背広を着た。札幌で学会があるのだと言う。
「じゃあ、今日明日家を空けるが、頼んだぞ」
「ええ。何かあったらメールを送るわ」
「うむ、そうじゃな。それが確実じゃ」
「博士、お土産たのむぜ」
「ははは…子供みたいなことを言うな」
「俺たち子供だぜ、なあ?」
「もちろん」
「ま、それもそうか」
 博士はにこやかに手を振って、迎えのタクシーに乗り込んだ。
 二人はタクシーが走り去るのを並んで見送った。空は青く晴れ渡り、今日もいい天気だ。
「さてと、今日はどうする?」
「私は、ちょっとたまってる研究を片づけるわ」
「そっか。それじゃ俺もたまってた本読むかな、久しぶりに」
「洗濯と布団干しさっさとやっちまおうぜ」
「ええ」
 哀が洗濯、コナンが布団干しと掃除機がけを終えたのは十時を回った頃だった。
 そして哀は、コーヒーで一服すると地下室へ降りていった。
 いつものようにパソコンのスイッチを入れる。
 脳に直接刻み込まれたかのように、複数の化学式を鮮明に記憶していた。それは、単純な物質から複雑な化合物を生成していく過程に違いない。
(そんなことが本当にうまくいくのかしら?)
 哀はその化学式を画面上に書き出してみた。やはり、各物質は明らかに合成過程順に並んでいる。
「何? これ…」
 最後の物質から、次にどういう反応をさせれば何ができるのか、哀にとっては一目瞭然だった。そして、出来上ってくる物質が人体に対してどういう効能を持つかも明らかだった。それは、化学合成が極めて困難とされてきた有機物。
「こ、これは!」

「おーい、昼飯の準備にかかるぞ」
 コナンが階段上で叫んだ。
 哀は口を真一文字に結んで上がってきた。
「ごめんなさい」
「…どうした?」
「え?」
「いや、厳しい顔してるから」
「そう? ふふ…昔、どうしてもわからなかったことが、今頃になって突然わかってしまったの」
 哀はいつものように、いたずらっぽく笑っていた。
「どうしてもわからなかったこと?」
「ええ。研究上のね。詳しい話、聞きたい?」
 うっかり聞きたいと答えてしまい、恐ろしく専門的で、コナンにとっては退屈な話を一方的に聞くはめになった、苦い経験がコナンの頭をよぎった。
「い、いや、いい、遠慮しとくよ」
「そう、賢い選択ね」

 ご飯に具だくさんのけんちん汁、漬物少々の軽い昼食を終えると、二人はまたそれぞれの時間に戻った。コナンはひたすら博士の蔵書を読んでいた。一方、哀は地下室で試験管を凝視していた。
「間違いない」
 試験管の中にかすかに黄色に染まった液体。手の震えでゆらゆら揺れていた。

 夕方、二人で買物に出かけた。
「しかし、夏休みはやっぱりいいよな」
「どういうところが?」
「時間にゆとりがある」
「世の中には、かえって大変な子もいるそうよ」
「塾か」
「そう。中学受験の準備。三年生からではすでに遅い、なんてね」
「困ったものだ」
「立場上、うかつなことは言わないほうが身のためよ」
「それもそうだ」
 二人は並んでゆっくり歩いていた。
 その脇を、高校生の男女が何やら楽しそうに語り合いながら通り過ぎていく。
 コナンの目には、ただの風景としてしか映らなかったようだ。
「ねえ」
「ん?」
「あなたは、19歳の本来の自分に戻りたいと思ったことないの?」
「ふ…何度その質問をしたら気が済むんだ?」
「たぶん大人になるまで」
「なら、俺はお前が質問するたびに答えよう。俺は江戸川コナンだ。もう、他の誰でもない」
 哀は立ち止まった。
「もしも、もしもよ…私が元に戻る薬を開発していて、それをあなたに隠していたとしたら、あなたはどうする?」
 コナンは哀より先に進んだところでゆっくりと立ち止まった。前を向いたままだった。
「…辛い思いをさせてすまない」
 哀は思わぬ言葉に息を呑んだ。
「どうして? あなたがなぜ、私に対してすまない、なんて言うの?」
「俺はもう、工藤新一に未練はないんだ。これっぽちも…それはお前のせいなんかじゃない。この俺の選択なんだ」
 コナンは哀のほうを振り向いた。
「ま、時間がかかることだ。気にするな」
 哀はにこやかに微笑んだ。
「ありがとう、工藤くん」
 この時の哀の笑顔、その意味を、コナンは理解していなかった。

 深夜1時、哀はベッドから起きあがると、静かに階段を降りた。
「できた」
 哀はフラスコからガラス管を抜いた。フラスコを持ち上げると、底に濃い黄色のどろっとした液体がへばりついていた。

 朝、哀はいつもと同じように起きあがると、服を着て部屋のドアを開けた。
 いつもはほぼ同時に起きてくるコナンだが、今朝はまだ起きていないのか、部屋から物音がしない。ノックしても返事はなかった。ノブを回すとあっさり空いて、ベッドの上でコナンはすやすやと寝ていた。
 哀はそっとベッドの脇にしゃがみこんで、コナンの顔をのぞき込んだ。言っていること、態度、行動は子供ではないが、寝顔はまるっきり子供そのものだった。
「いつも、本当にありがとう…工藤くん」
 その声が聞こえたのか、コナンは体を動かした。
 哀はゆっくりと体を引いて立ち上がった。
「工藤くん、起きて!  朝よ!」
「う…」
「工藤くん」
「ん?」
 コナンは手を伸ばして目覚まし時計を顔に近づけた。
「あ、いけね。セットし忘れた」
「ふふ…今日もいい天気よ」
「ああ、おはよう」
 コナンは大あくびした。
「今朝のおかずは何にする?」
「んーーーそうだなあ、例のキムチに、干物に、海苔かな」
 コナンはゆっくりと立ち上がった。
 哀は穏やかな表情でコナンを見ていた。
「ん? どうした?」
「干物焼くのはあなたの仕事よ」
「わかってる…ああ、そういや炭、もう頼まないといけねえな」
「今回、ちょっと消費が早くない?」
「ここんとこ干物や鰻を続けて焼いたからなあ…」
 朝食でも手抜きはしない。できない。それは二人の一致した趣味というか習性だった。

 朝食後、洗濯と掃除を終えた二人は、コナンは読書に没頭し、哀は庭に出て鉢植の手入れをした。
 それぞれの作業が一息ついたところで庭にテーブルを置く。大きめのマグカップにたっぷりの紅茶と、哀の焼いたクッキー。
「いやあ、昨日今日で溜まってた本がかなり片づいたよ」
「そうみたいね」
 ブックトラックの上に積んであった未読図書が数冊しか残っていなかった。
「ところで、明日は映画でも見に行かないか?」
「いいわね。歩美ちゃんたちも誘って」
「ああ、いや、二人で行こう」
「え?」
「たまにはいいじゃないか」
「それはいいけど、何を見るの?」
「もちろん、洋上のピラミッドさ」
 哀はある程度予想はしていたものの、がっかりした。ピラミッド型をした洋上の孤島で起きた殺人事件。島は外部から人間を排除する完全閉鎖社会。島の歴史に隠された、巨大な謎に挑む私立探偵の物語。大人の間では、結構評判になっていた。
「それ、子供二人で見る映画なの?」
 哀は露骨にうれしくない顔。
「なに、チケット持って大人の後ろについて歩いてれば大丈夫さ」
「わざわざ前売り券買ったの?」
「これだ」
 コナンは胸ポケットから折りたたんだ封筒を取り出すと、中から二枚の子供用招待券を抜き出した。
「実は、新聞店のおじさんからもらったんだ。ほら、この間、無くし物を探し出したじゃないか」
「ああ…」
 無くし物とは結婚指輪のことだ。新聞店の店主は大柄の体のわりに気が小さく、奥さんの手前無くしたと言い出せなかったのだ。無くしたものがあるとコナンが見破って、行方を突き止めるまで一時間もかからなかった。本人が二週間、必死になって探したにもかかわらず。
「そういう物を探すときは、まず、その日の行動をできるだけ細かく再現してみるのが一番。闇雲に探してもだめだよ」
 コナンの言葉に、店主はまるで仏様を見るような視線を送っていた。哀はそれを思い出して、思わずくすっと笑った。
「だけど、映画の招待券二枚なんて、お礼としてはちょっと物足りないような気もするけど?」
「いやいや、実は、一緒に未使用のポスターも二枚もらったんだ。非売品だし、ネットオークションでは一万円以上の値が付いてるぞ」
「へえ、それは貴重かもね。で、売るつもりなの?」
「ただでもらった物を売って金に換える気はない」
「それはそうなんだろうけど、どうしても欲しいって人に譲ったほうが、ポスターも幸せなんじゃないかしら」
「ははは…確かに、俺が死蔵するより、一万円出しても欲しいって人が持ってたほうが、ポスターとしては幸せかもしれねえな」
「その、幸せになりそこねてるポスター、見せて」
「それが珍しいポスターなんだ。映画のポスターなのに人が一人も写っていない。たぶんお前も見たことないはずだ。ネット上の情報によると、枚数がものすごく少なかったらしい」
「でも、そんなもの、あのおじさんがよく持ってたわね」
「確かにな。どこでもらったのかまでは聞いてないけど、気前よく二枚くれたってことは、おじさんは希少価値に気がついてないんだろう。よくある話さ。あるところにはあるのに、ないところにはない、ってな」
 そう言ってコナンは立ち上がった。
 その時コナンは、せっかくの招待券が期限切れで無駄になるということを、予想だにしていなかった。

つづく


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