本当に、それでいいの?
ひととおりアルバムを見せた後、園子は、はっきりと言った。
「そう、江戸川コナン、すなわち工藤新一なのよ」
断言するその口調に、光彦と歩美は思わず緊張した。
「園子さんが、そこまで言い切る根拠は何ですか?」
光彦の真剣な問いに、園子は微笑みさえたたえて答えた。
「とある研究所で不老不死の研究が行われていた」
それは光彦の想像の範囲内であったので、光彦はかすかにうなづいた。
「その研究途上の薬が、研究者には予期せぬ形で新一くんに投与されてしまったのよ。もっとはっきり言えば、その薬は、犯罪組織によって、殺人用の毒物として使用されていたってわけ。新一くんが投与されてしまったのは、犯罪組織の取引現場を偶然目撃してしまったから。ところが新一くんは死ななかった。どういうわけか、10歳若返ってしまったのよ」
光彦はうむと一つうなずいてから口を開いた。
「その犯罪組織、『黒い服』というキーワードに関係ありませんか?」
園子の目がすっと険しくなった。
「光彦くんがなぜそのことを?」
「コナンくんがうっかり口を滑らせたことがあるんです。俺の体を薬で小さくしたあの黒ずくめの…と」
「そう…そういうことか…」
「園子さん」
「なあに?」
「園子さんがそこまで詳しいのはなぜですか?」
「質問の意図が良くわからないんだけど」
「コナンくんから事情を聞いたんですか?」
「それ以外に何が考えられるの?」
光彦の目は恐ろしいほどに細く険しかった。それを見た歩美はぎくっとした。
「別のルートで知ったのでは?」
園子は光彦の視線を真正面に受け止めて、にやりと笑った。
「政治家になりたいんでしょう? 光彦くん」
だまってうなづく光彦。
「がんばってね。期待してるのよ、私」
歩美はぽかんとした。まったく話がかみ合っていない。
しかし、光彦もにやりと笑った。
「なるほど。わかりました」
「もう一つ聞きたいことがあるんじゃない?」
園子は光彦をじっと見つめて言った。
光彦は一瞬考え、すぐに園子の意図を察した。
「灰原さんのことですね」
「さっき言った、不老不死の研究していた研究者の一人」
園子のストレートな言葉に、光彦は一瞬絶句した。
「…すると、灰原さんも同じ薬を飲んだ、ということですね?」
「ええ。研究所から脱出するためにね」
「脱出?」
「そう。開発中の薬が、まったく意図していなかった殺人に使われたことを知り、それに対する抗議のために」
光彦は一つ息を吸い、吐いた。
「江戸川コナンと灰原哀、二人が阿笠博士の家にいるというのは偶然ですか?」
園子は穏やかに微笑んでいた。
「ねえ光彦くん、ちょっと考えてみて。二人は、この世に突然現れた6歳児なのよ。その二人が今、他の普通の子供たちと同じように小学校に通っている。これ、不思議だとは思わない?」
光彦は口の中でふふふと笑い出した。
「なるほど、そういうことですか」
「そういうことなのよ、光彦くん」
歩美にはまったく理解できなかった。
*****
コナンと哀は居間のテーブルでコーヒーを飲んでいた。
「二人に話すのはいいとしてだ、どこまで話すか…」
「そうね。薬でこうなった、というだけでは納得しないでしょうね」
「薬の出所は博士、ということにでもしとくか?」
「ある大きな事件に巻き込まれて、犯人に命を狙われているから、姿を隠すために博士に頼んだ…」
「ふむ…普通の小学生ならそれで充分なんだがな」
「今回はそこまででいいんじゃない?」
「ふむ…とりあえず俺が工藤新一であること、プラス、お前も実は…という事実だけを教える、と。お前の件は、さすがの光彦も、まったくの予想外とは言わないまでも、いきなり明かされるとは予想していないだろうからな…」
「それじゃ、語るのはあなた、ということで」
「ああ、それはもちろん」
「博士にも口裏合わせを依頼しとかないとね」
哀はコーヒーを飲み干した。
「ところで、全然話は変わるけど、このコーヒー、本当においしいわね」
「だろ。この季節だけの贅沢、ってところが残念だけどな」
「農作物だもの、当然のことよ」
コナンも哀も、この時点では事態を楽観しすぎていた。
*****
翌日、コナンは小五郎に指定されたホテルへ向かった。
最上階の展望レストランに小学生一人で向かうのは多少気が引けるが、しかたない。
レストラン入り口で、ウエイトスタッフなる男性従業員に毛利小五郎に呼ばれたのだと告げると、
「毛利様ですね。承っております。どうぞこちらへ」
と丁寧な応対をされる。彼の先導に従って歩くと、どうしても他の客達の軽い好奇の視線を浴びるのは避けられない。
わざわざこんな大げさな場所に呼び出す必要もあるまいに、と思った瞬間、コナンは小五郎の意図に気が付いた。視界の中に一人の女性の姿があった。
「久しぶりね。コナンくん」
「…蘭、ねえちゃん…」
ウエイトスタッフがいる手前、とりあえず蘭の正面に座る。子供用に、座面の高い椅子だった。
「この子には、子供用のランチを」
「かしこまりました。何か苦手な食べ物はございますか?」
コナンに対する質問だったのだが、コナンは気がつかなかった。
「コナンくんは何でも食べるわよね」
「え、う、うん」
「大丈夫です。この子は好き嫌いのない子ですから」
「かしこまりした」
ウエイトスタッフは、奇妙な組み合わせの二人客の間の微妙な空気などには一切興味を持ちません、というプロフェッショナルな態度を貫いたまま立ち去った。
蘭はすっかり大人の女性であった。当然と言えば当然であるが、コナンは時の流れを感じずにはいられなかった。
「ごめんね。お父さんの名前を使って騙すようなことをして」
返す言葉がとっさに出てこない。そんなコナンを蘭は見つめて微笑んだ。
「いきなり会いたいって言ったらコナンくん、どうしたって来るの躊躇するでしょ。でも私は、どうしても会って話をしたかったの」
「どうしてもしたい話って何?」
ぶっきらぼうにならないように、蘭の目をまっすぐ見て、ゆっくりと言った。
「あなたにちゃんと、お別れの言葉を言っていなかったから」
コナンは自分でももどかしいほどに、言葉が見つからない。
「ふふ…私はね、私なりに、高校のときまで新一のことが好きだった。これは本当のことよ。でも新一は、私よりも新一にとって大切な人を見つけてしまった。私はその時、あなたの正体を知っていたのに、何もできなかった…しなかったのよ」
コナンの目に涙が浮かんだ。
「蘭…ねえちゃん…ごめん」
「あなたが私に謝ることじゃないのよ。私がうかつで、幼稚だっただけのこと。コナンくんを恨んだりなんかしていない。これは本当のことよ」
蘭の表情に陰りは本当になかった。それだけがコナンにとっては救いだった。
*****
コナンが出かけている間、博士への説明役は哀が引き受けていた。
「ふむ、なるほどなあ」
博士は箇条書きのメモを見ながら、紅茶を飲んだ。
哀は焼き上がったばかりのクッキーをぱくりと食べた。
「このシナリオに沿って、博士、お願いするわ」
「うむ…しかし、これであの二人が納得するかのう?」
「歩美ちゃんはともかく、円谷くんは無理でしょうね」
「光彦くんは疑問が残っても深くは追求してこない、ということじゃな?」
「ええ。彼は結論を急がないわ。自分自身のこともあるから」
「自分自身のこと?」
哀の目が細く険しくなった。
「そう。彼なら気が付いているはずよ。自分自身の謎も」
博士は少し困ったような顔をした。
哀はしばらく博士を見つめて、それから視線を外して、くすっと笑った。
「ところで、どう? 今日のクッキーは?」
「ん? ああ、最初塩が強いように感じたが、これはこれで美味しいわい」
*****
同じ頃、歩美は不安げな表情を抱えたまま、光彦の部屋に来ていた。
「私、このままじゃコナンくんたちに会うのが怖いの。光彦くんは?」
開口一番がそれであった。
光彦はいつもどおりだった。
「別に怖いことなんかありませんよ。これからも今までとおりでいいんじゃありませんか? 僕はそのつもりですよ」
「だけど、コナンくんたちだって、光彦くんと私が正体に気が付いたことくらい、知ってるよ」
「まあ、そうでしょうね」
「光彦くんは平気でも、私はだめなの」
光彦としても歩美の気持ちは理解できる。
「そうですね…やはり、コナンくんたちに言いますか。二人の正体を調べさせてもらったって」
歩美も昨日からずっと考えていたのだろう。決然と答えた。
「うん、それしかないと思う」
光彦は腕を組んでしばし考えた。歩美はその間、ずっと光彦の顔を見ていた。
「僕たちは、コナンくん灰原さんの秘密を知っている。コナンくん灰原さんは、僕たちが二人の正体に疑惑を抱いていることを知っている。お互いに知っているんですから、知っていることは知っているって、言ってしまったほうがいいでしょうね」
「うん、だって友達だもん、隠し事なんて無いほうがいいもん」
歩美は歩美なりに覚悟を決めているのだった。ならば光彦も迷う必要はなかった。
「わかりました。じゃあ、そうしましょう」
ところが歩美の顔色は明るくならなかった。
「…どうしました?」
うつむいた歩美が言い出したのは光彦がまったく予想していないことだった。
「ねえ、光彦くん、光彦くんは、昨日の園子お姉さんの言ったこと、全部わかったんでしょ?」
「え? ええ、まあ」
「どうして?」
視線をそらしたままの歩美。
「どうしてって…」
さすがの光彦も歩美の意図が読めなかった。
歩美はきっと顔を上げ、光彦を見た。
「光彦くん、どうしてあんな難しい話がわかるの?」
「それは…」
「私、前にコナンくんのこと大人だって思ったって、そう言ったでしょ…だけど、ひょっとして…」
光彦は大笑いした。
「ははは…歩美ちゃん、まさか僕もコナンくんたちと同じように大人だと?」
大笑いの光彦にびっくりした歩美。
「あ、ううん、そういう意味じゃ…」
「僕は本当に10歳ですよ。ただ、イギリスに行っていた時、周囲に日本人の子供がいなかったんです。だから、遊ぶかわりに勉強するしかなかったんですよ」
と言ってみたものの、歩美は納得していなかった。しかし、今の歩美には、歩美自身にも自分と同じ疑惑があるのだ、ということを受け入れるのは無理だった。
「だけど、いいですか、僕がもしコナンくんたちと同じように大人だったら、僕は歩美ちゃんを騙していることになります」
歩美ははっとした。
「でも、僕は絶対に歩美ちゃんを騙していない。これは神に誓って本当のことです。信じてください」
光彦はひどく落ち込んだ顔を作ってそう言った。歩美は光彦が自分を騙そうとしていることに気がつかなかった。
「ごめんなさい。私、光彦くんのこと信じてる。光彦くんが私に嘘を言うわけないもん。だから、ごめんなさい」
歩美は、本当に悪いことを言った、と後悔していた。その反応は、光彦が狙ったとおりだった。
光彦はさっと顔を明るくした。
「僕にとって、歩美ちゃんは、嘘を言ってはいけない大事な大事な友達であるように、コナンくんと灰原さんも大事な大事な友達です。歩美ちゃんだってそうでしょ?」
歩美は完全に誘導に乗ってきた。
「もちろん」
「大事な大事な友達の間に隠し事があるのは良くないです。僕たちが二人の正体を調べたこと、ちゃんと話せば、二人だってちゃんと答えてくれるはずです。それを信じて、僕たちが知っていることを全部、二人に話しましょう。それでいいですか?」
「うん」
歩美は深くうなづいた。
「なら、善は急げです。明日にでも阿笠博士の家に行きましょう。それでいいですか」
歩美はもう一度深くうなづいた。
*****
コナンはホテルから家に直行した。どこにも寄らなかった。夕方六時過ぎには帰りついてしまった。
「ただいま」
コナンが台所に向かうと、哀は米をといでいた。
「あら、お帰り。早かったのね」
コナンの表情は真剣だった。
「…どうしたの?」
「灰原」
「…なあに?」
「今日、蘭に会ってきた」
哀の手が止まった。
「どういうこと?」
「おっちゃんに騙されたのさ」
「そう」
哀は米をざるに移した。
「でも、どうして私にそんなことを言うの?」
「お前に隠し事はしたくないからだ」
哀はふっと笑った。
「私、あなたにたくさん隠し事してるわよ」
「そんなことは気にしてないさ」
「私に疑われたくないと思ったの?」
「まあ、とにかく俺の話を聞いてくれ」
哀はいったん仕事の手を休め、固い椅子に腰を下ろした。
「わかったわ。聞きましょう」
コナンも椅子に腰を降ろした。
「蘭は俺の正体を完全に知った上で、俺が蘭を一方的にふったことを気にしていないと言った」
「…そう」
「自分がうかつで幼稚だったとも言った」
哀はじっとコナンの言葉を聞いていた。
「そして、今、大学で付き合っている男がいるそうだ」
哀の顔が険しくなった。
「そんな話をした後は、昔話だったよ。そして最後に、哀ちゃんによろしく、と言っていた」
哀は険しい顔をしたままだった。
「工藤くん…」
「ん?」
「あなたは後悔していないの?」
「後悔? 何を後悔することがある?」
「だって、もしもアポトキシン4869を飲まされていなかったら、貴方は今頃…」
「ふ…もしもあのときジンの手元にアポトキシン4869が無かったなら、俺は別の薬なりで死んでいただけさ」
「それじゃ、蘭さんがあなたの正体を知った上で、江戸川コナンを好きになっていたとしたら?」
「だとしても、どうにもならなかっただろうさ」
「どうして?」
「お前と出会ってしまったから」
哀は表情こそほとんど変わらなかったが、体が微妙に揺れた。
「前にも言ったとおり、お前が気に病む理由なんか何一つ存在しないんだ」
「本当に、それでいいの?」
「ああ。ま、お前が気にする理由もわからなくはない。だけど、今日も腹は減るし、今日が無事に終われば明日が確実にやってくる。明日もまた腹が減る。さ、飯の支度支度!」
そう言ってコナンは冷蔵庫に向かった。哀はしばらく立ち上がれなかった。しかし、コナンがごそごそ冷蔵庫から食材を取り出しているのを背中で聞いているうちに立ち上がった。
そう、何を悩んでいたとしても、腹は減る。家事仕事も待ってはくれないのだ。
*****
鈴木財閥の総帥、鈴木史郎はソファに座って、静かに本を読んでいた。
部屋に入ってくる園子。
「パパ」
「おお、園子…昨日来た子供たちはどうだったね?」
「ええ、すごい子たちよ。特に光彦くんが」
「そうか。うん、そうだろうな」
「貰った資料、まだ全部読んだわけじゃないけど、あれ、本当のことだったのね」
「もちろん本当のことだ」
「だけど、本当に姉貴を差し置いて私が貰ってもいいの?」
「ん? 資料のことか?」
「資料もそうだけど、あんな資料を貰うってことは…」
史郎は本を閉じると、遠くに目をやった
「鈴木は開業以来きれいな仕事ばかりしてきたわけじゃない…お前も知っているだろう、昭和恐慌で破綻した鈴木商店を」
「ええ」
「当時、世界では、日本など極東の小国にすぎなかった。アメリカやヨーロッパでさえ鈴木商店とうちの区別なんてつかなかったものだ。中近東やアフリカなど言わずもがな。だから、鈴木商店の在外資産やら信用やらを随分活用させてもらった。はっきり言って詐欺行為そのものを行っていたわけだ。そしてお前も知っているように、戦争では大陸で荒稼ぎした。軍需物資の補給で莫大な利益を上げたし、うちが持っていた満州中央銀行券、朝鮮銀行券、そして軍票…それらは8月15日には一枚残らずスイスフランと金に化けていたんだ。満州王室からの預かり財産も、ソ連軍進駐のどさくさに紛れて全て横領した。こんな歴史、綾子に背負わせることはできない。あの子には無理だ」
「だから私なの?」
「お前は合格したんだよ。鈴木の後継者になるための試験にな」
「ふふ…だから姉貴は一貫してお嬢様学校に通わせたのに、私は一貫して公立校だったのね」
「そういうことだ」
「だけど、鈴木の安泰第一に考えるなら、私より姉貴のほうが安全だと思うけど?」
「ほう、それはどういう意味だね?」
「私は、もしかしたら私の代で鈴木を蕩尽してしまうかもしれないわよ」
「ほほう…鈴木を蕩尽するとは何とも豪儀な話だが、いったいどうやって」
「この国のため、この地球のため、必要とあらば鈴木の全てを擲つことも躊躇しないから」
「ははは…その意気だよ園子。そのくらいの覚悟がなければ鈴木を支配することなどできん。私の時代は、幸か不幸かそういう事態が起きなかっただけの話だよ。昨日まではな」
「私が後継者で、本当に、それでいいの?」
「ああ、いいとも。鈴木の全てをおまえに譲ろう。大学を卒業したらすぐにスズキ・アメリカに入社してもらう」
「ニューヨークね」
「そうだ。そこでビジネスの恐ろしさを体で味わってこい。いつ銃口を向けられるやもしれぬ世界のビジネスをな」
つづく
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