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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

カナミ;ゴー・イースト

77/126

077

◆11



疫鬼(イィグィ)?」
 カナミの言葉にヤグドは頷いた。
「それって、何?」
「判らん。見たのは、今回が初めてだ。商人から話は聞いていたが……」
 村のとりまとめ役、事実上の村長であるヤグドは重ねて頭を振った。表情は重々しく疲労の色が濃かった。
 日干し煉瓦で作られたヤグドの家は、開口部や窓が四角くあけられて、風通しが良い。遊牧と定住放牧の中間的な文化を持つこの村では、家屋と呼べるものの半数が日干し煉瓦で作られた簡素なもので、残りの半数は分厚い布地で作られた天幕だった。
 中には木材で補強したり、床を造った家もある。ヤグドの家は、外部から客人を迎える、村全体の応対場所という意味ももつ。そのため周囲の家よりも倍は大きく、中庭にあたる場所を囲む数棟の四角い居室からなっていた。
 そのヤグドの家、五メートル四方程の広間で、レオナルド達一行は、ヤグドと先ほどの騒ぎについて話しているのだった。
「どんな話を聞いたのだろうか? ヤグド殿」
 相手が誰であろうと、気さくな、それで居て丁寧な印象を与えるエリアスの口調は変らない。その問いかけに答えて、ヤグドは、山羊のような髭を二、三度しごいた後、思い出しながら話し始めた。
「アオルソイの荒野には、最近、奇怪なる化外憑きが現われるそうな。それを疫鬼と呼ぶと聞いた」
「うん」
 そろそろ、窓の外はあかね色に染まりつつある。
 部屋の中では早くも囲炉裏に火をくべて、湯を沸かすヤグドの老妻の姿も見えた。
「疫鬼は荒野に出ると言う。滅びた村の生き残りだとも、気が触れているのだとも、魔物に憑かれたのだとも言う。放牧をしていると羊を奪われるという話だ。羊をその場で殺して、喰らうのだという。その姿から悪鬼、疫鬼と呼ぶ」
 ヤグドの声は低くしわがれて響く。
「しかし、村人は襲われぬのだそうだ。人が見えないかのように、通り過ぎる。だが、暴れぬと言うのではない。時には狂うたかのように、荒野で血に酔っているのを見ることもあると聞く。そして、〈冒険者〉の方を見つけると、襲うとも聞いた」
 レオナルドは、かすかに頷く。
 ステータス画面で見た表示、〈灰斑犬鬼〉(ノール)が事実であるのならば、説明の付かない事態ではない。
 〈灰斑犬鬼〉は確かに邪悪な亜人間だが、〈大地人〉は襲わない。別段善意からではなく、狡猾で臆病なためだ。〈大地人〉を襲えば集団で防御策を採られることを知っているためである。〈灰斑犬鬼〉は〈大地人〉そのものより、その家畜の方が狙うのだ。
 その一方で、〈冒険者〉を見かければ積極的に襲いかかってくる。〈大地人〉は見逃せば逃げ出すと判っているが、〈冒険者〉は自分たちを駆逐するためにやってきた『敵』だと認識しているらしい。

 あの少年が〈灰斑犬鬼〉だったとすれば、初めはカナミに、次いで自分たちに襲いかかってきたのも納得がいく。〈大地人〉は〈灰斑犬鬼〉にとって、襲うべき価値もない『虫けら』なのだ。
 しかし、それは、レオナルド達を襲った説明にはなっても、人間の姿を持っていた説明にはならなかった。
「ヤグド殿。わたしは、疫鬼と言うのを聞いたことがないのだが、それはこの地方では昔から語り継がれているものなのか?」
「いいや、それは違う。わしらも初めて聞いてから、三ヶ月とは経っていない。急に現われたのだ」
 エリアスの言葉に老人は応えた。
「じゃ、あの少年は、その」
「この村の出身者なのですカ?」
 カナミとコッペリアの質問の答えは『否』だった。
 確かにこの地方に済む〈大地人〉の特徴を備えているが、この村の出身者ではないそうだ。
 その少年当人は、同じ広間の一角で毛布に包まれて寝ている。コッペリアの施した呪文治療は、状態異常に続いて、裂けた右腕も回復させていたが、意識が戻るには至っていない。
 レオナルドから見れば、少年はもう危険には見えない。
 何よりそのステータスは、名前セジン、レベルは二、職業〈開拓民〉と表記が安定している。こうして寝顔を見ていても、そこらを歩いている〈大地人〉の少年と変わらない。バグじみたあの表記の方が、悪い夢だったとしか思えないほどだ。
「……この少年が」
「この少年は正常だとコッペリアは保証しマス」
 ヤグドは少年の顔をしげしげと眺めた。
 その顔には、嫌悪は見えない。労るような色があるばかりだ。
「どこかの村から浚われたとか、行方不明と言うことなのでしょうか」
「それは判りませんな。この少年のブーツは相当に傷んでいました。服もすり切れ、ぼろぼろです。かなり長い距離を移動してきたように見える。数ヶ月のあいだ彷徨っていたかと」
 ヤグドの言葉にカナミが頷いている。
 レオナルドは、そのカナミの態度に、何か手持ちの情報と合致し、納得しているのかと訝ったが、肩をすくめたエリアスの表情をみるとそう言うわけでもないらしい。要するに、ただうなずいているだけなのだ。
 その後も、幾つかの細かい質問をしたが、ヤグドからそれ以上の情報は得られなかった。
 カナミが持ち前の愛嬌で頼み込んだ結果、ヤグドは快く食料を分けてくれる運びとなった。もちろん、多少の金貨と引き替えではあったが、それは〈冒険者〉であるレオナルド達にとって大きな額ではなかったし、このような辺境の村では食料を分けてもらえるというだけで有り難いことだった。

 しかし、カナミや仲間たちと話し合った結果、レオナルド達一行は、数日の間村へ滞在することに決定した。
 村長ヤグドの話では、数日後には交易商人が訪れるとのことだったからだ。
 カナミの話を聞いた以上、レオナルドとしても日本サーバーを目指したい気持ちが芽生えてきている。〈大災害〉の謎を解明するという話は荒唐無稽すぎてまだぴんと来てはいないが、それでも新パッチは魅力的な話だ。いまより高い戦闘能力を身につければ、安全度が増す。それは、ビッグアップルに戻ったときにも役に立つはずだ。
 だが、このアオルソイの大地は、未開の荒野だ。この間の廃墟のような事例がないとも限らない。なんの情報もなくただひたすらに日の昇る方向に進めば日本に辿り着くなどと言うのも、甘い考えだろう。
 なにぶん、セケックは小さな村だ。村人達は、滅多に旅をしない。自ずとその手持ちの情報は限られたものとなる。消耗品の購入や街道の様子などの情報も、旅商人のほうが豊富に持っているのは明白だった。その情報は、この広大な大陸を旅するにあたって、食料以上に貴重なものである。
 交易商人が来るのであれば、数日待ったとしても情報を得ておいたほうが良いというが、レオナルド達一行の判断だった。
 この判断をするために一行は馬小屋まで行って相談をした。もちろん、KR(ケイアール)にも話し合いに参加してもらうためだ。KRは聴力が良いようで、隣接した馬房からも、ヤグドとの話の内容を把握していた。
 話を把握しておいてもらうのは、相談をするに当たって都合がよいのだが、そのKR自身は随分と機嫌を害していた。馬房が気に入らないらしい。彼が言うには、同じ房にいる牝馬が色目を使ってくると言うのだ。
「KRもてもてじゃないっ」
「おいカナミ。もてもてってのはもっと素敵なストロベリーだろ。っていうかカナミには言われたくない」
 言い返されてさらに反論しようと口を尖らせるカナミを放置して相談した結果、やはり村に数日滞在すると言うことで固まった。ヤグドが一行に宿の提供を申し出てくれたことも大きかった。レオナルドとエリアスで一室。カナミとコッペリアで一室だった。
 KRは当然馬房と言うことになり、ごねたのだが、レオナルドとエリアスの取りなしでなんとか納得してもらうことが出来た。カナミは「らぶほてる」だとか言いだして、一時はあわやKRの前蹴りを喰らうところだったとしてもだ。
「それにしても、アレはなんなんだろうな」
「……」
 レオナルドの言葉に仲間たちは口をつぐんだ。レオナルドにしたところで、答えが返ってくると思っていったわけではない。あのようなステータス表示をレオナルドは見たことがなかった。バグだとしか思えない。
「自分は初見の現象だ」
「妖精族の伝承でも、思い当たるものはありませんね」
 ――未知のバグ。
 レオナルドはその考えにぞっとする。
 セジンは〈大地人〉だったが、このバグが〈大地人〉意外には発生しないと、誰が保証してくれるのか? 確かにこの世界では〈冒険者〉は不死のようだ。例え戦闘で倒れたとしても、神殿へと転送され蘇生する。
 しかし、あの少年のような存在になったとき。あのようなものになってしまっても、それは『不死』といえるだろうか?
 あのようになって、なお死ぬことだけはない存在が居るとしたら。その存在はこの世界における災厄であろうし、その当人にとっては醒めぬ悪夢、生きながらに落ちる煉獄だ。
「あれってば状態異常回復呪文で対処できる種類の『何か』なのか?」
 KRの質問に、コッペリアは答える。
「コッペリアは違うと判断しマス。なぜならば、コッペリアが該当する呪文を詠唱した段階で、ステータス表示はすでに通常状態に戻っていたからです」
「では、レオナルドの麻痺攻撃があの症状を除去する役に立ったと」
「その考えも外れていると思うな」
 レオナルドは顎に手をやって考える。
「僕の武器はかなり良いものだが、炎の追加ダメージを与えるだけのものだ。使用した特技もパラライジング・ブロウで、麻痺以外の特殊な付帯効果があるものではない」
「……」
 レオナルドの声に、いつもはちょっと口数が多いほどのKRも黙り込む。当たり前だ。誰だってあんな状態にはなりたくない。
 対応するだけであれば、話は簡単だ。
 確かに亜人間種のモンスターはレベルに幅がある。しかし、いくら幅があるとは言え、〈灰斑犬鬼〉である。そのレベルは高くて七〇が良いところだろう。レオナルド達にとって恐ろしい相手ではない。
 だがあの不気味な症状には戦闘能力とは違った、心の奥底にある原始的な恐怖を呼び覚ます何かがあった。
 見開いて光彩を失った瞳。血液混じりの唾液を止めどなくこぼす犬歯の伸びた口。いびつに曲がり、人間の身体で無理矢理獣の動きを再現しようとする四肢。いずれもが、不吉な昏いオーラを纏っている。
 レオナルドだって相手になどしたくはない。

「ま、ま。でもさ。あんなのがいっぱいいるわけ無いでしょ」
「それはそうだろ。この村の人々も初めて見たと言っていたしな。あんなのが沢山いるなら目撃例だって増えるのが理屈ってもんだ」
 カナミの取り直すような言葉をKRが引き受けた。
 レオナルドはその言葉に頷きながらも、釈然としなさを感じていた。この事件がこのままでは終わらないような、より深く関わらなければならないような予感を感じていたのだ。
 そしてそれは正しいのだった。



◆12


 この世界はどこでもそうだが、アオルソイの夜はことのほか澄み切った空が広がる。乾燥した空気のためか、天は高くどこまでも透明で、砕いた白砂のような星が瞬く。
 ミッドタウンの煙とネオンに汚れた夜空と違い地上からの光が無いために、わずかな光を放つ小さな星までもがその存在を天の羅紗幕(らしゃまく)に誇っている。
 セケックの夜だった。
 どこからか、銀鈴を振るような虫の音がしている。
 日が暮れて二時間。まだ夜と言えるほど深い時間でもないだろうに、村はすでにひっそりとしていた。日干し煉瓦を四角く開けて木製の蓋を取り付けただけの窓々からは、オレンジの光が洩れている。
 どの家も夕食を食べたかどうかの時間だろう。
 レオナルドはあてがわれた小屋を抜け出して、夜のひんやりした風の中に進み出た。
 踏み固められただけの道上に出たレオナルドの頭上に星々の夜空が広がっている。
 九月とは言え、アオルソイの高原の夜には、冷えた風が吹く。
 だがそれも〈冒険者〉のレオナルドにとってはさほど堪える寒さではない。むしろ清涼の気を運んで心地よいくらいだ。
 レオナルドは、その夜の大気の中を村を横切り歩いてゆく。別段何かを企んでいるわけではないが、足音はほとんど立てない。〈暗殺者〉であるレオナルドの身についた身体の動きのもたらした結果であるし、もうひとつには、この平和そうに見える村と静寂に満ちた夜を騒がせたくないという気持ちもあった。

 この村は、別段堅固な防壁などはしつらえていない。張り巡らされているのは、動物を防ぎ羊をまとめるための柵程度だ。その柵の外側にも耕された畑のような区域が広がっている。もっとも耕したとは言っても、土は粗く乾いていて、素人目にもあまり耕作向きではないのだろうなと不安になるようなありさまではあった。
 レオナルドは、村から南へ延びる道ばたの大きな岩へとよじ登り、腰を掛けた。
 その岩は巨大だった。高さで言えば、二メートルほど。全体的は磨かれたような、角が取れてユーモラスな姿だったが、その上部は平らで、ベッドルームよりも広そうだ。
 岩は羊飼い達の見張り場所にもなっているようで、上部の平原を望む辺りには、すり切れた布が敷いてあった。
 視界のはるかかなたには、屏風のような山脈が広がっている。
 どこからどこまでと一口では言えない。視界の彼方まで走る山脈はまさに世界の壁というのに相応しい。その山々はシャンマイと呼ぶのだと、夕食を食べながら、長老ヤグドが教えてくれた。『天の御座』という意味なのだという。
 月の明かりに照らされて、夜の中にもわずかに雪を輝かせる稜線は、なるほど天の椅子と頷ける神々しい雰囲気を持っていた。
 そしてその山裾まで広がるのがアオルソイの荒野だ。所々に茂みや、森と行って差し支えないようなものもあるが、それもこれもいまはしっとりとした夜の風の中で眠っている。

 さくり、さくりと、その乾いた地面を踏む音と共に、コッペリアが近づいてきた。
 彼女が視界に入る前から気が付いていたレオナルドは、余裕を持って振りかえると、岩の上から小柄な彼女を見下ろす。コッペリアは淑やかな歩幅で大岩までやってくると、レオナルドを見上げた。
「歩哨でしょうか」
「違うよ」
 レオナルドはコッペリアの問いに答えた。
 ここは仮にも〈大地人〉の村だ。ダンジョンの奥深くで仮眠を取るのとは訳が違う。油断をするつもりはないが、不寝番をおくほど警戒する必要もないだろう。
 レオナルドはただ、こんな早い時間には眠れないので部屋を抜け出してきただけだった。生粋のニューヨークっ子である彼は夜更かしを愛していた。
 それに、レオナルドには考え事をする時間が必要だったのだ。
 友人と話すのは楽しいし、同僚と一緒に仕事をこなすことだって嫌いではないが、孤独になれる時間がないと萎れてしまう。ギークであると言うことは、心のどこかでそう言う部分を抱えることだと、レオナルドは知っていた。
「そうですか」
「うん」
 会話は途切れた。
 そしてそのまま、アオルソイの九月の夜風が二人を撫でるように通り過ぎてゆく。
 低い馬の鳴き声。虫の音が聞こえ――雲が月を覆い、そして通り過ぎた。

 それなりの時間が経ったはずだが、コッペリアは、ただ静かにそこに立っていた。視線は先ほどまでレオナルドが見ていた、遠くにそびえる山を見つめているようだった。
「登るか?」
「はい」
 コッペリアの返事を聞いて、レオナルドは手を伸ばす。
 彼女はレオナルドに手を引かれて、丸みを帯びた大岩の上に到着する。そして指先で何度か埃を払い、スカートに皺を寄せないようにすっきりと背筋が伸びた仕草で座った。
 レオナルドは話しかけなかったし、コッペリアも余計な言葉を発して、レオナルドを煩わせるようなことはなかった。夜は静かで、二人の周囲にはその静けさをむしろ護るような、低い虫の音と風の音だけがあった。
 またそれなりの時間が流れた。
 星が瞬き、寝ぼけたような羊の声が遠く聞こえた。
「退屈じゃないか?」
「退屈ではありマせん」
 レオナルドは、少し困ってしまった。
 ギークである彼は、女性との会話経験が乏しい。ゲームとして何かやっている最中であれば――つまり、戦闘やらスキル上昇の修行やら、生産活動やクエストの最中ならば、話題もあるだろうが、このようなシチュエーションは専門外だった。
 しかし一方で、居心地の悪さは感じなかった。
 女性と二人っきりだなんてストレスを感じても良い場面なのに、レオナルド自身は落ち着いていたし気詰まりさも感じていないのだ。
「コッペリアは、何をしに出てきたんだ」
「狩りデす」
「狩り?」
 レオナルドは聞き返す。
 『狩り』という言葉自体は珍しくない。MMOではむしろ一般的に使われる用語だ。その意味するところは広く、戦闘でモンスターを討伐することを指す。狭義で言えば、クエストなどで必要なモンスターを倒すわけではなく、戦利品を求めてモンスターを単純に倒す行為をさす言葉だった。
「はい。この村の南方平原に移動し獲物を探すつもりでしタ」
「夜だぞ?」
「夜行性モンスターの存在を考えると、その方が好都合だとコッペリアは判断しました」
「寝るのは?」
「コッペリアは多くの睡眠を必要としません」
 レオナルドは多少びっくりしたが、それもありかと思い直した。〈エルダー・テイル〉においては、この種のプレイヤーはまま見ることが出来る。無駄な時間を過ごすくらいならば、雑魚モンスターでも良いから討伐して多少の金品を得ようとする類のスタイルだ。
 コッペリアはそこまでのバトルマニアには見えなかったが、プレイヤーというのは、必ずしも見た目や職業が性格と一致する訳でもないことを、レオナルドは経験から学んでいた。
 だから「付き合おうか?」という言葉も自然に出た。
 テケリの廃墟からこの村に移動するまで何回か遭遇したモンスターの平均レベルは、二〇前後だった。たとえ回復職で攻撃能力に乏しいとは言え、九〇レベルのコッペリアの敵ではないだろう。
 しかし効率を重視するのならば、攻撃職である自分とコッペリアの二人組の方が、ずっと良いはずである。レオナルドはそう考えたのだ。

「その必要はありません。コッペリアの予定は変更されました」
「そう……なのか?」
「はい」
 コッペリアは淡々と答える。その言葉の響きにも表情にも、特定の感情を感じ取ることは出来なかった。
 必要ないというのなら、それは必要ないのだろう。レオナルドは、あっさり追求の意志を捨てる。稼ぐのも時間を潰すのも、プレイヤーの自由にすべきである。コッペリアが望むなら付き合うが親切の押し売りをするつもりはない。
 レオナルドは、立ち上がる。
 コッペリアの視線がそのままついてきたが「気にしないで」と言うと、納得したかのように藍色の髪の少女は頷いた。
 レオナルドは爪先で岩の感触を確かめる。ずっしりと重く硬質な感触。これなら多少飛び跳ねても大丈夫だろうと安心して、ゆっくり刀を構える。

 脳裏に浮かぶアイコンから起動する技は〈デッドリー・ダンス〉だ。左手を鋭く突き出す。その構え(フォーム)から、冷気を纏うような鋭い音と共に、右手の刀が一閃される。この技の〈再使用規制時間〉は一秒。一秒の後にふたたびアイコンを選択するイメージ。またも右手が振るわれた。今度の攻撃は先ほどよりも鋭い。
 〈デッドリー・ダンス〉は特殊な技だ。連続で使えば、その威力は徐々に上昇してゆく。最終的な上昇上限は八回目の攻撃にあり、その時のダメージは初回の攻撃のおおよそ三倍となる。
 初回の攻撃は通常の攻撃と同じ程度のダメージしかない割に、左手を突き出し腰を沈めるというフォームが存在するために、ダメージ効率はかなり悪い。一回でお終いにするつもりなら、他の特技を用いた方が効果的にダメージを与えられるだろう。あくまで、連続で攻撃することを前提とした攻撃特技なのだ。
 レオナルドは何度か繰り返して、自分の身体の動きを確認する。鋭い動きはこの数ヶ月ですっかりと慣れ親しんだもので違和感はない。しかし、ここが突破口だという感覚はあった。
 慣れない操作に肘や膝がずきずきと痛んだ。
 身体自体は〈冒険者〉となって、筋力も耐久力も大幅に上昇している。それはむしろ上昇と言うよりも、まったく別人である感覚だ。〈冒険者〉の身体は、レオナルドの憧れたヒーローのそれそのものだからだ。
 しかし、普段用いないような角度で筋肉に負荷をかけると、それなりに熱が籠もるらしい。
「〈ヒーリング・ライト〉」
 肘の部分を撫でていたレオナルドに、コッペリアは即時回復呪文を唱えてくれた。〈冒険者〉の屈強な肉体は、この程度の不具合をものの十分もすれば治癒してしまうのだろうが、それでも治癒呪文で熱が引いていくのは心地よい感覚だった。
「治癒をご所望デスか?」
「いや、いまので十分だよ」
 コッペリアの言葉に、レオナルドは身体の筋を延ばしながら礼を言う。再び足を開いて構え通りに腰を沈めながら、レオナルドはコッペリアに尋ねてみた。
「新パッチのこと、どう思う?」
「コッペリアは日本サーバーで導入されていると聞いています」
「えー、と。んじゃ、日本サーバー行きについては?」
「マスターの希望として高いプライオリティでプロットされています」
 どうにも話が噛み合わないと感じるレオナルドだった。
 エリアスといいコッペリアといい、不思議な性格の参加者が揃ったパーティーだ。まぁ、正確に言えばエリアスは人間ではないわけで、あの奇矯さも納得はいく。それに最大の困惑の源は、カナミであったりする。あそこまでの騒がせ屋(ルーニー)というのも、ちょっと珍しい。そのカナミが集めた人材だ、変わっていても仕方ないだろうな、とレオナルドは考えた。
 その選抜に自分が含まれているなどとは、ちっとも考えついていない片手落ちではあるのだが。
「そのマスターってさ」
「はい。カナミ、です」
 昼間聞いた話では、コッペリアは、草原で戦闘中にカナミに見いだされ、仲間に加わったのだという。もしかしたらその際に命でも助けられたのかもしれない。この数日で判ったが、コッペリアは、カナミに対しては他の仲間に対するそれとは違う態度を取っている。恭しい、まるで本物のメイドであるかのような態度だ。
 レオナルドは他人のプレイ方針、特に口調やファッションは寛容である。そもそも、レオナルドからして緑のフードマスクにスーツなどという、カートゥーンヒーローのコスチュームを愛用しているのだ。誰だって、ゲームの中ならヒーローになる権利はある。望むのならばなんにだってだ。
 だから、コッペリアのその態度にも異論はない。

「カナミは、どんな人?」
「――」
 いままでレオナルドの問いには即答してきたコッペリアが、初めて思案するような様子を見せた。レオナルドは身体を伸ばしてゆっくりと刀を振るいながら、のんびりとコッペリアの言葉を待っていた。
 自分でも、なぜこんなに落ち着いていられるのか判らない。
 年頃の可愛い少女なんてハイスクール以降ろくに見かけたことはないように思うし、こんな距離で親しく話した記憶なんてレコメンダシステムだって出てこない。それなのに、いまはPCのグラフィックボードを換装しているときと同じくらいの緊張しかしていない。端子に傷がついたらいやだから、焦らずゆっくり丁寧にしなきゃ。その程度のリラックス。あるいは、思いやりに似た気分が、いっそ不思議だった。
「マスターは、黎明のような人です」
「は?」

 コッペリアは、東の空を指さした。
「いま、あの空の向こうを、太陽が駆けてきています。いまはまだ沈んだばかりですが、明日の朝、〇四三八には東の空が白み始めるでしょう」
 コッペリアの視線は、月が昇ったばかりの夜空を映して、限りなく深い青だった。
「夜間、大空は闇です。未明、東の空が次第に暗い紫に色づき始めます。紫の次は、紫紺。そして、群青。次第に蒼さを増していく大空に、まだ光はありません。しかしその蒼さだけで、朝の訪れを疑う人は居ません。――マスターは、そのような人です」
 コッペリアの言葉の意味は、レオナルドにはよく判らなかったが、コッペリアがカナミの価値を認めているらしいと言うことだけは判った。
 レオナルドは、そのことだけを記憶して、再び〈デッドリー・ダンス〉の動きをなぞり始めた。



◆13



 その同じ夜の底を息を殺して徘徊する一団があった。
 ギルド〈楽浪狼騎兵〉の斥候部隊である。
 構成員は三名。いずれも九〇レベルの訓練を積んだ〈冒険者〉である。
「どうだ?」
「――南だな」
 地面を這うように調べていた盗剣士は、言葉少なく答えると、携帯用のカンテラのシャッターを閉めた。この品は、永続光を発するマジックアイテム〈湖南の虹真珠〉を中心に、光増幅用の鏡と、覆いとしてのシャッターを組み合わせた細工物で、最近生産部隊が作り出したものだった。
 足跡の痕跡を再確認した一行は、近くで待機をしていた〈騎乗用大型狼〉(グレートウルフ)にまたがる。体長三メートルにも達する狼のようなフォルムのこの生物は、中国サーバーで見られる騎乗生物であった。
 革で作られた鞍にまたがった三人はそのまま夜の草原を南へと走る。
 夜の移動は馬では難しい。
 今夜は月夜ではあるが、それでも地面の起伏は容易く影に紛れ、一歩間違えれば馬の足首など簡単に折れてしまう。そのような環境下において〈騎乗用大型狼〉は馬に対する圧倒的なアドバンテージを持っていた。
 しかし夜の追跡だから彼らがことさらに選んで〈騎乗用大型狼〉に乗ってきたわけではない。
 そもそもギルド〈楽浪狼騎兵〉のメンバーは全員が〈騎乗用大型狼〉に乗っているのだ。〈楽浪狼騎兵〉にとって、巨大な騎乗狼は、トレードマークである。
 彼ら〈楽浪狼騎兵〉は元々中国サーバーの中心的都市である大都(ダアドン)を本拠地とするギルドだった。しかし〈大災害〉以降、大都の治安は悪化するばかり。華王を名乗る三つのギルドが互いに争い、それぞれ街の重要な施設を占拠しては互いに牽制し合うという混沌の都と化している。
 先見の明に溢れた〈楽浪狼騎兵〉のリーダー、朱桓(ジュハン)は早々に大都脱出を決定した。元々が〈騎乗用大型狼〉を中心として、長距離移動を苦にしないメンバーばかりだったのも幸いしたのだろう、総勢四百八十人全員が自分の財産をバッグに詰めてギルドホールも引き払っての出立となった。
 それからは西へ西へと移動していった。草原の都〈シーマァナイクィ〉へと腰を落ち着けるのにひと月。そこでギルドホールを開設、安定させるのにひと月がかかったが、〈楽浪狼騎兵〉は安心できる住処を手に入れた。中国サーバーでは、比較的運の良かったギルドだろう。
 現在、〈楽浪狼騎兵〉が行なっている仕事は巡士である。
 清代にはビャオジュイと言われていた仕事だ。〈大地人〉の輸送部隊に護衛として随行し、モンスターや野盗からその荷物と財産生命を守る。一方で、その任務が失敗した場合は、委託主への賠償責任を果たすために金を支払う。
 この世界が〈エルダー・テイル〉というゲームであった頃から、クエストという形でたびたび依頼されてきたことを、〈楽浪狼騎兵〉は巡士という形で事業化したのである。
 〈シーマァナイクィ〉……現地では馬乳の都と言われる都市は、決して小さくはなかった。人口で言えば一万五千人ほどが暮らす地方交易の中心でもある。
 もともとが商人の旅隊を中継する基地として栄えたのであろう、街の目抜き通りには乾物や東西の珍品を取り扱う店が並ぶ、なかなかに裕福な都市だ。

 だが当然のこと、プレイヤータウンではないために〈冒険者〉は少ない。神殿が存在するのは〈楽浪狼騎兵〉が本拠地として選んだ最大の理由だが、銀行は無かった。それゆえ、〈楽浪狼騎兵〉のメンバーはその財産のほとんどをギルドホールの金庫に預け、護ってもらっている。
 そういった制約上〈楽浪狼騎兵〉は他のギルドに比べて家族的で横の繋がりが強く、またそれが〈大地人〉から見たとき信用がおけるという評価にも繋がっていた。
 〈楽浪狼騎兵〉では、護衛の依頼に対して、通常ひとつのパーティーを送り出す。つまりそれは、前衛の盾となるべき戦士職、戦士を回復してパーティー全体を管理する回復職、それに加えて物理、魔法のバランスがよい攻撃職を配置した六人組と言うことである。
 依頼によってキャラバンの通るルートは異なり、その難易度によって選抜されるメンバーは調整されてはいたが、交易路の地上を旅する限り、〈楽浪狼騎兵〉のメンバー六人で退けられない脅威は、この地方においてほとんど無かった。

 そうした護衛業務を行なう一方で、ギルドリーダー朱桓は、四方に多くの斥候を出すことでも知られていた。
 〈冒険者〉はその気になれば優秀な斥候になりうる。武器攻撃職、たとえば〈暗殺者〉や〈盗剣士〉は忍びの技を身につけているし、魔法職であれば暗闇での明かりや特殊な視力をもち、遠距離偵察に便利な召喚生物を使役できることも多い。
 メンバー全員が荒れ地や山間部に強い騎乗生物〈騎乗用大型狼〉の乗り手であることも大いにプラスに働いた。
 依頼を受けていない間、ギルドメンバーの腕がなまらないようにと考えられた企画だったこれらの斥候は、〈シーマァナイクィ〉周辺の治安を向上させ、また多くの情報を〈楽浪狼騎兵〉にもたらすという福次効果をもたらした。
 新しい都市に居を定め、一ヶ月が経つ頃には〈楽浪狼騎兵〉は早くも街の重要な一員であると〈大地人〉に認識されるようになっていたのだ。

 しばらく疾走した三騎は、夜の闇の中に水の匂いを嗅いだ。
 レウルノースの支流だろう。
 その支流に行き当たってしばらくたつと、三人は川の畔に痕跡を認めた。踏み荒らされた川縁の草は黒く濡れている。
 水ではなく動物の血液だ。
「多いな」
 血の匂いにうなり声を立てる騎乗狼の首筋を撫でつつ、リーダーの盗剣士は呟いた。血痕は、もうすでに乾きかけている。誰であれここを立ち去った者たちは、随分前に出発したはずだ。しかし一行は用心をして大きな明かりは使わず、シャッター付きのカンテラを使用し続けた。
 一行は、特別編成された斥候部隊のメンバーだった。
 斥候部隊は南西方向の情報収集を目的とした大隊で、全ての班を合計すれば六十名を越えるメンバーが参加している。本隊はゆっくりと真西方面へと移動しながら、情報の統合を行なっているはずだ。
 施療神官の少年が本隊への念話を行なっている脇で、リーダーはさらに周囲を調べる。ひっくり返された石、踏み固められた泥土。どうやら、追いかけていた一隊は、ここでさらに多くの仲間――〈灰斑犬鬼〉(ノール)と合流を果たしたらしい。
 ここで屠られたのは、羊か鹿か……そういった生き物だろう。一行はここで血なまぐさい食事をしたあと、さらに移動をするために旅立った。支流を渡った〈灰斑犬鬼〉の数は二十以上、三十以下。
 サブ職業として〈追跡者〉を持つリーダーはそう判断し施療神官に伝える。
 本体へと報告した内容は、この三人小隊と同じく本隊から半径二十キロに散った監視体制へと共有される。
 彼らが追っているのは、〈灰斑犬鬼〉の旅族(トライブ)だった。
 〈大災害〉はモンスターの生息圏にも大きな影響を与えたようだ。〈楽浪狼騎兵〉は大陸東岸の大都からこの地方までの旅で、移動をするモンスターの部族を多く見てきた。
 〈灰斑犬鬼〉の一団もそのような一種なのだろうか。二週間ほど前、幾つかのキャラバンの壊滅と共に、彼らの移動を察知した〈楽浪狼騎兵〉は、大規模偵察を立案実行した。
 〈灰斑犬鬼〉が数百体であれば、この偵察部隊だけで殲滅することが可能だ。偵察部隊とは言え、そのメンバーは追跡技能を加味されて選抜されただけであり、戦闘能力は護衛部隊や戦闘部隊と何ら遜色はない。
 〈楽浪狼騎兵〉はライトユーザーが多い中国サーバーでは硬派なギルドであり、所属メンバーの大半は九十レベルである。
 もし仮に〈灰斑犬鬼〉の集団が大規模戦闘を必要とするほどであれば、専用の討伐部隊派遣も視野に入れていた。その場合は、現在〈シーマァナイクィ〉で待機しているギルドリーダー、朱桓も出陣となるだろう。
「――っ。はっ。了解ですっ」
 突如緊迫した施療神官の青年の態度に、緊張が走った。
「どうした」
「南西に先行してた第四班の連絡がつかないようで」
「この先か」
 盗剣士は闇を睨んだ。何らかのトラブルに巻き込まれたのか。最後の連絡によれば、第四班は彼らの西方数キロの場所にいるはずだ。

「本隊は確認要請をしています」
 悩むまでもない。最も近いのが自分たちなのだから、調査の必要があるだろう。リーダーである盗剣士の指示で三人は騎乗した。
 〈騎乗用大型狼〉は、その主人達を背に乗せると合図さえも待たずに夜の闇へと掛けだした。
 〈楽浪狼騎兵〉における乗騎はもはや家族同然であり、乗り手の指示も必要としない領域にある。彼らは主人の緊張を感じ取りうめき声も漏らさずに闇夜の中をひた走った。
 耳を切る風は痛いほどであった。
 まだ季節は九月であり、夏と言っても良い。
 しかし高山にから吹き下ろす風は冷気を含んで鋭い。深夜、その中を疾走するとなればなおさらだった。
 このような任務に慣れっこである〈楽浪狼騎兵〉は、毛皮のついた上着の襟を立てて、乗騎の首筋に顔を埋めた。彼らの腕の中で躍動する獣の体温は温かく、その毛皮に埋もれていれば、ちょっとくらいの寒さは気にならないのだった。
 やがて月が中点より降り始める頃、地平線に黒々と立ち現れてきたのは巨大な柱であった。
 それは余りの距離のために、ちっぽけに見えたが、冷静に考えるととてつもない高さを持っていた。対象物がないために正確なことは判らないが、三十メートルは優にありそうである。
 近代建築がないこの世界で、また、荒野の中心に屹立するそれは、はるかな距離からでも視認可能なほどの非現実的な巨大さを持っていた。
 近づくにつれ、それはいよいよその威容を発揮し始めた。
 鋼鉄で出来ているのだろうか、三本の柱をまとめたようなその構造物には、内部があるようには見えなかった。建築物――つまり、塔ではなく柱と表現した理由がそこにある。古代の武具のような、棘ばった外見は周囲を威嚇しているかのようにさえ見えた。
 〈列柱遺跡トーンズグレイブ〉。
 偵察班のリーダーは口の中でだけ小さく呟いた。
 この地方の正確な地図は存在しない。
 〈大地人〉の交易商にとってはルートが全てである、そのルートに従って商売をするために、全域を記した詳細な地図は必要ないのだ。また手慣れた商人であればあるほど、自らの財産である知識や経験を頭の外側に出すという油断をしなくなる。
 〈冒険者〉は地図を必要とし実際作成もするが、このアオルソイ地方は冒険者の手が余り入っていない未開の地だ。まだ地図を作るほどの情報は手に入っていないし、少なくとも現在は完成した地図と言えるものはない。
 しかし、地図につながる情報収集も、この偵察班の普段の役目のひとつではあった。偵察班リーダーの盗剣士は、サブ職業がらこの地域の巡廻も数多くこなしており、地元の噂にも精通している。そのために目にした光景が古老の話に聞く〈列柱遺跡トーンズグレイブ〉であることも即座に理解した。
「止まれっ」
 彼の言葉に、二人の仲間は即座に停止する。
 進行方向右手の窪地に、わずかに動く影が見えた。
 目を凝らすと、それらは〈灰斑犬鬼〉だった。百をはるかに超える、もしかしたら千を超えるかもしれないほどの〈灰斑犬鬼〉が声ひとつ立てず、窪地を進んでいるのだ。

 三人はしばらくの間狼の背で息を潜めていたが、どうやら見つかった気配は無いようだった。〈灰斑犬鬼〉は冒険者を発見すると、気がふれたかのように攻撃を仕掛けてくる性質を持つ。もっとも〈騎乗用大型狼〉に乗っている限り、危険度はさほど大きくはない。
 巡行移動速度が違うのだ。彼らに囲まれようが逃げることは出来るだろう。しかしその場合、偵察の続行が困難になると言うデメリットが存在する。気付かれないのならば、その方が有り難いのは言うまでもなかった。
「なんで奴ら、こんなにも群れているんだ」
 小声で話しかけてくる若手の妖術師に、彼は首を左右にふる。
 そんな事判るわけがない。
 だがとりあえず、こいつらに接触した第四班が何らかのトラブルに出会ったのは間違いがなさそうだ。リーダーはしばらく逡巡したあと、施療神官に合図を送った。細切れになるがまずは報告を入れておくべきだろう。
「見たままを報告してくれ、それから、一〇〇メートルほど、後退だ」
 身を低く沈めた〈騎乗用大型狼〉の同僚が後ずさっていくのを見ながら、リーダーは自分の乗騎から飛び降りた。忠良な相棒の濡れた鼻先を軽く叩くと、彼は匍匐前進を開始する。
 もう少しだけでも接近して、〈灰斑犬鬼〉が何をしているのか、どこを目指しているのか確かめたい。そもそもあれだけの大集団がしわぶきひとつ立てずに進んでいるのは何やら違和感を覚える。
 彼は〈追跡者〉の特技を起動して気配を遮断すると、慎重に丘の稜線に姿を現さぬように進んでいった。
 少なからぬ時間を掛けて〈灰斑犬鬼〉に接近する。
 だらだらとよだれをこぼすハイエナじみた姿の亜人間どもは、何かに焦がれたような欲望の眼差しで、ただ彼方の柱を見つめ進んでいるようだった。その姿はまるでアヘン中毒者のようで、背筋が凍り付くような薄気味悪さをリーダーに感じさせた。
 逃げ出したいと本能が悲鳴を上げる。
 だが彼はそれをねじ伏せて接近を続けた。もう十メートルも進めば、ステータスが確認できる距離に踏み込める。

 脂汗を流しながらも接近して確認したステータスは、やはり〈灰斑犬鬼〉や〈灰斑犬鬼の闇術師〉などのモンスターだった。亜人間モンスターは、同じ種族内で幾つかの職業に分化していることが多い。〈緑小鬼〉(ゴブリン)〈醜豚鬼〉(オーク)なども戦士階級や司祭階級を含めて部族は構成されている。
 眼前の〈灰斑犬鬼〉は闇術師、突撃兵、狼牙隊長などから構成され、そのレベルはおおむね六〇から七〇の間といったところだ。
 リーダーは欲しかった情報を手に入れたと判断した。
 これ以上の偵察は無益であるばかりか、危険だ。この規模の敵集団と戦闘をするとなれば、ギルドを上げて――少なくともレギオンレイドクラスの戦力が必要だろう。三名の偵察班では何ほどのことも出来はしない。
 彼はそう考えると、撤収を告げるために、ゆっくりと振り返った。
 しかしそこで彼が見たのは、死神の鎌のように鋭く尖った月と、その月を背景に舞い降りる一頭の巨大な黒竜の姿だった。
 生暖かい噴水の中で、彼の視界はモノクロに染まり、即座に途切れた。
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