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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

Route43

73/129

073

一週ひっぱってごめんなさい。Route43の最終回になります。
「くっくっくっくっ。あは。あっはっはっはっは……」
 驚いた表情のロエ2は身体をおるようにしてひとしきり笑ったあと、ミノリの頭部をふわりと撫でた。
「この戦場で、それが答えかい?」
「この戦場で、これが答えです」
 丸眼鏡の奥の目が柔らかく細められた。
「すべては変わらないとしても?」
「一部を変えられるってことですから」
 問いかけの言葉は励ますように響いた。
「トウヤがうずくまってるこの時に?」
「ちょっと休憩してるだけ。すぐに立ち上がります」
 ミノリの頬にも緩やかに暖かさが上ってきた。
「たぶんミノリの言葉は届かないよ」
「でも、いま、一緒にいます」
 何か大事な選択がなされた。それはロエ2が選択肢を示し、ミノリが選ぶというものではなかった。ミノリが己の中から彫り上げた答えの、ロエ2は介添えをしてくれたのだ。チョウシを守ると決めたときのように、天秤祭の後衛を務めると決めたときのように、その決定はミノリの奥深くから湧き出でてミノリを染め上げた。
 変化の予感にミノリの胸は震えた。その予感は曖昧な思い込みではなく、偽りなくミノリを変えて、世界を変えた。以前に経験したように戦場は足元からその色合いを変えていった。急速に塗り替えられる視界の中で、ミノリはロエ2を見つめた。
 ロエ2の厚意はミノリの深いところへと仕舞われた。
 ミノリの中でシロエの言葉とまじりあい、新しい大樹の根となる。それがミノリにははっきりとわかった。

「お願いの言葉、聞いたぞ」
「はい」
「うん。いいね、ミノリ。いいよ。わたしは、君たちのお姉ちゃんだものな」
「はい!」
召喚っ(サモン)!」
 夕日の中に逆行になったロエ2は腕を無造作に振り、強力な魔法陣が出現した。
 駆けつけた〈蒼褪めた馬〉(ペイルホース)にまたがるロエ2は、ミノリに手を伸ばし、そのひんやりした感触をあじわいながらミノリはそれをつかんだ。
 たくましいサラブレッドの躍動を感じながら、ミノリはびっくりしてロエ2にしがみつく。
「たしかに。わたしは見過ごしていたようだ。わたしたちには先を行くものとして義務がある。きみたちが差し伸べた手を振り払ったりするのはとても格好悪いことだね」
 力強い蹄の音を立てて〈蒼褪めた馬〉は宙を駆けた。
 馬車を曳いていたときには一度も見せなかったその真の能力にミノリはあっけにとられて口を開くこともできなくなってしまう。
「お姉さんは妹分を見捨てない。その盟約(ルール)を内面化しよう。おそらくわたしがはじめて君たちのそばに立つ〈航界種〉だ。こんなことになるとは思ってなかったけれど、なかなか気分は晴れやかだな」
 ミノリはその言葉のすべてを心に焼き付けた。
 残念ながら意味は少しもわからない。
 しかし一言一句が、何か重要なピースなのだ。
 誰に言われるともなく、それをシロエのもとへ届ける役目をミノリは自分に課した。いまミノリは生まれ変わった特別な世界にいて、この世界において、出会いは重要な秘儀の一部であり、そこには特別な意味を持つのだ。トウヤの悲痛は今でも痛いほど感じているが、それらを吹き飛ばす嵐の予感にミノリの心は躍った。
要素集合(エレメントクラスタ)はその規模が大きくなるほどに安定するけれど決定論的にふるまうことになる。国も、惑星も、橋河(ミルキーブリッジ)もそうだ。そうして小さな欠片を取りこぼしてゆく」
 倒れてくる鉄柱を〈蒼褪めた馬〉は迂回もせずに跳ね飛ばした。
「それは悪いことじゃない。すべての人が幸せを望むのはあたりまえのことだ。――しかしそれはやはり悲しみの起点でもある。セルデシアの歴史におけば、かつて隣人の手を振り払ったアルヴのように。そのアルヴを滅ぼした人間のように。誤謬(ごびゅう)が合成され、個人の手には負えないサイズになって世界を滅ぼす」
 ロエ2の言葉は柔らかかったがその奥にたとえないほどの空虚を抱えているようだった。失敗した過去を話すような、滅びた歴史の伝説のような、そんな響きを持っていた。

「わからないかい?」
 ミノリはロエ2の背中で頷いた。
 わかるとはいいたくなかった。
「君たちの言葉は不便なものだね。こんな制限だらけのプロトコルが思考機関インファレンス・エンジンの上限まで制限している。君たちはまともにクラウドさえ構成できないし、やることなすことロスだらけだ。安定的に集合を拡大するためのメソッドすら持っていない。こんな理不尽な孤独の中で石器時代みたいに暮らしているのか? ひどいありさまだ。これじゃ、あんまりだ」
 責めるような声ではなかった。同情でもない。ただ理解と共感があった。
 ミノリは風にたなびくマントをぎゅっと握りしめた。
「でも〈共感子〉(エンパシオム)は伝わる。資源不足にあえぐこっちにはわからないほどに。きみたちの流儀なんだろう? これが」

 巨大な爆炎が上がった。
 それはおそらく〈不死鳥〉(フェニックス)の自爆攻撃だ。渦巻く炎のさなかに〈蒼褪めた馬〉は一直線に突っ込んでいった。そこに来て、ミノリはやっと周囲の様子が見えてきた。争いがあった。あらゆるところにそれはあった。
 ロエ2は召喚馬を操り巧みな走破で〈鋼尾翼竜〉(ワイヴァーン)や〈闇精霊の従者〉を撃破していった。九〇レベルの〈冒険者〉の実力を見せながら。
 ミノリは〈禊の障壁〉を投げかけた。
 〈大地人〉にも〈オデッセイア騎士団〉にも。
 目まぐるしく変わる景色と戦場に忙殺されながらも、ミノリは不思議な結論にたどり着いた。
 いまミノリが放つのは無数の障壁呪文だ。それらはHP減少を食い止めるバリアであり、〈神祇官〉(かんなぎ)におけるヒールワークの中核である。戦闘を構築する主要な呪文系統のひとつだ。
 ミノリはそれを争いの手段ではない何かにしたかった。
 炎から逃げ出す〈大地人〉にとってそれは乾いた時の水であり救命の可能性に。物狂いのように剣をふるう〈オデッセイア騎士団〉にとってはその身の尊さを思い出す小さなきっかけに。
 それらはつまり、すべて命を守り、この場を終わらせたいという、ミノリの希望(エゴ)なのだ。願わくばそのエゴが祈りとなるように、ミノリは再使用規制時間(リキャストタイム)の限りに、〈禊の障壁〉を張り続けた。
 戦場の混乱は果てしがないようだった。
 何度かセララとトウヤの姿を見た。二人もまた戦っていた。
 目もくらむような乱戦の中でミノリは何か不思議なものを掴みかけた。それはシロエから話を聞きずっと追いかけてきた〈全力管制戦闘〉フルコントロールエンカウントであったが、一部ではそれを拡張した何かだった。何度も感謝を述べて逃げてゆく〈大地人〉の親子や、力尽きたように(ひざまず)く騎士たちは、ミノリの友人ではなかったが、今この場所を共有する仲間ではあった。
 シロエが何度かやって見せてくれたように予断も曇りもない精神世界の中で、ミノリは彼らの声にならない声を聴いたような気がした。それは悲哀が充ちるこの空間への嫌悪とよりよい選択を願う希求の声だ。

「弟妹諸君!」
 ロエ2が声を張り上げた。
 高らかに掲げた〈思慮する木菟の杖〉に白い光が集い、小さな笑みを浮かべた表情は悪戯そうに宣言をした。
「お姉さんは妹分を見捨てない! この世界で私が最初に作った友だちが、この悲しみしか生まない場所へ怒っている。かつてわかり合えず、見捨てられた亡国の姫がわたしの中で叫んでいる」
 ガレキの中に突出し、騎士と剣を重ねるトウヤがふと見上げた。
 無数の〈鋼尾翼竜〉(ワイヴァーン)を氷の棺に閉じ込めるルンデルハウスも振り返った。
 ウルフの視線につられたセララが当惑したように顔を上げた。
 涙もぬぐわずに歌い続ける五十鈴が町を包み込むような広がった白い翼を見た。
 それはすべてを覆い尽くす雪のような白だった。

「汝契約を破られしもの、我と共に歩め。〈ソードプリンセス:アル・クィンジェ〉!」
 ロエ2の召喚呪文はあたりを照らす閃光を伴って発動した。
 それは竪琴を持った女性であり〈ソードプリンセス〉として知られる〈戦技召喚〉だ。シロエの授業で知っているはずの呪文を、ミノリは全く違うように見つめた。それはただ〈ソードプリンセス〉ではありえなかった。顔を覆うベールのような封印布に隠されて精霊の表情はわからなかったが、悲しさを含んだ穏やかさをミノリに感じさせた。神々しい光を放つ竪琴の美女は、ロエ2をトレスするようなしぐさで腕を上げ、五十鈴の歌にハープの響きを重ねる。
 六傾姫の奏でる竪琴の音色の中で、ロエ2の表情は確かに誇らしげだった。



 ◆



「ロンダーク。……それはすべての人がそうなのにゃ」
 にゃん太の剣は己の限界を悟っていた。戦いでならば、勝つことは出来る。ロンダークを神殿送りにすることも、黒い精霊の十や二十を片付けることもできる。でもそれは、にゃん太の勝利であるとは言えなかった。
 その自覚がにゃん太にじわじわと染み込み、枯れた心のどこに残されていたのかと思うほどの痛みを体験させた。

 トウヤを思った。ミノリを思った。五十鈴とルンデルハウスを思った。
 〈三日月同盟〉の子供たちに思いをはせた。
 そして、セララのはにかんだ表情が浮かんだ。
 年若いにゃん太の仲間たちを思い出した。
「すべての子供たちがそうなのにゃ。ロンダーク。人は、少なくともすべての子供は、彼らから見れば、理不尽に生に産み落とされるのにゃ」
 細い電光がいばらのようににゃん太の腕を縛る。
 HPバーが減ってゆく。
 残された時間は少なく、かけられる言葉はわずかだ。
 そしてその少ない言葉がロンダークに届かないことをにゃん太は知っている。そのような伝言が苦しみの中にある人に届くことは奇跡に属し、にゃん太はあいにく奇跡を操ることのできない無力な人間であった。
「『あなたは愛されて生まれた』と告げる両親がいるにゃ。とても美しい言葉にゃ。でも、その言葉は産んだ親の自己満足にすぎないのにゃ。世界に産み落とされるにあたって同意を求められなかったという事実を覆すことは出来ないにゃ。救われる子供はいるけれど、被害者である部分は変えられないにゃ。すべての人々は、そうして生を受けるのにゃ。この世界でも、元の世界でも、どの世界でもっ!」
 だから、我慢しろ。
 そんなことは言えなかった。
 誰でも味わう苦しみだとしても、その苦しみの一つ一つはその人だけのもの(オリジナル)なのだ。苦しみの底にあったにゃん太がそんなことを言われたら拳で応戦したように、今ロンダークは拳を振りかぶっている。そして、拳を振りかぶっているのはロンダークだけではない。
 この世界には悲哀が充ちている。

 すくなくとも、〈大地人〉の法でロンダークは裁くことは出来ない。また〈冒険者〉の法でも無理だ。ロンダークはそこへ参加をするという同意をしていない存在なのだ。
 己の被害も、破滅も、ロンダークにとっては興味の外なのである。にゃん太にはその痛みがわかるような気がした。大事な人を失った時、人は、世界を失う。にゃん太は取り戻すことができたが、それには長い時間がかかった。恵まれてもいた。
「俺を殺せよ、猫剣士(スワックラー)! 殺されたって関係ない。ここには死なんてないんだ。俺には終わりがないし、お前たちは俺に説教は出来ても、都合よくおれを追放できない。違うか!?」
 違わなかった。
 だからにゃん太は痛む胸を抱えたまま剣の輪舞を踊った。
 それはひとつの終末だった。
 にゃん太の前には深淵があって断絶が存在した。ロンダークのあの無責任で投げやりな態度は、この世界に対するものなのだ。ロンダークは、もう、この世界の住人であることをやめた。だから世界がどうなっても構わない。もちろん肉体を生かすため、時間をつぶすため、ロンダークも何がしかの活動をしなければならないが、それをクエストと呼んでいるのだ。ロンダークは世界を「そういうもの」だと決めてしまった。だからおそらくにゃん太の言葉は届かない。
 しかしそれがロンダークの真実であっても、世界にはそれ以外も存在する。
 ミノリを思い出した。あの生真面目な少女はシロエを目指すと決心をした。トウヤは妹を守るために、ルンデルハウスは〈冒険者〉になるために。

 若者たちは産まれなおすのだ。
 理不尽な強制としてこの世に生を受けた幼子は、若者となり、己の意志でもう一度生誕を決意する。
 自分が何者であるかを胸に刻み、望んでこの世界に生まれた二度目の赤子として自分自身の人生を歩み出すのだ。それは神聖なる契約であり、人はそうして連なってきた。それが人をいままで繋いできた。
 にゃん太はそれを守るためならば、我が身を灰にしても構わないと思った。ロンダークがそれを知ってくれるのならば、どんなことでもしてやりたいと思った。
 にゃん太の大好きなシロエも、そうして契約を結び、〈記録の地平線〉(ギルド)を持つことになったのだから。

 しかしその願いは虚しく、ロンダークの振りかぶった杖から無制限の魔力があふれだし、ヘイトも制御も放棄した半ば狂った魔法が膨れ上がった。
 そしてそれはいまにもにゃん太を飲み込む寸前、消滅した。

「ぎゃあすかぎゃあすか、騒がしいねえ」
 ロンダークの首を後ろから貫いた軍用サーベルがずるりと抜けて、その背後から赤毛の女性が姿を現した。目を細めて笑うその表情は酷薄で、艶やかで、愉悦に満ちていながら鋼のようだった。
 ロンダークは血走った眼球をぐるりと回して、崩れゆく身体から女を見上げ、何かつぶやいたようだった。しかし、その言葉は、ごぶごぶと溢れる血泡という形でしか発信されなかった。
 女はちょっとだけ驚いた表情を作った。その驚きがわざとらしいサービスである証拠に相好を崩すと、ロンダークに「おやおや伝言かい?」と尋ねかける。粘液の泡立つような音に「ああ、残念だ。わたしにはその言葉がわからないねえ」と蹴りどかして、にゃん太を煽るように見つめるのだった。
 何がおかしいのかくすくすと笑うその様子はまるで彼女の異常性を班長に警告しているようだった。

「〈冒険者〉ってのは最高だね。殺し放題、殺され放題ってわけだ」
「っ!! なぜっ」
「あん? ……ああ。ちょいと黙ってもらっただけだよ。なあに、隣の部屋に移動するようなもんさ。そうなんだろう? 〈冒険者〉(あんたら)は」
「違うにゃっ」
 叫びはしたが、にゃん太はその証明ができなかった。
 説得することができなかったロンダーク、それを殺した〈大地人〉の女。
 死がすべてを隔てないこの世界で何が違うのか。

「おっと失礼、あたしは〈東伐将軍〉ミズファ=トゥルーデ。現場指揮官ってところさ」 生気にあふれる美女だった。
 鍛えられた長身を軍服に包み、血に濡れた曲刀を下げたその姿は、絵画のそれではないがある種の美であることを認めないわけにはいかなかった。〈自由都市同盟イースタル〉の美姫たちの羨望を買いそうな美貌を、野卑な笑顔でゆがめた女は、思わせぶりな態度でにゃん太の前に立ちはだかった。
「お前がロンダークの依頼主なのかにゃ。それが〈大地人〉のやりようにゃのか」
 にゃん太は自分の身体が白い炎に覆われたかのような錯覚をおぼえた。
 敵意を抑えることが出来ない。
 ロンダークを説得することはおそらく無理だった。にもかかわらず眼前の女将軍がそのチャンスを奪ったように感じられてしまう。その苛立ちは自責にも似て容赦のないものだった。
「あははははは。この期に及んで寝ぼけたことを。〈大地人〉? 〈冒険者〉? 関係ないだろう」
 歯を食いしばるにゃん太にミズファは艶やかな声で笑いかけた。
「この世に生を受けた生き物は皆、己の手札で殺し合うのさ。強き者はその強さを武器に。弱き者はその弱さを武器にっ」
 まるでそれが日常であるかのようにミズファは笑みを浮かべたまま斬りかかってきた。にゃん太はその曲刀をいなそうとしながらも、驚きに表情をゆがめた。重いのだ。〈大地人〉の剣は思えぬほどの威力だった。
「死なないあんたが支配や覇道をたずねるのかい?」
「なぜ戦乱を望むのにゃっ!」
 シロエを思った。あの不器用な青年の夢を思った。
 にゃん太のギルドマスターの迂遠すぎる善意は、おそらくこの戦いを予感していたのだ。シロエの洞察は正しかった。正しすぎたのだ。最善を尽くしてなお防げぬほどに。
「あたしはあたしの生命(いのち)を燃やすのさ。戦というアルコールでね。踊りなよ、〈冒険者〉(アンデッド)ッ!」
「〈ヴァイパー・ストラッシュ〉!!」
 言葉の意味は本能的に察することが出来た。
 〈冒険者〉(アンデッド)
 死ぬことのない自分たちは、〈大地人〉からすれば生きてすらいないのだろう。
 不吉なその呼び名を、にゃん太は否定することが出来なかった。
 彼女が間違っていると言うことも出来ない。
 しかし攻防はそれとは別だ。〈盗剣士〉(スワッシュバックラー)の剣技が獲物を狙う毒蛇のようにミズファの防御をかいくぐり、その肩口を切り裂いた。にゃん太は歴戦の剣士である。怒りに燃えてもいる。眼前の女軍人を許すつもりはなかった。
 しかしミズファはその傷口からしたたる薔薇のような血を顧みることもせず、半身に構えたサーベルを突き、振るい、にゃん太に肉薄する。

「あはははははは。すごいねえ、素晴らしいねえ、惚れちゃいそうな剣の冴え。だけど剣に殺意がないよっ」
「それが自慢なのかっ。殺意のにゃることが!」
 電光のレース模様を空中に描いた。
 跳ね上げる剣線を繰り返し、にゃん太は白い怒りに燃えて、ミズファののど元を狙った。すでにして追撃の〈アーリー・スラスト〉が女軍人の体勢を崩している。
 決定的な一撃に世界がその身じろぎを止めたとき、その激突を食い止めたのは、抜刀もされていない白鞘の柄だった。
 にゃん太とミズファの間に割ってはいった男は、総髪をなびかせると苦渋に満ちた表情で二人をはね飛ばした。



 ◆



 たおやかな姿を持つ白い女性が、まるで小春日和の残照の中を行くように、平然と町並みをよぎっていった。
 時節立ち止まってはなにかを考え、空を見上げて、また歩みを始める。
 焦げたような匂いの黒煙が僅かに空気に混じり、周囲は喧噪に包まれている。魔法の炎は通常煙をたてないため、これはなにかに引火したということなのだろう。サフィールは戦闘状態にあるのだ。
 白い美女を獲物と見定めたのだろうか、一体の〈鋼尾翼竜〉が旋回から急降下にうつった。うねるような尾の動きは〈鋼尾翼竜〉に獰猛な機動性を与え、その鋼の爪先は〈大地人〉の軟らかい肉を容易く刺し貫くだろう。
 ダリエラはそちらを見上げようともせずに左手を挙げると、吐息のような声で呪文をつぶやいた。〈アストラル・ヒュプノ〉。それだけで不可視の網に絡め取られたように〈鋼尾翼竜〉はその精神と肉体を静止させる。
 錐もみ状に落下して土煙と瓦礫に沈む翼竜を背景に、白い女性は漆黒の羽ばたきに包まれるようにその姿をブレさせる。膨大な魔力を秘めた幻尾がまるで大気を愛撫するように艶めかしく揺れて、狐の耳を持つ漆黒の美女が現れた。
 対象を深い眠りに落としその精神を凍り付かせる〈付与術師〉の呪文〈アストラル・ヒュプノ〉。攻撃力のないこの呪文であるにもかかわらず、それが起こした被害は甚大だった。〈鋼尾翼竜〉はもとより、その落下に巻き込まれた〈オデッセイア騎士団〉の〈森呪使い〉(ドルイド)さえも大規模ダメージで絶命している。

 濡羽は小さくため息をつくと、さきほどまでと同じように歩みはじめた。
 ビルの間を抜け、茂った緑の木陰の下をとおり、夕焼けの戦場を歩く。
 不思議なことに〈闇精霊の従者〉も〈鋼尾翼竜〉、それどころか〈大地人〉や〈オデッセイア騎士団〉も濡羽を認識することが出来ないようだった。
 濡羽は戯れに、あるいは自分に突進してくる火の粉を払うように、小さな呪文で彼らを止めた。止めるというそれだけのことで、濡羽は戦場に破壊と絶命を巻き散らかした。〈付与術師〉(エンチャンター)のなかでも行動阻害呪文に特化した構築(ビルド)〈凍てつかせるもの〉(フリーザー)と呼ばれる。極寒の雪荒らしを以て周囲の敵すべてを凍り付かせるようなその能力から名付けられた別称だ。
 濡羽はその言葉を体現したかのような歩みを見せていた。時には足を止め、時には何かを呟き、町を抜けてゆく。

 濡羽は小さなため息をついた。
 |〈Plant hwyaden〉《プラント・フロウデン》の窮屈な任務を抜け出して西ヤマトを少し歩くだけのつもりが、偶然の出会いをしてしまった。
 悪意や害意があったわけではない。ただシロエのギルドのメンバーだと思ってちょっかいをかけてしまったのだ。そして傷を受けた。
 上から目線で小馬鹿にしていたことを濡羽は認めざるを得ない。シロエは特別だが、その仲間まで特別なわけはあるまいと思っていたのだ。いつも通りに愛想笑いをして、相手を思いやるようなちょっとした態度と仕草を見せれば、容易く溶け込めると思っていた。
 事実、ミノリやセララ、五十鈴と言った娘たちにはなにも気づかれなかった。おそらくルンデルハウスという元〈大地人〉にもだ。
 油断していたとは思わない。
 多少距離をつめようとしてしまったのは確かだが、それはシロエと同じ景色を見てみたいという誘惑に負けたせいだ。
 トウヤという少年が、〈大地人〉の伝記作家(ダリエラ)の中に何を見たのかはわからない。正体が露見したとはおもわないが、トウヤという少年が特別な能力でダリエラの何かを見抜いたのは確かだ。
 濡羽(ダリエラ)は、あの年端もいかぬ少年に哀れまれたのだ。
 優しくしなくても良いよ。
 そう言われた。
 そんなささいなくだらないとも言える一言が、トゲとなって濡羽に食い込んだ。小さな痛みは無視出来ないほどに大きなものではなかったが、忘れてしまうには鋭く新しかった。
 トウヤという少年を、ミナミに勧誘してしまったらどうだろうと悪戯心が湧いたのは事実だ。シロエにかまってほしかっただけだった。しかしあの少年はシロエの〈記録の地平線〉にいるだけのただの背景ではなかった。幼いとはいえ、濡羽に立てる爪を持っていたのだ。戦場の空気を見てみてもそうだ。怪我を抑えて逃げてゆく〈大地人〉の瞳は輝いていないか? 心なしか空気にリュートの音色が混じってはいないか?
 シロエはやはり特別なのだ。シロエの瞳を借りてみれば、この薄汚れた掃き溜めのような世界も、別の色に見えるかもしれない。濡羽はそれを想像して、寂しく笑った。
 シロエの教えがあの少年の刃なのだ。小さな痛みもシロエへと繋がる絆なのだとおもえば、どこか甘美に感じられる。そして同時に羨望を感じた。シロエには何かを伝える相手がいるのだ。濡羽にはいない。
 しかし憎しみはなかった。朝靄の中で見たあの素直な少年の清澄さが濡羽から濁った感情を取り除いてしまったのかもしれない。

 どうせ、濡羽などはいないような存在である。
 〈アストラル・ヒュプノ〉の魔力でもとの姿が現れてしまったが、再使用規制時間(リキャストタイム)が満ちればまたダリエラの姿と名前を取り戻す。そのダリエラさえ偽りの姿だ。濡羽ですらそうなのだから。
 本物の自分などどこにもいはしないのである。
 幽霊のような自分の滑稽さに小さく微笑んだ。
 人を求め、求められたくて選んだ姿をうっとうしく思い、その姿から逃げだし、美しくも妖しい姿を得つつもその姿から逃げ出し、話しかけられるのも鬱陶しくて鋼鉄車両から姿を消した濡羽は、いままたその姿を変えてしまっている。
 我が事ながら支離滅裂で、その悲惨さと滑稽さは、目を覆わんばかりだ。
 なにを手に入れても砂のようにこぼれ落ちる呪いが濡羽にはかかっているようだった。余りにもすべてをかなぐり捨ててしまった濡羽には、もう、何を手に入れればいいのかもわからない。棄ててしまった何かが価値あるものだったとしても、もう濡羽は後悔さえも捨ててしまっている。
 そんな無明を唯一照らすのがシロエだ。濡羽の中のシロエはいつも横顔で、どこか遠くを見ていた。初めて出会った大規模戦闘の時の印象が強いせいだろう。言葉を交わすことが出来たいまでさえ、思い起こすシロエは遠くを見ているような表情ばかりを浮かべる。
 その思い出を抱きしめるように濡羽は胸の前で白く小さな手を握り合わせた。

「濡羽様っ」
 駆け付けて跪かんばかりに頭を垂れた騎士を濡羽は一瞥した。
 ロレイル=ドーン。普段は気障らしく切りそろえた金色の髪は乱れ、聖騎士の鎧すら薄汚れている。犬のように濡羽を求めて山野を駆け回っていたのだろう。浅ましいその姿に侮蔑を感じ、濡羽は黙った。
 濡羽を閉じ込めようとする名ばかりの親衛騎士団などにかける言葉はない。
 しかしロレイルは、その無言を別の意味で捉えたようだった。
「濡羽様、ここは多少危険です。濡羽様の静止魔法であれば大事ないかと思いますが、避難していただけませんでしょうか?」
「この町を取り巻く状況は? ミズファは何をしているの?」
 濡羽は尋ねた。
 この町の状況は異常だ。〈闇精霊の従者〉がこれだけ現れると言うことはミズファが〈赤き夜〉の兵力をこの町へ投下していると言うことだろう。〈鋼尾翼竜〉の出現も無関係とは思えない。
「この町はミズファ様の指示で戦場となっているようです」
「そう」
 濡羽は歩いた。
 地面を見つめ、小さくシロエの名をつぶやいて。
 取り立てて感想はなかった。
 どうでもいいと思ったからミズファの計画を承認したのだ。
 求められたから閲兵も行った。
 ミズファの思い描く夢はわかる。人は誰しも自分の世界を求めるものだ。自分自身の王国で人は王となる。ミズファの夢見る王国はミズファの振るう剣の下で身を横たえる犠牲のヒツジだ。むせるような血の香りで、ミズファは征服の事実を確認したいのだ。
 その夢は濡羽のそれに近いものだ。濡羽も自分の王国の中で幸せに包まれて暮らしたい。濡羽の夢は、ちっぽけなそれだけだ。幸せがみつからないからすべてを望んでいるにすぎない。
 だが、この町には、あの不機嫌そうな表情の少年がいる。
 濡羽に「笑ってなくても変な顔じゃないよ」などと手ひどい侮辱をした少年だ。
 その少年の滞在する街を、叩き潰してよいのか? と自問をすれば答えはおのずと出るだろう。
 濡羽はヤマトの主であり、ここは濡羽の庭である。

 激戦区を抜けるころ、奴隷のようにあとをついてくるロレイル=ドーンに濡羽は指示を出した。
「出来うるかぎり多くの〈鋼尾翼竜〉と〈闇精霊の従者〉を屠りなさい」
「はっ。……しかし、よろしいのですか?」
「〈西の納言〉の命令です」
 その言葉は高圧電流のような効果をロレイルにもたらした。
 平伏したまま飛びずさるロレイルは二言目もなく、一気に町へと駆け出してゆく。
 ロレイルの甲冑をふりかえって、濡羽は時間が来たのを知った。自分の影がもやもやと姿を変えていき、九つの尾は空気を撫でるように姿を変えてゆく。効果が停止していた〈情報偽装〉が再起動し新たな姿を形作っていく。
 濡羽の時間はおわり、ダリエラが帰ってくるのだ。
 その曖昧な境界線で濡羽は微笑んだ。いつもの投げやりなそれではなく、自分がちゃんと微笑を浮かべていることに驚きをおぼえながら、濡羽は久しぶりにギルドマスターとしての命令権を行使する決意をする。
「シロ様。――わたしもあの子たちに少しだけ助力をしましょう。短い日々でしたが、旅の仲間として遇してくれましたからね。シロ様は気づくでしょうか。邪魔だと思うでしょうか。あるいはよくやったと……? これはただの気まぐれ、贈り物ではありません。ですから、はやく……濡羽は、シロ様の声が、聞きたいです」
 長く伸びた影から九つの尾が長く伸び、鴉と羽毛のエフェクトとして飛び去ったあと、そこにいるのは穏やかな風貌のひとりの〈大地人〉物書きだった。

 彼女は戦場に降りしきる白い燐光の中で、小さなハミングを始めた。
 それもまた〈大地人〉の知らない、地球の流行歌だった。



 ◆




「カズ彦っち」
「久しいな、班長」
 着込襦袢(きこみじゅばん)襠高袴(まちだかばかま)陣羽織(じんばおり)をまとった浪士風の青年、カズ彦はにゃん太の記憶よりもずっと大人びて見えた。しかめられた眉の間のしわは、カズ彦の苦悩をはっきりと写している。
 むかしから責任感はある青年だった。
 〈茶会〉の攻撃指揮を務めていたのがこのカズ彦なのだ。

「そこをどくにゃ、カズ彦っち! 正さねばならないことがあるにゃ」
「いいや退くわけにはいかねえ」
 カズ彦は一歩を踏み出したにゃん太の足元に鋭い斬撃でもって亀裂を入れる。
 にゃん太は止まらなかった。かつては共に過ごしたカズ彦の変わり果てた姿に、その眼を炯炯と光らせて詰め寄った。カズ彦はそのにゃん太をおなじほど強い瞳で睨み返した。
「こんなことにかかわっているのにゃ?」
「渡世の義理さ」
 吐き捨てるようにいったカズ彦は、にゃん太の知っているかつての同志でありながら、別の男でもあった。断固たる意志をのぞかせる瞳は、同時に暗く淀んだ色をしていた。それは割り切れない思いのままに突き進み、幾つもの傷を抱えてしまった男の姿だった。
 にゃん太はシロエからカズ彦の現状のおおよそは聞いていた。
 〈Plant hwyaden〉において内側からの健全化を担っているのだとシロエは言っていた。しかし、カズ彦の瞳は、とてもではないが「健全化」などと呼べるような色をしていなかった。強い憤りと悲しみを飲み込んで、泡一つ浮かばない底なし沼のような、それでいて鋼にもにた硬質な意思を放っていた。

「だるいんだよ〈冒険者〉(あんたら)は。いつだって優しい限りだ。〈赤き夜〉作戦はすでにして成っている!! だから〈冒険者〉(あんたら)はこの世界の主役になれないのさ――。さあ眠りなよっ! どうせ死なないんだろ!?」
 しかしそんなにゃん太とカズ彦の邂逅はミズファにとってはただ時間の浪費であるだけであったようだ。カズ彦にとどめられていながら、身体ごと巻き込むような剣戟を仕掛けてくる。
 ミズファの曲刀をはじきながら、にゃん太はカズ彦から引きはがされる。
 かつての仲間の真意を問いただしたいこの時に、この女将軍はどこまでもまとわりついてきた。
「あんただったら〈死霊が原〉(ハデスズ・プレイス)〈九大監獄〉(ヘイロース・プリズン)も駆け抜けられるんだろうねえ」
「駆け抜けてきたにゃ」
 懐かしい〈放蕩者の茶会〉(ティーパーティー)の日々でそれは過ぎた夏の午後のような記憶だった。記憶の中のそれはただただ輝かしくきらめいている。だが、にゃん太たちにとって冒険の日々も、ミズファにとっては違うものなのだ。赤い唇に彩られた美しい唇を、屈辱と瞋恚に歪めて彼女は笑う。
「ああ、そうだろうとも、あんたの剣、長靴、手袋にいたるまで。したたるほどの魔法の力を感じるよ! あんたにみなぎる無敵の力と共にね! あたし等は、そういうのないからねえ」
 その笑みの意味をにゃん太は理解出来なかった。
 にゃん太もまた、アキバの街の住民であり、〈大地人〉のもつ強かな悪意においては、子どものように無垢だったのだ。それを次の瞬間、思い知らされることになる。
 きらめくような剣舞だった。
 ミズファという〈大地人〉離れした戦士と、二つの細剣(ツインレイピア)をあやつる〈冒険者〉のなかでも最速の誉れ高い〈盗剣士〉(スワッシュバックラー)であるにゃん太。
 その攻防はどちらにも浅い傷を刻みつつ、しかし致命的な破たんを見せぬままに三合、四合とつづいた。見方によればそれは一対の息の合った番であるかのようですらあった。
 しかしその終端は唐突に訪れる。
〈冒険者〉(あんたたち)は強いね。ああ、強い。強い。でもだめさ。――あんたらの優しさはあんたらを殺す。助けたいその気持が〈大地人〉を殺すのさ! さあ、どうするんだい!?」
 ミズファはにゃん太の剣の先に、白い喉をさらけ出したのだ。
 にゃん太の剣は止まらない。高速の攻防はにゃん太からそんな余裕を奪っていたのだ。ミズファののどをにゃん太が貫くその寸前に、その剣を掴んだのは数多のレイドを駆け抜けた盟友、カズ彦だった。
「ミズファ。もう終わりだ」
 なれなれしく前に出るミズファを、カズ彦は広げた左手で制した。
 視線だけをにゃん太に向けたままクチを引き結んで、何かを訴えかけている。
「何をふざけたことをっ! カズ彦、あんたはただのお目付け役だ! 十席のおきてを忘れたのかい?」
「濡羽からの命令さ。たったいま|〈Plant hwyaden〉《プラント・フロウデン》への最上級命令が下った。撤退だ。作戦は中断する」
「カズ彦っち!」
 にゃん太のかつての仲間の声は冷たい泥のようだった。
 その一事だけでも〈Plant hwyaden〉という組織を、にゃん太は許したくない。
 しかしその〈Plant hwyaden〉を指導している一人がカズ彦でありインティクスであり、つまりはにゃん太の昔の仲間なのだ。
 何があったのか。
 にゃん太は忸怩たる思いと苛立ちをかみしめる。
「〈Plant hwyaden〉は何を考えてるにゃ、カズ彦っちはなにを――」
「ご託はいいんだよッ」
 一歩踏み出しかけたミズファ、そしてにゃん太に向かいカズ彦は抜き打ちざまに一刀を放った。白々と冴えるその刀の衝撃は大地を割るほどで、おそらく〈エクスターミネイション〉と呼ばれる暗殺者の一撃ではあるのだろうが、その威力はにゃん太から見ても逸脱していた。
 〈冒険者〉の域をはみ出ていたのだ。
「これがまだましなんだ」
「……」
 声を出すことが出来ないにゃん太に、カズ彦は食いしばるような言葉を残すと、広い背中を向けた。それはかつて仲間だった〈放蕩者の茶会〉にもおとずれた、この世界を覆う暗雲のようににゃん太には感じられた。
「班長が――〈大地人〉を殺さずに済む」
「……」
 カズ彦の言葉はかつての友のものであり、だからこそ限りなく苦かった。


 ◆


  ただひたすらに弦をかき鳴らした。
 喉も枯れよと叫んだ。
 偽物だろうが本物だろうが構わない。五十鈴は知っている限りの歌をうたうのだ。
 走って、走って、通りを駆け抜けて、五十鈴は今、八分音符になって茜色の夕日の中で弾けた。アーチ状の四連符に、和音白玉のストローク。五十鈴の足音はスネアで、心臓はバスドラムだった。
 〈バルド・スタイル〉で強化された持久力に任せて五十鈴はうたった。
 奏でるレパートリーは七色の調べとなって空間を満たした。
(〈囚われた獅子のダージュ〉!!)
 うねるような音階の奔流に〈闇精霊の従僕〉の一団が、油切れの機械人形のように動きをとめた。五十鈴は一瞥さえしない。空白となったソロパートには、五十鈴の相方が滑り込んでくるのがわかっているからだ。
「〈オーブ・オブ・ラーヴァ〉ッ!」
 荒っぽいリフはメロディアスというよりはドラムソロのようだった。間奏をはさんでCメロに移るときには、〈闇精霊の従僕〉はすでに虹色へと変じている。

 野ウサギの兄妹のような〈大地人〉が、地下室から覗いている視線と目が合った。
 固く身を寄せ合った二人は、泣きそうな顔をしていた。
 こんな戦闘に町が巻き込まれ、逃げ出せる場所もないのだ。情けない形で半分開いた口は、怒りよりも絶望よりも、茫然としているように見えた。〈オデッセイア騎士団〉の一人が通りで倒れて、ふたりの前で虹色になった。
 あの兄妹の前でいま世界は崩れ落ちたのだろう。救ってくれる希望は潰え去った。
 五十鈴はそんな光景にメロディを叩きつけた。

(何もできないけど、歌うよ)
 声を張り上げた。
 無理な声量を振り絞り、喉がひりついた。それでも加減しようとは思わなかった。
(わたし、ちゃんと見てるよ)
 そんな気持ちを込めてフレーズを作り出した。
 五十鈴にできることは本当に何もないのだ。リュートを奏でて、叫ぶことだけ。
 〈闇精霊の従僕〉の魔法を回避しながら、五十鈴は二人に頷きかけた。兄妹はウサギのように駆けていった。胸をなでおろしながら、見送るために、支えるために歌をうたう。
 歌なんてちっぽけなものだ。五十鈴一人ががむしゃらに暴れたところで、さっきの兄妹を救える保証なんてどこにもない。この町全体で言えば、数多くの犠牲が出てしまっているのが現実だ。五十鈴が歌っても、それはもう変わらない。ジョン・レノンは好きだけど、音楽で世界平和は無茶だと思う。
 五十鈴を救ってくれた音楽は、偉大な演奏家の名曲たちは、たぶんそのくらいの事しか出来ないのだ。
 その認識ははてしなく苦く、平和な世界で揶揄していたのとはまったく別の重みでもって、五十鈴を傷つけた。五十鈴はもちろん、五十鈴の父のギターだって、清志郎の歌だって世界を救うことは出来ない。
 そんなことは当たり前のことだ。
 普通の女子高生の五十鈴にだって知っている。
 だが五十鈴は彼らが拳を振り上げる意味を考えたこともなかった。ただのファッションだとさえ感じていた。
 しかしいまなら少しだけわかる気もするのだ。
 それはやせ我慢の強がりだ。拳を振り上げないとくじけてしまうから振り上げるのだ。俺はここにいるぞと叫ぶためにかき鳴らすのだ。ちゃんと見ているぞと報せるために歌うのだ。お前たちのことを知っている、お前たちの気持ちを知っている。ちゃんと届いているという祈りが歌なのだ。

 負けるからなんだというのだ。
 救われないからなんだというのだ。
 それでくじけるようなら歌なんて最初いらないではないか。
 もう一度立ち向かうために歌は必要なのだ。
 五十鈴はずっと音楽に抱きしめられて生きてきた。
 誰にわかってもらえないときでも、音楽は自分をわかってくれているように思えた。一人ぼっちで孤独な夜、ミュージックpodから聞こえてきたバラードは、まるで自分のことを歌っているように思えた。楽しいとき、古いロックナンバーは五十鈴をどこまでも続く海岸線の高速道路のドライブへと連れ出してくれた。
 数多の曲に包まれながらも、五十鈴は歌い手のことをよくわかっていなかった。
 いまならわかる。きっと彼らも、五十鈴に伝えようとしてくれたのだ。お前の気持ちはわかるぞ。俺も同じ気持ちで歌ってる。くじけるな、がんばれ! と叫んでくれたのだ。だって、どうせそれくらいしかできないのだ。五十鈴の歌は無力だが、五十鈴の槍だって同じくらい無力なのだ。きっとこの世界は救われたりはしない。
 しかし五十鈴は止まらなかった。
 神様にケンカを売るために駈け出したのだから。
 ルンデルハウスの魔法に包まれて、翼ある靴で町を駆けた。
 五十鈴の助けを待っている仲間の元へと駆けつけるのだ。理不尽に拳を突き立てて跳ね返されたトウヤのもとへ。ルンデルハウスの放った氷河のような魔法に飛び乗り、二人は駆けた。

 いまでも五十鈴は特別な才能があるなんて言えない。
 力任せの歌声は透明さが足りないし、メロディを追いかけるだけの指先はもつれたりもする。それは誰でもない本人がよくわかっている。だから、プロになるなんて言えない。音楽で食べていくなんて考えるだけで怖くて足が竦みそうになる。
 でも、五十鈴はきっといまの瞬間を一生忘れない。
 蛮勇を振り絞って歌い始めたこの夕暮れを忘れない。
 音楽の人(アーティスト)になるなんて言えないけれど、一生音楽を好きでいるということは約束出来る。それが五十鈴の精いっぱいで、本当はそれで充分なのだ。
 天が怒号を発するような破裂音を立てて電光が走った。積層魔法陣を腕の一振りで消してルンデルハウスは五十鈴の横へと追いついた。五十鈴の密かな決意なんてきっと知らない青年の横顔が五十鈴の心を温めた。
 ルンデルハウスは最初から言っていたのだ。〈冒険者〉になりたい、〈冒険者〉のようにありたい、と。それは職業ではなく、生き様の話だ。ルンデルハウスは例え〈冒険者〉がどんなに割に合わない職業でもちっともかまわないだろう。理不尽と戦うためにその生き方を選んだ金色の青年は、五十鈴がやっとたどり着いた答えを最初から知っていたのだ。
(ううん。ルディがわたしを引き寄せてくれた)
(わたしの歌をわたしにくれた)
 父の薄く笑うような、どこか自分自身を鼓舞するような言葉を思い出す。
 いま考えればあのセリフは五十鈴に向けられただけのものではなかった。苦さと後悔を秘めて、それでも一生音楽で生きていくと決心したひとりの音楽家の言葉だったのだ。
(パパの言うとおりだったよ。わたし、才能なかった。才能があるかないか考えてるなんて、ぜんぜんロックじゃなかったよ)
 小さく笑いがこみ上げてきた。

「五十鈴ちゃーん!!」
 メンバーが増えた。真っ白い狼を連れて走り寄ってきたセララに頷いて、リュートヘッドを振り回した。あちこちから戦いの音が聞こえた。疲れたような剣激や、帰る道を見失ったかのような攻撃魔法の詠唱が。しかしそれでも町は残照に染まり美しかった。
「ミスセララっ」
「ありがとうっ」
 不器用に二三度つまづいて、それでもルンデルハウスの飛行呪文で(かかと)をうかせたセララは真剣な顔でけんけんをすると、照れ隠しにちょっと笑った。五十鈴の中に暖かいものがどんどん膨らんでいく。
「大丈夫です! ここから西の建物は、全部検索しました! ウルフちゃんのお鼻で〈大地人〉の人はみんな避難してもらいましたからっ」
 立て続けに演奏をつづけている五十鈴は快哉を叫びたかったが、その気持ちを歌に乗せた。

 突然天に光が充ちた。
 初めて見るような魔法の輝きに三人はそちらをみつめ、すぐにわかった。
 高らかな叫びがパーティー念話(チャット)から聞こえてきたからだ。三人ははじかれたように駆けだした。あの輝きの下にロエ2とミノリが、そしておそらくトウヤがいる。
 五十鈴はトウヤの痛みがわかる。「こんな世界が本物であるはずがない」という悲痛な叫びをトウヤは聞いてしまったのだ。そして五十鈴たちもまた、その叫びをパーティー念話で共有した。叫んだ方が傷ついているのがわかる、張り裂けそうなほどの悲しい声だった。
 その悲しみが、五十鈴の敵なのだ。
 それを倒すことこそが、神様へのケンカだった。
 勝ち目はないかもしれないけれど、戦わずには済まさない。あの輝きの下には仲間(トウヤ)がいる。
『兄ちゃん、さがれよ!』
『だまれっ。邪魔をするな、これは〈オデッセイア騎士団〉の闘いなのだ』
『下がらないよ! 〈木霊返し〉っ。絶対に、兄ちゃんを投げ出してなんか、やるもんか!』
『お前みたいな子供に、何がわかる!』
 近づいてくるトウヤの叫びが聞こえた。
 五十鈴はその声にほっとして、ルンデルハウスとうなづき合った。
「もう大丈夫だ」
「うん!」
「トウヤちゃんは、負けてません!」
「うんっ」
 きっと傷だらけだろう。〈オデッセイア騎士団〉を説得出来てもいないだろう。
 でもトウヤはガレキの中でうずくまったままではいなかったのだ! 立ち上がり、再び食らいつき、〈オデッセイア騎士団〉のとなりで戦っている。
 それだけで、もうトウヤは負けてない。
 セララの言うとおりだ。全然負けてない。直ぐにでも助けにいこう。それで全然上等だと五十鈴は思った。
「トウヤ! 僕が行くまで、ミスるんじゃないぞ! この〈冒険者〉ルンデルハウス=コードが加勢してやるからな!!」
 ルンデルハウスの雄叫びに小さな微笑みさえこぼれる。
 トウヤの声を聴いたとたんに、元気百倍ではないか。強気のルンデルハウスに早変わりだ。五十鈴を心配してくれる大人びたルンデルハウスも可愛いけれど、今のルンデルハウスはすごく男の子だ。リードを放せばきっと地平線まで駆けてゆくにちがいない。
 わたしも同じだと五十鈴は思った。
 ルンデルハウスみたいにまっしぐらに駆けてゆきたい。
 もう少し、あと少しでたどり着く。

「いい加減にしないと、お前ごと〈オンスロート〉の餌食にするぞっ」
「やればいいじゃないか! でも俺は退かないからなっ」
 角を曲がりそこはすでに朱に染まる河だった。炎上し砕け落ちた橋には何頭もの飛竜がシルエットとなって突き刺さっている。逆光の中で戦うのは力をつけてより禍々しくなった〈闇精霊の従者〉の一団と、オデッセイアの騎士、そしてトウヤだった。
「ここが、俺たちの死に場所なんだ。黄泉への道を、さえぎるなっ!!」
 五十鈴の肺腑が燃えた。
 ふざけるなという叫びが両足にこもって翼になった。
 目尻に涙が一杯に溜まり視界がぼやけたが、それは悲しさのためではなかった。
 真っ白い光の中でリュートを奏でたこの世界は、
 仲間と一緒に長い旅をしてきたこの世界は、
 ルンデルハウスと出会ったこの世界は。
 黄泉への道などではない。

 だからいまこそ五十鈴は四十三番目の歌を歌うのだ。
(なんだか、格好悪いとこある歌なんだけど)
 それでもそれは五十鈴が初めて作った曲だ。
 ちゃんとわかるよと伝えるために、あなたを応援するよという気持ちを込めて。誰が認めなくても、五十鈴だけはこの世界を祝福する。神様が作らなかった四十三番目を、そしてもっと多くの歌の種をこの世界にばらまくのだ。
 戦闘になだれ込む仲間たちの先頭にミノリが見えた。一足先にトウヤの元へたどり着き、守っていたのだ。その脇には白いケープマントを翻すロエ2がいる。大きな鳥のようなロエ2は、肩越しに振り返って頷いた。ルンデルハウスも、セララも、ミノリも五十鈴と視線を交わした。
「君のことは僕が守る」
「ルディになんか、守られてあげないよ」
 短いやりとりだけで五十鈴の胸は勇気で満タンになった。エネルギーメーターは100%。なお高らかにつま弾いたイントロは今日最高の音を立てた。真っ赤に染まる空は五十鈴を急かしているようにも、永遠を祝福するようにも感じられた。
 最初の一言を、五十鈴は祈るような気持ちで押し出した。
 水面を跳ねるようなリュートの煌めきが踊るたびに、七色の音符が世界を励ました。いま、五十鈴が応援するのは、戦場にいるすべての〈冒険者〉、そして〈大地人〉。
 新しい音色と五十鈴の歌は、世界に魔法をかけた。
 波紋のように広がる(うた)世界(セルデシア)に承認を受けて産声を上げた。指先から卵ほどの大きさの小石が浮かび上がった。あらゆる場所でリスのように踊り出すそれらは即席の防御となって、戦場のすべての攻撃に体当たりをして、魔法をそらそうと努めた。

 本当にちっぽけな詩だった。所詮は小さな石が踊るに過ぎぬそれは効果も小さく、僅かな足しになるかどうかも怪しかったが、五十鈴は詩を諦めなかった。
 限られているからこそあがくのだ。
 もどかしいからこそ胸を熱く焦がすのだ。
 いま誰にも届かないかもしれないという絶望は、いつか誰かに届くかもしれないという祝福そのものだ。そんな理屈を必要とする自分は弱虫かもしれないと五十鈴は思ったけれど、でも希望ひとつで世界の果てまでだって歩いて行ける。それがロックだ。
 いま五十鈴は音楽(43)なのだ。世界は五十鈴のものだった。
 茜色に染まる空に明るいレモンイエローの音符をぶちまけた。
 誰にでもこの旋律が届けばいい。星屑のように砕け散りふりそそげ。無力に憤る〈大地人〉にも、故郷を求めて子どものように泣いている〈オデッセイア騎士団〉にも。
 命尽きる時、(そら)へと浮かぶあのシャボンの光の七色は、そういえば音階の七色と同じなのだ。五十鈴はその相似に小さな驚きを味わった。
 日が沈むころ、七色の輝きは途切れ、あとは月へ向かって登っていくだけだった。



 ルンデルハウスたちがその町を離れたのは戦闘の翌日のことだった。
 話し合ってこれ以上の旅を断念したのだ。さまざまな出来事があり、それらをギルドに報告しなければならないと言うことで意見は一致したし、〈鋼尾翼竜〉(ワイヴァーン)を倒したことで〈魔法の鞄〉(マジックバッグ)の素材を得るという、当初の目的を果たすことが出来たからだ。
 目的を中心に考えればルンデルハウスたちの旅は成功したと言えるだろう。
 しかし、苦いものは残った。
 町の北側は戦場となってしまい廃墟ビルや橋の倒壊を含めてサフィールの町の被害は大きい。〈大地人〉の犠牲者も数十人規模で発生してしまった。
 ルンデルハウスからみれば痛ましいことではあるが、珍しいことではない。そもそもこの過酷なセルデシア世界において、〈大地人〉の生とははじめから試練の連続である。ルンデルハウスの故郷も、いまは灰の下で眠っている。
 〈大地人〉は自分たちの被害をことさら隠しもしなかったし、騒ぎ立てもしなかった。ルンデルハウスが心配していたのはその点で、責任感の強いトウヤとミノリの兄妹や純真なセララ、そして優しい五十鈴が〈大地人〉の死にふれて己を責めないかと危惧していたのだ。
 だが、不思議と町の雰囲気は暗くはならなかった。
 〈大地人〉は支え合うのになれていたしこの町にはまだ多くの希望があった。中心部は無傷のまま残ったし、町の基幹産業である漁業と街道交易はダメージを受けていない。サフィールの町は痛手を受けたが、立ち上がることが出来るということなのだろう。

 戦闘の翌朝、ロエ2とダリエラは別れを告げたあと旅だった。
 急ではあったがモンスターが現れたのだ、判断を後回しにするよりは目的地に急ぐべきなのは当然で、ルンデルハウスたち一行は朝靄の中、旅立つ二人を見送った。ロエ2はすっかり馴染んでいたので、セララなどは抱きついていたほどだ。
 不思議な女性だった。
 彼女の使う召喚魔法は、ルンデルハウスが見たことの無いようなものも多く含まれている。ルンデルハウスは〈大地人〉としては非常に優れた魔術師であり、宮廷魔術師や大魔道士に匹敵する戦闘能力や知識を蓄えている。しかし〈冒険者〉としてはまだ中級にさしかかった程度であり、アキバの街に起居しているとは言え、すべての魔術を知悉したとは言い難い。
 しかしそれでも、ロエ2の操る死霊魔術は珍しく、鮮烈な印象を残した。死霊魔術の使い手はアキバにもいるが、彼女ほどの使い手には始めて会う。膨大な魔力と判断力、卓越した戦闘センス。彼女が召喚した剣の姫(ソードプリンセス)は、剣の精霊と言うよりは、死せる姫のように典雅だった。
 ロエ2はミノリに手紙をわたし頼み事をしたようだった。
 その時点でルンデルハウスはあっさりと考えることを放棄する。ミノリはルンデルハウスの知る限りほとんど最優秀の指揮官だし、親友トウヤの双子の姉でもある。ミノリが必要だと判断すればルンデルハウスにも協力の要請があるだろうし、もしタイミングを逃してしまい危地が訪れたとしても助けに行けばいい。もっともミノリの表情を見る限り、それは驚くような知らせではあるけれど、けっして悪いニュースだとはおもえなかった。
 別れの言葉は「また」だった。短いがそれは再会の約束だ。
 ルンデルハウスたちも「絶対に」と約束をした。

 どちらかと言えばもう一人の旅人の方が、ルンデルハウスから見ればある理由で気になった。〈大地人〉の物書き、ダリエラだ。この美しくもたおやかな淑女はイコマまで向かうのだという。幾ら旅慣れているとは言え、女性ひとりでは難しい旅になるのではないかと心配したのだが、サナルまでいけば護衛のあてがあるらしい。
 ロエ2とは違い仲間であると言うほどに馴染まなかったこの女性は、別れに際してロエ2がセララやミノリ、五十鈴たちに囲まれているあいだ、静かに微笑みながらそれを眺めていた。それは、貴族の家の末端に生まれたルンデルハウスから見ても、穏やかで貴族的な態度に見えたが、アキバに染まったいまとなっては多少よそよそしい印象を受けるものでもあった。
 いずれにせよ二人の女性は別れを告げて旅立っていった。彼女たちは西へ、ルンデルハウスたちは東のアキバへと向かう事になる。
 ダリエラはあの柔らかい笑顔で「どこかでまた会えることを願っています」と別れを告げ、ルンデルハウスたちも返事をすることが出来たが、トウヤだけはどこか硬い表情のままだった。

 二人を見送ったそのあと、復興を急ぐ町の中心部に向かってゆっくりと歩きながら、ルンデルハウスはトウヤに問いかけた。
「あのまま行かせてしまって良かったのかい?」
「なにが?」
「ミス・ダリエラのことさ」
「ああ」
 トウヤは空を見上げ、ルンデルハウスもつられて顔を上げた。
 あんな戦いがあった翌朝だというのに、空は晴れ渡り、青が透き通っていた。
 三月の潮風にふかれて無言で歩く二人の耳に、先行する三人の少女たちの他愛ない会話が聞こえる。もうすでに耳に慣れた、仲間たちの声だ。親友トウヤの隣を歩き、仲間たちの声をきくこの瞬間、ルンデルハウスは自分の居場所を感じた。年若い仲間たちを守る義務がルンデルハウスにはある。
「いいんだよ」
「そうか」
 好きだったんだろう?
 と、ルンデルハウスは聞かなかった。もしそうであってももう見送ってしまったのだし、そうでないのなら失礼に当たるだろう。恋愛ごとというのはルンデルハウスには難しい。女性が考えることであって、紳士はもっと悠然と構えるべきだという思いもある。
 トウヤは年上の異性に呼びかける時、いつでも「姉」という呼称を用いる。男性ならば「兄」だ。トウヤをなじった〈オデッセイア騎士団〉の〈冒険者〉にさえ、トウヤは「兄ちゃん」と呼びかけるのを躊躇わなかった。
 そんなトウヤがはダリエラのことは一度も「姉ちゃん」とは呼ばなかった。だから、つまり、そう言うことなのだろうとルンデルハウスは思う。ルンデルハウスはまだその胸の痛みを知らないが、トウヤの横顔は、旅に出た時よりもずっと大人びて見えた。
「あのさー。ダリエラさんさあ」
 トウヤは空を見上げて、独り言のように続けた。
「爪、ぎざぎざなんだよ。苦しすぎて、噛んだみたいに」
 ルンデルハウスは気がつかなかった。たぶん、五十鈴やミノリ、セララもそうだろう。トウヤは気がついた。ルンデルハウスは気がついた時のトウヤの気持ちを想像し、爪を噛んだ〈大地人〉淑女の気持ちを想像した。そこにはルンデルハウスの知らない苦しみがあり、トウヤはその痛みにふれたのだと思った。
 なにかをアドバイスじみたことでも言おうかと考えたが、ルンデルハウスはやめた。
 そこまで踏み込むほど自分は賢者ではないし男女の機微に明るいなどという自身はさらにない。それに、ルンデルハウスの親友トウヤは武士(もののふ)である。トウヤがよいと決めたならば、それはよいことなのだろう。
「ふふん。まあ、トウヤ。悩み事があるなら、このルンデルハウス=コードに相談でもするんだね」
「いやルディ兄ぃには相談しないし」
「なんとお!」
 トウヤはひとりでちゃんと納得したらしかった。いつもの素直な笑顔だったので、ルンデルハウスも明るく答えることが出来たのだ。

 旅の準備を整えて宿を出るのは、もう、午後になっていた。
 旅立ちを急いだのはルンデルハウスの意見で、仲間には言わなかったが、〈大地人〉の苛立ちや中傷が仲間に向けられないとも限らなかったからだ。
 ルンデルハウスたちは必死に戦ったが、〈オデッセイア騎士団〉が町を盾にしたのは事実である。
 ルンデルハウスはいま、〈大地人〉であり〈冒険者〉でもある。
 だから両方の気持ちがわかってしまう。〈オデッセイア騎士団〉に〈大地人〉を守るような義務はない。それは彼らの信念ではなかったし任務でもなかったのだ。彼らは彼らのやりたいようにやる自由があったし、別に〈大地人〉をその手にかけたわけでもない。〈オデッセイア騎士団〉がいたことで救われた〈大地人〉は、おそらく相当数に登るだろう。少なくとも戦闘初期の段階において、この町の被害のほとんどは彼らが食い止めてくれたのだ。
 しかし、心はそういう風に納得しないものだと言うこともルンデルハウスは知っている。自分が理不尽な災害に遭い、その場に助けることが可能な実力を持った人間がいた時、期待してしまうのは無理からぬ事だ。〈冒険者〉があれだけいたのになぜわたしの家族を助けてくれなかったの? その嘆きは、ルンデルハウスにはよくわかる。悲嘆のあまり、恨み言を叫んでしまう〈大地人〉はきっといるだろう。
 それをぶつけられたトウヤやミノリは胸を痛めるだろうし、セララや五十鈴も傷つくだろう。そしてそんな事を言ってしまった〈大地人〉も結局は傷つく。だから、いまは早めにこの町を離れた方が良いのだ。
 馬車はおいていくことになってしまうが、いまなら徒歩の旅だって十分可能である自信は、ルンデルハウスたち全員が持っている。
 現実的な問題として、町は復興しなければならない。ルンデルハウスたちにかまっている余力もないだろうし、宿屋は西からの援助をうけいれるそうだ。場所を空けた方が良いというルンデルハウスの説得は素直に聞き入れられた。
「もう、おしまいかあ」
「最後に大変でしたね。この町、大丈夫かなあ」
「心配することはない。ここは赤土の街道の要所だ。すぐにでも復興するさ」
「でも、わたしたち」
 ルンデルハウスは五十鈴の肩に手を置いた。
 五十鈴の表情が曇っているのは、犠牲者のことを思ってだろう。その気持ちはわかるが、ヘーゼルナッツのような髪の歌い手が、そんな風に沈んでいると、ルンデルハウスはとても落ち着かないような気分になるのだ。理不尽なことだが、ルンデルハウスは彼女の笑顔に責任を感じる。
 それというのも、あの後大神殿での暴力的な宣言が影響しているようなのだ。半ば強制であるとはいえ、ルンデルハウスは彼女の加護下に入ったらしい。納得したわけではないが、それでも約束は約束だ。彼女の側にいて、その笑顔を守るのは義務である。
 だから、ルンデルハウスは彼女に何か声をかけようとした。
 しかし風に乗るささやきのような声でそれをやめた。それどころか、息を潜めさえした。

 遠くからあの歌が聞こえる。
 耳の良い五十鈴はもちろん気がついて目を丸くしていた。
 あの戦いの中で五十鈴が歌った、五十鈴だけの、それは音楽だった。
 空から鷲獅子(グリフォン)が舞い降りて、セララが駆けだした。ミノリとトウヤが一拍遅れてそれに続く。明るい喜びの声が仲間たちの暗い陰を洗い流した。
 しかし、五十鈴とルンデルハウスは町から響く小さな子どもの歌声にいつまでも耳を傾けていた。今回のツアーの終着点は、この町だった。無力なルンデルハウスたちの限界が旅路の果てに現れたのだ。
 しかしあの歌はきっとさらに西へと向かうだろう。五十鈴の歌は無力でも無意味でもないのだ。そのことを伝えようとしたが、五十鈴の瞳は流れ落ちてしまうほど涙で一杯だった。涙もろい相棒のために、ルンデルハウスはハンカチを差し出した。
 サフィールの町に響くのは世界と五十鈴の、生誕歌(バースデイソング)なのだ。

なんか今回はいろいろあるのですがWeb版であとがきってのもなんなので、あとで活動報告でも。
+注意+
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