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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

Route43

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「は……。え?……」
 言葉にならない溜息のような音が漏れるのを五十鈴はどこか他人事のように聞いた。
 ルンデルハウスの言っている言葉の意味が、良く、わからなかった。
 わかりたくなかった。
「僕たちにはそれだけしかないんだ。音楽が。もちろん耳になじみのある古くからの旋律だけど、でも、ほかの音楽はない。僕が生まれたときからそうだった。たぶん、ずっと昔からそうだったんだ。そしてそれを当たり前だと思って、疑問も抱かずに生きてきた」
「ルディ」
〈冒険者〉(キミ)たちが現れて、さまざまなことが起きて、恐ろしいことも悲しいこともたくさん起きたけれど、けど同時に、素晴らしいこともたくさん起きた。料理には味というものが見いだされ、見たことも聞いたこともないような品物が市場にあふれ、そして胸が高鳴って叫びだしたくなるような音楽が産まれた」
「でもそれは」
「そして〈冒険者〉(キミ)たちは、五十鈴は、それを何でもないかのようにプレゼントして回った。〈冒険者〉も〈大地人〉も区別しないで曲を奏でた。覚えているかい? 〈ブルームホール〉を。あそこの給仕の娘はみな熱心で、でも、定期的に入れ替わるだろう? あのホールの給仕は〈大地人〉の間で人気の職なんだ。だから定期的に交代しているんだよ。酒代を握りしめてホールに通う若いエルフが何人もいるのを知っているかい? 彼らは旅の歌い手(バード)だ。〈ブルームホール〉で新しい曲を覚えて、必死に覚えて、ヤマトのあちこちへ伝えに行くんだよ」
 五十鈴は自分でもわかるほどに取り乱した表情をしているのに気が付いた。
 膝の上で必死に握りしめたこぶしが震えて、爪をくいこませていても痛みが遠く現実感がない。
 耳と目が、ルンデルハウスの語る言葉に吸い寄せられて、五十鈴に理解を強いていた。

「覚えているかい? 旅に出てからの酒場や宿屋を。五十鈴がちょっとした曲を披露しただけで、みんな涙を流すほどうれしがっていただろう? 本当にうれしかったのだ。聞いたこともないような明るくて騒々しい曲だった。楽しい気分になって踊りだしたり駆け出したくなる曲だ。あるいは大事な誰かと一緒にいたくなり、身近な人に感謝をうちあけたくなる曲だ。そんなものを僕たちは聞いたことがなかった。それを持ってきてくれたミス五十鈴は、ヒーローだった。ありがとうという言葉は不便な言葉だ。簡単すぎてどんなに感謝してもそれ以上の言葉が出てこない。でも、みんな、本当にうれしかったんだよ」
「ルディぃ」
 五十鈴は頬を伝う涙をぼとぼととこぼした。
 さまざまな感情が渦巻いて、言葉にならなかった。
 もちろん求められてうれしかった。褒められれば得意になってしまいそうな気分もある。でもそれは全体からすればちょっぴりだ。
 否定したい気分のほうが、よほど大きかった。
 五十鈴のようなアマチュアの演奏にそこまで本当に感動してくれた、させてしまったという罪悪感があった。五十鈴は、そういう意味では、少しも本気ではなかったのだ。もちろん大好きな音楽だ。声も枯れよと歌ったし、腕も折れよとばかりにリュートを爪弾いていた。でも、それが〈大地人〉たちの感じている感謝につりあうかと言えば、とてもそうは思えなかった。
 なんてひどい話だろうと五十鈴は思った。
 生まれたときから四十二しか音楽を持たないだなんて、ありえない。
 そんな世界はあり得ない。
 ではだとすれば、彼らは寂しい夜にどうすればいいのだろう? あるいは友達を祝うときに。嬉しくて叫びだしたいときに、劣等感に苦しむときに。
 歌がなくて、どうして生きてゆけるのだろう?
 五十鈴は楽しさの中で、ただ楽しくてライブを繰り返していただけなのだ。誰かが生まれて初めて聞く音楽という、他人の人生を変えるような、すべてを変えてしまうような、そんな何かである覚悟も気概も、五十鈴にはひとかけらもありはしなかった。

「だって、あたし」
 言葉は詰まった。
 胸の中ですべてが膨れ上がって固体化してしまったように何を話していいのかもわからなくなり、こぼれる涙に背中を押されて声が出ただけだ。ルンデルハウスはそんな五十鈴の視線を静かに受け止めてくれていた。
「あたし。偽物で」
 そんなつもりはなかったのだ。
 〈大地人〉がどんな気持ちだったかなんて、今まで考えたこともなかった。
 五十鈴は声にならずに、情けなくうめいた。
 自分の拳がみっともなく震えているのがわかる。
「あたしのは、そういうんじゃなくて。――あれはあたしの世界の曲で、あたしは」
「でも、〈大地人〉(ボク)たちが嬉しかったのは、真実なんだ」
 そんなことをするつもりは五十鈴にはなかった。
 そんな大それた、大層なものを贈るつもりはなかったのだ。
 ただ懐かしい慣れ親しんだ、五十鈴の父親のコレクションを歌っていただけなのだ。

 つまり、五十鈴はただのアマチュアだし、コピーバンドなのだ。
 恥ずかしさと罪悪感で涙は止まらなかった。それどころかますます勢いを増していった。五十鈴は今まで大勢をだましてきたのだと理解した。自分の曲でもないのにいい気になって歌い、煽てられて舞い上がっていたから、こんなことになってしまった。
 想像もしていなかったが、当たり前の話だ。五十鈴はあんなに大好きだったバンドや歌手の手柄を盗んで我が物顔だった。それを初めて聞く人にとってそれは五十鈴の歌に聞こえたし、あまつさえ感謝までさせてしまった。
 そしてこの世界は五十鈴が想像もしたことがないほど真っ白だった。
 いままで四十二の音楽しかなかった世界なのだ。
 胸がつぶれそうになって、唇が震えた。
 それはおぞましい盗人であるという意味だった。
 音楽が限られていたこの真っ白い世界を、五十鈴は虚栄心で汚したのだ。

「だって、あたし、素人で、コピーバンドで――だから、偽物で」
 すすり上げる鼻が痛いほどで、五十鈴は情けなくてさらに涙がこぼれた。
 元からたいして強くない鼻粘膜がずるずると音を立てている。
 謝りたかった。ただひたすらに謝りたかった。
 でもその方法は全く思いつかなかった。
 五十鈴は取り返しのつかないことをしてしまった。
「ミス五十鈴」
「だって、そんなつもりじゃ、騙すつもりじゃ」
「五十鈴」
 強い言葉に、五十鈴はびっくりして手元に落ちていた視線を上げた。
 目の前にはルンデルハウスがいた。
 窓から漏れる明かりに照らされた柔らかそうな金髪が夜風に小さく揺れていた。
 おどけたようないつもの表情はなりをひそめ、彼は五十鈴を見つめていた。今のルンデルハウスは、五十鈴が知っている中で、どの時よりも凛々しく見えた。
 不意に五十鈴は気が付いた。
 ルンデルハウスは、五十鈴よりも年上なのだ。

「アキバのギルドホールでは、時に〈大地人〉が集まるんだ」
「へう?」
 涙と鼻水で曇った情けない返事しかできない。
「アキバに集まる〈大地人〉はだんだんと増えている。豊かで安全で様々な刺激のあるアキバの街は、〈大地人〉にとってもあこがれの場所だ。さっきの歌い手だけではなく、鍛冶師も、裁縫師も、料理人も、ただの下働きやメイドでさえ、アキバの街にやってくる。アキバの街で数カ月もすごせば、ほかの町で一生かけても学べないような技術が学べる。いろんなものに、なれる」
「ルディ、みたいな?」
「ああ、うん。そうだね、僕は〈冒険者〉になった。彼らもなりたいものがある」
 涙でしわがれた声で尋ねた五十鈴に、ルンデルハウスは続ける、
「でもアキバの街で暮らすのは〈大地人〉にとっても大変だ。〈冒険者〉(キミ)たちは優しいし理不尽じゃない。公平に見てよい隣人だと思うけど、だからといって違いがないわけじゃない。いろんなことが異なっているし、悩みも、トラブルもある。そういったことを相談するために、〈大地人〉(ボク)たちは集まって相談したりする」
「そうだったん、だ」
 こぼれる涙をこするように、五十鈴は答えた。
 そういう風に言われれば、納得できるところはたくさんある。ルンデルハウスは週に一、二回、午後から出かけることがあった。冒険でも買い物でもないようなので、どこへ行っているのかわからなかったが、〈大地人〉と話し合うために出かけていたのだ。
「水楓の館からも相談役が派遣される正式な団体だ。とはいっても、十人くらいの班に分かれて、食事をしながら悩みを相談し合うだけだけどね。僕は〈記録の地平線〉(ログ・ホライズン)のギルドハウスで〈冒険者〉として暮らしているから、みんなの相談に乗れることも多い。――そんな集まりだが、悩みの相談の次に多いのは、なんだと思う?」
 五十鈴は子供のように首を振った。
 ルンデルハウスが遠くに行ってしまったようで、心細く、自分がなにもわかっていないバカだったような気がしてくる。

「これはすごいな、面白いな、と話し合ってるのさ」
 どこか得意げにほほ笑んだルンデルハウスは力強く断言した。
 話についていけない五十鈴に、ルンデルハウスは言い聞かせるように続ける。
「鉄を折り曲げて叩くという技を知っているかい? 小麦粉をふるって粒を揃える方法は? 濃く淹れた黒バラ茶を霧吹きでトマトにかけて虫を追い払うとしっていたかい? 餌をつけずに魚が取れる釣り具や、汚れにくくて丈夫な布団を見たことは? とてもたくさんの新しいものがある。ワンダフルな街だ。それだけの豊かさを〈冒険者〉は隠しもしない。もちろんこの街の〈大地人〉は大変だ。でも、ラッキーでもある。毎日何かが起きる。昨日できなかったことも今日は可能になるかもしれない。明日は、今日とは違う一日なんだ。アキバの街では、その言葉には言葉通りの意味がある。――そして五十鈴の歌も、その輝けるひとつなんだよ」
 五十鈴は何も言えなかった。
 ただ、ほほ笑むルンデルハウスから視線を逸らせずに、頬から涙がこぼれ続けていた。ルンデルハウスの言葉は、五十鈴を強くえぐった。
 ルンデルハウスの励ますようなまなざしが、五十鈴自身も気づかずにいた五十鈴の中の何かを揺り動かした。自分の中に生まれた、得体のしれない強力で熱い気持ちに、五十鈴は狼狽しそうになった。

 ルンデルハウスのことはすごい友だちだと五十鈴は思っていた。
 それはルンデルハウスが「冒険者になりたい」とはっきり言ったからだ。五十鈴より少し年上に過ぎない少年と青年の境界にいるこの友人が、将来を定めていたことを五十鈴は知ってちょっぴり尊敬していたのだ。結果の話ではなく、そう断言する強さに感嘆していた。田舎の女子高生である自分にはまったくない、断固たる自分自身を持っているように五十鈴には思われた。
 わんこだ散歩だとうそぶきながらも、その点だけは、五十鈴は内心、ルンデルハウスにかなわないと思っていた。お気楽で能天気できざな友だちだとしても、本当の彼自身は気高くて強いことを知っていた。
 でもそれはルンデルハウスだけではなかったのだ。
 アキバの街に集う〈大地人〉すべてがおそらくはそうなのだ。彼らには、なりたい何者かがあり、その為の毎日がある。鍛冶師の弟子にも、裁縫の徒弟にも、出入りの商人や屋台売りや、おそらく飲食店の売り子にさえも、なるべき自分があるのだ。
 〈大地人〉にとってのアキバの街は、五十鈴にとってとは全く違う、具体的な夢さえかなう輝ける街なのだ。いいや、この世界すべてが、そこに住まう〈大地人〉に夢と覚悟を要求するのかもしれない。〈冒険者〉よりもずっと弱いと言われている彼らが、五十鈴を強く打ちのめした。

 そんな彼らに、将来の夢と言い切れる何かを持たない無責任な女子高生が歌をうたったことが、五十鈴にはたまらなく恥ずかしく思えた。
 五十鈴は、夢や希望や愛をうたったのだ。陽気な明日や反体制や高速道路やスヌーピーのことも歌ってしまった。深く考えもしないで歌った。歌った歌詞の意味さえ、本気で考えたことがないことに五十鈴は気が付いた。
 それはいたたまれないほど恥ずかしくて、情けないことだった。
 五十鈴が感じているのは激しい劣等感と罪悪感だった。
 こんなに自分を情けなく感じたのは、五十鈴にとって生まれて初めてのことだった。

 子供のように大粒の涙はとめどなかった。
 そして惨めさの中で最大のものは、それでもなお、五十鈴は音楽が好きなのだった。これだけひどい間違いを犯してしまったのに、それでも五十鈴の中では鳴り響く曲があるのだった。
「ルディ」
「なんだい、ミス五十鈴」
「わたし、一人になりたい」
「……」
 言葉にならなかった。
 五十鈴は涙で真っ赤になった瞳で、ルンデルハウスを見つめた。
 きっとルンデルハウスは、何も言わなければ、ずっと一緒にいてくれる。いたわりの言葉や励ましの言葉もくれるだろう。でも、それはあまりにも誠実ではなかった。五十鈴には一人の時間が必要だったし、そしてそれは今まさにこの夜でなければならなかった。
 劣等感や罪悪感も、羞恥も、痛苦も、それらはすべて五十鈴のものだった。歌を盗んでしまった五十鈴にとって、それらは当然の罰であり、その痛みの前で五十鈴は一人でいたかった。そうでなくとも、ルンデルハウスは多くのものを五十鈴にくれたのだから。

「部屋、戻っていいよ」
「……」
 ルンデルハウスは気づかわしげな視線で五十鈴を見ていた。
 それには気が付いていたが、五十鈴はかたくなに視線を合わせなかった。
「わかった、ミス五十鈴」
「ん」
 何か言いかけて立ち止まったルンデルハウスは、しばらく逡巡したあと立ち去った。
 夜の中で身体を固くしたまま、五十鈴は戦う覚悟を決めた。
 それは自分自身と向き合う覚悟で、五十鈴にとって生まれて初めての本当の闘いだった。



 ◆



 朝もやの中で宿屋からそっと抜け出したトウヤは周囲をうかがって深呼吸した。
 まだ寒い町には初春の白っぽい光が差し込んでいる。
 遠くからは、小さな呼び換え声が連続して聞こえてくる。河船漁がおこなわれているのだと、昨日聞いたことをトウヤは思い出した。視線をめぐらせれば、丘のほうへと歩いていく〈大地人〉の一団があった。農作業だろう。チョウシもそうだったが、〈大地人〉は基本的に朝が非常に早いのだ。
 かといって町が活気に満ちて騒々しさに満ちているわけでもなかった。
 トウヤたち〈冒険者〉にとってはそうでなくても、〈大地人〉たちにとってはまだそこそこに冷える三月の朝だ。冬越えで燃料を使い果たしているこの時期、〈大地人〉の住居は締め切ることによって温度を保とうとしている。道を歩く人々も小走りだ。
 もっともそれも早朝だからこそで、もう少し気温が高くなれば、陽ざしに誘われた人々が通りにあふれだすだろう。サフィールはこのあたりでも大きな町なのである。

 トウヤは何を目指すわけでもなく、頭の後ろで手を組むとぶらぶらと歩き始めた。
 まだ本当の早朝であり、時間で言えば五時前後だろう。昨晩は遅くまで起きていたらしいルンデルハウスは眠っていたし、女子部屋からは物音ひとつしなかった。二度寝してもよかったのだがそういう気分でもないトウヤはみんなを起こさないようにそっと宿を抜け出したのだ。
 〈記録の地平線〉に住んでいる時から、狭い屋内より屋外で過ごすほうが好きなトウヤである。地球であればWebTVや携帯ゲーム、マンガやタブレットなど、屋内の娯楽も豊富だろうが、セルデシアではそうもいかない。外へ出かけたいという希望そのものがわがままであった過去への反動から、屋外で過ごすほうが好きな傾向はより一層だ。
 とはいえ、初めて訪れた町で人気の少ないこの時間、一人で過ごすというのはなかなか難儀だ。このあたりも元の世界であれば開けた都市部だったはずである。駿河湾の大きな都市だとか、そんなことをシロエが言っていたのをトウヤは記憶している。
 しかしこのセルデシアでは、多少大きいとはいえ、〈大地人〉の町に過ぎない。この時間では眺めて時間をつぶせる商店も開いていないのだ。
 トウヤは大通りをぶらぶらと歩いていった。
 この通りは、ここまでたどってきた街道そのものだ。町の近くでは古代のアスファルトが地表に残っているために、しっかりとしたつくりである。道幅も馬車二台がすれ違えるほどだ。

 そんな大通りを十分も歩けば市街は途切れ畑が多くなり、やがて大きな河に出た。
「そういえば、チョウシも河だったなあ」
 トウヤはぼんやりと一人つぶやいた。
 なんでなんだろうと考えて、それは川のそばのほうが水が豊富で、暮らすにも畑を作るのにも便利だからだと気が付いた。堆積平野(タイセキヘイヤ)なんてことばも授業で習った。川の流れが平野部をつくるのだ。おお、つまりこのサフィールの町は堆積平野なんだ、と手を打つ思いだった。
 何度かの野営で思い知ったが、斜面というのはびっくりするほど不便である。
 そこでは野営するのも料理をするのも一苦労だ。畑を作るとなれば余計だろう。川の近くに平らな地面があるのならば、そこに集まり街を作るのは合理的だった。
 トウヤはそこまで考えて「学校の授業って役に立つんだなあ」とひとりごちた。何の意味もないと思っていたが社会科だがそうでもなかったらしい。

 水辺につくと右に曲がった。上流方向である。
 特に理由はなかった。散歩だから気まぐれでもいい。
 河の水面は静かだった。海が近いせいでもあるし、川幅が十分に広いせいでもあるだろう。小舟がいくつか浮かんでいて、その上では漁師が白っぽい塊をほぐしていた。それは網であるらしい。目を凝らせば黒々と濡れた魚が跳ねている。
 トウヤは川沿いの小道をただ歩いていった。松林があり、用水路のような細い流れの上を板橋で渡った。
 川の上流右手には富士山が見えた。この世界で言う霊峰フジだ。
 半分以上が純白のケープにつつまれていて、たしかに厳かに見えた。周辺に視界を遮るような山がないせいで余計に美しく見える。
 視界の先に舟小屋があり、川面に突き出した桟橋の上には女性の背中がありトウヤは足を止めた。避けるつもりも隠れるつもりもなかったが、トウヤはずいぶん長い間声をかけることができなかった。

「おはようございます」
「おはようございます、トウヤさん」
 桟橋に近づいたところでトウヤに気が付いたらしいダリエラは、ふりかえって微笑みを浮かべた。トウヤは挨拶をしながらも困っていた。
 この女性といるとトウヤは頻繁にこんな気持ちになる。
 何を話していいのかわからなくなるのだ。
 そもそも、トウヤの今までの生活の中で、二十歳すぎの美人の女性は含まれていない。一年前の自分を思い出してみても、身の回りにいる女性は、ミノリと母親と、あとは五十がらみの担任教師くらいである。クラスメイトで顔と名前を憶えている女子はもちろんいるが、知っているといえるほどの知識はない。
 今の生活だって、ミノリは妹だし、セララや五十鈴は少し年上だけど仲間だ。同じ年代でパーティーを組んでいるのだから、これは当たり前である。剣術を習いに行く〈西風の旅団〉には、たくさんの女性がいて可愛がられてもいるが、子ども扱いされてばかりなので少し違うだろう。
 てとらはもちろん論外だし、アカツキはお姉さんっぽさに欠ける気がする。もちろん二人には言えないが。
 あえてというならば、マリエールやヘンリエッタが近いのかもしれない。あの二人もタイプは違うが、きれいな女性だった。でも、このダリエラほど困惑する気持ちにさせられた人はいない。

「座りませんか?」
「えーと、うん」
 桟橋には古いが頑丈な木箱がいくつかあった。
 釣り人たちが椅子代わりに使っているのだろう。それはもちろん釣糸を垂れるにも絶好だったが、朝もやの中でフェヴァーウェル川を美しく見せる位置でもあった。
 ダリエラはロングスカートの下ではあったが、品よく膝を揃えて流すような姿勢で座っていた。トウヤは両足を投げ出して、木箱のふちをつかむようにそちらは見ないようにしていた。
 風の中にかすかに甘い香りが混じった。
 話す内容が何一つ浮かばないトウヤは、気づまりな思いをしながら座っていた。こんな展開になるのはわかり切っていたのに、話しかけないという選択肢がなかったのが不思議だとトウヤは思う。短期間とはいえ一緒に旅をしたのに無視をするのは間違っていると言えばそんな理由だったのかもしれない。でもそれだけだったのかどうかはトウヤにもよくわからなかった。

「トウヤさんは朝が早いですね。散歩ですか?」
「うん。でもいつも早いわけじゃないよ。今日はたまたまだよ」
「そうですか。この季節朝は寒いですが、その分布団は天国ですものね」
 ダリエラはふんわりとほほ笑んで自分の言葉にくすくすと笑った。
 柔らかそうな束ね髪が肩の上からこぼれ落ちてケープの上で揺れている。
「ダリエラ――さんは、朝の散歩?」
「ええ。生来眠りが浅いたちでして。この時間は戸外で過ごすことが多いですね。許される場所ならですが」
 気づまりになって視線をそらしたトウヤだが、ダリエラのほうはその態度を気にかけないようだった。嬉しそうにほほ笑んだまま、穏やかに話を続ける。
「ダリエラさんは、どこに住んでるの?」
「旅暮らしですからね。あちこちに行っていろいろ見て学んだり書き記したりする仕事なんですよ。でも、住まいと言えば、イコマのあたりになるでしょうか」
「イコマって?」
「ここよりもずっと西ですね。トウヤさんたちの言葉で言えば京都のほうです」
「そっかあ」
 不慣れな地理をなんとなく思い浮かべる。
 トウヤの脳内では、京都は大阪の右上? くらいの認識だ。
 いまいる場所は、東京と大阪の真ん中あたりの太平洋側だという程度の認識しか、トウヤは持っていない。そのざっくりした位置関係を認識して、トウヤは意外な気分を味わった。
 元の世界において、東京から大阪へは三時間ほどかかる。新幹線での話だ。この世界では十日以上かかるだろう。〈ハーフガイア・プロジェクト〉で距離が短縮されているとはいえ、未開で危険な山野を旅をするのはそれだけの労力を要求されるのだ。
 しかしにもかかわらず、トウヤが感じたのは「意外に近いな」という感覚だった。
 この旅をしてきて、元の世界よりも、大阪や京都をずっと身近に感じた。ここまで歩いてきたあの旅を、もう一回繰り返せば到着するというのがはっきり理解されたせいだ。どうやれば到着できるのか、どれほど困難なことなのか、今のトウヤにはそれがわかっている。そして自分がそれを実行できるという自信もあった。
 新幹線に座っている三時間はあれほど長く、到着した実感もなかった遠い都市にも、今のトウヤは、その両足で歩いて行けるのだ。

「でも、山の小屋に一人暮らしですからね。人が訪ねてくれる場所でもないですから、街の空気が吸いたくなったときは、こうして旅に出るのです」
「危なくない?」
「慣れていますからね。それに〈Plant hwyaden〉が警備を請け負ってから街道はずいぶんと安全になりました」
 その名前は最近よく耳にするようになった、西日本をまとめる巨大ギルドの名前だった。〈円卓会議〉と似たようなものだとトウヤは聞いている。大阪を本拠地にして多くの〈冒険者〉を取りまとめる組織だ。
「ミナミのギルドだっけ」
「ええ、そうですね。ミナミの街を本拠地にして、ヤマトの平和を守護する騎士団ですよ」
「騎士団なの?」
「〈古来種〉による〈イズモ騎士団〉なき今、ヤマトの治安維持にあらわれた新たなる騎士団だと聞いていますよ、〈古来種〉の時代から〈冒険者〉の時代への変革のあらわれだとも。事実、〈Plant hwyaden〉の功績には巨大なものがありますからね」
 〈大地人〉から見ればそう見えるのか、納得したトウヤは尋ねた。
「功績ってなに?」
「まずは何と言っても治安が回復しましたね。ミナミ以西ではモンスターによる被害がずいぶん少なくなりました。新しい機械や治水で、農業は楽になるのではないかと期待されていますね」
「それから、雇用が増えました。ミナミを始め、〈大地人〉は給金の良い仕事が沢山増えて喜んでいますよ。〈冒険者〉さんたちの身の回りを世話をする仕事がたくさんありますからね。豊かで、綺麗な街ですね、ミナミは」
 トウヤはそんなものかと聞いていた。
 柔らかい笑みでダリエラは尋ねかけてくる。
「トウヤさんは、興味ありませんか?」
「そんなこと、ないけど」
 トウヤは言った。
 旅を続けるのなら見てみたい気分はある。アキバの街だけが世界の全てではないことを、トウヤはこの旅で身に染みるほど理解した。思ったより旅が性に合っていたというのもある。もっと退屈だったり大変だったりするかもしれないと思っていたが、旅は楽しかった。仲間たちと一緒であれば行ってみたいと思う。
 でもそれは、文字通り好奇心と興味だ。
「では、トウヤさんも機会があったらわたしのうちに来て下さいね」
 ダリエラはそっぽを向いたトウヤの頭を撫でた。
 白くてほっそりした指先が髪をくぐるくすぐったさに、トウヤは顔をしかめる。
「きてくれたら、わたしが案内をしますね。お出かけしましょうね」

 トウヤは肩をすくめて返事とした。
 やはり想像通り、ひどい事をする女性だった。
 トウヤの勘は良く当たるのだ。






 お昼前のサフィールの街はにぎわっていた。
 平野部にあり実り豊かなこの地域は、そもそも小規模な集落が多い。サフィールの街はその中心地として物資の集積という役割を持っていた。そのうえこの街はヤマトの東西を結ぶ街道に隣している。商人が行きかう交易都市でもあるのだ。
 三月の上旬、まだ春本番というには早いが雪は解け始め、フェヴァーウェル川の水量も増してきていた。山菜が芽吹き街では春を祝う料理が食卓に上る時期でもある。
 最近ではアキバやミナミで作られる高性能な馬車が交易を助けるとかで、往来の量が少しづつ増加しているようだ。この街でも宿屋をもう一軒建てるか増築するかの選択があり、それがここ数カ月の最大の話題である。

 そんな町の通りをミノリとセララの二人は歩いていた。
 目的な食料と消耗品の買い足しである。
 交易都市であるからには市もあればそれなりの品揃えの商店もある。〈冒険者〉用の店ではないが、今回求める品物を考えればかえって都合が良かった。
 アキバでもちゃんと準備をしてきたが、保存が利くものや調味料を中心にした荷物になっている。生鮮食品は優先で食べていったので、もうほとんど残っていない。立ち寄った町でこうして買い足すのはもともとの予定通りでもあった。
「おいも、葉っぱ、イチゴもあります!」
「イチゴ買っちゃおうか?」
「買っちゃいましょう!」
 すでに買い込んだ荷物にくわて、二人は野イチゴの房をトートバックに入れた。
 〈魔法の鞄〉ではないから相応にふくれあがっていて、それを両手で下げている二人は〈大地人〉から「若奥様」とからかわれても仕方のない風情である。
「ふわあ。そんなこと言われても困っちゃいます」
「そういうのじゃ、ないですから」
 セララはくねくねと悶え、ミノリも(顔を赤くして一応)抗議したのだが、そんな雰囲気は長続きしなかった。
 予定通りに購入は進めているが、二人には心配事があるのだ。

「念話、つながりませんね」
「うん……」
 念話が繋がらないのに気がついたのは野営中だったが、そのときはそう言うこともあるだろうと思っていた。そもそも、念話は両手が使えないと上手く発動出来ない機能だ。フレンドリストから相手を選択したり受信したりに「仕草」が必要なのである。だから相手が戦闘などを含む作業中の場合、使用しづらい。叫ぶだけで集団伝達が出来るパーティー念話との違いはそこだ。
 そんなわけで、念話で相手が通話に応答しないというのはままあることだった。特に相手がシロエの場合、忙しいことも多い。
 しかし、あの〈北風(ボレアス)の移動神殿〉のことが心配になって調べた結果、やはりそれには評判通りの効果があることが判った。「たまたま繋がらなかった」だけではなく、妨害されているのは確実であるように思われた。
 効果範囲は判らないが、少なくともこの街一帯は念話が制限されているようなのだ。
 ボクスルト砦付近ですれ違った〈移動神殿〉の効果範囲だとするとあまりにも広域すぎるので、この街のどこかにも〈移動神殿〉があるのではないかとミノリは考えている。しかし、それを探索するつもりはない。仮に見つけ出したにせよ、どうすれば効果を停止出来るのかは判らないし、壊したりしたらまた別種のもめ事を呼び込みそうでもあるからだ。
「たぶん、あの〈移動神殿〉のせいだと思う。どこにあるのか、どれくらいが効果範囲だかわからないけれど」
「そうですよ、ねえ」
「うん……」
 ミノリとしてもそれは頭が痛い部分だ。
 空気を読んだのか、セララの足下の白い仔狼もしょんぼりしている。
「どうしましょう」
「うん……」
 ミノリは手元のメモ帳に視線を落とした。それには付近の地図が織り込まれて挟んである。ミノリが書いたものではない。シロエが複製してくれた周辺の地図である。
 一行の目的地はさほど遠くはない。このサフィールの町で準備を整え山に入っていくことになるのだが、それも無謀ではないはずだ。この町からであれば、川沿いに山を登っていくことが出来るからである。そもそもそのために太平洋側を進んできたのだ。
 地図上の距離で言えば二十キロメートルほどだろう。山を登らなければならないことや、目標を発見して狩らなければならないことを考えても、そこまで難しいとは思えない。最短で三日もあればこの町に戻れるだろうし、どんなに長引いても一週間はかからないだろう。
「多分、あんまり時間はかからないと思うんだ」
「三日くらいかなあ」
「もうちょっとくらい」
「この町まで帰ってくれば、安全ですよね」
「そう思う」
 実際、そう考えてとりあえずこの町まではやってきたのだ。
 念話が回復すればシロエに相談しようと考えていたミノリだが、いまは状況がそれを許していなかった。
「シロエさんに相談出来ればなあ」
「にゃん太さんに相談出来れば」
 言葉が重なって、二人はまじまじと相手を見つめて、笑い出した。考えていることがまるで同じだったらしい。

 実際相談したいことは多い。
 〈オデュッセイア騎士団〉のこと。
 〈北風の移動神殿〉とよばれる不穏な魔法の品(マジックアイテム)のこと。
 どうしてもミノリの中でシロエと重なるロエ2という女性のこと。
 何かが大きな動きをしている。遠くから響く地鳴りがその轟きを伝えてくるように、ミノリはそれをはっきりと感じ取ることが出来た。
 しかしミノリにはそれが何を意味するのかが判らない。
「くやしいな、シロエさんなら、きっと判るのに」
「ミノリちゃん……」
 セララに慰められてミノリは意識を切り替えた。
 まだまだ自分は未熟なのだから、後ろ向きな感情におぼれるような暇はないのだ。目の前の課題を解決しなければならない。それは当面の部分では〈レッドストーン山地〉に向かうか、それとも今回の旅をここで断念して引き返すのかと言うことである。
 どちらの選択にもさまざまなメリット、デメリットがある。
 念話による報告や相談が出来ないまま先へ進むのは確かに危険だ。
 しかしその一方で、このまま引き返したところでその危険が減少するかと言えば、なんとも言えないとミノリは考えた。あの奇妙な魔法の品の効果範囲が判らない以上、また、解除の方法が判らない以上、アキバに戻っても念話が使えないという可能性すらある。
 報告を持ち帰るのは重要だが、シロエの事だから、あの神殿の情報はミノリたちとさして変わらないタイミングで得ているような気もする。
 そうであるのならば、自分たちは進むべきか? 帰るべきか? あるいはこの町にとどまり調査をするのか……。取り得る選択肢はさほど多くないように思えた。
 その少なさこそが経験不足の証左のように思えたミノリだが、嘆いても前に進めるわけではない。

「ロエ2さん、どうするんでしょうね」
「そういえばですね」
「イコマにいくっていってたから」
「ダリエラさんと二人で向かうのでしょうか。わたしたちと山に登る必要、ないですもんね」
「そうだよね」
 それに気がついた二人は、手早く残りの食料をしいれると、宿へとって返そうと話した。
 〈レッドストーン山地〉まで行くという話はロエ2にしてあるが、場合によってはこの町で別れることになるだろう。この町ならば、〈冒険者〉用の〈召喚笛〉を修理してくれる人がいるかどうか探してみるのも悪くはない。
 先ほどから歩いていて、〈冒険者〉数人とすれ違ったミノリはそう思った。最悪馬車はこの町で売却するというプランも考えてはいるのだが、出来れば馬を買い足してアキバに持ち帰りたい。始めて買った馬車なのだ。ミノリはもちろんだが、仲間たちだって思い入れがあるだろう。
「でも、ミノリちゃん。今晩は予定通り、もう一泊ですよね」
「うん」
「じゃあ、五十鈴さん、夜には元気になるかな」
「お部屋にこもりっきりですもんね」
 仲間たちのことも気になる。
 トウヤは朝食の時間からふさいでるように見えたし、ルンデルハウスは眠そうだった。五十鈴に至っては、体調が悪いと行って部屋にこもりっきりだ。
 特に五十鈴は昨晩から様子がおかしいように思う。部屋に帰ってきたのも朝方のはずだ。思い詰めたような表情だったのが気にかかる。
「五十鈴ちゃんの大好きな明太子ポテト、今晩作ります!」
「作れるの? セララちゃん」
「もちろんです! ジャガイモも買ったし、マヨもありますもん」
 大通りを戻る二人の会話はそこで途切れた。
 セララの足下でじゃれついていた狼が三角の耳を雄々しくぴんとたてると、ぐるぐると回り始めて、空をにらんで警戒の雄叫びを上げたのだ。

「あれ、なんですか?」
 セララののんびりした声をミノリは遠く聞いた。
 初春の薄く煙った空の色ににじみ出たそれは、霊峰フジを背景にしてゆっくりと動いていた。はるか彼方から迫ってくるその群は、ミノリたちが目的としてここまでやってくるきっかけ、|〈鋼尾翼竜》《ワイヴァーン》〉に違いないようだった。
 百では聞かないような〈鋼尾翼竜〉が、サフィールの町に近づいてくるのだった。
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