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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

供贄の黄金

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055 供贄の黄金

“供贄の黄金”



 淡い茜色の〈狐火〉(フォックスファイヤ)が豪奢な部屋を照らしていた。
 無人のように見えた広い部屋はひとりの主をもっている。
 アキバで一般的な〈蛍火灯〉(バグスライト)とは違う、細く、そして力の弱い炎。その明かりは大きな部屋のすべてを照らし切れてはいない。ゆらゆらと揺れる灯りは濃淡をもち部屋の隅にはかえって暗がりを作り出すのだ。
 その暗がりの中で、外套のように毛布を巻き付けた黒髪の女が身を丸めている。
 みすぼらしいわけではない。
 豪華な家具がしつらえれた室内だ。錦織で飾られたソファー。緞子の壁飾り、天蓋つきのベッド、白亜のテーブル。しかし、どの家具も生活の中で愛されてきた気配がない。ただ命じられてあるだけの無機質で他人行儀な気配を漂わせている。
 そんな家具の影に隠れるように身を横たえた濡羽は、影の中で、いつものようにまんじりともしない夜を過ごしていた。

 小さな丸テーブルからは、滝のように紙束が流れ出て、彼女の視界まで広がっている。文字が書かれたそれら書類と思しき紙束に、花が散ったような赤い痕跡が残されている。よく見ればそれは葡萄酒の染みのようだ。
 濡羽は、おぼろげに照らされたそんな景色に目を凝らしている。
 几帳面に書かれた小さな文字をこんなに暗い室内で読めるはずもない。書類と部屋の闇から立ち上る幻と、濡羽は視線だけで戦っているのだ。
 闇からはさまざまなものが現れた。その大半は曖昧模糊とした白い人影だ。
 輪郭さえもおぼろげなそれらは、濡羽にも良く聞き取れないような小さい声でクスクスとささやきあうと、ちらりと濡羽を一別した。容貌さえ定かではない煙のような影から、値踏みするような、あるいはからかうような視線が届く。
 濡羽は冷たくなった拳を強くにぎりしめてにらみつけた。
 あるいはもっと具体的な、ゾっとするようにおぞましい太い腕が現れることもあった。その腕は濡羽の髪を掴むと、白い影の方に無理矢理連れ去ろうとする。濡羽は獣のように低い威嚇の声をあげた。そうすればその影が消えるのはすでに判っていた。
 呪いの声に耳をふさぐように長い時間を過ごした。
 十六の豪奢な部屋を持つこのギルドホール全体は濡羽の私室にと用意されたものだった。濡羽を除けばこのギルドホールに入る権利を持つ者は十名もいはしない。夜も更けたこの時間、夜番をつとめる〈大地人〉の侍女以外は誰もいないだろう。
 その無人の闇の中で、濡羽は終わらぬような夜を過ごす。
 なにかを為したという記憶もないままに、身体は疲れ切っていた。冷たくなった血が巡る四肢は砂袋のように重く、この世界は水底のようだった。
 別段珍しいことではない。昔からそうだ。
 それは〈冒険者〉の身体を得ても癒えぬ倦怠だ。

 目の前に細い手を引き上げる。
 細く白く、なめらかな、細工物のような指が見える。
 妖しい芸術品のようなたおやかさに、桜色に輝く爪がついている。
 そこから続くきめ細かい肌。温度を感じさせない腕の稜線は、それでも十分な柔らかさを想起させる。
 嫌悪と拒絶しかない闇の中に抑えきれない冥い喜びが混じる。
 濡羽自身はこの肉体にさしたる価値を認めていないが、自分のそれが他者を狂わせることはよくわかっている。それは爛れた喜びだった。
 甘くかすれたような声も、花のような香りも、衣服の名のもとに縛り上げられたような身体も、多くの人の渇望の対象なのだ。そう考えると、べとついたように不潔な歓喜がわき上がる。
 書類を領地とした白い影が揶揄するような短い笑い声を立てるが濡羽は軽蔑するような視線でそれに応えた。白い影は弾劾するかのようなうめきをもらしたが、もはや風は変わったのだ。先ほどまでの苦痛に耐える濡羽はいない。
 濡羽は毛布にくるまったまま喉を鳴らすような声を立てた。
 我ながら不吉な声だと思う。
 これが執政家の若き当主の前でなら、近衛の長たるロレイルの前でなら、いやゼルデュス、ナカルナード、誰の前であってもこのように掠れて軋るような声などあげないだろう。蜂蜜で包み込んだような甘え声で魅惑することこそが濡羽にとって日常なのだ。今までそうしてきたように、これからもそうするだろう。
 くだらないと思う。
 馬鹿らしいと思う。
 しかし、そう思えば思うほど、そのくだらなく馬鹿らしい濡羽を求めて右往左往、時には争い、時には嘆き、互いに罵り合い、自らの優位を誇示するために諍う人々の群れは面白かった。
 あんなにも濡羽を蔑み害悪だと責めてきたものたちが、いまや濡羽の甘いねだり声ひとつで財産も命も投げ出すほどの狼狽を見せる。それは長い夜を過ごす濡羽の武器であり鎧であった。濡羽を苛む苦しみを一時でも忘れさせてくれるのは、濡羽を求めて争う人々の喧騒だけなのだ。
 こんなにも無価値な濡羽を黄金か宝石だと崇める人々の滑稽なこと。
 それだけが、濡羽を温めて、癒し、甘くしびれさせてくれる。
 彼らを見ている間だけ、濡羽は愉快な気分になれる。そしてなにより、濡羽のまわりで踊る人々のくだらない滑稽芝居だけが、この世界は自分と同じ程に無価値だと確信させてくれるのだ。

 青ざめた顔で彼女に訴える〈冒険者〉たちの忠告を思い出すと薄ら笑いが浮かぶ。
――この世界はゲームではないんだ。僕たちはここで生存競争(サバイバル)をしなければならない。
 濡羽は陰惨な笑みを浮かべている自分を自覚する。
 なんと愚かなことを言っているのだろう。くだらない。なにをいまさら。寝ぼけたようなことをと濡羽は思った。かつてその言葉を告げた少年〈冒険者〉はいまや〈Plant hwyaden〉の構成員として、毎日その命を捧げて働いている。彼の言う生存競争とやらはギルドに税を納めると言うことなのか。
 馬鹿らしい。
 〈大災害〉が起きたその数時間後、濡羽は近づいてくる数人の〈冒険者〉から、金銭も、食料も、武器や防具さえ、すべての財産を奪っていた。簡単なことだった。パニックに襲われた彼らはどんな荒唐無稽な嘘でも信じ込んだ。
 その数日後、濡羽は彼らの献身から新しい世界の手がかりを掴んでいた。あまりの衝撃に考えることを放棄した彼らは、指揮を執ってくれる濡羽の言葉には何でもしたがった。彼らを組織し、優しい言葉で励まし不安を忘れさせた濡羽は、数週間後ミナミでも最大級の資産を持つ〈冒険者〉になった。
 そして〈大災害〉からひと月、“オーバースキル”を手に入れた彼女は、ミナミの衛士機構を掌握していた。
 誰も知らぬ間のクーデター。最大級の武力を手に入れた濡羽はその力を背景に〈大地人〉貴族、執政家との交渉を行い、さらなる富を手に入れる。そこまでくれば大神殿を抑えるのは簡単だった。

 そう、簡単だったのだ。
 大災害から数ヶ月たったあとにまるでこの世界の秘密を告げるように忠告をした、あの少年の言う「生存競争」とは、つまりこういうことなのでは? 濡羽は脳裏で問いかける。
 もはや愚鈍と呼んでも差し支えないほどのつまらなさ。
 少年のあまりの無垢さはいっそ憎しみさえ覚えるほどだった。
 この世界はゲームではない。その言葉を聞いた時、濡羽は心の底から笑みを浮かべることができた。そのあまりに面白い言い分に濡羽は感謝をした。必死の表情を浮かべる少年にどす黒い胸の内をぶちまける誘惑もほんの少しだけ感じたが、やわらかな姉のような態度を堅持した。それが望まれた仮面だと判っていたからだ。
 だが濡羽の胸の内は抑えきれないほどの笑いの衝動に満ちていた。
 そんなことは知っている。ずっと昔から知っている。
 そもそも、濡羽は一度たりとも遊んだことがない。
 〈エルダー・テイル〉がゲームだと、余暇の娯楽だと、最初の最初から一度たりとて考えたことがない。
 多くのプレイヤーにとって〈エルダー・テイル〉がMMOという電子遊戯だったその時でさえ、濡羽にとってはそこは生き抜くための厳しい戦場だった。
 血を流し続けなければ、叫び続けなければ、忘れ去られてしまう。
 忘れ去られるというのは世界からの消滅だ。
 誰かにとって意味のある人間でなければ、求めてもらわなければ、大事にしてもらわなければ、それは死んでいるのと同じ事だった。いや、死ぬのよりもさらに恐ろしい。なぜなら死は静寂で涅槃であるかもしれないが、無価値な取るに足りない、誰からも好意を寄せられない塵芥として生きるのは――誰からも必要とされない劣等として生きるのはありとあらゆる種類の地獄であるからだ。
 関心を持ってもらうため、好きになってもらうため、争ってもらうためにいつでも濡羽は血の滲むような研鑽を続けてきた。
 どんな苦しい努力でさえも無視をされるよりははるかにましだった。やがて研鑽が実を結び、たわいない一言や仕草ひとつで好意を得られるようになると、濡羽はその好意をまるでがらくたのように地に捨てた。歪んだ濡羽に好意をよせるのは、私欲しかない目の濁ったプレイヤーたちだったからだ。
 僕たちはここで生存競争をしなければならない。
 茶番のようなセリフ。秘密めかした忠告などお笑い種だ。
 それでは前の世界では生存競争をしなくても良かったようではないか。
 それはそうなのかもしれない。あの少年に限ってはだが。よほど恵まれているのか、お花畑なのか。そう考えると笑いの衝動と共に、胸の内の黒々とした憎悪を解き放ちすべてを焼きつくしたくなる。
 濡羽が知るかぎり、あらゆる瞬間は生存競争なのだ。それは元の世界であろうとこの世界であろうと全く変わらない。
 仕組みを読み解き、弱点を探し、油断させ、翻弄し、信頼させ、裏切り、相手の取り分を奪う。それが世界の基本的なルールなのだ。わざわざそれを決心するなど周回遅れにも程がある。
 ミナミの統一が簡単だった理由もよく分かる。
 濡羽は最初から奪うつもりだった。この世界に漂流した数万の〈冒険者〉のうち、濡羽だけが最初からゲームではなく現実を生きていた。それが濡羽にとっての日常だったからだ。
 濡羽はただ、〈エルダー・テイル〉がゲームだった頃と同じように好意にすがり執着を育て恋慕と不和をふりまいただけだ。いつものように自分の取り分を請求しただけ。だから愛されて〈Plant hwyaden〉の中心となった。この世界は濡羽を選んだ。濡羽は幸せになった。すべてを得た。

 のろのろと吐きだした吐息を自分の耳で聞き、憎々しげに影をにらみつける。
 選ばれたはずの自分がなぜこんなにも苦痛に満ちているのだろう。抱き枕のように己の尻尾を抱えて濡羽は震えた。
 なぜ怪我をした獣のように身体を丸め、息を潜めて夜をやり過ごさなければならないのか。
 歯を食いしばる濡羽の頭部で狐耳がひくりと震えた。
 見上げた視線の先で、光を四角く切り取ったような戸口が開き、そこにひとりのメイドが姿を現す。
「濡羽さま」
「……」
 視線を外した濡羽はあからさまに無視をした。〈Plant hwyaden〉の実務を取り仕切るメイド、インクティス。濡羽の腹心であったけれど、濡羽の興味の外にいる人物だった。いやもはや濡羽にまとわりつく呪いのような女性であったかもしれない。
「またベッドも使わず」
「……」
 濡羽は逆光のなかに影となったインクティスを見上げた。
 普段は凍てついた仮面のような表情を浮かべるインクティスがいまはこぼれるような笑みを浮かべている。その笑みは濡羽以外に向けられることはないが、それを見るたびに濡羽は胃が痙攣するような気持ちになった。何度切り捨てても、何度身を清めても、寝室の闇から伸びてくるあの腕と同じ匂いだ。
「シロエのことでも考えていたのですか?」
「……」
 濡羽はじっとにらみつける。
 しかしインクティスはあの曖昧な白い影のように怯えることも薄れることもない。
 張り付いたように無機質な笑みを浮かべて濡羽にささやくのだ。
 滑るように近づいてきたインクティスは腰を折るように濡羽に近づく。
 濡羽はメイドから漂ってくる冷たき鋼のような香りに唇をかみしめた。おおよそ女性にはふさわしからぬ、手入れをされた刃物の匂い。
「そうなんですか?」
「あの人のことを話さないで」
 苛立ちと怒りを込めて突きつけた言葉も、インクティスには届かないようだった。いつもそうだ。濡羽の求めるありとあらゆる願いは、たったひとつを除きインクティスに受け入れられたことはない。たったひとつのためにすべてを引き替えにしたのだ。

「言ったでしょう? 言いましたよね。あいつはダメだって。あれと言葉を交わしても何も起きないって。あれは何処にも繋がれない人間です。いつでもそうだった。あれはプレイヤーじゃないんですよ。能力が高いだけのノイズです。――ねぇ、濡羽?」
 苦しみと恐怖で濡羽の視界がにじみかける。
「あなたが手に入れられない男です。あれはただの裏切り者ですけれども聡い。潔癖だといえるでしょう。判るんですよ、ドブの匂いが」
 予想していたとはいえ、覚悟していたとはいえ、インクティスの言葉は濡羽に捩れるような痛みを与えた。闇の中に必死に押し込めていたような思い出が無数の亡霊のように現れ、濡羽の肺腑をかきむしる。
 それは白い影のささやいたはっきりとはしない呟きの本体だった。
 濡羽が地球に脱ぎ捨ててきた無かったことにしたはずの過去だった。
「あなた、本当に誰かに触ってもらえると思っているんですか? あんなに薄汚れていて、さもしげで、みすぼらしい物乞いのあなたが? あなた嘘まみれじゃないですか。あなたにはこれっぽっちも本当のことなんかない。本当のことはとふたを開けてみれば下水の汚物より腐臭を放つような生い立ちじゃないですか。気持ちの悪い薄ら笑いを浮かべて、物欲しげにこっちをずっと見ていたようなあなたが」
 濡羽にべったりと張り付いた狂おしい恐怖がよみがえる。
 プラスチックの給食の皿。ゴミの混じったスープ。狭いロッカーの中で唇をかみしめて、誰にも見つからないように願っていた記憶が。
「判ってください。あなたみたいな気持ち悪い人間が誰かと繋がれるなんて思い上がらないでくださいね。ねぇ、あなたみたいなドス汚れた女と、契約をするのは、わたしだけでしょう?」
 のど元にせり上がる嘔吐感を必死にかみしめた。
 かみしめることが出来た。
 僥倖だ。
 その弱気を悟られないように、濡羽は必死に目を見開いた。インクティスは正しく濡羽を言い表した。そんな事言われないでも判っている。他の誰よりも、濡羽は薄汚れて気持ちの悪い自分を自覚している。
 でも、それを自分が知っていることと、誰かにそれを指摘されるのは、まったく次元の違うことなのだ。

「あなたは遠くから眺めるには都合の良い姫なんですから」
 それでもにらみつける濡羽の耳をインクティスは指先でひねるようにつまみ上げた。
「だからアキバへ行くなんて困るんですよ、濡羽。自覚してください。あなたのサロンだった時とはもう違うんですよ。この〈Plant hwyaden〉は。あなたはデク人形を沢山集めてあなたのお城を作る。わたしは今度こそヤマトサーバのすべてを手中にする。ねぇ、濡羽。そういう約束ですよね?」
 濡羽の望み。濡羽の願い。
 二度とあそこへ戻らないためにすべてを賭けた夢。
 どんなことをしても、というその言葉の意味通り、どんなことをしても濡羽は絶対に過去へは戻りたくない。だからインクティスの計画と手を結んだのだ。〈Plant hwyaden〉は濡羽の城だ。それは無数の明かりと柔らかな賛辞に満ちた不夜城だ。

「あなたは、あなたの居場所を作るのでしょう?」
 濡羽はインクティスに弱みを見せないように取り繕って必死に頷く。
「そう、そろそろ始まっていますよ。〈十席会議〉が」。インクティスはそんな濡羽には興味を無くしたようだった。濡羽の方もすべての〈十席会議〉に出席しているわけではない。そもそも濡羽はギルドの運営などに興味はないのだ。
「あなたはお姫様ですからね。皆にはわたしから伝えておきましょう。濡羽。あなたは〈Plant hwyaden〉の大事な大事なギルドマスターなんですから」
 まるで置き土産のようないたわりの台詞をのこしてインクティスの足音が遠ざかる。
 身をよじるような自己嫌悪と過去からの呪いの中で、濡羽は今度こそ自分の尾を抱きかかえるように、小さく、限りなく小さく身体を丸めた。
 代謝機能が低下したのか手足が痛むように冷たかった。巻き付けたはずの毛布は重く、そしてなんの暖かさももたらさない。
 動悸は乱高下し、目の前の世界は貧血のように暗く沈んでいく。
 恐ろしい思い出や、屈辱的な記憶ばかりがよみがえり、その亡霊は濡羽を地球へと連れ戻そうとする。インクティスの号令でいつでも濡羽を狙うそんな魍魎と濡羽はたったひとりで戦い続けなければいけないのだ。

 しかし濡羽は唇の端にほんの僅かな笑みを浮かべる。
――ねぇ、あなたみたいなドス汚れた女と、契約をするのは、わたしだけでしょう?
 違う。
 それは契約とは言えないような口約束。通りすがり同士が交わした戯れにも似たつたないやりとりに過ぎないかもそれないが、いまの濡羽には、インクティスの契約以外にもひとつだけ約束があるのだ。
――貴女の敵で居た方が、貴女の願いに添えるでしょうから。
 インクティスが見限った青年が告げた決別の言葉が、僅かに濡羽を守っている。
 遠くで二十一時を告げる低い金属音が鳴った。
 粘りついたような時計の針の進みはおそく、夜はまだ無限の長さを持っているようだった。〈冒険者〉の身体は少ない眠りでも支障なく動くことが出来る。その利点は濡羽を夜に閉じ込める牢獄の鎖でもあった。浅いまどろみと恐怖に満ちた突然の覚醒をくりかえす。そんないつもの濡羽の夜の戦いが続くはずのこの部屋で。いつかきっと。いままで一度も使ったことのない、祈りに似た言葉を、唇の形だけでなぞり、濡羽は浅い眠りに融けていった。











 複数の男女の集まる不思議な作りの部屋だった。
 ドレープの刻まれた壁を飾る柱も、精緻な柄から生花を溢れさせる花瓶も、金で象嵌された卓や椅子でさえも、部屋に集まる人々の磁力のような生気の前には色あせた。
 いずれも個性豊かな合計八人のメンバーとその側近である。
「インクティスは?」
 官僚のように整った衣服をまとった眼鏡の男が問うた。
「お姫様のところへいったさ。すぐ戻るだろう。気にするなよ、ゼルデュス」
 軍服の女性が答える。
「月が昇る頃、という指定は随分過ぎたかと思うが?」
「姫は相変わらずだな」
「あのふたり、もう結婚しちまえばいいのに」
 傲慢さをにじませた若い声と、面白がるような声がそれぞれにかかる。

 ゆるやかな階段のような形状をしているこの部屋は、その一段一段の高さは四センチほどだろうか。階段というよりは、低い踊り場の連続といった趣の部屋であった。それぞれの段には、思い思いの居場所が作られている。
 多くはソファや革張りの椅子であり、場所によってはデスクや小さな書架が設えられているものもあった。それらの席と段差の数は十。部屋の四方に作られたアーチもそれぞれに異なる高さに作られて、出入りを助ける構造を見ると、この段差はその位置を占めるものの地位を表しているのだろう。この部屋の奇妙な構造が、彼らの関係をそのまま表しているようだった。

 カズ彦は愛刀を抱え込むようにして低い椅子に腰をかけたまま、部屋の中を見回した。この集まりは〈十席会議〉。ミナミの施政を預かるメンバーによる会議であり、実質的には〈Plant hwyaden〉の中心的な会議でもある。
 〈十席会議〉の出席者は、会議の名前をとって十席、あるいは席将と呼ばれる。
 現在まだ到着していない十席は二人。〈Plant hwyaden〉のギルドマスター濡羽と、彼女を迎えに行ったインクティス。
 インクティスはじきに現れるだろうが、濡羽は不明だ。気まぐれな彼女はギルド運営の些事には興味がないようで、こういった会議のほとんどを欠席する。もはや成立して巨大な機構となった〈Plant hwyaden〉にとって、設立者であり盟主である濡羽の判断は、日常的に必要とされるものではない。濡羽の姿がないことに、メンバーは慣れていた。
 今回の〈十席会議〉は定例だ。特別な議題があるとカズ彦は聞いていなかった。
 しかしだからといって気を抜いて良いわけではない。

 席将同士の関係は複雑で微妙だ。西ヤマトの〈冒険者〉を根こそぎ吸収するような形で成立した〈Plant hwyaden〉はその生い立ちがすでに特殊である。気のあう仲間同士が一緒に遊ぶために設立した、かつてのMMO〈エルダー・テイル〉のギルドとはまったくその意味合いが違う。幾つもの既存ギルドを飲み込み生まれたこの巨大な統合組織は、異世界となった〈エルダー・テイル〉のなかでの互助と生存協力を目的として生まれた。
 そもそもの最初から利害調整を目的として集団化されたのだ。単一ギルドであり完全平等を謳った組織ではあるが、その内情は派閥の乱立である。それは〈Plant hwyaden〉に対してある程度知識がある人間にとって常識だった。
 成り立ちの特殊性はそれだけではない。
 濡羽はこの巨大ギルドを成立させるために、手始めにミナミの衛士組織を籠絡した。ミナミの衛士は斎宮院の下部組織だ。つまり〈Plant hwyaden〉は成立の時点から、〈大地人〉と絡み合うようにして生まれた組織なのである。
 ギルドマスターである“西の納言”濡羽はそのようにして地位と権勢を手に入れた。
 一方で斎宮院家とともに西ヤマトを支配してきた元老院も、〈Plant hwyaden〉へ強い興味を持ち、取り込もうと躍起になっている。
 現在のミナミの街は、〈Plant hwyaden〉内部の各派閥、〈大地人〉の斎宮院家、元老院――数多くの勢力がせめぎ合うバランス上に成り立っている。
 カズ彦ももまたそうした勢力の一翼を担っている
 治安組織〈壬生狼〉(みぶろ)はミナミの街の治安を守り、汚職や詐欺を取り締まることをその役目としている。それは公的にはそれだけの〈Plant hwyaden〉の一部門である。
 しかしその実態と言えばカズ彦の私兵だ。
 爛れてゆくミナミの腐敗を少しでも食い止めようと立ち上がった同士たちとカズ彦が組織した、〈Plant hwyaden〉内部の派閥のひとつ。その力はミナミの中で決して大きなものではないが、派閥のひとつだからこそこの〈十席会議〉に席を持つことが出来ている。
 カズ彦の背後には黒の羽織をまとった護衛が二人が立っている。そんな護衛を引き連れてこの会議に参加している十席は少なくない。
 もちろんこの会議で護衛が意味を持つわけではないのだが。
 カズ彦はすがめた視線で一席を、つまり部屋の最上位を見やった。

 最上段にはおとぎの国から持ち帰ったかのように瀟洒で凝った細工の女性的な玉座。
 現在、主を持たないその席は〈Plant hwyaden〉のギルドマスター濡羽が座るべき場所だ。
 その下の段にはティーサーバーと銀のワゴン。使用された形跡がないそっけない丸椅子。現在は無人であるが、実際的にこの会議を差配する第二席。メイドのインクティスが占める席である。
 二人はまだ現れていない。
 インクティスがやってくれば会議の幕開けとなるだろう。

 三段目の踊り場は広く、実用的な椅子と左右を占める巨大な書類机。気がつよく酷薄そうな眼鏡の青年が描かれた表に数字と指示を書き込んでいる。時折視線を上げて皮肉そうな口元から辛辣な意見を投げかけるのは第三席、“監視塔”と称される〈冒険者〉ゼルデュスだ。
 〈Plant hwyaden〉の開発と財政を受け持つ男。鉄血の宰相だ。

 そのすぐ下の段には酒瓶を床に直置きをして、リラックスした姿勢で背もたれに寄りかかる女性軍人。第四席“東跋将軍”ミズファ=トゥルーデ。元老院派最強の武将であり、〈神聖皇国ウェストランデ〉随一の〈大地人〉軍の指揮官。
「暇な毎日だ。血の香りがしない。腐っていきそうさ。時間はいくらでもあるんだ、あたしは戦にいくためだったら、月が沈んじまったって、いくらでも待てる」
 三〇すぎの美しい容貌を持っていたが、軍人の精悍さと言うよりは犯罪者じみた残酷さを色濃く感じさせる女性だった。二人掛けのソファの中央に、両腕を広げた放埒な姿勢で腰をかけている。
「ここに来れば上等の酒が飲めるってだけじゃないのか? 〈大地人〉(ランダー)
 茶化すように答えたのはその一段下の革張りの椅子に座した大柄な〈冒険者〉だった。第五席。“南征将軍”ナカルナード。〈守護戦士〉であることを示すかのような、建築機械じみた無骨な鎧をまとっている。
 侮蔑するようなその言葉にもミズファは「違いない」と鷹揚に頷いた。
「良い身分だな」と苦々しい顔をしたナカルナードは干した盃をあげる。壁の染みのように目立たない印象の侍女たちが、幽鬼のように寄り添って新たな酒を注いだ。
 この二人が〈Plant hwyaden〉の外征を司る軍事の要。
 それぞれが〈大地人〉の兵団と〈冒険者〉の軍を率いている。
 ミズファのほうが席次が高いのは元老院への配慮であるというのはこの会議に出席する冒険者の中では共通の見解である。実際率いる軍事力はナカルナードのほうが数倍も大きい。ナカルナードは旧ヤマトサーバ時代、関西で最強を誇ったギルド〈ハウリング〉のギルドマスターだったのだ。こんなところにも〈Plant hwyaden〉内部の派閥の影響は存在する。

「こっちは眠いんだ。本当に、なんで夜なんかに集まるのさ」
 大きく伸びをしたのは第六席。“預言の唄い手”クオン。
「お前が眠いのは夜だけではないだろう」
 書類から視線を上げないゼルデュスの声が上の段からふってきて、地球の街角を歩いているようにしか見えないシャツとジーンズといった軽装のクオンは、それだけファンタジー風の暖かそうなマントにくるまって抗議をする。
〈彼方からの呼び声〉(GMコール)を警戒しているのさ」
 その言葉の他の参加者は小さな苦笑を漏らす。
 クオンというこの青年は本来会議に席を占めるほどの能力も欲もない。ただ、〈エルダー・テイル〉時代、彼は運営側のゲームマスターであった。ゲームマスターとは〈冒険者〉と同じようにアバターをもちゲーム世界に参加してそこで発生したトラブルに対処する、運営側の従業員だ。トラブルサポートの一種だと言えば判りやすいだろう。
 〈F.O.E〉に雇われていた彼はそれだけに運営側の状況や知識に詳しい。〈F.O.E〉社屋にある専用筐体からログインしているわけではなく、自宅にあるプライベートなPCでログインしていた状況で〈大災害〉に遭遇したために、ゲームマスターとしての能力のほとんどは封印されているが、それであっても事態究明の一助となる可能性がある。それが彼が十席のひとつを占めている理由だ。
 〈彼方からの呼び声〉はクオンが現在でも保持しているゲームマスター能力のひとつで、ヤマトサーバーで発生する運営イベントの情報をポップアップ通知で受け取ることが出来る。また、〈F.O.E〉からの呼び出し連絡を受けることも出来るというが、クオンの言葉を信じるとすれば〈大災害〉後連絡はなく、発生するイベントも時限式やトリガー式に限られるようだ。

「上位世界との接続が薄れつつある、とでもいうことかの」
 カズ彦のひとつ下段。八席の老人が含み笑うような言葉でからかった。
「うるさいなあ。コールの監視は会議の決定だろう?」
 すねたようなクオンの態度に老人はからからと笑う。快活にみえるが瞳は酷薄そうに濁っている。第八席“ミラルレイクの大魔導師”シェレド=ガン。〈大地人〉を代表する魔法学と歴史学の権威。その知識と魔法能力は、ゼルデュスとともに新技術開発へと注ぎ込まれている。
「姫様――は今夜も姿を見せぬか」
 第九席“近衛長”ロレイル=ドーンの呟きと共に広間に入ってきたのは、メイド服に身を包んだ美貌の才媛、インクティスだった。彼女の石を叩くような足音を開演のベルとして〈十席会議〉は始まる。

「今夜も〈十席会議〉をはじめたいと思います。本日の話題はまずは市内福祉の報告から」
 インクティスは前置きもなく唐突に会議の切り出しはじめた。そして最初に選ぶ話題はいつもそれだ。カズ彦は水底に潜るように息をつめ、心を冷たく保とうとする。
 ミナミの街は平和で豊かだ。
 しかしそれは目に見えない部分で〈大地人〉を搾取しているから成り立つ構造でもある。現在、ミナミに起居する〈冒険者〉は約1万。そしてその三倍の〈大地人〉がいる。〈大地人〉が営む飲食店や宿舎も多いが、〈大地人〉の大半は〈従者〉だ。
 〈従者〉とは〈冒険者〉が身の回りの世話を任せるために雇う〈大地人〉である。〈冒険者〉からは雑事の解放という意味で需要があり、〈大地人〉からは高額報酬を得られる雇用と言うことで歓迎されている。だがその一方で様々なトラブルの温床ともなっている。ミナミの繁栄は様々な歪みや汚れを隠した上に築かれたものなのだ。
 カズ彦の思いを他所に会議は進行していく。
 ミナミの行政が現在手がけている施策の中で最も大きなものはギルドパス発行だ。
 〈Plant hwyaden〉所属の〈大地人〉、およびミナミ在住の〈大地人〉は〈Plant hwyaden〉事務局の発行するギルドパスを受け取ることが出来る。いくつかのランクのあるギルドパス所持者は、そのランクに応じた飲食店や宿舎を完全に無料で利用できる。〈Plant hwyaden〉メンバーは小銭を持ち歩く必要がなくなるのだ。またこのパスは購入ではなく3ヶ月ごとの更新があるものの無料貸与であるために、ミナミの発展に大きく寄与すると目されている。
 華やかな報告を聞きながらカズ彦は決意を新たにする。
 きっとこれからさき、より醜く大きなトラブルが多発するだろう。
 ギルドパスシステムの利点は理解出来る。モンスターとの戦闘を忌避する〈冒険者〉にたいして一定の生活を保障する意義は大きい。また素材の買い取り管理など〈Plant hwyaden〉はより有意義な政策を実行できるだろう。しかしその中で犠牲になるのは〈大地人〉だ。〈壬生狼〉(みぶろ)は市中の正義を守るために在る。それはつまり弱者を守ると言うことだ。多くの〈冒険者〉が見て見ぬふりをする〈大地人〉の悲惨を軽減するために、カズ彦たちは戦っている。

 会議はいつの間にかレイドゾーンの調査報告を経て、ナカスの情勢、さらにはアキバの現在の状況に及んでいた。
「では、アキバは東北に軍を出したのですね」
「そのようだな」
 インクティスの問いにナカルナードが応える。
「メンバーは“狂戦士”クラスティ率いる五レギオン。“黒剣”や“帽子屋”、“飛竜爺”も同行している。“一番”からの報告だ」
 アキバもミナミと形は違えども〈大地人〉との関係に腐心しているらしい。
 斎宮家という〈大地人〉の頭領とのコネクションを持つミナミと比べあちらは〈自由都市同盟〉という関東以北を納める〈大地人〉組織との共生を選んだ。〈十席会議〉の多くの参加者は、その判断がアキバとミナミの変革速度の差だと考えている。
 ミナミの方がアキバよりもはるかに早く安定を手に入れたし、生活サービスや、新技術開発など、すべての面において優れた成果をだしているのだ。異世界へ幽閉された〈冒険者〉にとって何より重要な生活の安定をミナミは獲得しつつある。それはミナミに住む〈冒険者〉の幸福だ。
「“腹黒眼鏡”もいないよ」
 アイマスクをずりあげた第十席が会議に言葉を投げかけた。
 帆布と木枠で作った南国風のリゾートチェアの上で先ほどまではすやすやと眠っていた“変幻道化”のんびりとした声に会議は気を呑まれたように一瞬静まりかえった。
「“腹黒眼鏡”もいないよ」その静寂をどう解釈したのか十席は繰り返す。「東北遠征に同行したかどうかは知らない。けど、姿を消したみたいだ。さて、どうする? インクティス」
 悪戯そうというのにはいささか物騒な笑み浮かべたKRは最下段からかつての仲間を見上げたのだった。









 分厚い木製のドアを閉めると直継は体中から雪を払った。
 外は直継にとって吹雪と言うほどではないが山風に雪が舞っている。時刻は浅い午後のはずだったが分厚い雲のせいで薄暗く温度も低い。
 耐寒装備をつけているせいで吹雪の中で凍てつくというようなことはないが足を取られてかなわなかった。直継は守護戦士であり身に纏うものは金属製の全身鎧なのだ。本来であれば雪の上を行動できるような装備ではない。にもかかわらずこんな天候の中、見回りを行えたのは、ひとえに〈冒険者〉の身体能力のおかげだった。
「直継ー?」
「おうもどったぜー」
 ロッジの奥からかかるシロエの声に直継は返事をした。
 ベルトを緩めて籠手を外してゆく。この籠手は職人製の最新式製作級アイテムで、〈エルダー・テイル〉時代にはなかったものだ。レベル九0の直継がレイドで手に入れたものよりも汎用性が高く愛用しているが、〈大災害〉以降の手作り品のため、メニューからの着脱が出来ない。
 籠手と言うよりはある種の武器のような重量感を持つ装備をやっとはずし、他の装備品も次々と〈魔法の鞄〉に放り込む。無骨な鎧の下から現れたのは七分丈の部屋着だった。地球にいた頃と変わらないラフな格好である。
 外は確かに凍てつくような冬山、このロッジを作った人間は凍てつく山地の冬をよくよく心得ていたのだろう。丸太で作った壁は二重になっていて、その間には藁がつめられているようだ。
 分厚いタペストリーとあわせて、部屋の中はそれなりに快適な室温が保たれている。
直継は登山用の分厚い靴下を脱いで室内履きにつま先を突っ込んだ。家に帰るとすぐに靴下を脱ぎたがるのはオヤジ臭いと言われもするが、子どもの頃からずっとそうなのだから放っておいて欲しいと直継は思う。
「どうだった?」
「異常は無し。雪はちょろちょろ風ぱっぱ」
「泣いてもやまなそうだ」
「泣くのはちみっこくらいのもんだって」
「いないからってまたそんな事を」
 日本風に言えば十畳ほどの部屋だった。
 暖炉が赤々と燃え、分厚い敷物の上に座り込んだシロエは、周囲に多くのメモや地図を広げている。ざっと見回しただけでも数十枚はくだらない。それらの中には直継にとって見覚えがあるものもあった。この近くの地図――赤いインクで注釈や覚え書きがびっしりと描かれたそれは、この一週間で直継が行った報告をとりまとめたものだ。
 ロッジの中は暖かく快適だとはいえアキバの仲間の元を離れてから一週間にもなったわけだ。直継はやれやれといった気分で辺りを見回した。
「小さいおっさんは?」
「あの人、そんなにおっさんじゃないよ。歳だって僕らとさして変わりないんじゃないかな」
「笑い方がおっさんなんだよなあ」
 トレードマークの白いローブコートを脱いで部屋着のシロエは、直継に視線を向けないまま手元のメモを慎重に重ねはじめた。
「手伝おうか?」
「いや、いいよ。すぐ終わる」
「そかそか」
 集中しているのだろう。
 そんなシロエの邪魔をしないように直継は毛皮の敷物の上に腰を下ろす。
「……」
「……」
 シロエは重ねたメモの隣に今度は分厚いノートを取りだすと何らかの書付を作っていく。この世界にはパソコンもワープロもない。情報の整理が大変だとシロエがこぼしていたが、かといって手伝おうとすると断られてしまう。昔から頑固なのだ。
 出会った時からかな、と直継は思った。
 〈放蕩者(デボーチェリィ)の茶会〉(・ティーパーティー)に参加したばかりの頃、どうせだからオフでメシでも食おうぜという話題が持ち上がった。オンラインゲームであればあたりまえのことだが茶会のメンバーは日本のあちこちに住んでいる。だからそんな食事会も全員参加はとても無理だ。しかしそれでも関東に住んでいる五名があつまった。
 初対面のシロエはプーアール茶を飲んでいた。
 それ烏龍茶だろ? といった直継は、両者の違いについてシロエから説明を受けたものだ。その説明は三十分にもわたり、最終的には台湾の政治状況や茶葉投機にまで及んだ。あの頃EUでは〈崩落〉(バイタルフォール)がおこって大学生でもそんな話題には無縁でいられなかったのだ。
 そんなオフ会をきっかけに直継とシロエの交友は始まった。
 当時はふたりとも大学生だったし自転車で一時間も走れば遊びにいける距離に住んでいたのも大きかった。学外の友人というのは貴重なものだ。出不精なシロエを連れてあちこちに出歩いたりもした。
 カナミのわがままに振り回された事も数え切れない。
 小田原のかまぼこ工場に行く。なんて言い出したときは本当に拳骨してやろうかと思ったほどだ。それでもいざ行ってみれば楽しかったし肝心のかまぼこはびっくりするほど美味しかった。あのあたりはカナミの人徳というかセンスも大したものだといえるな、と直継は思う。
 そんなわけで直継とシロエのつきあいは長い。
 こうやって無言のシロエの隣で足を投げ出してリラックスすることには慣れている。学生時代はよくやっていたことだし、〈記録の地平線〉でもしょっちゅうだ。
 暖炉から発せられる熱が、雪原に埋もれていたつま先まで回ってくる。じんじんと痺れるような感覚が融かされていき、温もりが戻ってきた。
 直継は身を捻って〈魔法の鞄〉をあさると金属製の水筒とコップを取り出した。
 こぷこぷと注いだのはモグミルクだ。モグの実を砕いて入れた地球で言えばバナナミルクに似た飲み物である。
 「む」という声で同じ物をシロエに差し出すと、「ん」という返事で視線もあげずに受け取られた。ほんのりと甘いモグミルクをお互いすする。友人同士なんてこんなもんだ。ハイテンションで気のきいた会話なんてよそ行きである。
「シロとおっさんと雪山で監禁祭り」
 それでもボソリとつぶやいてみたのは悪意があったわけではなく暇だったのでなんとなくだ。
「なんだ人恋しいの? 直継」
「まあなあ。リゾートにしちゃあたりになんもねえし」
「田舎だよね」
 シロエの返答に直継は呆れ返る。
 このロッジは閉鎖されたゾーンだが、そのロッジが置かれている外の雪山であり、一辺がおおよそ六〇キロメートル四方のフィールドゾーンだ。そのフィールドゾーンに〈冒険者〉は直継ひとりだった。さっきロッジに入る前にゾーン内リストで確認したのだから間違いがない。そんな地域を田舎とは言わない。秘境だ。ティアストーンはヤマトサーバーにおける陸の孤島だと直継は言いたい。
「シロ出身どこだっけ?」
「東京」
 簡潔な答えに直継は深いため息をつく。これだから東京出身は困る。人が住む場所である田舎と本物の秘境の区別がついてない。
 呆れた直継はそのまま肘をついた手に頭を乗せて転がった。
 十日ほど前、シロエから留守番を頼まれた。しばらくアキバを離れるから〈記録の地平線〉を頼む、というのだ。直継は一秒で断ってここにいる。
 何処に行くつもりかも何をしに行くつもりなのかも聞いていなかったが、面倒くさいことをしに行くのだろうと思った。そしてそれは一般的には必要なことではなくて、でもシロエは必要だと思っていることなのだ。顔を見てすぐに判った。
それが必要だとみんながすぐに判るようなことであれば、シロエという人間はあっさりと他人に頼む。みんなにとって必要なことならばみんなでやることに躊躇いはないだろう。自分でやろうとするのは必要性の説得が難しいからだ。
 〈クレセント・バーガー〉の一件以来改善したのかと思っていたが、生来の気質というのは一度や二度のきっかけでは全治しないらしい。
 意地っ張りだなまったく、と直継は思ったが、でもそれもシロエかと思い直した。
 シロエに悪癖があったところで、それを帳消しにするくらい良いところが沢山ある。問題はシロエ自身がそれをわかってないという点で、賢いくせに馬鹿なこの友人の背中をどやしつけるキックスターターが同行するべきなのだ。たとえばそれは旧友である直継などだ。
「そろそろなんでこんな雪山の密室に閉じ込められてるのか説明しても良いんじゃね?」
「閉じ込められてないよ。引きこもってるだけだよ」
「シロ、お前それ全然もてない祭り」
「平和って意味だろ、それ」
 シロエの場合半分以上本気で言っているのが困りものだ。
「……ここに引きこもってるのは居場所を知られたくないためだよ。いまは良いけれどこの先のことを考えると意図を読まれたくない」
 じゃれあいのようなやりとりを追えたシロエは、それでもぽつぽつと説明をはじめた。
「とりあえずの目的はお金だ。つまりは金策だね。そのためにはある人を説得しなきゃならない」
「あのおっさんか?」
 直継は同行者を思いうかべた。小柄なエルフの〈大地人〉学者は、隣の部屋に引きこもっている。文字通りの意味でだ。
「ああ、あのひとは違う。リ=ガンさんも今回の作戦に一枚かんでるんだ。説得に参加してもらうためにもつれてきた。僕の言う言葉だけじゃ信頼してもらえないかもしれないからね。あの人、ああ見えても、有名人なんだよ」
「有名人には見えねえな」
「“ミラルレイクの賢者”でも?」
 そういう人か、と直継はシロエの言葉に納得する。
 ミラルレイクの賢者はMMORPG〈エルダー・テイル〉における有名なNPCだ。とはいえ、直継はその姿をゲーム画面上で見たことがあるわけではない。ゲーム内での伝説や噂話に出てくる賢者だ。茶会時代にやりこんだ「ヘイロースの九大監獄」という大規模戦闘のバックストーリーにも登場したはずだ。
「本当にいたのか」
「うん、いたんだよね。それが」
「そもそも、なんで金策でこんな山の中に? 金が必要なら〈円卓会議〉から借りればいいんじゃねえか?」
「うん」シロエはあぐらをかいたまま、難しい顔でうなると「ちょっと額が大きいんだよ」と嘆息する。
 直継は頭痛がしてくる思いだった。
 この場合の「ちょっと」はまったく信用できない。前回ギルドホールの買収を企てた時だってシロエはもうちょっと涼しい顔をしていたはずだ。
「幾らくらいさ?」
「総額で、八十兆ってところかな」
 それはバカげた、まさしくバカげた金額だった。
 その金額は計算上はヤマトサーバーにいるすべての〈冒険者〉の総所持金を一万倍以上上回る額だ。ヤマトサーバーだけではなくこの世界すべての〈冒険者〉からかき集めることさえ出来ない、そもそも実在しないような額になる。直継は口をひらいてシロエを見る。シロエだって、困ったように眉根を寄せて、うーんと唸っていた。
 しかしシロエが唸っている姿を見て直継は判った。シロエは冗談や出来心で言ってるわけではないらしい。どうあってもその金額が必要だと考えているのだ。
「あて、あるのか?」
「全部は無理なんで、何回かに分けて――ちょこちょこと」
 どうわけたって“ちょこちょこ”になるような額でないことだけは確かなのに、シロエは困ったように笑った。
「仕方ないなあ。もうちょっと話せよ。考えた作戦ってやつをよ」
「作戦なんてないんで。わりとでたとこ土下座だよ。とにかく説得して」
「誰を? どうやって」
 二人がモグミルクをすすりながらそこまで話した時、隣室のドアが開いてローブ姿の男が現れた。
「シロエさん。どうやらお客人が到着したようですよ」
 面白がるような表情を浮かべた目つきの悪い〈大地人〉魔術師は、クスクスと笑うと、直継の肩を叩いてくる。〈大地人〉にしては珍しいくらい遠慮のない態度のリ=ガンに直継は呆れるが、リ=ガンのほうはけろっとした態度で語りかけるのだ。
「直継さんもどうか見ていてください。説明を受けるまでもなく、シロエさんの望む交渉はもう開始されます。さあこれはすごいことですよ。あるいはこの交渉こそ戦略級、いや国防級の魔法かもしれない」
 国防級とはどういう意味なのか? 直継のその質問は途中で打ち切られた。
 ロッジのドアがノックされたからだ。
 たった二〇分前まで、半径一〇キロメートルほどの地域には〈冒険者〉はいなかったはず。それならば訪問者は〈大地人〉なのか。しかし〈大地人〉がこの雪深いティアストーン山地の奥深くにまで足を運ぶことが出来るのか。
 シロエとリ=ガンが見つめる中、直継は剣を〈魔法の鞄〉から取り出し、警戒をしながらドアへと向かうのだった。


ここから七巻エピソードとなります。
後で章機能整理します。新章でいきなり投稿って出来ないのかな。
+注意+
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