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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

夜明けの迷い子

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051

 背中を突き飛ばされるように列が動き始めた。
 考え事をしていたアカツキは急かすような人の波に押されて動き出す。なにを考えていたかも霧散してしまった。背の低い彼女は巨大な交差点を陰鬱な気持ちで足早に歩く。
 アカツキの両脇や前後を背の高い黒い人影がうねるように進んでゆく。至近距離から車のクラクションが聞こえた。交差点に鼻面を突っ込んだままの商業車両が身動きが出来なくなって苛立たしげにならしているのだろう。金属的で甲高い音が響き渡るが誰も気にかけていない。
 あの音が鳴るたびに叱責されたような気分で身をすくませてしまうのは自分だけなのだろうかとアカツキは考える。早く誰かがなんとかしてあげればいいのにと思わないでもないが、解決したことは経験上一度とてない。周囲を流れる人の壁は威圧的だ。サラリーマン。OL。学生。さまざまな年齢のさまざまな職種の人々が機械的に歩いて行く。
 声高に話す人もいる。携帯電話を口元に当ててがなるように商談を繰り広げている。部下にたいして怒鳴る声が怖くて、アカツキは首をすくめた。愛想の良いデートの約束の声。甘えるように携帯電話に向かって話す女性は少しも笑みを浮かべていないことを、アカツキは知っている。
 そう、知っているだけだ。周囲の人々の表情は見えない。このような人混みの中では、アカツキから他人の顔を見ることはほとんど不可能だ。空間が不足しすぎていて、見上げてすら十分な確認が出来ないのだ。
 ただこづくように押され、急かされるように歩き、なぜだか判らないが怯えるような、イライラとするような陰鬱な気分で歩き続ける。
 街中には音が溢れていた。遠く響く緊急車両のサイレンの音。自動車のクラクション。不機嫌な獣のような排気音。皆が勝手に携帯電話に話しかける集合音は背景で海のようにうねり、ネオンや、あらゆるテンポから流れる音楽が混じり合って、味のわからなくなったピザソースのようにそこら中に塗りつけられている。
 うつむいて歩くアカツキには流れる音楽も会話も内容を理解することが出来ない。混じり合って耳を圧するばかりで、時に浮き上がってくるワンフレーズや会話の欠片を捉えられそうになるが、圧倒的な量の情報に押し流されてしまう。
 そう、それは暴力的な意味での洪水だった。アカツキは溺れてはいなかったが、それはただ単に、口と耳目を閉ざす方法を心得ていただけだった。濁流に飲まれて流されていくという点では、溺れている人とさして変わりがない。
 人の波はアカツキを飲み込んだままガード下をめぐりビルの谷間の坂道を登ってゆく。これだけの人ごみがどこにゆくのか? 天を射竦めようと林立するガラスとコンクリートの積層体が地表をうめつくし、彼らはそこへと入ってゆきまた出てくるのだった。異形の巨人が咀嚼と排出を同時に行なっているような高圧的な姿がこの街のほとんどすべてだった。アカツキたちはビルに飲み込まれるために移動し、ビルから吐き出されたあとは別のビルに飲み込まれるために圧縮済みの街を彷徨う。
 赤茶色の煤をこびりつかせた植え込みの常緑樹は薄汚れた存在だった。まるで「ここは緑に気を使う自然に配慮したビルですよ」という、アリバイめいた言い訳に使われるためだけに存在する仮初の植物。とってつけたとしか言いようのない存在。彼らは踏み荒らされこそしないものの、アカツキが今押し流されている人の波の圧力を年間八七六〇時間うけ、もはや取り繕うことさえできずうなだれている。
 アカツキはそれをちらりと一瞥しただけで歩を進める。周囲の黒い人ごみの速度にけっして遅れないことだけが、この街に暮らすすべての市民のスタイルであり義務なのだ。その歩調を乱すととてもよろしくない事態が発生する。
 アカツキの視界の中ではアスファルトが流れてゆく。うつむいて歩くアカツキの視界は、多種多様な靴に殴打されるアスファルトが主役なのだ。昨晩の雨で流されたはずなのに、もはや汚れて疲れきった路上には、コンビニの箸の折れたものや、得体のしれぬチラシ、ビニール袋、へばりついた銀色だった紙、泥水を吸い込み誰に拾われることもなくなったキーホルダーなどが現れる。それらはもちろん今初めて見かけたものであり、認識するまでもなく雑踏に蹂躙され、歩き続けるアカツキにとっては過去へと流れてゆく。しかし同時に、唯一であるそれらは、何度でも、何度でも、路上に現れる。
 ひとつのビニール袋は当然どこかの店で販売された商品を包んでいたのだろうが、路上に現れるゴミとしてはすでにその固有性を失って久しい。いま雑踏に踏みつけられ無残に破け果てたビニール袋と、5分後にでも現れる袋の間にはもはやあらゆる意味で差異性はないのだ。そしてそれは、誰にでも。たぶん、アカツキにも。
 時間の流れはとてもせわしないとともにカタツムリのように遅い。突然の豪雨のように不定期に挿入される爆音にもにた広告音楽が、アカツキの気持ちとは無関係にアカツキの時間を切り刻む。それらがペースメーカーになってアカツキの生活を支配する。しかし、なにも考えられないほどに忙しいかといえばそんな事はない。一方的に裁断された細切れの時間の中には勉強も遊びも入れるだけのスペースがないから、必然的に短時間で出来ることを行うことになる。
 周囲の人間にとってそれは携帯電話に向けて大声で喋ることであったり、スマートフォンで無気力な課金を続けることであったりするようだ。そういった行為に興味のないアカツキにとって切り刻まれた時間は気のめいるような自己認識だった。歯を食いしばってその無為に耐えなければならない。怒りにも似た感情はすでに冷え切って自己嫌悪になりはてている。こうして最小単位に分解された生活を過ごす自分は人間とはもはや言えないのではないか。家畜のようだとアカツキは思う。その証拠にこの場所から脱出する方法を自分は持たない。
 列が一斉に止まった。信号だ。数回瞬いて赤く変わったそれは、同時に直角に交わる側の通行を可能にする。猟師に追われるように急ぐ自動車の群れが耳障りな音を立ててアカツキの目の前を通り過ぎてゆく。この都心部において次の信号までの距離は五十メートルもないことをアカツキは知っている。それが青だったとしても、その次かその次でこの車たちはまた止まることになるのだろう。たかがその程度の距離であるのに我慢できないかのように加速をしてガスをまき散らかす車たちの意図が理解出来ない。運転の出来ないアカツキには判らない秘密でもあるのだろうか。
 進路上の空白を嫌うかのように突進する車たちを見るともなく見つめているアカツキはひとつくしゃみをした。この街に通うようになってから頻繁になったような気がして、鼻をこする。こすったあとにはわずかな後悔が残った。この女性らしくない仕草をいつもやめようとしているのだが改められる気配はない。いがらっぽいような酸っぱいような車の排気のせいでアカツキの鼻はいつもくしゃみをしてしまうのだ。
 足早に歩き出したアカツキは人波の先頭に乗るように進む。歩き出した、といっても歩幅が狭いアカツキにとってはどちらかといえば小走りにちかい。
 ふと疑問がわいたのは、自分がどこへ向かっていたかだった。こんな苦痛を押して向かっているからには行き先があるはずだ。しかも、待ち合わせか、定刻か、なんらかのスケジュールでそこへと向かっているはずだ。そう――へと向かっていたはずだ。学校。そこは学習施設だったように思う。たぶん大学だ。だがそれがなぜかアカツキの中から消え失せていた。
 混乱するよりも先に失望が襲ってくる。このベルトコンベアーのラインじみた街の中で行く場所がない不安感に押しつぶされそうになる。笑い声。射幸心をあおるようなパレードの電子音。車のブレーキの悲鳴。そして響く山手線の通過音。喉が詰まったように痛み、視界がぼやける。立ち止まりたい気持ちが溢れるのに、他人に迷惑をかけないようにアカツキは必死に歩いた。点滅する信号を渡り、コンビニの前を通り過ぎ、銀行の角を曲がり、見慣れた人混みの中を先へ先へ。ここではないどこかへ。もしかしたらあのビニール袋と同じようにここにいる全員が行き先など持っていないのかもしれない。置換可能なアカツキにも。しかしアカツキにとってアカツキは唯一のアカツキであり唯一のアカツキである証が必要だった。それが例えどこになかったとしても。
 気がつけばアカツキはコンクリートの階段を二段飛ばしで上っていた。寒々とした非常階段はどこかの団地のさびれた風景を思い出させた。非常になじみのある良く見知った光景ではあったが、それは具体性に乏しく、アカツキはそこがどこだかよくわからなかった。重要なのはアカツキが階段を駆け上っていて、それは少しも心躍るモノではなく、逃走の過程であると言うことだった。
 なにから逃げているのかは具体的ではなかったが、それは具体的な想像を行った瞬間追いつかれてしまうことをアカツキが知っているからだった。いってみればビニール袋だ。雑踏に蹂躙され、濡れたようにへばりつき、破れかけたビニール袋が、アカツキの背中に、いや、階段を蹴る足の裏にべっとりと張り付いて、かさかさとした音を立てている気がした。耳を澄ませばそんな音は聞こえない。張り付いているのは間違いだ。しかし、なぜかアカツキは自分の足を見るという、たったそれだけのことも出来ずに先へと急いだ。気持ちの悪い切迫感が背骨の上を冷たい針のようになで回している。
 酸素が少ないかのように呼吸がままならずに息が切れる。間違っていると思うが正解が判らないために間違いである証明も出来ない。コンクリートの階段を上り、踊り場に飛び出し、慣性を振り切るように身体を傾けて折り返しさらに階段を上る。その繰り返しはまるでネズミが回し車のなかをかけ続けるように徒労の滑稽さがあった。どこからか響くコンクリート掘削音に追い立てられたアカツキは必死で逃げている。まるでコンクリートの階段そのものが嫌なように。でも、逃げるためにその階段を駆けなければならない。その連鎖はどこまで行けば終わるのか。
 何十個目か、あるいは何百個目かも判らない踊り場にたどり着いたアカツキは、とうとうそれが踊り場などではないことに気がついた。足下がクリーム状のコンクリートに埋まり、踏み外し、アカツキは排ガスにまみれた雑踏を引き連れて落下した。無限に落ち続ける悲鳴と烈風の中で、アカツキは確かにあのビニール袋を再び見たように思った。


 ◆


 白い浜だった。
 澄み切った空がつづいている。
 水彩絵の具を軽やかに載せたようなセルリアンの無窮はさざ波に充ちていた。

 アカツキはその浜をひとり歩いた。
 冬の渚特有の人気のない広大な空間にひとりだった。
 さくりともろく崩れる砂にアカツキは畏れを覚えた。

 うつむけば自分の小さなつま先がまた一歩。
 穢れない純白の中にまたひとつ足跡をつけた。
 遠く遠くで飛ぶ小さな影を見た。海鳥だろうか。

 さくり、さくり。
 耳に入るのは、その小さな足音と、浜を洗うセルリアンの潮騒だけだった。
 肌寒さにコートをしっかり抱きしめ、アカツキはあるいた。
 ゆっくりと、急かされることなく。

 顔を上げれば水面がキラキラと乱反射をしていた。
 冬の光は熱を持たずただまぶしかった。
 小さな足音と、小さな足跡が砂浜に、細い鎖のように続いた。

 アカツキにはここがどこだかはわからなかったが、先ほどまでの焦燥感はなかった。
 ここは目的地ではないけれど、安全な場所ではあると思った。
 静かな浜辺を散歩するのは心落ち着く楽しい体験だった。

 どれほど歩いただろう。
 水辺に近寄って靴の裏をセルリアンにふれさせてみたり、くるりと一回転してみたり。
 あしあとを蜜蜂のダンスのようにもつれさせてみたり。
 たったひとりだったので、真面目な顔をしてアカツキはそんな事をしてみた。
 すこし面白くて小さく笑った。
 アカツキに忠実な足跡はどこまでもアカツキを慕ってきた。
 それさえも綴られる日記のように楽しかった。

 遠くを見るためには眼を細めなければならなかったが、その視界に人影が映った。
 すこし困ったように身体をゆらし海を見つめている長身の影だった。
 アカツキは身体が軽いことに驚き、そのあとに自分が走り出したことを知った。
 遠いと思えた距離を驚くほど少ない歩数で駆け寄って、速度を緩めた。
 体当たりをして抱きつけるような自分ではないのだ。
 しかし、それでも慕わしき気持ちに誘われて人影を見上げた。

 アカツキに気がついたシロエは、にこりと顔をほころばせた。
 いつもはあんなに難しそうで狷介な表情をしているシロエが、そんな風に笑うのを見るとアカツキはいつもとても満足な気持ちになった。
 照れたような、まぶしそうな、ばつの悪そうな。
 眼を細めて笑ったシロエはすこし迷ったあと、アカツキに向かって目で尋ねて、浜を歩き始めた。
 アカツキは、そのコートの裾を追いかけるように共に歩き始めた。
 シロエは意識的にゆっくりと歩を進めてくれているようだった。
 シロエは言葉を発しなかったしそのとなりを歩くアカツキも同じだった。
 大気の緩く動く音とひっそりとした潮騒だけが響く浜辺は気品のようなものがあった。
 ふたりともその静けさを壊すことをためらったのだ。

(主君の手は大きいなあ)
 二三度頭をかいて、眼鏡をなおす仕草をみてそう思う。
 その手が白いコートのポケットに入れられるのを見送って、歩調を早める。
 いや、遅い方がいいのか。
 すこし遅れたくらいの方が、あのコートの裾を掴む口実になるかもしれない。
 アカツキはそんな事を考えて、口をへの字にした。
 少しも不機嫌な顔を作れていない。
 シロエはそんなアカツキを振り返ってすこし待つと、ふたりはまた砂糖細工のような砂浜をさくり、さくりと歩き始めた。もろい砂が足の裏で姿を変えるのがわかる。やや冷たい風がほほをなでるがもはやそれは少しも気にならなかった。身体の中心部に確かな暖かさがある。
 アカツキにとってはすべてが物珍しく、楽しかった。シロエの大きな靴がざくりと砂を噛む。自分より深いその足跡も楽しかった。ときおり訪れるすこしだけ強い風に、シロエのコートの裾がはためくのは可愛らしいと思った。
 アカツキのそれに比べれば五倍は大きそうなシロエのポケット手を入れてみたいとも思ったがそれはさすがに出来なかった。その代わり振り返り、シロエと自分の足跡が砂浜の上に続くのをみて満足した。

 アカツキの小さな鼻の上にひんやりしたものがふれて目を丸くした。
 音もなくはらはらと舞い散るのは白い雪。
 すこしの冷たさもかんじさせないそれは、指先で触れると淡く消えた。
 雪が降ってきた。
 シロエにそう伝えようと見上げたアカツキは、穏やかな笑顔で頷かれて、報告の必要がなくなったことを知った。シロエに引き上げてもらったダッフルのフードをかぶり、さらに歩いた。
 疲れは感じなかったがずいぶん歩いたと思う。
 ターコイズの空はますます透明度を増して深い藍色に染まり、天空は宝珠のような輝きを浮かべた。
 きらめきを写す水面はなにもかもを透き通らせ、雪を受けとめて白く揺らめいていた。
「こんなに静かなところだとは思わなかったよ」
 つぶやいたシロエは足を止めた。
 いつの間にかふたりは小さな入り江にたどり着いていたのだ。
「うん」
 アカツキはいらえを返した。
 本当はもっと気の効いた、もしくは女性らしい答えをしたかったのだが、思いつかなかったのだ。シロエはそれでも機嫌を悪くした様子も見せずに、夜になったはずの海を見つめていた。
 こうん。
 こおん。
 大きなクリスタルをそっと弾いたかのような音が聞こえた気がした。
 巨大な海原のその果てから遠い信号が響いているようだった。
 突然、アカツキの脳裏に新しい認識が生まれたが、それは確認の一瞬の間に霧散した。
 アカツキの中をアカツキではない、透明な何かが吹き抜けていったのだ。
 自分自身ではないものなのに、その喪失にアカツキの気持ちは悲哀で満たされた。
 そっと励ますように自分の肩に触れた大きな手に、アカツキはシロエも同じなにかを感じたのだということを知った。その表情は険しくはなかったが厳しかった。
 シロエはどこからか取り出したカッターナイフの刃をちきちきと伸ばすと、不器用そうに、自分の前髪の一部を切った。砂色のような不思議な光沢をした黒い髪は一房と言うよりもずいぶん少ない量だった。
 アカツキはシロエからカッターを受け取ると、自分のポニーテールの先端をやはり同様に切り取った。なぜそんなことをしているかはまったくわからなかったが、それが必要な行為だということはわかったのだ。

 ふたりは、その髪をセルリアンに足下をぬらす海原に投げ入れた。
 どこかで了承するようなクリスタルが響き、はらはらと冷気をもたない雪が踊った。

 それでこの淡い砕片はみんなの思い出なのだとアカツキはようやく理解した。
 死が人の記憶を奪うわけではなく、わたしたちはここに記憶を捧げて再び立ち上がる機会を得るのだと。たとえそれを思い出せなかったとしても、望んで再び立ち上がるのだと、アカツキは思い至った。
「すごいね」
 シロエの漏らした言葉はそのままアカツキの感想だった。
 はらはらと舞い落ちる雪はどれほどの思いなのか。
 どれだけの人がこの浜で決意を新たにしたのか。
 その膨大な数と重さにアカツキはめまいを覚えた。
 そしてそれは約束された正統な権利ではなく信じられないほどの貴重な幸運なのだとわけもなく確信した。
 隣にシロエがいることも。
「アカツキは倒れちゃったの?」
 シロエの言葉にしばらく考えていたアカツキは、やっと頷いた。
 そうだ。
 自分は死んだのだ。
 殺人鬼の刃にかかって。
 それは、いい。
 大神殿で復活できるからというわけではないが、それは、まだいい。アカツキが望んで戦い、そして倒れたのだ。そこに後悔は、ない。
 だが、自身が死んだという認識はアカツキの記憶を呼び覚ました。それはレイネシアの屋敷を飛び出して空を駆けた記憶であり、ソウジロウが示した巨大ななにかであり、彼を守る神祇官のひたむきな横顔であり、リーゼの、ヘンリエッタの、そのほかあの茶会にあつまっていた女の子たちの華やいだ、でも真剣ななにかであり……。
 ――それで終わりだった。
 なにかとはなんなのか?
 アカツキはそれを“なにか”としか言えない自分を知った。
 あの戦いを経て、自分は少しも前へと進んでいないのだ。
 わからないことが悔しくて、申し訳なくて、ただただ泣くことしかできなかった。
 自分はその大事ななにかにふれた。やっと気がついた。でも、それがなんなのか、どうすればいいのかはまったくわかっていない。それがどんなに貴重で重要かはわかっていながら、活かすことが出来なかった。あれは贈り物だったというのに。
 シロエに説明したかった。
 自分はなにかとてもキレイで、素晴らしいものを見つけたのだと、伝えたかった。
 なにか大事なものがあそこにはあったのだ。確信は出来ないながらも、それは差し出されたモノでもあったように思う。
 でもなにを見つけたかわからないから、言葉にならない。
 締め付けるような後悔に、アカツキはぼろぼろとみっともなく泣いた。
 伝えられないという事実が、大事ななにかを傷つけるような気さえして、アカツキには耐えられなかった。自分がふがいないばかりに、あのギフトの価値さえもくすませるのではないかと恐怖を覚えた。
 あそこには、確かになにかがあったのに。
 街の雑踏の中に。
 ソウジロウの不敵な微笑みの中に。
 死んだことが失敗なのではない。指先がふれたアレを手に入れられなかったことが、アカツキの失敗なのだ。
 いいや。もしかしたらあれは、最初から目の前にあったのかもしれないとさえ、アカツキは思った。だとしたらそれを見つけられなかった自分は、無数の失敗を重ねてきたことになる。誰に言われるともなく、アカツキはそれが真相なのだろうと納得した。
 不甲斐なさに再び涙が出た。こんなことだから、なにも出来ずに死ぬのだ。

「そっか。僕もなんだよね。死んじゃった」
 頭に置かれた手にアカツキが見上げると、シロエは、困ったような、優しそうな笑みを浮かべていた。心配してくれているのだと、アカツキはわかった。自嘲するかのように控えめな笑みは、アカツキのギルドマスターがアカツキに話しかけてくれるときの顔だった。
「主君もか」
「うん」
 そのあと、沈黙が流れた。
 シロエは困ったようにアカツキの頭に載せた手を動かしたが、きっとそれはなにかを喋ろうとして思いつかなかったせいなのだろうとアカツキは思った。シロエはそういう不器用なところがある。アカツキはちっともかまわないのに気を遣ってくれようとしているのだろう。
「失敗した。見込みが甘かった。――信じ切れなかった」
 それは弱音というよりは、自戒するようなセリフだった。
「わたしはわかっていない」
 だからアカツキも弱音を吐かないように応じた。
「不思議だなあ。ここでアカツキに会えるだなんて思わなかったよ」
 低い答えの続きは、無数の雪が落ちてからもたらされた。
 シロエの言葉の意味を考えて、アカツキはびっくりした。
 確かにそれはとても不思議だ。もうシロエにはずいぶんと会えてない。
 そういえば、シロエに会いたかった。
 とても会いたかったのだ。
 シロエに頭を撫でてもらいたかった。
 褒めてもらいたかったことも思い出した。
 それだけにこの邂逅は不思議だった。
 こんな場所で出会えるなんて。
 たったいままで、そんな事にも気が回らなかった。
 シロエと出会えた不思議に。
 アカツキはわからないながらもここが普通の場所ではないと感じている。その奇跡のような偶然に感謝した。
「うん。主君。不思議だ」
 歩いてきたまっしろい砂浜とセルリアンの海を思い出した。
 漂白されたように輝かしい光景の中で、こちらを振り向いたシロエがいた。
 駆け寄って見上げると、大きな手が額を撫でた。
 ただの偶然だ。
 でも、その偶然がアカツキを祝福してくれた。
 ほかに望むようなことは、なにもない。
 アカツキが届かなかったものは、きっとまだふれたままの場所で眠っているだろう。
 それどころか、それらは無数にあるはずなのだ。アカツキの見つけられなかった物陰に。いままで探そうともしなかったせいで見過ごしてきたほほえみの中に。
 手に入れてしまった幸運を傲慢にも当然と思っていた。手に入らなかった幸運を存在しないと思い込んでいた。幸運も出会いも助力も、おそらくは世界のあらゆる場所でアカツキに見つけられるのを待っているのに。
「だから、もう一度やろうとおもう」
「僕ももう一度かな。――みんなに教えられた」
 アカツキは、シロエのコートをぎゅっと掴んだ。
 足の下でもろく崩れてゆく砂の感触に似て、この記憶は残らないという予感があった。
 だからこそ、コートにしわが残ってしまうかもしれないと思いながらも、強く強く握りしめた。
 おそらくシロエとはまた離ればなれになるのだから、言えないまでも、そのコートを握りしめていたかったのだ。だがその願いも虚しく、パウダースノーのような果てのない砂丘は輝きを強めていった。
 汐のひいてゆく音はアカツキが捧げた一房の髪《ルビ:きおく》を含んで淡い。
 次第に混交としていく群青の天空へとアカツキは落ちていった。


 ◆


 大丈夫。
 アカツキは己の手のひらに残る感触に頬を緩ませてゆっくりと意識を浮上させていった。
 大丈夫。
 手のひらの中には、すこしごわごわとした布の感触が残っている。
 大丈夫。
 しかし、うっすらと目を開けたとき、アカツキは自分の小さな手が、目の前でなにかを握りしめるような形で固まっているのを見た。
 さらさらと記憶がほどけていくのがアカツキにはわかった。硬い寝台に横たわったまま、頬を流れる細い涙と一緒に、たったいままでその中にいたはずの夢の記憶が失せてゆく。
 浅い眠りのなかに置き去りにしてきたような罪悪感と寂しさを振り切るように、アカツキは固まっていた掌を拳へと変えて涙をぬぐった。
 アカツキは起き上がり、大理石作りの簡素な寝台に腰を下ろした。
 なぜだか、とても不思議な場所を通り抜けてきた気がする。
 静かで、寂しくて、優しくて、透明な場所だった。
 そこでアカツキは旅をして、出会い、気がついて、立ち上がった。
 なにか大事な話をしたような気がする。出来れば一緒に持ち帰りたかった。
 いまでも掌に感触がするようだ。おそらく。握りしめた布地の。わずかな暖かさと共にそれは急速に薄れていった。夢につきものの記憶の蒸発をアカツキはせき止めようとしたが、それが無駄な努力であることはわかっていた。
 水晶の鐘の音が遠ざかる。
 しかし、大事なものをひとつだけは持ち帰れた。
 おそらく一番大事なものだけは、あそこから持って帰ってくることが出来たのだ。

 アカツキは身体を探るとすべての装備が失われていないことを確認した。
 寝台から降りて慎重に動いてみる。
 〈大災害〉以降、死んだのは初めてなのだ。
 〈エルダー・テイル〉の常識からまた〈大災害〉以降の人の噂から、〈復活〉は幾ばくかの経験点ロストと記憶の喪失をともなうとアカツキは知っている。記憶の喪失の方は今すぐに思い当たることはなかった。
 〈記録の地平線〉のことも、シロエのことも、みんなのことも覚えている。もとの世界の記憶だって、家族や学校のこと、子どもの頃からの思い出、ざっとした部分については失われていないようだ。細かく調べれば忘れたこともあるのかもしれないと思うが、それには多少時間がかかるだろう。
 経験点ロストのほうも、身体に違和感はさほどない。レベルが低下するまでもない経験点の喪失は、〈大災害〉以降の話だと、身体に倦怠感を残すといわれている。だが、いまのアカツキの実感では、それが経験点ロストによるものなのか、大理石の寝台で寝ていたせいで身体がこわばったのかは判別が難しい。つまり、言い換えてみれば、その程度に過ぎないということだ。
 改めて周囲を見渡せば、そこは〈大神殿〉のなかだった。
 白大理石の部屋には幾つもの寝台が置かれ、壁は控えめな彫刻で飾られている。
 ここはアキバの街の〈大神殿〉だった。さほど多くはないがゲーム時代もこの光景の中で蘇生したことはあった。アカツキは小太刀の位置を直しながら歩き始める。
 やるべきことはたくさんあった。
 回廊からちらりと空を見上げれば冬の太陽が曇天の向こうにのぼっていた。
 角度からいって昼すぎのようだった。戦い始めたときは夜半だったはずだが、蘇生には半日ほどかかったのか。いや、そんなことはないだろう。おそらく蘇生されたと同時に緊張の糸が途切れて眠ってしまったというところだろうか。だとすれば、身体が筋肉痛じみているのもわかる気がする。
 見た目よりも大きな〈大神殿〉のゾーンをアカツキは進んでいく。
 やるべきことがある。
 やらなければならないことがある。
 一度負けたからといって諦めるわけには行かない。アカツキはいまや自分がどんなに怠惰だったかを思い知ったのだ。全身で戦っていたと思っていた。誰よりも必死だと思い込もうとしていた。そんなのは欺瞞だ。言い訳に過ぎない。出来ることはたくさんあった。本当にしなければならないことをアカツキは遠ざけていた。自分が好きなことだけを必死にやって、それを努力だと思い込もうとしていた。甘えていたのだ。
 ステンドグラスの照らす礼拝堂を抜けてアカツキは決然と進んだ。
 アカツキから見れば広い階段を下りればあっという間にアキバの街のはずだ。
 だが、そこで待っていたのは、アカツキが予想もしていない光景だった。

「だいじょうぶですか? 怪我なんて残ってありませんか?」
 油断していたせいであっさりと抱きつかれたアカツキは目を白黒させる。そんなアカツキの様子に「かわいいぃ~」ととろけるヘンリエッタは頬ずりをしながら振り回した。いくら小柄とは言え、女子ひとりをあっさり抱き上げるのは〈冒険者〉の腕力だからなのだが、ヘンリエッタはまったくそのことには気がついていないようだ。
「そろそろ起きるのじゃないかと思っていました」
 石造りのスロープの手すりに寄りかかっていたリーゼが声をかけてくれ、その後ろに、もこもこと着ぶくれたレイネシアが申し訳なさそうに頭を下げているのが見えた。その後ろで腕を組んで不敵に微笑んでいるキツネ耳の女性は、深夜の戦闘で見かけた西風の神祇官だ。
「……」
 アカツキは口を引き結んだ。
 どんどん自分の顔が暗く、険しくなっていくのがわかる。
 別にみんなが嫌いなわけではない。
 すべては身から出た錆。いままで同世代、同性の親しい友人を作ってこなかったせいで、話しかける方法がよくわからないだけだ。
 でもやらなければいけないことはわかっている。アカツキは喪われた夢の中から、それだけは持ち帰ったのだ。だから、自分を腹の上に抱き上げるヘンリエッタの手をきゅっと握った。びっくりしたように口を閉じたヘンリエッタを、リーゼを、キツネ耳の女性を、そして誰よりも困ったような表情のレイネシアを見た。
 地面に降ろされたアカツキはただ単純に頭を下げた。
「ぶしつけなお願いだとは思うが、皆様にすがりたい。“口伝”を教えてくれないだろうか。あの殺人鬼を、取り押さえたい」
 びっくりしたような表情をするキツネ耳の女性、そして背後でヘンリエッタが息をのむのもわかる。レイネシアは沈痛な表情だ。
「“口伝”ならばソウジロウ様も使えたでしょう? ナズナさん」
「ああ。そうだ」
「でも、それでも及ばなかった」
「そうなる」
 リーゼの問に、キツネ耳の女性、ナズナと呼ばれた大人っぽい容姿の美女はそう答える。
「それでも“口伝”を求めるのは、なぜです?」
 リーゼはそのまま話をアカツキへと向けた。
 アカツキは唇を噛んだ。
 うまく説明できなかった。おそらく、口伝が欲しいがための身勝手なわがままだと思われてしまっただろう。後悔が胸一杯になるが、ほかの言い方など、アカツキには想像できなかったのだ。
「アカツキさん」
 でも、そのとき、リーゼと視線があった。
 おそらくほとんど同年代の彼女は、涼やかな表情でアカツキを見つめていた。
 アカツキには想像も出来ないような巨大なギルドの一部としてしっかり立っている少女だ。ナズナと呼ばれた女性も、レイネシアも、ヘンリエッタだってそれぞれの居場所で、自分自身が役割をこなす以上に他の人と繋がっている。
 アカツキは決意を思い出した。ここで引いてしまったのならば、いままでとまったく同じだ。自分の全力でぶつかり、失敗し、でも自分は一生懸命努力したと自分を慰めてきたいままでと。それでも、どうしても勝ちたい勝負が、負けたくない一戦が、人生の中にはあるのだとアカツキは知った。誰に強請ってでも、みっともなく懇願してでも、越えたい壁があるのだ。
「あの殺人鬼を終わらせたい」
 アカツキは必死に訴えた。でも悲しいかな、口は上手に回ってくれない。
「“口伝”だけではない。あいつを止める方法があれば、なんでも教えて欲しい。すがらせていただけないだろうか」
「勝てると思ってるのかい?」
 ぶっきらぼうな問いかけをしたのはナズナだった。〈西風の旅団〉であのソウジロウを最後まで支援していた回復役《ルビ:ヒーラー》。長い黒髪と、着崩した和装の神祇官。その問いかけにアカツキはほとんど無策のままに答える。
「わからない。でも、勝っても、討っても終わらない。終わらせるなにかをしなければ終わらない……のだと、思う。終わらせようとしなければダメだ」
 アカツキは伝わらないもどかしさを振り切るように必死に続けた。
 自分の不器用さが恨めしい。
「それにたぶん、主君なら、できる。……から、しなきゃならない」
 疑問を抱いた視線がアカツキに刺さる。
 シロエなら出来るという言葉にだ。
 もうすでに決心していたとは言え、アカツキの言葉はのろのろと重かった。
「……主君は、いない。このアキバに」
 それがアカツキと〈記録の地平線〉が守ってきた秘密。
 シロエはいない。〈D.D.D〉が離れたいま〈円卓会議〉を守るために膨大な作業に埋もれているというのは嘘なのだ。シロエはたぶん、シロエに出来ることをしにいった。それがなんなのかは判らない。判らないけれど、アカツキは留守を頼まれたのだ。
 だから、シロエが守れるはずの災厄からは、この街を守らなければならない。
 約束したのだ。
「ナズナさんは出来るのか? とご質問ですよ」
 リーゼの言葉にアカツキはびくんと怯えてしまう。
 そんな約束は出来ない。
 保証なんて出来ない。
 そんなものを求めないで欲しい。
「……ひとりじゃ出来ないんだ。だから助けて欲しい。助けて、ください」
 それはアカツキにとっては耐え難い痛みだった。子どもであると言うことや無力であることを認めるのは身を切られるように辛かった。この小さな身体には所詮その程度の実力しか宿らぬのかと呪いにも似た気持ちが芽生えた。
 でも、アカツキの目の前で、シロエはそれと同じ願いを口にしたのだ。

 ぎゅっと抱きしめられたヘンリエッタの腕の暖かさにびっくりするアカツキに、ナズナは毒気が抜けたと言わんばかりのだらけた笑みを浮かべた。
「だいたいそんな話になりそうだって思っていたのさ。ソウジが手を引くっていったときからね。シロエのところは、意地っ張りばっかりだ。類は友を呼ぶのかねえ」
「半分だけ、合格というところでしょうね。教導部隊基準でいえば、重ねて演習の必要有り、です。現在、我が〈D.D.D〉において確認されている検証過程にある“口伝”は八つ――ミロードの許可はすでに得ています。アカツキさんに伝承するように、と」
 金色の髪の少女は穏やかに告げる。
「わたしにも、やらなければならないことがあります」
 押し黙ったままのレイネシアが青ざめた顔で頷いた。
「……本当に、こんなところ《ルビ:セルデシア》まできて、中学生をやり直すなんて」
 リーゼの小さなため息を合図に、小さでささやかな討伐隊は組織された。
 しかしアカツキにとっては、とても大きな一歩だった。
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