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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

アキバの街の日曜日

45/123

045

 弾む呼吸を抑えて灰色の階段を駆け上がったアカツキは、そこで動きを止めた。いつものように真っ直ぐ近づけば良かったのだが、それが出来なかったのは、乱れてしまった呼吸をシロエに悟られたくなかったせいだ。
 それに今の衣装はヘンリエッタに無理矢理着せられた、娘らしい衣装である。あちこちひらひらしたこの衣服は、見た目は可愛らしいのだが、軽すぎてこの世界の戦闘装束になれたアカツキには心許ない。まるで無防備な――例えば半裸で歩いているような気分になってしまうのだ。
 隠密性も決して高くはないから、こっそりシロエに忍び寄るにも不都合である。

 空中歩道にはりだした古代樹の影に寄りかかり、アカツキは息を整える。焦って駆け寄ってきたなどと、シロエには思われたくはないのだ。

 この数日で、シロエとはほんの少し距離が縮まった気持ちがしているアカツキだった。昨日の夜ギルドホールでシロエの髪に触れた。思ったよりひんやりしていて、でも自分のとはまるで違う、男性の髪。滑らかで、腰が強く、アカツキの細い指先をくすぐり落ちる。そのシロエの髪の毛の感触が、まだ指先に残っている。

 触っているだけで幸せになってしまい、笑みがこぼれるような体験だった。わざと憮然とした表情でシロエに楽しいと告げると、シロエは困惑した表情で問いかけ直してきたものだ。
 それもまた、楽しかった。

 だが、結果的に呼吸を整えるというその判断が、アカツキに盗み聞きをさせてしまうことになった。

 空中歩道からかがり火に照らし出された広場を見下ろすシロエの隣には1人の少女が居た。――ミノリだ。アカツキにとっても〈記録の地平線〉の仲間である。

 そのミノリと、シロエの会話が、アキバを渡る夜の風に乗ってかすかに届いてくる。

『わざと……なんですね?』
『うん』
『……ごめんなさい。シロエさん』
 初めは何の話をしているか判らなかった。

『別に謝るほどの事じゃないよ』
『でも、わたし。お節介をやいて、シロエさんを夕餐会に連れ出そうとしちゃって……。考えてみたら、そんな必要ないのに。11ギルドのシロエさんが、招待状を手に入れられないはずがないですよね。つまりそれって――最初から、レイネシア姫に嫌われるつもりだった、という事ですよね』
 その言葉に、アカツキは声が漏れそうになる。
 ――嫌われるつもり? シロエが?
 それはアカツキが考えても見なかったような視点だった。

 予想外のやりとりに、アカツキはシロエに声を掛けるのも忘れて、ただ耳を澄ませることしか出来なくなる。2人の会話は、秋の風にさらわれて途切れがちに続いていった。

 ミノリの言葉――嫌われるつもり、について考えてみるアカツキだが、その意味合いを理解するにつれて小さな寒気が背筋を走る。アカツキだってシロエの言葉を聞いていたから、今日、アキバに何らかのちょっかいが出されていたのは理解していた。
 シロエがそれを防いだことも、細かい手法は判らずとも認識している。

 でも、アカツキはミノリのように考えたことはなかった。
 ミノリのように、シロエがみんなにどう思われているかを考えたことはなかった。
 ミノリのように〈記録の地平線〉の立場がどうなっていくのか考えたことはなかった。
 ミノリのようにシロエから離れて、シロエのために戦ったことはなかった。
 ――ミノリのように、シロエの辛さを救おうとしたことはなかった。

 アカツキの薄い胸の中で、心臓の鼓動が疾走を開始する。
 昨日の夜まではあんなに近くに感じていたシロエが、どんどんと遠く離れていくのではないか? それは、純粋な恐怖だ。
 暗闇に置き去りにされる幼子のような心細さが、胸の中で声にならないうめきを立てている。

 シロエが遠くなる。
 いや、最初から遠かったのか。
 隣にいると思っていたのが錯覚だったのだろうか。

 シロエに救われたあの日から、ずっとその近くに寄り添ってきた。主君と呼びかけ、その影となり、シロエを守るために刀を振るってきた。その一方でシロエに守ってもらっている自分も感じてきたけれど、それすらも気持ちが良かった。

 でも、守りあっていると思っていたのは、アカツキだけだったかも知れない。
(すくなくともわたしは、あんな風に主君のことを理解しては居ない……)
 それを認めるのは辛かった。
 同じギルドの仲間であるあの中学生の少女に劣ると。
 負けているのだと、認める苦さ、苦しさは、足下の大地が凍てつき脆く砕け散っていくような落下感を伴っていた。

 アカツキが無意識に握りしめていたクナイさえ、今は力なく揺れている。アカツキも薄々気がついては居たのだ。
 自分の限界と、その意味について。

 〈暗殺者〉(アサシン)は確かに全クラス中最大の攻撃力を誇る。アカツキ自身、戦闘に於いてはプライドを持ち研鑽を続けてきた。その攻撃力や単体戦闘能力は、全〈冒険者〉の中でも上位に属するだろう。しかし、上位は上位であっても、上の中と云うところに過ぎない。

 アカツキには大規模戦闘参加の経験がない。
 それも仕方がない。彼女は今までソロプレイヤーとして、どこのギルドにも属さない孤高の人生を送ってきたのだ。ソロプレイヤーが大規模戦闘に参加するためには、大手ギルドの欠員募集や一時参加者募集に拾い上げてもらうしかない。〈放蕩者の茶会〉のような特殊な集団に属するという方法もあるが、これは非常に希な事例なのだ。そういったギルドとは無関係な〈冒険者〉を集めて集団を作る手間はかなり大きい。それならば新規にギルドを立ち上げる方が手間もかからなければ、名声を得ることも容易い。
 そもそも大規模戦闘とはチームワークや、戦闘に対する反復練習が必要な難易度の高いプレイスタイルなのである。それを固定メンバー以外で行なうというのは、全体の成功率を下げる事しか意味しない。大規模ギルド=大規模戦闘という事実は、それなりの裏付けがあるのだ。

 シロエやにゃん太、直継は、それぞれソロプレイヤーだったり小規模ギルドに所属していたりしたが、〈放蕩者の茶会〉という、サーバ最高峰の環境で修練を積んだ超一流の〈冒険者〉である。
 それに比べてアカツキは、もちろんソロプレイヤーとしては限界まで修行を積んだ一流だが、その装備品の充実度にせよ、連携の熟練度にせよ、知識にせよ「超一流」では無い。

(わたしはニセモノ……なのか……)

 抱きしめた自分の身体が、小刻みに震えている。
 自分が頼りにしてきた、これでシロエを守ると息巻いていた戦闘技術は、超一流のそれではない。判っては居たが、再確認したその事実は、アカツキのプライドを粉々に打ち砕いた。

 だが、それだけならばよい。大規模戦闘は、大人数の協力を必要とする難易度の高いプレイスタイルだ。経験のない〈冒険者〉なんてそれこそ無数にいるだろう。

 しかし、まだレベルも低い、一介の〈神祇官〉(カンナギ)が、アカツキの思いも寄らない方法で、アカツキの主君の横に並ぼうとしているのだ。それは、戦闘技術に誇りを持ちそれを中心に異世界を過ごしてきたアカツキには、衝撃的な事実だった。

『――現場での実務担当が10人増えたよりも、価値があることをミノリはしたよ。――ミノリは、偉かったよ』
 シロエの声がリフレインする。

 ミノリという少女は、シロエの考えを見抜いたばかりか、シロエの負担を減らすために己の戦場で戦ったのだ。アカツキの半分のレベルにも届かない、たかが中学生に過ぎない少女が、己の持てる力を振るって、アカツキを飛び越えた高みに登った。そしてその上で、ミノリは、シロエを心配したのだ。

 アカツキが想像もしなかったシロエの孤独を。
 彼女は慰めようとしたのだ。

 アカツキはその事実に打ちのめされた。砕けたガラスのような事実認識は胸に食い入り、シロエに掛ける言葉を、アカツキから奪い取ってしまったのだった。



 ◆



 夕餐会はなし崩し的に、広場における宴へと変わったが、それはアキバの街の住民全般に好意を持って迎え入れられたと云えるだろう。
 体力を使い果たしたレイネシアは、最後になると流石にぐったりとしていたが、長椅子に姿勢を崩して小さく手を振る姿は可愛らしいと評判だった。美女はなんにしても得なものである。

 一方でシロエはと云えば、2日目の夕餐会もとい宴はあのままミノリと見物をした。と、いってもシロエは未だに警備体制上の「参謀」役だったために、空中歩道から念話を飛ばしつつ、たまにミノリと話をする程度のことしか出来なかったのだが。

 そしてその夜が明けて祭りは3日目を迎える。
 最終日の昼間は、シロエ達〈記録の地平線〉(ログ・ホライズン)の全員で集まり、せっかくの祭りであるから『のみの市』見物でもしようということになった。
 秋物服飾展示会とは違い、『のみの市』では武器や防具を始め、家具や、ギルドハウスの施設、調度品。さらには書籍や巻物など。食料品や、モンスターのドロップアイテムを始め、本当に様々なものを売っている。
 遠方の街から、この『のみの市』を目指してやってきた行商人の〈大地人〉も大勢いた。
 にゃん太とシロエは、懐かしくなって、あのススキノからの帰りに寄った村の商品がないかどうか探してみたが、見つからなかった。にゃん太はその代わりに、素晴らしい出来の、豚の塩漬け肋肉を購入したりしたようだ。

 これだけの商品が揃っていれば当たり前だが、メンバーの物欲も全開になった。トウヤは新しい赤糸威(あかいとおどし)星兜(ほしかぶと)を購入したし、直継はポーションを買い込んでいた。

 ミノリとにゃん太から相談されてシロエとしてもギルド資金を開放することになり、それで共用水槽と、絨毯を何枚か購入した。冬に向けて、様々な物資が要りようで、商品は多く、目移りして仕方がなかった。
 昨晩の宴を終えたアカツキは、元通り、黒づくめの地味な衣装に戻っていた。3日目である今日は、いつもの不機嫌なほどの凛々しい表情に戻り、ものも言わずにシロエの警護体制に戻っている。祭りなので、そこまで地味にしなくても良いと、シロエは思うのだが、やはりアカツキにはアカツキのこだわりがあるようだった。

 朝は疲れが見えたアカツキも、直継にからかわれて午後には調子を取り戻したようだ。バカ直継と罵りながら、その顔面に飛び膝蹴りを入れる光景も毎度のお馴染みとなっている。最近ではシロエも苦笑しながら眺めていられるのだ。

 シロエの予想通り、〈円卓会議〉に対する攻撃は全くと言って良いほど感じられなくなった。この種の攻撃は、対応された場合継続が難しい。予想されていたことでもあり、シロエ達は久しぶりの休日を楽しんでいた。
 やがて日が暮れ、アキバの街は後夜祭へと突入してゆく。前日の宴に続き、今度は本格的な酒宴が開催された。主催は〈円卓会議〉であるために、ギルドホール前にはいくつもの酒樽が置かれ、誰もが参加出来る賑やかな集まりとなっている。

 〈円卓会議〉サイドでは、これを機に中小ギルドの援助策をいくつか実施しようと考えていた。未だにギルドに所属しないソロプレイヤーに対する勧誘などがそれである。また、大規模ギルドの1部門独立なども検討課題に挙がっている。宴では、酒に酔いながらも若手〈冒険者〉達がそんな議論を戦わせていた。

 かがり火に照らされた祭りの中には、再びドレスをまとったレイネシアも参加しているだろう。もちろん、〈円卓会議〉の重鎮たる、ミチタカやクラスティ、アイザック、カラシン、ロデリックにマリエールなども、知己と旧交を温め、新たな縁をつなぐために杯を干していると思われる。

 多くのトラブルはあったものの、アキバの街の天秤祭りは、成功裏にその使命を終えたのだ。〈記録の地平線〉の仲間達も、そのかがり火の明かりの中で、互いの健闘をたたえ合い、明日からの活力を蓄えているのだろう。

 アキバの街にとって転機となった“十月の天秤祭り”は、こうしてそのトラブルを知るものも少ないままに幕を閉じたのだった。



 ◆



 しかし――。
 その天秤祭り最終日、夜闇の中を、シロエはギルドメンバーとも離れて1人暗がりを歩いていた。
 ここはアキバの街の南の外れ、とある廃墟だった。瓦礫に埋もれた鉄製の押し上げ戸の奥は、じっとりと湿った階段が延びている。かつて旧世紀にこのビルが存在していたとき、そこはボイラーや受水槽が存在したのだろう。コンクリートがむき出しになった壁には、無数のパイプが這っている。

 シロエがここに訪れたのには訳がある。
 この祭りの期間中に合流しようと考えていた、旧い知己である大嶋と落ち合うためだ。〈神聖皇国ウェストランデ〉の情報を探ってもらっていた大嶋とは、最悪の事態を想定して念話連絡自体の回数を控えている。また、手渡すべきアイテムもあることから合流を企画したのだが、シロエ自身は漠然とした不安感を覚えていた。

 押し殺したような静寂が包む闇の中に、小声ひとつで呼び出した弱い〈マジックライト〉の明かりでシロエは慎重に進んでいった。金属プレートに「管理室」と書かれたドアを開けると、その内部は、外と比べればまだ人間が過ごすべき空間になっている。

「――」
「シロエ様ですよね? わたしはダリエラ。〈大地人〉で旅の物書きしておりまして……」
 しかし、部屋でシロエを待っていたのは、シロエが予定していた人物ではなかった。

 波打つようにうねる長い黒髪。白い卵形の輪郭の中に、紅い唇と、磨いた黒曜石のような瞳が輝いている。藍色と赤で編まれた幾何学模様のローブには、何処を触っても柔らかそうなボリュームにあふれた肉体が押し込まれて、ソファーの上に座っているだけなのにゆるゆると蠢いているようだ。

 一目見ただけで強烈な磁力を感じるような美女だった。
 美しい、と云う意味ではアカツキも美少女だが、目の前にいる美女はアカツキに匹敵する、だが異質な魅力を放っている。

 普段、女性の容姿になど気を留めないはずのシロエにさえ、酒に酔ったような気を起こさせる蠱惑を含んだ美貌だ。我知らずのうちに頬が熱くなっていくのを止めることが出来ない。

「シロエ様がお待ちになっている大嶋さんは、今どうしても身動きが取れない状況にありまして。……そこでわたしが代理で伝言と報告を頼まれてここに来たというわけです」

 そう。シロエがここで落ち合う約束をしていたのは、〈冒険者〉の大嶋だ。小柄だが敏捷そうな体躯を備えたドワーフ族の青年であり、黒髪の美女ではない。
 ダリエラ/二級市民/レベル10。本人の言葉を裏付ける情報をステータス画面で確認したシロエは、だからこそ、甘く霞みそうになる頭をふるって声を絞り出す。

「――その術は聞いたことがありません。どんな偽装ですか? 濡羽(ぬれは)さん」

 薄暗い地下の管理室。
 さして広くもない部屋に置かれたソファーに座った女とシロエの間に、重苦しい沈黙が落ちる。全身に緊張をみなぎらせるシロエの前で、初めは小さく笑った女性は、ころころと鈴を鳴らすような声を上げ続けた。

 くすくすという笑い声の中で身をくねらせた女は、指先で空中に小さな印章を描く。
 シロエの魔法の明かり(マジックライト)の明かりを吸い込むように、その美しい黒髪から無数の闇小鳩が飛び立つ。宙に舞うはしから空気に溶け込むそれらは未知の魔法のエフェクトなのだろう。
 妖しいまでに(まじ)のある美貌はそのままに、鴉の羽根で作ったような漆黒のゴシックドレスに姿を変えた美女は、先端を雪の白で染めた耳と尻尾を備えていた。

「ふふふっ。うふふっ。……どうして判ったのですか、シロ様は。〈情報偽装〉(オーバーレイ)については、何処にも情報なんて出ていないはずなんですけれど」
「勘です」
 シロエは強がりを云った。
 確かに地下室にいた女は、〈大地人〉であり名前はダリエラ。レベルは10にすぎなかった。シロエはそれをステータス画面で確かめている。〈エルダー・テイル〉の常識によればそれは確定した事実であり、覆しようがない。シロエがそれを疑うことが出来たのは、大嶋とは別系統ソースからの情報と、直感に過ぎない。
 シロエは濡羽が今この瞬間、アキバの街のどこかにいることは確信していた。自分の目の前に現われたのは予想外だったが、あれだけの美貌が「ただの〈大地人〉物書き」だと信じるよりは、まだ蓋然性がある事実だろう。

「勘……ですか。でもわたしの名前を知っていてくれたのですね」
 目の前の美女、濡羽は艶やかに笑う。シロエは相手の正体を知りつつも、視線が引きつけられるのを止められなかった。

「ふふっ。シロ様。――お座りになっては如何です?」
 濡羽は濡れた瞳でシロエを見上げる。その角度だと、濡羽の白い喉が無防備に見えてしまって、シロエは口をへの字に引き結んだ。そうとでもしなければ、じっと見つめてしまいそうで怖かったのだ。

「そう、警戒しないで下さい。わたしは……ほら。荷物(マジックバック)も持っていませんし、武装もしていません。今日は、この身体ひとつですよ。シロ様に会うためだけに来ましたからね」
 警戒しながらもドアの横にある事務椅子に腰を下ろすシロエに、濡羽は柔らかく言葉を続ける。

「西の総領ともあろう人が、不用心じゃないですかね」
「わたしは総領なんかじゃありませんよ」
 濡羽は微笑む。
 秘密めかして人差し指をそっと自らの唇に当てる仕草が、少女めいていて可憐だった。年齢はシロエと大差がなさそうに見えるが、美しさはそのままに、仕草によって雰囲気がゆらゆらと安定しない。妖艶な女性かと思えば、無邪気な少女のような横顔も見せる。
 魅惑的だけど、それだけに危険な女だった。
 漆黒の闇の中で咲き誇る白い花のように、甘く痺れるような狂った美しさがそこにはある。

 何しろこの女性は〈Plant hwyaden〉のギルドマスターなのだ。
 もはや知らぬものは居ない、そのくせ実体不明の巨大ギルド〈Plant hwyaden〉の頂点に君臨する女性。それが“西の納言”濡羽だった。

 事の起こりは、シロエが〈円卓会議〉を発足させた頃にさかのぼる。
 そのころ〈大災害〉ですっかり意気消沈し治安の乱れたアキバの街に再び活気と秩序を取り戻そうとシロエは考えていた。

 その同じ時期、西のプレイヤータウンであるミナミでも、似たような状況が発生していた。混乱と消沈と治安悪化である。そしてシロエと同じように、その状況を改変しようとした1人の〈冒険者〉が居たのだ。
 それが、シロエの目の前にしどけなく座る美女、濡羽である。

 しかし、濡羽が立てた自治のビジョンも、選択した手段も、シロエの取ったそれとは全く異なっていた。

 濡羽は最初に、斎宮家に近づいたのである。斎宮家は古くヤマトを治めていた〈ウェストランデ皇王朝〉の血を引く、ヤマト貴族社会の序列1位を誇る家柄である。〈自由都市同盟イースタル〉が治める東方と違い、〈神聖皇国ウェストランデ 〉はキョウの都に住まう斎宮家および執政公爵家によって中央集権的な統治をされている。

 もちろんこの統治は〈大地人〉のそれであり、本来〈冒険者〉に関わりのあることではない。西に住む〈冒険者〉は大災害が起きてからも、〈大地人〉やその貴族にはなんの関心も持っていなかったと聞いている。
 しかし濡羽だけは違った。貴族と斎宮家に近づき、取り入った。その手法は明らかにされていないが、シロエだけはいくつかの推測を立てている。とにかく、濡羽は、その『魅惑』で〈大地人〉に取り入り、毒を撒いたのだ。

 シロエ達がススキノへ赴いていた頃、ミナミの街の〈衛兵〉は、すべて濡羽の私兵となっていた。そしてさらに濡羽は〈大地人〉の財力を用い、ミナミの大神殿ゾーンを購入したのだ。
 強大な武力と生成与奪の権利。この2つを得た濡羽は、しかし人前に立つことはせず、あくまで静かに、穏便に、密やかに計画を進めていった。彼女の立ち上げたギルド〈Plant hwyaden〉は徐々に賛同者を集めいつの間にやらかなりの規模に達していた。しかも、そのメンバーは西の誇る強者や古参ばかりだったのだ。

 そしてある日、濡羽は宣言をする。
 ――ミナミの街に住む全ての〈冒険者〉は〈Plant hwyaden〉に所属するように、と。

 『単一ギルドによる、ギルド間差別のない街』。
 それが濡羽の出した新しい自治の形だったのだ。

「お言葉を返すようですけど、やはりあなたが西の総領ですよ。いくら実務を秧鶏(くいな)やミスハ、ゼルデュスに任せているとしても」
「任せている訳じゃないんですよ? 皆さんは皆さんの好きなようにやっているだけなんです。わたしは皆さんを束縛するつもりはありませんもの。ただ、わたしは皆さんに居場所を差し上げているだけ。……代わりにわたしのことを守っていただいているんです。わたしが望んでいるのは、それだけですから」
 滑らかな口調の言葉は、セイレーンの歌のように響いた。甘やかな囁き声は睦言のようで、男だったらいつまでも聞いていたいという気分にさせられる誘惑だ。

「――用件を伺いましょう」
「せっかちですね。シロ様は」
「身の程をわきまえているんです」
「……うふふ。判りました。シロ様がそう云うならば、殿方に合わせましょう。わたしは――」
 シロエの促しに従い、濡羽は言葉を続けた。

「シロ様を誘いに来たんです。〈Plant hwyaden〉へ。――わたしの隣へ。わたしと共に歩き、わたしを守ってもらうために」
 夢見るように唱い上げたその声は、まるで天使の誘いかけのようにシロエの耳に響いた。



 ◆



「どういうつもりですか?」
「云ったままですわ。シロ様の事が欲しいのです。……恥ずかしい話ですけれど、シロ様のことはずっと以前から存じ上げていました」
 それは、あり得ない話ではなかった。

 シロエも濡羽も〈付与術士〉(エンチャンター)だ。〈付与術士〉は〈エルダー・テイル〉においては人気のない職業で、そのプレイ人口は平均的な職業の半分の数も存在しない。

 〈エルダー・テイル〉がまだ普通のゲームだった時代、日本サーバにはアクティブなプレイヤーが8万人やそこらいたかと思うが、シロエが知る限り90レベルの〈付与術士〉は2000人程度しか居なかったはずだ。

 ある職業、たとえば〈付与術士〉に就いていると、同職の〈冒険者〉は気になるものだ。どんな装備を付けているのか? どんな育て方をしているのか? どんな戦い方をしているのか? ゲームである以上、テクニックや育成方針などは自分と似た境遇のプレイヤーが一番参考にしやすい。欲を言えば、自分より腕がよい人の方がより学べる。
 これはゲーマーとして常識に近い考え方だ。

 そう考えてゆくと、2000人程度の90レベルの〈付与術士〉のうち――大規模ギルドなどに所属していて大規模戦闘で良質な装備を集めている冒険者は、ほんの一握り。すなわち100人程度になってしまう。そして100人程度だったら、名前を覚えることは可能なのだ。
 現にシロエは日本サーバのランカークラス〈付与術士〉の名前をある程度把握している。だから(、、、)濡羽のことも知っていた。

 濡羽もシロエと同じように、ギルドに属さない道を歩んできた。大ギルドに属さず、それでも大規模戦闘に参加して腕を振るう〈付与術士〉ともなれば、イリオモテヤマネコよりも希少な絶滅危惧種なのだ。思い返せば、顔を合わせたことも二度や三度はあるはずである。古参プレイヤーであるシロエにとって100人という業界は、決して広くはない。

「……シロ様が何を考えているかは判ります。でも、それは違うんですよ? シロ様が〈付与術士〉だから知っていた訳じゃありませんし、〈付与術士〉だから欲しい訳じゃありません」
「どういう事ですか」
 濡羽は視線をそらさない。
 シロエの中に何かを注ぎ込むように、うっとりとした眼差しで見つめながら、ナイフのような言葉を紡ぎ続ける。

「ザントリーフで、新しい概念魔術を発現させましたね? その具体的な手法は判りませんが。大規模な改変魔術を。シロ様は特別ですから、それくらいのことは、すると思っていました」
「それを云うならば、濡羽さんもでしょう? どうやったかは判らないけれど、〈都市間転移門〉(タウンゲート)を再起動させた。まだ自由にとは行かないみたいですけれど」

 手で触れることが可能なほど張り詰めた空気の地下室で、シロエと濡羽は見つめ合う。
 “契約術式”の件が漏れているとは思わなかったが、それをいうならば、シロエも西の“凝魔鍛術”の情報は押さえている。向けられた言葉の刃を切り返し、シロエは濡羽をにらみつけた。

「シロ様はやはり特別ですね。何でもご存じです。――私の帷の中さえも知られているかと思うと、頬が燃えそうです」
 誘うように視線を伏せて頬を染める濡羽の仕草は可愛らしいが、シロエにはそれら全てが演技だと判っていた。恐ろしいのは、『演技でも構わない』と云いたくなるような魅力が濡羽にはあることだ。

「お世辞はよしてください。……西の情報遮断はあなたの指示でしょう?」

 〈Plant hwyaden〉は厳しい統制をしく単体ギルドだ。その内側は細かい編成が行なわれ、非常に高度な組織化が行なわれている。
 濡羽の唱えたお題目は判る。
 大ギルドが中小ギルドに行なう差別をなくし、ミナミの治安を回復させ、現実世界への帰還を目指して一致協力する。そのためには、単一ギルドによる組織化がもっとも効率が良い。それは、ある側面真実だろう。シロエもその利点は認める。
 だが、それらのために作られた〈Plant hwyaden〉は、それゆえ高い組織力を有し、非常に統制の効く組織となった。

 すなわち、その内部的な情報が東へは極めて入りづらくなったのだ。

 〈円卓会議〉が自由なギルドの自治会議という体裁を取っている以上、そこでの議論はオープンな形で行なわれる必要がある。情報の公開は議論の基盤なのだ。それゆえ、その動向は外部から見れば完全に筒抜けだろう。

 一方、執行部によって運営される単体ギルド〈Plant hwyaden〉はその中枢の実態がはっきりとは掴めなかった。シロエはアキバにおいては有数の事情通だ。そのシロエにしても、〈Plant hwyaden〉の全容を掴んでいるとは云いがたい。ましてや〈円卓会議〉の通常の面々ともなれば、たったひとつのギルドが支配する不気味な地域である、と云う程度の情報しかないだろう。

 今日の本来の目的、大嶋との待ち合わせも、そもそも新しい情報を聞き、いくつかのアイテムを受け取るためだったのだ。

「いえ。先ほども云ったでしょう? わたしは放任主義者ですもの。情報遮断もミスハが勝手に行なったこと」
「では、アキバの〈円卓会議〉に対する処理飽和攻撃も?」
「ええ。あれは考えの浅い貴族院、ルンドスタードの独断による暴走ですわ」
 そんな事信じられる物か。それを『黙認』と呼ぶのだと口を開き掛けたシロエの言葉を遮るように、濡羽はその白魚のような指先でシロエの唇に触れる。
 いつの間に近づいたのか、意識出来なかったシロエは火に触れたかのように飛び退る。

「シロ様を誘いに来たんです。わたしのところへ来て下さいませんか?」
「そう云う願いは、ソウジロウにすべきです。僕の専門外です」
「ソウジロウさん、ですか」
 濡羽の瞳にちらりと剣呑な光が点るが、それは次の瞬間、少し困ったような表情に代わる。

「わたしは、ソウジロウさんよりも、シロ様がよいです。ソウジロウさんよりも、シロ様が特別だと思います。シロ様だけを誘いに、シロ様だけを請いに、この街まで来ました」

 シロエはその言葉に目の前が真っ白になるような気分を味わった。
 目の前の女に、シロエは何の誠実さも感じてはいない。
 この女性が嘘と罪で出来ていると、シロエは本能的に感じ取っていた。でも、判って居てさえも、それは目がくらむほどの誘惑だった。女性に免疫がなさすぎるよな、とは自分でも思う。

(それでも、ソウジロウより特別だなんて云われたこと、無かったからな……。ほんと、情けないなぁ)

「……ダメ、ですか」
「本当のことが、無いですからね」
「……そう、でしょうか」
 濡羽は視線を伏せたまま、低い声をだした。
 今までのシロエを絡め取るような気配が消えて、儚くて脆い気配が取って代わる。

「では、真実を話せば、わたしのところへ来てくれますか?」
「真実のところを聞かないと判断出来ません」
「真実なんて、良い物じゃありませんよ?」
 歳経た土器のように脆いままの表情で、濡羽は掠れた笑い声を立てる。

「……よろしいでしょう。シロ様ですから。特別ですから。特別なのですから。ただ1人なのですから。わたしも、それ相応の覚悟を見せないといけないでしょうね。ええ、判ります。シロ様が相手なのですから、どうせ見透かしてしまうのですから――」
 濡羽の言葉は、呪文のように続く。

「わたしはね、シロ様。……不器量な女子です」
「え――?」
「驚いてもらって光栄ですけれど、そうなんですよ。とにかく眼がぎょろりと大きくて、痩せっぽちで、貧相な――物欲しげに周囲を見上げることしか知らない、醜い子供でした」
 シロエが驚いたのも当然だ。目の前の美女は、確かに瞳の力が強過ぎる嫌いはあるが、誰に聞いても妖艶と答える容貌をしていたからである。

 しかし、話はシロエが考えても居ない方向に進んだ。

(それは、地球の……)

「小学生の頃は、本当に痩せぎすで。あばらが浮かぶというレベルではありませんでしたね。腕も足も骨が浮いて。髪は伸び放題、服は垢じみていましたし。醜いと云うよりは、汚い娘でした。
 中学に入り、背は伸びましたが、体重はさほど増えず。相変わらずがりがりで、前髪の隙間から大きいばかりの眼で周囲を見上げる、そんな気持ちの悪い女だったかと思います。
 それが変わったのは――中学二年生でしたか。ひょんな事で、多少の元手を手に入れたわたしは、まともな食事にありつけるようになりました。初めはそれでもなかなか受け付けなかった身体ですけれど、じわじわと体重が付いて……でも、やせっぽちなのは相変わらずでしたね。骨が見える気持ちの悪い身体から、細いだけの身体になっただけです」
 それは……。
 ある種の虐待なのだろうか、とシロエは考える。
 そしてその話は真実なのだろうか? ……と。
 例え濡羽が『これから真実の話をします』と云ったところで、今更信用することは出来ない。なぜなら、この場には大嶋が居ないからだ。濡羽は何らかの方法で大嶋からシロエとの合流情報を聞き出し先回りをした。その事実は動かせない。
 そしてこの女は、例え今どんなにしおらしい声を上げていようと、ミナミを支配する単一ギルド〈Plant hwyaden〉のギルドマスターなのだ。
 だが一方で『この話は嘘です』と言われたとしても、額面通りに受け取ることは出来ない。もし、嘘つきが嘘しかつけないとすれば、それは正直であるのと何ら変わりがないからである。
 嘘つきとは……悪意を持って対象に誤認させる存在を指すのだ。

「身なりに構うようになったわたしは、それでも、どこにでも居る、貧相な女でしたよ。薄い胸、ただ細いだけの手足。十人並みの、ただ瞳だけが大きい顔。
 当時云われていた最も多い評価は“不吉な娘”でした。
 ふふふっ。たぶんね、容姿だけではなかったんでしょうね。わたしの中の何かが、そう呼ばれても仕方のない部分だったのでしょう。
 ……それでもね。
 中学生だという理由だけで、わたしを求める人は居るのです。生きるためだとか、仕方なくなんて云う云い訳はしません。ちやほやされるのが嬉しくて、わたしは舞い上がりました」

 ざらりとした不快感がシロエを襲う。それは、この話の内容にだった。真実なのだろうか? 真実ならばそんな事が身近にあることが不快だった。嘘なのだろうか? 嘘だとするならばそんな話をわざわざ聞かせるこの女が不快だった。

「シロ様?」
 気が付けばびっくりするほど近くに濡羽の瞳があった。濡羽は見上げるようにシロエの瞳をのぞき込んで、昏く微笑う。

「ほら、真実なんてつまらないでしょう? こんな話がなんの役に立ちます? そもそも“嘘”以外になんにもないこの世界で、真実なんて塵ほどの価値もない。
 シロ様。シロ様がわたしの元へ来ていただけるのならば、わたしはシロ様の恋人を務めましょう。おいやですか? 今のわたしにはこの身体がある。誰もが賛美してくれる、白くていやらしい、この身体が。それともお嫌いですか? こんな女は」
 口中に潮辛い味を感じて、初めて自分が唇を噛んでいたことに気が付いた。体温は上昇して、頬が熱い。
 黒いサテンのドレスから覗く白い胸の谷間。絶えず誘うように動く、細い指先。甘えるような表情と、とろけるような声色。毒入りのショートケーキだと判っていても食べたくなるほどの、甘やいだ香。

「貧相な身体で殿方を喜ばせなければなりませんでしたから、修練は積んでいます。……わたしは嘘をつくのが上手ですよ? 嘘だと云うことにさえ目をつぶっていただければ、シロ様を幸せにしてあげられると思います。ええ、それは、満足いただけるまで。日が昇り、日が沈み。世界が黄昏れるまで、閨の中で貴方に奉仕しましょう」

「何故」
「――そんなに理由が必要なんですか?」
「本当だと思えなきゃ意味ないだろっ」
「ですから嘘だと納得してくださればいいんですよ。……どうせ作り話なんですから」
 桜色の水菓子のように魅力的な唇から、蜂蜜にまみれたような甘言が、とろとろとシロエに注ぎ込まれる。視界にはすがるようなからかうような、得体の知れない濡羽の微笑みと、ゆらゆらと揺れる狐尾族の尾。

「……作り、話?」
「ええ。作り話ですよ。そう。架空の話。――わたしの友達の、お姉さんの話。……その女は、ある日、〈エルダー・テイル〉に出会ったんです。彼女の住んでいた世界からはほど遠い娯楽ですよね。それでも彼女は夢中になりました。なぜだか判りますか?」
 シロエには判らない。
 答えることが出来ない。

「そのゲームの中では、彼女は理想の身体を手に入れる事が出来るからです。それさえ持っていれば守ってもらえて、求めてもらえて、与えてもらえる。彼女が血を吐くほどに願っても得られなかった幸福が手に入るから。美しい顔と、異性を魅惑する身体を。彼女はその世界では手に入れられるからですよ。でもね。――所詮ゲームなのに、おかしいですよね」
 粘つく舌が口内に貼り付き、喋ることが出来無いシロエに濡羽は続ける。

「彼女……もてないんですよ。ゲームの中でも、醜いみたいにね。絶世の美貌と身体を手に入れても、望むものは得られないんです。――それはMMOですから。女性であると云うだけで、ある程度はもてなしてもらえます。もてはやしてもらえます。でも、それでも彼女が望んだほどには得られないんです。彼女が欲しいと願う相手は、手に入れたいと思う相手には、何故か相手にはされないんですよ。
 ――どうしてでしょうね? 彼女よりも普通の容姿のくせに、彼女よりもずっと人気を得る女は居るんですよ。ただ明るくて、脳天気なだけで、みんなに守ってもらえる。そんな女の子は、居るのに」
 今や漆黒の洞となったかのような濡羽の瞳は、シロエを飲み込もうとしていた。

「頑張ったんですよ、これでも。……男の人に気に入ってもらおうと、淑やかな言葉遣いも身につけました。男の人が好むような仕草も研究しました。髪も服も整えました。ばかげた話ですが、着飾ってオフにだって出かけたのですよ。みっともない話ですね。ふふふっ。うふふふふっ。――でもね。ダメでした。……いえ、そんな顔をしないで下さい。それらはまったく無駄ではないんです。だってそうやって身につけた技術で、わたしはシロ様をもてなして差し上げることが出来ますからね。……悪い話ではないでしょう?」
 それは甘く、かぐわしく、耳に優しく、蠱惑的なまでに美しかったが――腐っているのだ。シロエはその病に魅せられていた。
 濡羽の申し出は、どこかが致命的な歪んでいるにもかかわらず、くらくらするほどに魅力的で、シロエの魂を虜にするほどの魔力を備えていた。

「彼女はね。……ふふふっ。それでも、そんなある日。絶望の底にいたある日、云われたんですよ。『良い腕をしている』って。『ソロでやっているのに、敬意をもてる』って。……同じ〈付与術師〉からそう云ってもらえたんですよ。ね、シロ様? いかがですか。こんな『作り話』で納得してもらえますか?」

「それは……」
 本当のことなのか? とシロエは聞けなかった。シロエの記憶には、無い。しかし云っていないとも断定できなかった。こうやって再会するまでは忘れていたが、濡羽とは何回か組んで戦ったことがあるのだ。
 シロエはある程度の知名度があったから、幾つかのギルドの大規模戦闘において外部からの助っ人として呼ばれる事があった。おそらく濡羽も同じだったのだろう。〈付与術師〉は通常の冒険においてはさほど必要とされないが、大規模戦闘の長丁場においては、そのMP回復能力が必要とされることがある。
 そうして顔を合わせたとき、そのような台詞を云ったことがないとは云えない。

 もちろん、シロエが覚えていないと云うことは、もし仮にそんな台詞を云ったにせよ、特別な意味など無かったことは断言出来る。そんな言葉で女性を口説こうとすることは、シロエには出来ない。シロエはそこまで芸のある男ではない。しかし、だからこそ、何の気無しにただの本音としてそれを漏らした可能性はあるのだ。

 だからシロエは『本当のことなのか?』とは聞けなかった。忘れているというのは、手ひどい裏切りのように思えたからだ。

「シロ様。わたしの近くへ来て下さい。〈Plant hwyaden〉へシロ様の席を用意いたしましょう。斎宮家に云って“外記”の名をシロ様に下賜させる手続きは、もう取っているんです。斎宮家は、もはやわたし達の言いなりですから。――シロ様も、掴みかけているのでしょう? 変転(フラクション)。現実への、帰還を」
 その言葉に。シロエは思わず息を飲んでしまう。

「あはっ。やっぱり反応してくれました。……やっぱりシロ様は特別なのですね。判るのですから……。帰還の、方法が」
 濡羽は何処までシロエのことを読んでいるのか、そんなことを囁いては、紅い唇をちろりと舌先で舐める。魅惑的な仕草にシロエが視線をそらすと、くすくすと少女めいた笑い声さえ立てるのだ。

「現実世界への帰還方法は発見されました」
「それは帰還方法だとは証明できない……。証明できない以上、ただの人体消去に過ぎないでしょう」
「シロ様が協力してくれれば『そうでなくする』事だって、出来るのじゃありませんか?」

 正直、シロエはこのとき、濡羽の言葉に頷きかけていた。

 濡羽に魅惑されたからではない。
 濡羽が掴んでいる情報に興味があったからだ。西をまとめ上げた濡羽の元にいれば、アキバにいるよりもはるかに多くの情報を手に入れることが出来るのは明白だった。現実世界への帰還を考えれば、それは効率的な道なのだ。
 いや、そんな理屈は言い訳なのかもしれない。
 濡羽の差し出したものはあまりにも魅力的だった。濡羽自身の美貌と身体が、と言う意味ではない。自分を特別と呼んでくれる誰かは、今まで忘れていた寂しさをシロエの中に強く呼び起こしたのだ。

 また、濡羽の話が真実にせよ嘘にせよ、濡羽を止められるのは自分しか居ないのではないか? それはまさに危機感ではあったけれど、それだけに強くシロエを惑わせたのも事実だった。
 加えて、濡羽が狂ってるとして、その責任をシロエは感じていた。例えシロエ個人に責任がないとしても、シロエが感じている罪悪感にも似たうずきは、まさに責任感に端を発する感情なのだ。

「――そもそも、シロ様には理由がないでしょう?」
「理由?」
 熱に浮かされたようにシロエだけを見つめる濡羽に、シロエは問い返す。

「ええ、理由です。シロ様は……理由を持たない人でしょう? アキバの街に肩入れをする理由も、〈大地人〉に肩入れをする理由も、ご自身の内側には持たれていないでしょう? あるのは漠然とした倫理観だけではありませんか? いえ、良いんです。そんな事で、わたしがシロエ様を欲しいという気持ちは変わりません。でも、シロエ様はそれでは辛いと思います。だから……」
 もう触れあうほどに近くなった、ぬくもりさえ伝わる距離で、濡羽はシロエの耳元に唇を寄せた。

「わたしを。濡羽を、シロ様の言い訳にして下さい。濡羽を理由にして下さい。――それでシロ様は、シロ様の力を完全に解放することが出来るでしょう? 制約や規制に捕らわれず、その知謀の全てを縦横無尽に振るうことが出来るでしょう? わたしはシロ様だけを望みます。だからシロ様は、濡羽を理由に、言い訳に、ありとあらゆる我が儘なことをしても、よろしいのですよ?」
 決定的な誘惑の言葉は、そのまま決別の言葉だった。
 知謀の全てを縦横無尽、と。その誘惑は大きかった。ある日気が付けばこの異世界に巻き込まれ、治安の悪化とトラブルに巻き込まれ、危難続きのパニックを切り抜けてきたシロエにとって、その方向性を仮託して力を振るいたいという欲求は、眼前のこの美女に触れたいというひりつく欲望と同じほどに巨大だった。

 この世界に来たのはシロエの責任ではない。
 その非難の気持ちは、この世界に招かれた〈冒険者〉全員の魂の叫びなのだ。その理由を知りたい。正当性を保証して欲しい。戦うと云うことの意味を、どこかに用意して欲しい。その気持ちの強さは、〈冒険者〉にならなければ決して判らなかっただろう。

 濡羽の言葉は、正しい。
 正しい意味で誘惑だった。

 しかし、理由を言い訳と同一視することなど、出来るわけがなかった。それは行動の理由を貶めることに他ならない。
 もし濡羽に好意を感じるのならば、ほんの少しでも愛情めいた何かを感じるのならば、決して彼女を“言い訳”に使うべきではないのだ。

 それは『理由』を得たシロエが初めて断言出来ることだった。
 〈記録の地平線〉を得たシロエだからこそ言い切れることだった。

「え……?」
 自分を押しはがしたシロエを見て、濡羽は困惑したように黒髪を飾る狐耳を動かす。

「貴女が話した『作り話』は全部真実だということにしました(、、、、)けれど、それでもご一緒は出来ません」
 凍り付いた濡羽は、諦めきれないようにシロエの瞳をのぞき込み、失意し、それでも尚すがるように、わななく唇で「何故です?」と問いかけた。

「貴女の味方になるよりも、貴女の敵で居た方が、貴女の願いに添えるでしょうから」

 初めて自分の意思で濡羽の瞳を凝視したシロエは、自らの意志を確認するように、一語一語明瞭に口にした。その言葉が剣のように濡羽に刺さるのを罪の意識と共に感じながら、シロエは濡羽のひんやりとした頬に触れる。

「いずれ貴女が理由を探すときのために、敵で居ることにします」
 シロエの言葉は濡羽とシロエをつなぐ見えない鎖となった。その鎖は、やがてアキバとミナミを『インブリウムの空中迷宮』をたどり〈神酒の海〉へと導くことになる。
夏の3連続更新でした。
この045にて5巻「アキバの街の日曜日」は終了です。
なんとかここまでこれて良かった。
これで、おおむねスタートのセットアップは終わった感じ。
一区切りで、またしばらくはお休みであります。
(他のも書かないといけませんし!)
近況報告します。読んでくれた方、ありがとうございました!

ps.校正に参加してくれた方へも大きな感謝を!
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