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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

アキバの街の日曜日

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 呼吸が出来なかった。
 まるで夜の空気が液体になったかのように胸が詰まり、固くなり、血液が濁流となって、耳元で鳴り響いた。

『こうすると、楽しいぞ』
『そんなの楽しいの?』

 先ほど聞いてしまった囁きがまだ残っている。
 照れくささを必死に誤魔化そうとする黒髪の少女の睦言。ギルドマスターであるシロエの、どこか当惑したようなそれでも優しい声。
 膝が泡になり流れ出しそうになるのを堪えて、ミノリはキッチンを目指した。両手には、タンポポ麦茶。シロエが飲むかと思って、テラスへ運ぼうとしていた木製のトレイを持ったまま、ミノリは無意識に歩く。あの場所には、いられない。あの光景を見ているわけには、いかない。

 頭の中が、数千の雑音を弾けさせたように混乱して、何が何だか判らなかった。倫理観に突き動かされるように、とにかくその場を後にするだけで精一杯だった。

 始めに感じたのは衝撃。次に、圧倒的な困惑。――明確な問いを持たないくせに、胸の奥から疑問感だけがあふれてくる。問いかけたい。だが、誰に問いかければいいのかも、何を問えばいいのかも判らない。
 混乱して助けを求めるような気持ちが、胸一杯に広がって、それが下腹部に降りてゆくにつれ、重く、不快な物へと変化してゆく。

 ほとんど無意識のうちにキッチンへと戻ったミノリは、ダイニングテーブルの上にトレイを置いて、椅子に腰を下ろす。自分が何でこんなにショックを受けているのか、本当に判らなかった。

 ただ、たった今、3階のテラスの入り口から見たシロエとアカツキの間には、何かがあったと思う。少なくとも、アカツキの表情の中にはシロエへの特別な感情があった。

 ほとんど表面化はしない、それでも火を見るよりも明らかな、先輩少女の思慕の感情に気が付いたとき、まるで気付かずに炎に触れてしまったように、ミノリは衝撃で身をすくませた。
 そして、何も考えられず、避難所たるここまで逃げ戻ってきたのだ。
 こうして座っていても、意識の中がまるで脈絡のない砂嵐のような思考にかき乱されて、問いらしい問いが何も立てられない。
 ミノリは途方に暮れて、テーブルの表面を見つめる。
 脳がすっかり漂白されて、思考が麻痺してしまっているのだ。

 少なくない時間が経って、一番最初に浮かんできたのが「アカツキはシロエに恋している」と云うことだった。

(そうだ。アカツキさんは、シロエさんのことを、好きだったんだ)

 それは単純な事実だった。
 今日は晴れている。夏の次には秋が来る。
 それらと同じように明快で疑問の余地が無く、自然な事実だ。

 それはひどく単純なことなのに、心の中で呟けばそれだけでさっき感じた衝撃が再生されて、意識が砂嵐に覆われそうになる。たった数語の短い事実は、フレーズに分解され、引き延ばされ、切り刻まれ、ぐちゃぐちゃになり、気を抜けば、頭の中で意味さえ掴めなくなりそうだ。

 ミノリは散らばってしまった思考の断片を拾い集め、よじり合わせ、深い深呼吸を何度もした。
 胸部から腹部にかけての不快感は、もはや物理的な実体さえ備えているようで、呼吸が上手く飲み込めない。心臓の鼓動さえもが抑制されているようで、体温が下がっていくのが実感出来る。
 思うように酸素を取り込めないもどかしさと、背後からゆっくりと背骨を串刺しにされるような不安感の中で、ミノリはとうとうそれと向かい合うことになった。

(わたしも、シロエさんのことが、好きなんだ)

 初めて知った想いは、淡いレモンの味などでは無かった。
 それは、最初から暗く苦く、焼けた鉄のような香がした。

 ミノリは、身体中の関節が緩み、まるで勝手な方向に飛散してしまいそうなほどの震えの中で、“どうしようもないもの”と対面していた。こんなにも無力感に襲われたのは、トウヤが集中治療室で過ごしたあの夜以来だった。
 ただ座っているだけなのに、何かが叫びだしながら走って行きそうになり、自分を抑えているのが辛かった。双子のトウヤと一緒に育ち、足が不自由になった弟を助けるうちに、自分でも自分自身のことを、落ち着いた責任感の強い性格だと思っていた。
 こんなに強い感情をもてあます自分なんて、知らなかった。

 ――シロエが好き。
 そう考えるだけで、心臓を鋼の爪で握りつぶされるような痛みが走る。余りにも恐れ知らずで、身の程知らずにさえ感じる。それは自分自身の思い上がりに対する恐怖の痛みだった。しかし、その痛みの中にどこからか忍び込んだ一抹の甘やかさがあったのも、真実だったのだ。

 その甘美さは、シロエと結ばれるかも知れないという幸せの予感ではなかった。どちらかと云えば、傷口に触れれば痛みがあると判っていつつも、流れる血液の温かさを確かめずにはいられないような誘惑だ。じくじくと痛む傷口の誘いは退廃的だったが、それでも初めて知った恋の痛みの甘さではあった。
 ――シロエに選ばれる理由なんてミノリにはひとつも思いつけなかったけれど、シロエに選ばれない理由は、それこそ何十でも、何百でも思いつくことが出来るのだった。
 だから、その甘さはミノリに与えられた麻酔なのかもしれないのだった。

 年齢差。そして年齢差から来る才能の差。実務能力の差。戦闘能力の差。自分自身の未熟さ。不甲斐なさ。情けなさ。容姿だってアカツキに比べれば平凡そのもの……。ようするに、ミノリは、ただのどこにでも居る、中学生に過ぎない。

 そして今初めて知った、自らの醜さ。

 アカツキがシロエに触れているときに、ミノリは思ったのだ。
 ずるい――と。
 それは理由などないただの我が儘。いってみれば、ただの云いがかりだった。当たり前の話だ。アカツキにだって誰かを好きになる自由はある。
 にもかかわらず『ずるい』と思ったのは、ミノリが、心のどこかで、シロエは自分の物だと思っていたせいだ。
 〈ハーメルン〉に捕らわれて長く苦しかった無明の中を励ましてくれたシロエ。そして虜囚の立場から救い出してくれたシロエ。目指すべき星として、その後をついて行こうと憧れたシロエ。そのシロエを、ミノリはどこかで「自分のもの」だと思っていたのだ。

(わたし、シロエさんは、ずっといて……。ずっとわたしの先生だと、思ってた)

 どれだけ思い上がっていたのか、浅ましいのか。その自分の醜さに、ミノリは内臓が泥にまみれたかのような思いを味わう。コールタールに火をつけたような粘液質の炎が、皮膚の裏側をちりちりと炙っている。のたうち回りたいようなその苦しみは、しかし、叫んだところでどうにもならないのだった。

 苦しかった。そして、嫌いだった。
 そんな感情を隠し持っていた自分に、ミノリは目眩さえ覚えた。こともあろうに、シロエに対して自分のモノであるかのような、何らかの所有権があるかのように思い上がっていた自分を、殺したいほどに嫌悪した。なにより、そんな自分がいるだなどと云うことを今の今まで気付かずに放置した、自分の無意識の驕慢にあきれ果てた。

(ずるいだなんて、なんでわたし……。そんなっ)

 闇の中で、ゆっくりとすりつぶされるような、引き裂かれるような苦しみに耐えて、ミノリは呼吸を続けた。相も変わらず、空気はねっとりと重みを持ち、もはや砂の塊のような苦さだった。
 浅い呼吸をいくら繰り返しても、酸素が足りないかのように、思考がはっきりとしない。

 長い時間が経った。
 何時間経ったか、判らないほどの時間を、ミノリは身動きひとつせずに、自らの内側にある苦しみと向き合って過ごした。

「ミノリ?」
 キッチンが明るくなったのは〈蛍火灯〉(バグライトランプ)を持ったトウヤがミノリに声を掛けたからだった。双子の弟がすぐ近くに来るまで気が付かなかったミノリは、一瞬何かの幻のように思えて、トウヤを惚けた顔で見つめてしまう。

「何だよ、ミノリ。なんて顔してんだって」
 荷物からハンドタオルを出したトウヤは、ミノリの顔を乱暴に拭った。タオル越しに鼻を摘まれて、左右に動かされるとぐずぐずという音を立て、ミノリはやっと自分が泣いていたことに気が付いた。

「トウヤ……」
「なんだってのさ」
「トウヤ」
「あん?」
 トウヤは、ミノリの隣の椅子に腰を下ろす。多少品が悪いくらいに元気良く荷物を下ろし、皮鎧のストラップベルトをゆるめていく姿は、いつも通りのミノリの自慢の弟だ。ぶっきらぼうな態度のくせに、心配してくれているのが伝わる。

 たった今気が付いたはずの自分の思い上がり。そんな感情を持つ権利なんて無いと知っているはずなのに、いくら云い聞かせても、抑えられない嫉妬の気持ち。その嫉妬さえも、少しだけ静められてゆく。

「トウヤ、あのね。わたしね」
「うん」
「シロエさんのこと、好きみたい」
「そーな」
「え?」
「そうだな、好きだな」
 トウヤは外した皮鎧をベルトでまとめながら、ミノリの方を振り向きもせずにそう云った。まるで天気の話でもするような、当たり前の口調だった。

「え? ええっ? 何でそう云う反応なのっ?」
「ミノリがシロエ先生に惚れてるなんて今更じゃん」
「今更なのっ?」
 今更なのか。今更なのかも知れない。今更だったんだ。……とミノリは三段変速で落ち込んだ。トウヤにかかれば、この苦しみも「今更」なのだろう。しかし、それでも、トウヤが隣にいると、取り乱した自分を見られて恥ずかしくはあるものの、砂を噛むような苦さが少しだけ薄れるような気がした。

「困ったね」
「なんで?」
 ミノリの声に初めてこちらに視線を向けるトウヤは、ほの白いランプの明かりに照らされて、いつもより大人びて見えた。

「なんでって云ったって……」
「別に困ってないじゃん、ミノリは。困ってるわけじゃなく、苦しいだけだろ」
 心臓が跳ねた。
 その言葉はミノリに突き刺さる。見透かされたように感じたのだ。

 アカツキの優しく伸ばされた指が思い出される。
 遠慮するかのように、それでも堪えきれないかのように、シロエの額に触れるその指先に。
 嫉妬している自分を、ミノリは感じる。
 少しも正しくない想いなのに、それでも自分では止められず、ただ醜さだけが降り積もる。

 その苦さは、その痛みは、確かに辛い。
 でもだからといって、投げ出したいわけでも捨て去りたいわけでもないのだ。苦しみのなかで初めて気が付いたシロエに対する気持ちが、ミノリの中で甘く咲いている。

「いいの、かな」
「仕方ないんじゃね?」

 仕方ないのかな。とミノリは考える。
 それは自分に対する云い訳探しとしてのそれではなくて、自分の中の苦しさと闇の中に、まだ役に立つものを見つけ出そうという心の動きだった。どろりと濁った醜さの中に、それでも腐り果ててはいない、価値あるものを探す希求心だった。
 ミノリはシロエがやって見せたように、呼吸を深くし、遠くの音に耳を澄ます。

(シロエさん……)

 シロエのことを思い出した。
 シロエの話していた言葉を。彼の丸眼鏡の奥の眼差しを。
 質問に答えてくれる、注意深い言葉選びを。地図を開いて説明してくれるその姿を。

 ちょっと困ったように眼鏡の位置を直す仕草を。
 意地を張ったように尖らせた唇を。決意を秘めて青ざめた横顔を。

 任せろと、そう頷く声の力強さを。

 それらの記憶は、混乱と苦しみで荒れ果てた荒野になったミノリの思考の視界内で、唯一瑞々しく鮮やかに色づいていた。
 その鮮やかさを嘘にしないために。その鮮やかさを裏切らないために。灰色のノイズの全てを引き替えにしても良いと思った。

 ミノリとトウヤの過ごすキッチンに、街が呼吸するかのようなざわめきが、遠く遠く響いている。〈蛍火灯〉(バグライトランプ)の揺らめくような明かりに照らされて長い時間を過ごした後、ミノリは小さく頷いた。

「そうだね。困って、ない。痛いだけ。ただ、それだけ。――別に何も失ってないし、何も悪くないし、なにもしてない。……うん。わたし、まだ何も出来てないよね」

 初めて知った気持ちはパステルカラーの砂糖菓子ではなかった。
 ざらついたノイズにも似た苦鳴と闇の中で、燃える炎か流れ出した血のように、触れれば切れる鮮やかさを備えていた。目眩がするほどのコントラストを持つ感情を胸に秘めたミノリは、それでも双子の弟に少しだけ笑って見せた。頬を流れる涙は乾いていなかったが、それは仕方のないことだ。

 何もしていない自分はこの苦しみを抱えても仕方がないのだと、ミノリは思った。始まっていないから終わらないのだと、諦めた。
 シロエに何も返せていない自分は、何一つ追いついていない自分は、辛くても苦しくても仕方がないのだ。

 ミノリはトウヤの介添えを受けて、長い夜を過ごした。
 それは蒼鋼の刃を鍛える最初の夜ではあったけれど、最後の夜とはならないことを、ミノリ自身は良く判っていた。



 ◆



 昨日の雨で空気が洗われたのだろう。
 アキバの夜空にはまばゆいばかりの星が瞬いていた。
 〈エルダー・テイル〉の世界において、星は旧世界よりも数多く、まばゆい。それは空気が綺麗なせいなのか、それともそう云うアートデザインであるせいなのかは判らないが、この異世界の夜は星で彩られている。

 天秤祭りのこの夜、アキバの街は遅くまで賑やかな喧噪に包まれていた。

 アキバの街は〈冒険者〉のホームタウンであり、その機能は極度に洗練されている。
 この場合、機能とは主として、ゲート、銀行、ギルドホール、神殿、そして登録型の市場だ。ゲームとしての〈エルダー・テイル〉において、〈冒険者〉はこの5つの設備さえあればやっていけるのである。そして洗練されているとは、無駄なモノがないという意味だ。つまり、機能的で洗練されているというのは、必須5種の設備以外は、設置されていないという意味である。

 〈大災害〉以前、アキバの街には生活設備はなかった。
 もちろん、街のオブジェクトとして酒場や宿屋は存在したが、それは中世ファンタジー世界を表現する、いわば背景としてそこに設置されているのであって、プレイヤーがロールプレイとして――つまり「ごっこ遊び」として使うことはあっても、生活で実用される建物ではなかったのである。

 しかし、〈大災害〉以降、〈冒険者〉はこの町を本当の意味で本拠地にして生活せざるを得なかった。となれば、ただ街にいるだけでもそれなりの施設が必要となる。飲食店の隆盛は最も早い変化であり、それに続いて、様々な種類の販売店や、個人商店、サービス業などが花開いた。
 それらの一部は〈冒険者〉が運営する店舗であったが、より多くは〈冒険者〉と〈大地人〉が協力する店舗、もしくは〈大地人〉のみの店舗であった。

 理由は幾つもあるのだが、その大きな1つに賃金格差がある。〈冒険者〉は一般的な〈大地人〉よりも短時間に、多くの報酬を得ることが出来る。中レベルの〈冒険者〉でさえ、本気を出せばフィールドモンスターを討伐して、たった1日で〈大地人〉農夫1ヶ月分以上の賃金を手にすることが出来るのだ。
 生産においては戦闘能力ほどの格差は存在しないが、それでも歴然たる差はあった。〈大地人〉の中で達人と言われる技術者は、〈冒険者〉から見ればサブクラスレベルが60前後のように感じられるのだ。
 もちろん、〈料理人〉にしろ〈裁縫師〉にしろ、そのレベルが20もあれば、一般生活において十分な品質のアイテムを作り出すことが出来る。〈料理人〉におけるそのレベルとは、焼きたてのパンに美味しいスープ、かりっと揚げたジャガイモに、こんがりとしたチキンのローストというところだろう。〈裁縫師〉におけるそれは、着心地の良いシャツに、ゆったりしたズボン、草木染めのチュニックや、革製のチョッキであったりする。

 こうした「普段使う程度ならば十分なアイテム」は〈大地人〉でも作り出すことが出来る。そうであるならば、〈冒険者〉が〈冒険者〉にしかできないような仕事の領域へと移動してゆき、比較的多く流通する一般的なアイテム作成を〈大地人〉が受け持つのは、自然の流れであった。
 こうした変化により、アキバの街は「ゲーム」としての洗練を失い、様々な商店や施設が建ち並ぶようになった。当然のように〈大地人〉の数も倍増し、その人口は加速度的に増えている。結果として、〈大地人〉の経営する商店もどんどんと開業していっている状況だ。

 〈大地人〉人口が増えたのには、もうひとつ理由があった。

 〈エルダー・テイル〉時代アキバの街はプレイヤータウンであった。〈冒険者〉の立場からみたプレイヤータウンとは、自分たちのベースキャンプであると云う意味でしかない。ほとんど全ての〈冒険者〉は単純に、冒険を始める場所、準備を整えるための便利な場所、そんな認識だった。しかし〈大地人〉にとってそれはまた別の意味合いを持っていたのである。
 強大な戦闘能力と不死性を持ち、自分達とはまったく異なる生命体〈冒険者〉。その〈冒険者〉がこの世界に作った前線基地、それが〈大地人〉から見たプレイヤータウンである。

 〈大地人〉の多くは〈冒険者〉に感謝と尊敬の念を持っていた。このヤマトの国の荒野やモンスターから守ってくれることの多い〈冒険者〉は、この世界において頼りがいのある存在である。だが一方で、同時に大きな畏怖も感じていた。それは、彼らの不死再生装置「神殿」が存在するプレイヤータウンに対しても同様である。あるいは〈冒険者〉個々人に対するよりも、禁断の地として、より大きな畏れを感じているのかもしれない。

 アキバの街に居住する〈大地人〉は、先祖代々アキバの街に暮らす、〈大地人〉の中でも特殊な人々であった。それは、ある意味、祟り神を祀るための、巫女や神職に近いような立場であった。銀行や委託販売などという機構は、こういった一部の特殊な〈大地人〉によって維持されていたのだ。
 しかし、そう云ったごく一部の特殊な〈大地人〉を除き、多く一般の〈大地人〉にとって、プレイヤータウンとは異生命体〈冒険者〉の聖地である。近寄りがたく感じていても、仕方が無かっただろう。

 だがそんな畏怖の時代は、過ぎ去った。
 もちろん〈冒険者〉は今も同じように強大な戦闘能力を持っている。その恐るべき力で、例えばゴブリンやオーク、あるいはドラゴンなどの強力なモンスターから、〈大地人〉達を何度となく救ってくれている。しかしその一方で、〈冒険者〉は「依頼者と解決者」という、一過性の関係に固執してきた様に見えた。その〈冒険者〉と〈大地人〉の間に、この度初めて正式な条約が交わされたのだ。
 〈自由都市同盟イースタル〉と〈円卓会議〉の間の調印の持つ意味は、けして小さくはない。それは、〈冒険者〉が「通りすがりの善意の援助者」ではなく、「この世界の参加者」として〈大地人〉と向き合ったことを示すと、〈大地人〉達は受け取ったのだ。

 その象徴の1つとして、レイネシア姫のアキバ赴任があった。
 レイネシアは貴族達の代表であるだけではなく、〈大地人〉の代表として「冒険者の街」で暮らすことを示して見せたのである。

 そんな事情があり、アキバの街の人口は日に日に増えていった。
 本来は廃墟同然のビルが多かったアキバの街だが、〈大地人〉を受け入れるうちに徐々に街並みさえ変わってきた。瓦礫は片付けられ、お化けが出そうなビルは清掃された。
 アキバの街に住む〈冒険者〉は、そのほとんどが日本人である。
 良くも悪くもお人好しな彼らの中からは、〈大地人〉が忙しく街を整備しているのを見れば、どうせ暇なのだし多少付き合うか、と云う者もでてくる。一緒に作業をすれば、互いに話しもするだろうし、いずれは打ち解けてくるものだ。

 今ではアキバの街において、〈大地人〉を雇う〈冒険者〉の数はずっと増えていたし、〈冒険者〉を相手に商売を行なう〈大地人〉の数は10倍以上にもなっている。

 ――ここもそんな〈大地人〉経営の酒場のひとつ「リングイネ」。
 天秤祭り初日の夜はこんな玄人好みの居酒屋兼食堂もかき入れ時にしていた。

「このトマト煮は絶品なのにゃ」
「美味しいですね!」

 がやがやと騒がしい店の奥まったあたり、テーブルを挟んで向かい合っているのは〈記録の地平線〉のご意見番、というか引率班長にゃん太と、〈三日月同盟〉の新人世話係兼、自分も新人のセララだった。

 大して広くもない店は、溢れかえる程の客を詰め込んでごった返していた。もう10月になり、夜風が肌寒いほどだったが、暖房を入れていないはずの店の中は暑いほどだ。
 ここ数日、祭りを控えて多くの〈大地人〉がこの街を訪れている。当然街にある宿泊施設はどこも満室状態だし、臨時の宿泊施設として〈円卓会議〉が用意したゾーンも使用されているほどだ。

 飲食店もそれは同じで、どこも盛況。味が自慢のこんな裏通りの店にも、祭りが本格化する明日にそなえて、景気づけに一杯ひっかけている〈冒険者〉や〈大地人〉が溢れている。

 味が自慢だけあり、酒が出される時間とも相まって、店内は品のない喧噪に満ちている。少女には些か刺激の強い店だったが、セララとしては大好きなにゃん太と遅めのディナーが一緒に出来て満足だった。狭い店内だというのも、テーブルの下でお互いの膝小僧がぶつかる距離だと思えば、嬉しくてくすぐったい。

「にゃん太さんは、お疲れですか?」
「そんな事はないですにゃん」
 にゃん太はそう答えてくれるが、今日は八面六臂の大活躍だった。〈三日月同盟〉は秋祭りにおいて幾つかの店舗を出すことになっている。復活する〈軽食販売クレセントムーン〉もそうだし、そのほかに裁縫部門が実演販売を、鍛冶師達はネーム入りの武器販売を行なう。
 〈三日月同盟〉は少人数ギルドで、それぞれの部門は多くても5人ほどでしかない。にゃん太は、その中でも調理部門の助っ人兼講師として協力してくれていたのだった。

「上手に出来ましたよね?」
「ちゃんと出来てますよ、セララっち」
「明日が楽しみですっ」
「そうですにゃー」
 そうしてにゃん太と忙しい一日を過ごし、夜が明ければ明日は丸一日売り子をすると思えば、わくわくと気持ちが嬉しくなってしまうセララだった。

 五十鈴が〈三日月同盟〉を辞めて〈記録の地平線〉に移籍を決めたとき、正直に云えば心が揺れなかったわけではない。ススキノで助けてもらったあの日から、セララはにゃん太のことが大好きだったのだ。セララだってにゃん太の元への移籍を考えはしたのだ。
 しかしセララは低中レベルのメンバーの中心的な世話役として、新人達の面倒を見る役目を〈三日月同盟〉の中で担っている。〈ハーメルン〉から引き上げてきたばかりの五十鈴とは違い、セララには、セララを頼りにしている仲間達がいるのだ。

 そのことを申し訳なく思い、にゃん太に謝ったことがある。
 にゃん太は微笑んで「セララっちはとても偉い子ですにゃ」と云ってくれた。大人で紳士のにゃん太はいつでも優しかったけれど、それ以降、もっと優しくなったような……真剣に向き合って声を掛けてくれるようになった気がする。だからセララとしては、今はこの位置で十分満足だ。

 トマトで煮た魚介のスープはあっさりとしているのにコクがあり美味しかった。付け合わせの茹で野菜やオムレツも美味しい。にゃん太と他愛もないことを話すのが楽しく、セララは幸せな気持ちで食事を進めることが出来たのだった。

 そんな時、鋭い破砕音が響いて、店内のざわめきが一瞬で停止する。どうやら店員が食器を落としてしまったらしい。この店の名物であるトマトソースが飛び散って、石床の上に真っ赤な花のような幾何学模様を描いている。

 白磁の皿は砕けて床に散らばっているが、飲食店である以上、あり得ることだ。そんなどうと云うことのないトラブルに、ざわめきが戻りかけたとき、殴打音が再びそれを断ち切った。

 テーブルの上に視線を戻しかけたセララがそちらを振り返ったとき見えたのは、倒れてゆく女性店員と、仁王立ちの男性だった。

「ふざけるなっ。このような染みをつけ、どうしてくれるっ」
 男は居丈高に怒鳴り散らす。
 セララはが素早くステータスを確認する。おそらくどちらも〈大地人〉だろう。メイン職業が〈冒険者〉のそれではない。まだ若い男の方は金のかかった衣服を身につけている。貴族らしいその男はいらついた口調で給仕の娘の不手際を責め立てると、給仕娘風情に弁償しきれる金額ではないのだと云い放った。

 息をのまれたように静まりかえった店内の雰囲気に、男は気を良くしたらしい。さらに高圧的になって店を貶め始めた。いわく、狭い。汚い。騒がしく、品位の欠片もない。名店だと聞いてきてみれば期待はずれだ。やっと騒がしさだけはなくなったようだな、と。
 セララはいやな気分になる。自分は楽しく食事をしていたのだ。料理だって美味しいし、確かにちょっと騒がしいけれど、そう云う雰囲気は嫌いな訳じゃない。そう云う店が好きな人が来ればいいのだ。他人の食事を邪魔するなんて、格好悪い。素直にそう思った。

「バカか? こいつ」
 店内の誰かがぼそりと呟いた。
 男は勘違いしているのだ。この店は、男――おそらく貴族が普段食べているような専用の大食堂でもなければ、社交界御用達のレストランテではない。美味いトマト煮を出す「メシ屋」である。
 さらに勘違いはもう1点ある。周囲が静かになったのは男の持っている権威に周囲が恐れ入ったからではない。余りの頭の悪さにあきれ果てているのだ。

「誰だっ!? 今わたしを愚弄したのはっ!!」
 男の激高した声に3人の冒険者が立ち上がる。それに脅威を感じたのか、男とは別のテーブルで食事を取っていた護衛風の〈大地人〉戦士も腰を上げた。一触即発の空気に、店内にはぴりぴりした雰囲気が立ちこめ始めた。

「にゃん太さん」
 セララは身を小さくして声を掛ける。
 恐怖感、というのとは違う。セララだってあのザントリーフ攻防戦の、それも最悪と言われたチョウシの戦いに参加したいっぱしの〈冒険者〉だ。アンデッドや魔獣との戦闘経験だってある。戦闘という意味では、この程度の緊張など修羅場のうちには入らない。しかし、人間同士が感情をぶつけ合うという現場は、そう云った戦闘の緊張感とは別だ。みんなで仲良く過ごしたいという願いが、かえって不安感や忌避感を高めてしまうのだ。

「心配することないですにゃ」
 にゃん太は立ち上がって振り向くのと同時に、ひょいと手を伸ばして、青年貴族の首根っこを捕まえた。まさに猫を持ち上げるときの、あのやり方だった。虚を突かれた青年は目を白黒させて反応が一瞬空白化したようだった。

「おいたはいけないですにゃ。ここはみんなが楽しく食事をする場所ですにゃん」
「黙れ! 平民がっ!」
「我が輩は〈冒険者〉ですにゃ」
 にゃん太の返答に、男は一瞬返答に詰まり、その表情に狼狽が走る。そう、ここはアキバの街なのだ。いくら〈大地人〉が増えてきたとは云え、街を行き交う人間の半数以上が、未だに〈冒険者〉である。
 その事実を失念していたのか、男は恥ずかしさに表情を歪める。

「それならばなおさら関係ないっ」
「うーん」
「これは我ら〈大地人〉の身内のことだ。〈大地人〉は〈大地人〉同士の身分の差というものがある。口出ししないでもらおうっ。我らは〈冒険者〉と事を構えるつもりはないのだっ」

「へー。そうは見えなかったな」
「俺らのお気に入りの店に随分好き放題言ってくれてたみたいだけどさ」
 店の奥で立ち上がった3人はやはり〈冒険者〉だったのだろう。そのうち1人が、給仕の少女に回復呪文をかけている。

 男の護衛戦士は頻繁に唇を舐めて、落ち着き無く左右を窺う。装備を見ても、実力差は明らかだ。イズモ騎士団ならともかく、各領主が抱える騎士団クラスであれば、高レベル〈冒険者〉の敵ではない。ましてや、貴族の放蕩息子につけられた護衛など、レベルにして、10やそこらでしかないだろう。
 セララから見ても、護衛の男は、制圧可能なようにしか見えない。

「若様、ここはどうかっ……」
「ここはアキバの街ですにゃん。アキバの街には、アキバの街の守るべき秩序というものがあるのですにゃん。おいたはいけないのですにゃ」
 にゃん太は護衛の言葉を遮りながら、戸口の方へと歩き出す。大声を出して暴れようとした貴族風の青年は、細身のしかも若くは見えないにゃん太が、片腕一本で自分を悠々と引きずり回しているのを見ると酸素が無くなったかのように口をぱくぱくさせた。かかとを引きずられてゆく青年は、戸口まで来ると、さして力を入れた風にも見えないにゃん太の細腕で、ひょいと吊り上げられる。

「代金は要らないですにゃー。ここはサービスしておくにゃ。今日はお祭りだから、もめ事は抑えて楽しく過ごすと良いにゃあ」
 にゃん太は戸口からその男をぽいっと投げ出した。若様、若様と叫ぶ護衛の男が慌ただしくそれを追いかける。
 男が最初に給仕の娘を突き飛ばしたのと同様、この程度であれば、アキバの街に存在する衛兵機構が反応することはない。抜刀したり、直接的なダメージを与えたりしなければ、衛視が案外ザルなのは、街の住民には広く知られていることだった。

「にゃん太さん」
「大丈夫大丈夫。食事に戻るですにゃー」
 穏やかに云うにゃん太の言葉に、セララはほっとする。
 同様に、店の中の雰囲気も弛緩して騒がしい空気が戻ってきたようだ。給仕の娘はみんなに頭を下げて回っているが、返ってくるのは気にするな、当たり前だという声だけだった。娘は真っ赤になって感謝している。

「でも、珍しいですね。こんなこと」
「〈大地人〉の人が増えてきたからですにゃ。それに今日はお祭りで、普段この街に馴染みがない人も沢山来訪しているですにゃ」
 にゃん太は慎重に千切ったパンにトマト煮をつけて、ひと口囓った。

「〈大地人〉は貴族社会みたいですからにゃぁ。アキバの街の雰囲気は面食らってしまうのかも知れませんにゃ」

 面食らってしまうなんて、とセララは言葉を途切れさせる。セララはアキバの街以外で暮らしたことはほとんど無い。短い期間だけススキノの街にいたが、あれは潜み隠れていただけで街の雰囲気を知ったとは云いがたい。だから〈大地人〉の街の雰囲気や慣習は判らなかったが、さっきのような光景が日常だとすれば悲しいことだと思う。
 しかし〈大地人〉はこの世界の主役の一方だ。彼らには彼らの文化や生活を自由に営む権利がある。むしろ、〈冒険者〉の方こそ秩序を乱す権利など「無い」のかもしれない。それは、にゃん太やシロエから聞いたことのある言葉だった。今までピンと来なかったその言葉が、やけに重く胸に染みた。

「まぁでも。うちの街はうちの街ですにゃ。郷に入っては郷に従え。美味しい食事はにこにこ食べるにゃ。お祭りは楽しく遊ぶにゃ。……もめ事が起きそうなときは、みんなで気をつければ良いにゃ」

 にゃん太の言葉に、セララは少しだけ安心して頷く。
 今回の祭りは、セララ達〈冒険者〉の祭りであると同時に、〈大地人〉へと開かれた最初のイベントでもあるのだった。もしかしたら今日のようなトラブルが増えるかも知れない。でも、だからといって引き返すつもりはない。それは必要なことだとセララは誰に云われるまでもなくそう思ったのだ。

 居酒屋の中は、再び喧噪に満ちた温かい雰囲気が戻ってきていた。先ほどのちょっとしたトラブルは、みんなの心の中にも、疑念や不安感を残したかもしれないが、そんな事でへこたれる〈冒険者〉は居ないようだった。あの程度の騒ぎで不安がっていたら、異世界で暮らしていくことなど出来やしない。
 アキバの〈冒険者〉はこの5ヶ月でずっと鍛えられているのだった。だから大丈夫。セララも安心して、にゃん太に微笑みかけた。



 ◆



 その同じ夜を、別の場所では別の二人組が自暴自棄な勢いで働いていた。
 〈三日月同盟〉を率いる美女(?)コンビ、マリエールとヘンリエッタである。矢継ぎ早の指示を飛ばしまくって、オープンを明日に控えた臨時店舗とショーの準備は進められてゆく。

 〈三日月同盟〉は現在65名。〈ハーメルン〉事件で人数は伸びたが、この規模ではまだまだ中堅と云うところである。当然、三大生産ギルドのような大規模なイベントを行なう事は出来ない。

 しかし、今回の祭りは、そもそも中小ギルド発案のイベントという側面もあった。新しいアイデアというのは何も大規模なギルドからのみ生まれるものではない。元の世界と違って大規模な設備投資を必要としないこの異世界の特殊性を考えると、腕の良い職人とアイデア、バックアップ体制さえあれば中小ギルドが大規模ギルドと戦えるのは明白である。
 例えば被服や衣料品に特化したギルド〈銀杏工房〉などは、その人数からすれば信じられないほどの人気を博しているのだ。

 また、〈エルダー・テイル〉がゲームであった時代には有効に機能していた大人数ギルドの「規模」というアドバンテージが、異世界化に伴い疑問視されてきているのも事実だった。

 この異世界のルールによれば、サブクラスは1つしか習得できない。〈裁縫師〉であると同時に〈大工〉であるのは、不可能なのだ。そうである以上、大規模なギルドであっても、その内部は職能ごとの小グループに分かれてゆくことになる。横断的な連絡を受け持つ優秀な仕切り役がいなければ、中規模以下の単職ギルドとして独立しているのと大差がないと云うことになる。
 従来であれば大規模ギルドの売りであった、共同倉庫による材料の備蓄なども、〈大地人〉との取引経路が増えて低レベル素材であれば安価に大量のアイテムを購入出来る仕組みが整ってきたことにより、中小ギルドとの差別化に繋がらなくなってきている。
 大人数ならではの弱点、話し合いや意思決定の遅さも指摘され、大規模ギルドも、規模だけで他を圧倒出来る時代ではなくなりつつある。

 もちろんこれはビジネスを戦争と考えた場合の指摘であり、ほとんどの〈冒険者〉にそんな発想はない。目の前の好景気や祭りというムーブメントの中で、新しい何かを体験したいという気持ちを持つ者が主流派だ。

 マリエールとヘンリエッタもそんな層で、文化祭的な雰囲気を存分に楽しむために、こんな夜更けまで作業を続けてしまっただけである。かといって、儲けは100%度外視の、ただの遊びかと云えば、そんな事もない。儲かるのは大規模ギルドだけで、中小ギルドにはまったくチャンスがないとなれば、やる気も湧いてこない。
 中小ギルドにもチャンスがありそうだという現在のアキバの状況は、マリエールとヘンリエッタにとっては歓迎すべき雰囲気だった。

 時刻はすでに真夜中を回っている。
 〈三日月同盟〉の仲間達もギルドホールのあちこちで沈没しているだろう。2人のいる部屋の中央には、ダブルベッド程度のサイズはあるかと思われるテーブル一面に木箱が積み上げられている。新ギルドホールの余裕を持った間取りは、こんな作業スペースをも生み出していた。
 木箱の中に草木染めのチュニックを仕舞っていたマリエールは、肩をぐるぐる回して一息入れると、ヘンリエッタに声を掛けた。

「なぁなぁ。そろそろこれで終いやん?」
「そうね」
 ヘンリエッタはテーブルの向かい側で何枚かの書類を確かめて、手元のタグに数字を書き入れると箱に貼り付けた。
「終わりにしましょうか」
 マリエールはその言葉に、はふぅと大きく息をつく。

 明日からは『天秤祭り』も本番だ。
 アキバの街を十文字に切り分ける2本の大通りは、連絡会が抽選した割り当てにしたがって多くの露店が開かれるだろう。〈三日月同盟〉も、街外れの方ではあるがささやかな出店場所を手に入れていた。そこでは〈クレセントムーン〉を復活させて、伝説のクレセントバーガーを再販する予定である。もちろん、お値段の方はあの頃よりも随分安くなっている。

「あれは足下価格やったもんねぇ」
「足下でしたわねぇ」
 箱詰め作業で疲れた二人は、放心したような表情で会話を続ける。
 〈三日月同盟〉の誇る、「胸が大きくて美人で胸が大きい関西弁ギルドマスター」ことマリエールも、「眼鏡で知的で叱られたいお姉さん」ヘンリエッタも、二人っきりの作業室でだれている姿は、どこにでも居る普通の女性〈冒険者〉と変わりがない。

 このままでは居眠りしかねないと思ったヘンリエッタは「マリエ、しゃんとしなさい」と相棒の肩を揺する。しかし、マリエールはといえば、もとより普段からそこまで規律正しいと云うわけでもないのである。こくこく頷くものの、くってりと脱力していた。
 そんなマリエールをなだめすかして、とりあえずソファに連れてきたものの、今度はそこに根を生やしてしまうマリエール。寝るならばベッドの方が良いのだろうが、それにはシャワーが浴びたいなどと我が儘を云う彼女に、ヘンリエッタは呆れ果てる。

「シャワーを浴びたいならば浴びてくればよいのに」
「ちょっと休憩するぅ~。ヒットポイントがピンチなんよ」
「HPバーは完全に緑ですわ。だいたいピンチならば自分にヒールを掛ければ良いでしょう?」
 〈冒険者〉の身体的なスペックは高い。〈吟遊詩人〉であるヘンリエッタですら、10時間にわたる箱詰め作業で多少運動後の熱を感じる程度だ。ぐったりするほどの消耗にはほど遠い。
 マリエールのそれも、疲労と云うよりは精神的な消耗なのだろうとヘンリエッタは考える。

「ちょっと休むぅ」
 むずかる親友に深々とため息をつき、ヘンリエッタはその隣に腰を下ろす。

「どうしたんですの? マリエ」
「なんでもないんよ」
 ヘンリエッタは肩をすくめる。マリエールの態度が可愛らしすぎて、手間暇を掛けたじっくりした下ごしらえによる、繊細で味わい深いツッコミをする気にもならないのだった。

 マリエールが拗ねている理由は、何となく想像が付く。
 この1ヶ月の間、からかい続けてきた例の件だろう。
 ヘンリエッタは脳裏に想起したメニューにカーソルを走らせる。

「――はい。私です。ええ、ええ。……いえいえ、夜分、申し訳ありません。で、かねてより、はい」

 接続を確立したヘンリエッタは空中に声を投げかけた。念話機能を用いているのだ。対象からの音声は耳の内側で再生されるため、独り言を喋っているような光景に見えるが、魔法的な接触は遠隔地にいる知り合いとの会話を可能とする。

 それが判っているから、マリエールの方も独り言か? といぶかしがる気配はない。しかし、そのかわり、ぼんやりした表情が次第に真面目になり、慌て始め、動揺する。

「ヘンリエッタ? 誰? 誰に話しとるん?」
「ふふふふっ。ええ、ええっ。そうなんですよ、もう。くってりしちゃって目も当てられないくらいです。ほぉんと、拗ねちゃってますからねぇ。マリエは」
「誰ーっ!? 誰と話ししてるんよーっ!?」
「念話中です。静かにしてくださる? マリエ」
「うちのこと話してるのに無視も何もあるかぁ!」
 含み笑いを続けるヘンリエッタの肩を、マリエールは揺すり始める。しかしその辺は、ヘンリエッタも付き合いが長く手慣れたものだ。マリエールの耳の後ろ側を白い指でくすぐると、無情にも引っぺがしてソファーに押さえつけてしまう。

「ええ、はい。荷物が山盛りですわ。直継さんにお手伝いしていただけると――ええ、マリエも喜びます」
  “直継”という言葉で身体をすくませるマリエールをまるっきり無視して、ヘンリエッタはゆったりと念話を進めてゆく。

「お願いします。はい。はい……。では後ほど」
 晴れやかな笑顔で振り向くヘンリエッタが見たのは、ふくれながらも狼狽えるマリエールだった。

「何でヘンリエッタはうちのこといじめるん」
「虐めてませんわ? それはマリエの誤解でしてよ」
 その言葉にマリエールは口をへの字にして何か云いたそうな表情を見せる。卵形のつるりとした輪郭の中で、表情豊かに輝く瞳がとても魅力的だ。もっともヘンリエッタは、マリエールが可愛らしくても容赦をするつもりなんてない。彼女を虐めるのも、活を入れるのも、ヘンリエッタの趣味なのだ。

「よろしいのですの? 直継さん、小一時間ほどでお手伝いに見えられると思いますけど」
「こんな真夜中に!?」
「ええ」
 しれっと答えるヘンリエッタ。マリエールは突如電源を入れられたかのように直立状態になると、手近にあるカーディガンを鷲掴みにして走り出す。私室に戻ってシャワーでも浴びるのだろう。

「う、うちっ。ちょっとお花摘みっ!!」
 見え透いた云い訳を残して駆けだしたマリエール。その後ろ姿に「頑張って下さいね」とひらひら手をふったヘンリエッタは、そのままソファーに腰を下ろした。

(マリエは相変わらず可愛いこと。これは当分どうなる様子もありませんね。やれやれ、ですわ。――それはそれとしても)

 バックから取り出した書類束をぺらぺらと捲るヘンリエッタ。
 直継から聞いたシロエの断片的な様子で、気になっていたことを思い出してしまったのだ。

 それは連絡会でとりまとめた資料だった。出店希望をするギルドや商店、個人や、グループがまとめられている。出店料は控えめに設定していたが、それでもその収益金だけでたいした物だ。それほどに、予想を超えて今回の祭りは大規模になっていたのである。

 その主たる原因は〈大地人〉である。〈自由都市同盟イースタル〉だけではなく、西方からも交易商人や貴族商が集まってきている。アキバの街の持っている経済的な規模は人口では判断できないほどに大きい。そこに目をつけた〈大地人〉社会が、このアキバの街に食い込むために我先にと争って進出をしてきた結果だ。

 カラシンを始め連絡会のメンバーもそれは予想していたが、蓋を開けてみればその予想よりもずっと注目度が高かったと云えるだろう。明日からの祭り、特に中小ギルドはその盛況ぶりに驚くことになる。
 〈冒険者〉同士の学園祭気分でいる露店の多くはあっという間に品物が売り切れてしまうと思われた。何せ〈大地人〉商人は「仕入れ」に来ているのだ。自分の欲しいものを吟味して1点ずつ買っていく〈冒険者〉とは根本からして違う。

(でも……)

 ヘンリエッタは指先で眼鏡を押し上げる。
 トレードマークとも云える、細い銀縁の眼鏡が、集中した彼女の表情の中でわずかにきらめく。何かが引っかかるのだ。古参やベテランなどとは口が裂けても云えない彼女の社会人経験。それでも、会計を自認して帳簿だけを捲ってきた経験が、何か違和感のようなものを伝えてくる。
 得体の知れないもやもやした感覚が不快で、ヘンリエッタはきゅっと唇を噛んだ。

(シロエ様なら……)

 いつの間にか慣れ親しんだ青年の横顔を思い出す。
 考えてみれば、思い出すのは横顔ばかりだ。向かい合って話したことがないわけではないが、あの意地っ張りの青年の大事なシーンは、常に横から眺めていたような気がするヘンリエッタだった。
 〈円卓会議〉が成立した会議でも、レイネシアが立ち上がったあの会議でも。ヘンリエッタはいつでも脇役として、その横顔を一歩退いた場所から眺めてきた。

 意志の強さと鋭い直感力を秘めたあの横顔を持つ青年ならば、ヘンリエッタが抱えている不安感の正体を暴いてくれるかも知れない。

 アドレスメニューを辿る度、その考えに誘惑されていたが、結局連絡を取ることはなかった。それは何度か繰り返し考えた結論だ。

 シロエはすでに〈円卓会議〉の雑用をたっぷりと抱えている。
 今回の祭りに関しての雑事は、シロエの手を煩わせない様にしようという方針は、カラシンとヘンリエッタの間で結ばれた協定である。もちろん、明言して約したわけではないが、〈円卓会議〉はシロエを酷使しすぎだという共通認識はあった。

 それに今のシロエには、アカツキとミノリが居る。
 どちらの少女も、ヘンリエッタから見れば魅力的なことこの上なかった。
 ほっそりとした百合を思わせる滑らかで優美な姿形。日本人形のような黒髪を持つ美少女のアカツキ。
 華奢で抱きしめたくなるような、それでいて少女の力強さと責任感を体現したかのような汚れないミノリ。

 あの2人がシロエに寄せる想いを見れば、自分がシロエの周囲にいる幕はないように思える。

 元来自分は植物的なのだ、とヘンリエッタは思う。
 恋愛にまつわる動物的な感情は良く理解出来ないし、マリエールが良くやるような、スキンシップを基盤にしたコミュニケーション欲は自分には縁遠く思える。アカツキに対するそれは、つまりは「着飾らせて愛でたい」という気分であって、どうも世間で云う男女間の恋愛とは趣を異にするものであるというのは、ヘンリエッタ自身も理解している。

 シロエのことは良く意識に上るから、“そう云うこと”なのかとも思うが、かといって旧世界の流行歌のように、身も世もないほど会いたいとか繋がりたいとか云う欲求に焦がれるほどではなかった。

 「殿方の中では1番まし」
 かつてシロエをそう評したヘンリエッタだ。
 自分の気持ちが、とても淡くはあるが恋心であることくらい把握している。

(つまり、淡泊な性格なのでしょうね……)

 そこはかとない寂しさを感じないでもないが、それはそれで一興だろう。明けても暮れても愛しい人の顔が思い浮かぶというのはひとつの憧れではあるが、自分にはそこまで執着心が持てなさそうだ、というのは自覚している。

 ヘンリエッタにとっては、アカツキは可愛らしくて大事にしたい友人であるし、新顔ではあるがミノリも気のおけない友人である。そんな友人達の恋路に分け入らないで済むのは有り難くもあった。
 どちらかに肩入れすることは出来ないが、シロエが選んだ人を、祝福する覚悟くらいはある。

 シロエは。
 あの厳しい横顔を持つ希代の詐欺師には、幸せになって欲しい。
 幸せになることによって、初めて周囲を幸せにしてくれるタイプの人間なのではないか? ヘンリエッタはシロエをそのように思っていた。

(じれったい3人組ですけどね)

 ため息をつくヘンリエッタ。
 2人の少女もシロエも、そう云う意味ではとても不器用そうだ。何もない草原にピクニックに行っても遭難しかかるタイプかも知れない。難儀な3人ではあり、手助け出来ないのがもどかしい。

 友好ギルドの恋愛事情を考えるヘンリエッタは、先ほどの違和感をいつの間にか失念していた。まったく、どちらも多事多端で考えることが多すぎたのである。
040 お届け! 感想のお返事はもうしばらくお待ちを。ちゃんと全部読んでます(´∇`)
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