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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

異世界の始まり(下)

15/128

015

「これはこれは。奇麗所二人に〈第8商店街〉の若旦那じゃないか」
「……ふむ」
 ドアを開けて入って来たのは、予告通り〈海洋機構〉の総支配人ミチタカと〈ロデリック商会〉のロデリックだった。

「初めまして! うちはギルド〈三日月同盟〉のギルマス務めてます。マリエール云います。こっちのはうちの番頭さんのヘンリエッタ」

「ちょっと、番頭だなんて大時代的なのはやめてくださらない? ……ご紹介にあずかりましたヘンリエッタですわ。帳簿を預からせて頂いています」
 二人は交互に挨拶を行なう。マリエールは元の世界では自宅でゆっくりしている家事手伝いに過ぎないし、ヘンリエッタは経済学部卒のOLだ。会計事務をやっているし、父の教えを受けてはいるものの、こんな商談場面の鮮やかな礼儀の通し方など無縁なのだが、そこそこ格好のついた会釈をする。

「俺は〈海洋機構〉のミチタカ。支配人をやってる」
 商人というよりは戦士のような体型の大男が、陽気な声で挨拶を行なう。握手を求める腕も太く、火傷の後が目立つのは〈鍛治屋〉だからだろうか。
「僕は〈ロデリック商会〉のロデリック。生産ギルドのギルドマスターだ」
 一方ロデリックと名乗った青年は学者肌のように見えた。確か、事前情報に寄れば〈調剤師〉だったはずである。

「はい、存じ、存じ……あげております? お二人とも有名人ですからっ」
 にこにこと笑うマリエール。

 彼女にしてみれば、さっきよりは少しだけの肩の荷が下りている。シロエとの打ち合わせにおいて、彼女の担当は〈第8商店街〉から当面の素材調達を引き出すことだった。その意味ではさきほどの会談でノルマはクリアなのだろう。
 今から行なわれる会談は、担当で云えばヘンリエッタの分だ。

(つまり、ここからがわたしの戦場ですね)

 ヘンリエッタは怜悧な視線を閃かせて微笑む。目の前にいるのはアキバの街でもっとも巨大なギルドの長と、二位のギルドの長。本来であれば格が違いすぎて、〈三日月同盟〉など鼻にもひっかけて貰えないような超大手だ。ヘンリエッタも気後れをして話しかけるどころではない。

 しかし、この一週間ヘンリエッタ達一同はこの瞬間のために全ての準備をしてきたのだ。連日の狩りも、材料の仕込みも、炎天下での呼び込み販売も、塹壕戦のような書類整理も今このときを演出するため。
 この一歩は事前の一歩に、その事前の一歩はその手前の一歩により紡がれている。そしてそれを紡いできたのは、ヘンリエッタではなくヘンリエッタの仲間達だ。

(ここで引いたら仲間に合わせる顔がありませんわ。それに、シロエ様が組んだまっくろ黒の策ですからね。……これで勝てなければ他で勝つなんて出来ません。
 ふふふふ。そこにわたしがいるなんて)

 ヘンリエッタは自分のことを、戦闘に於いては二流のプレイヤーだと認識している。今まで大規模戦闘やハイエンドコンテンツに挑んだ経験はない。そんな自分が、事もあろうに、この世界始まって以来とも云える、最大規模の作戦の中心に座っているとは。

 自分の力が誰かの役に立つ。
 自分が自分の力を振るっても良いのだ。
 その認識は彼女の中に強い覚悟と高揚感をもたらした。

「おう。こっちも知ってるぜ。〈軽食販売クレセントムーン〉の店長だろう? ここ数日ですっかりアキバの街の有名人だ。俺だって食ったよ。まだ1回こっきりだがなっ」
 ミチタカが笑いながらそんな事を云う。
 マリエールは相変わらずニコニコと受け答えをしていて、ヘンリエッタからはまったく物怖じしていないように見える。

「……それにしても、僕たち生産ギルドの、それも大手ばかり集めてどんなご用件ですか? 〈クレセントムーン〉のマリエールさん」
 ロデリックはちらりとカラシンの表情を伺いながら尋ねる。カラシンだけが先に通されていた理由を推理しようとしているのかも知れない。

「えっと、用件ですか。用件ですよね、そうやんね。えーっと」
「その前に、〈第8商店街〉を先にお招きした理由をご説明しますね」
 ヘンリエッタは自分の呼吸を数えながら説明を始める。
 ゆっくりひとつひとつ、早口にならないように、余裕を持って聞こえるように。言葉を選び、声の調子を整えて説明をしてゆく。

「〈第8商店街〉様には食材の仕入れを依頼いたしましたの」
 その言葉で、ミチタカのにこやかな顔にも、ロデリックの理知的な瞳にもにわかに緊張が走る。たったそれだけの言葉で、事態がどのように推移中か理解したのだろう。

 〈第8商店街〉構成員約700。
 〈海洋機構〉登録者2500。〈ロデリック商会〉同じく1800。職人のレベル分布や方針の違いこそあれ、その勢力関係は人数の比率とほぼ等しい。しかし、食材納入と共に〈クレセントムーン〉が本格的に〈第8商店街〉と組むのであれば、その勢力図はひっくり返るだろう。

 〈クレセントムーン〉は食料アイテムに革命を起こした。
 しかし、その規模から供給体制は小規模だ。毎日千人に食事を届けたところで、それではまったく需要を満たすことは出来ない。アキバの街には一万五千人以上のプレイヤーが存在するのだ。
 しかし、〈第8商店街〉700人が総力を結集すれば、その需要を満たすことが出来る。その利益は圧倒的なものになるだろう。

 何しろ食料なのだ。
 衣服や家具、武器、鎧、アクセサリなどの装備品と違って、食料は毎日のように必要で、消費される。食べれば無くなってしまう。ひとつひとつが安価ではあれ、全体での売り上げは天文学的なものになるに違いない。そしてその売り上げは消耗品である以上、継続的なのだ。

 ヘンリエッタにはそんなミチタカの思考もロデリックの思考も手に取るように判る。使い方によれば、食料という武器は生産ギルドのバランスを一撃で壊す核兵器にもなる。

「そりゃ、〈第8商店街〉と組むってことなのか?」
 先手をとったのはミチタカだった。

 見かけ通りまっすぐで豪放磊落な性格らしい。現実世界の経営者ならどうか判らないが、オンラインゲームのギルドで人望を集めるのは案外こういうプレイヤーなのかも知れない。

「いいや、それならば僕たちが呼ばれる必要はないでしょう。別の案件では?」
 線が細い眼鏡の青年ロデリックは呟く。

 眼鏡男子というところはシロエと似ているが、些か神経質そうなところがマイナスポイントだとヘンリエッタは思う。黒さはシロエよりあったとしても、その黒を飲ませるだけの図太さは、この青年にはないだろう。

 つい先日まではシロエの内省的で控え目な性格を、このロデリックと似たような資質として受け止めていたヘンリエッタには、その差が余計に大きく感じられた。似て見えるのは、表面だけだ。

「はい、そのとおり別件ですわ。その別件におきましては〈海洋機構〉様も〈ロデリック商会〉様も〈第8商店街〉様も、等しくお願いしたいお話です」
 小さく首をかしげるヘンリエッタ。

 交渉とはお互いの手の内の読みあいだ。
 その意味ではヘンリエッタの置かれている立ち位置は極めて危うい。話を持ちかけたのはヘンリエッタの側なのだ。ある程度まではヘンリエッタ側が情報を開示しないと話が進まない。しかし、情報を渡すと云うのは、それだけで自らの持ち札を明かしていくことをも意味する。
 有利な点は、相手が利益を望んでいること。〈クレセントムーン〉は余りにも巨額の美味しい餌に見えていると云うことだ。
 加えるのならば

(わたし達が交渉のイニシアチブを握っているかぎり、どの情報を漏らし、あるいは隠すかという決定権は常にわたし達が握っている、と云うことですわね)

 ヘンリエッタはまるでチェスを差すように「明かして良い情報」、「明かすべきでない情報」を高速で整理して行く。

 この交渉を行なうに当たって、ヘンリエッタはシロエからひとつの課題を受けて居る。それは「嘘をつくことの禁止」だ。
 手の内の読みあいにおいてブラフを禁じられた現在、その自由度は大きく下がっている。後々のことを考えるとその条件は絶対だと理解できるが、些か不利になっているのは否めない。

(シロエ様も無茶な要求をしなさるんですから。……これはアカツキちゃんを貸し出してもらわないと割に合いません。ああ、アカツキちゃんっ。真っ黒ですべすべの髪の毛が麗しくてお人形みたいですっ)

 微妙に頬を染めて妄想を始めるヘンリエッタに、マリエールが横からコホンコホンと咳き込んで警告する。

「……あ、すみません。本題ですわね。当〈三日月同盟〉では現在大規模作戦を計画中です。ある種の……挑戦だと考えてもらっても結構です。しかしながら、この挑戦を行なうためには〈三日月同盟〉だけでは、力が足りません。その支援をお願いしたいのです」

「ふむ……。クエストですか」
 ロデリックの言葉にヘンリエッタはYesともNoともいわずに、わずかに視線を伏せて三日月めいた形にくちびるを歪ませる。

(誤解して頂けたようですね……)

 クエスト、とは〈エルダー・テイル〉における一種の任務である。ノンプレイヤーキャラクターからの依頼や、書籍や手がかりから発生する一連の冒険であり、その内容は様々だ。
 たとえば村の老人に頼まれて森の中から娘を捜し出してくる。またあるいは洞窟からゴブリンを一掃する。沼地の中からマンティコアのトゲを持ち帰る。クエストにはおよそ考える限りの種類の任務が存在する。
 一般的なオフラインのRPGのように明確なストーリーがない〈エルダー・テイル〉において、クエストとはゲームの物語そのものである。どんなクエストをどれくらい受けるかというのはプレイヤー個人に委ねられた自由だが、〈エルダー・テイル〉はそのゲーム時代から、数十万、数百万と云われるクエストがあり、その全貌を把握しているプレイヤーは存在しなかった。

 クエストが多様であるのと同様に、クエストの報酬もまた多様であり、経験値や金貨、アイテム、魔法の知識、何らかの権利であることもありえる。珍しいところでは、魔法の修行であるとか、生産職のためのレシピの場合もあった。

 ロデリックはヘンリエッタの「挑戦」という言葉を「クエスト」だと誤解したのだ。更に云えば「大規模作戦」と云う言葉から、そのクエストが個人レベルでは完遂できず、多人数を要する。下手をすると、パーティー単位ではなくより大きな集団を必要とするものであると考えているのだろう。

 現状進行中なのは「新しい料理方法の知識」を売却して、資金を得るという作戦。しかし、ヘンリエッタが見るに新しい調理法とは、一種のアイデアや気づきに近いものだ。
 こちらが少しでも情報を漏らしたら、勘の良い生産ギルドの長は具体的な手法を伝えなくても察するかも知れない。実際、あの程度の「察し」は何時他のギルドの人間が気が付くかも判らないのだ。

 そのような事情を考えたとき、ヘンリエッタが選んだ作戦は、この話題誘導だった。嘘はつかない。しかし、真実にも到達させない。

「で、マリエのところはどんな支援を必要としてるんだ?」

 カラシンの問いかけもヘンリエッタには有り難かった。アシストと云っても良いほどだ。だがその質問にすぐに応えることはせず、三人の瞳をじっとのぞき込む。
 決断に迷っている雰囲気を漂わせるのも、交渉ごとには必要だろう。

 隣では盟友のマリエールが、あの向日葵のような笑顔を燦々と振りまいているのが判っている。三人の青年はマリエールとヘンリエッタの顔を交互に見やっているようだ。

(マリエは美人ですからねぇ。ほんとうに。あーんなに背が高くなければ、わたしの好みのド真ん中ドストライクで家にお持ち帰りの抱き枕なんですけれど……。ああ、やっぱり赤くなって。カラシン様はマリエに気があるんですね。初々しいこと……)

 実際には3人はお日様のようなマリエールと月のようなヘンリエッタを交互に見ては視線を逸らしたりしているのだが、自分のことは気が付かずにヘンリエッタはそんな事を考える。
 言うべき事を整理した数瞬の後、ヘンリエッタは口を開いた。

「必要なものを申し上げる前に、こちら側の遂行体制をご説明します。どれくらいの戦力をそろえているかご説明差し上げないことには、信頼して頂けないかも知れませんから。
 今回の大規模進行作戦の指揮を執っているのは、シロエ様」

 ヘンリエッタはひとつの賭けを行なった。
 それはシロエには指示もされていないし、マリエールの許可もない問答。シロエの名前にどれほどの意味があるのかヘンリエッタは知らない。とても古くからプレイをしている古参プレイヤーで、思いも寄らないような人とも知り合いだとは聞いているが、なぜそんなシロエが〈三日月同盟〉のような小さなギルドと親しくしているのか、それを言うならばなぜ未所属なのか、判らない。

 ヘンリエッタ自身はシロエとも言葉を交わしたし、非凡なプレイヤーだとは思っている。だが果たしてそれだけなのだろうか?
 ヘンリエッタはセララから〈鷲獅子〉(グリフォン)の話を聞いた。ヘンリエッタの知る限りそれは「ただの古参プレイヤー」には手も触れられないアイテムのはずだ。

「“腹ぐろ眼鏡”がやってるのかっ」
 それはごく小さな声だったが、ミチタカは確かに呟いた。

「前線構築は直継様、切り込み役はアカツキ様。ポイントガードはにゃん太様にお願いして、後衛には不肖私とマリエールが入らさせて頂いています。そのほか、有志の方々と〈三日月同盟〉で作戦を遂行する予定です」

 ヘンリエッタは言葉を切ってミチタカの反応をこっそり伺う。
 彼は確かにシロエの名前と、ほか数名の名前で反応を見せた。だがその反応は押えられていて、どんな意味を持っているかは判らない。しかし、反応はあったのだ。確実に。

(やっぱりシロエ様はそれなりの勝算がおありだった訳ですね)

「中心メンバーはそのような形です。
 そしてそれでもなお足りない部分。皆様に受けたい支援ですが……それは資金です。現在我々は金貨500万枚を必要としています」

 三人の口から息を飲み込む音が漏れる。
 それはたしかに巨大な金額だった。

 今までのクエストで、その遂行に金銭が必要だった例はもちろん存在する。それは任務中の賄賂であったり、教練の代金であったりした。任務遂行に何らかのアイテムが必要で、それをマーケットで調達するために金貨が必要であるなどの例を含めるのならば、全てのクエストのうち25%程度が広義の意味での「経費」を必要とするだろう。
 しかし500万という金額は余りにも巨大だった。個人用クエストとしては考えられない金額だ。だがしかしその一方で、ある種の伝説級クエストや広域クエストであるのならばその可能性が否定しきれる金額でもない。

 そのようなクエストの噂を聞いたことがない以上、それはまったく未知のクエストなのではないか? 拡張パック〈ノウアスフィアの開墾〉で導入されたまったく新規の誰も知らないクエストである可能性が高く、そうならば90レベル以上のキャラクターを対象にしたものではないのか?
 そしてそれは長編クエストとして、多数のクエストが一連の物語を形成するタイプの大規模クエストではないだろうか。もしそうならば、その大規模長編クエストでは、個別の単発クエストが終わる度に、一定の報酬が得られるはずである。
 長編クエストはプレイヤーのモチベーションを保つために、その要所要所で小さな報酬が手渡されるのが常だったからである。

 ――おそらく、三人の思考はこのようなものだろう。

 人間は信じたい情報を真実だと思い込むものだ。彼女は証券マンである父親からそんな言葉をよく聞かされた。三人は、まったく知らない未知のクエストの話を信じたい気持ちに傾いている。

 ヘンリエッタはマリエールに荷物を取り出すように頼む。
 取り出されたのは、紅い茶に、カスタードプディング。

「どぞどぞ! これ新作やねん。甘くて美味しいで? ロック鳥の卵でつくったんよ~」
 マリエールの明るい笑顔で進められて、三人はその美味しさと、話された内容に驚愕する。ロック鳥だとすれば、それは85レベル以上の高レベルモンスターだ。その卵で作られたというならば……それは確実に90レベル以上の、彼らの知らないまったく未知のレシピ、だと云うことになりはしないか。

「もちろんただでお金を出してくれとは申しません。わたし達は大規模作戦遂行後、作戦の詳細情報をお三方に提供する用意があります。また、現在わたし達が運用している調理法、および挑戦の過程で知り得た調理法を〈筆写師〉に依頼して複製し、提供する準備があります」

 ヘンリエッタやマリエールにしてみれば「作戦」とは秋葉原の街の雰囲気を良くするための、いわば自警団活動である。まだその着陸地点について二人は詳しいことを知らない。――シロエがその部分についてはボカしているのだ。
 だがしかし、そのような活動であれば、詳細情報をあかすもなにもない。一度事が終わってしまえばそれはガラス張りであろうし、そうでなければならない。密室政治で保つ治安など有りはしないとシロエ本人が言い切っていたのだ。情報を明かすデメリットなど何もないし、その時点で情報の価値など無くなっているだろう。

 しかし、生産ギルドの三人にすればそれはまったく違って聞こえる話であった。もし〈三日月同盟〉が挑んでいるのが未知の長編クエストだとすれば、その開始位置、条件、途中の謎解き、全てがSランクの機密情報だ。攻略サイトの支援が望めない現在、同じクエストを見つけるためには年単位の時間が必要である可能性すらある。

 更にその上、ヘンリエッタは「現在わたし達が運用している調理法、および挑戦の過程で知り得た調理法」と明言をしている。そのような報酬があるのであれば、それは生産を絡めたクエストと云うことになるのだろう。〈軽食販売クレセントムーン〉の活動からして、もはやそれは新しい――画期的な食料アイテムのレシピ以外にはあり得ない。もし仮に他の生産職とは無関係に〈料理人〉だけを対象とした報酬であったとしても、その価値は計り知れない。

 三人は自分たちが作り出したストーリーを信じ始めている。

 ヘンリエッタは峠を越えたと確信した。この条件は破格なのだ。頷かない方がおかしい。もし断るとすれば、それは話に疑いを持ったときであり、三人は自分たちが想定した架空のクエストというストーリーにすっかりはまっていた。

(そろそろ救命胴衣を投げてあげる頃合いですわね……)

「わたし達は総力を挙げて資金調達をしています。資産処分や〈クレセントムーン〉の売り上げも含めて、金貨50万枚は用意できました。残りは金貨450万枚です。
 どなたかお一方にお願いするのは、現在のバランスを大きく変えると私どもは考えていますわ。お一方につき、金貨150万枚……いかがでしょうか?」

 ヘンリエッタは要求する金額を一気に1/3にダンピングする。
 現在この世界において、90レベルのプレイヤーの手元現金資産は1万枚~4、5万枚というところだろう。だとすれば、この金貨150万枚というのは100人程度の資産寄付でまかなえる金額となる。
 たとえば3ギルドの中では最大の〈海洋機構〉2500人からカンパを集めるとすれば、1人あたりの金額は金貨600枚に過ぎない。
 金貨600枚などは、中レベルの鎧一揃え程度の値段でしかないのだ。三人の表情が決意に変わるのも当たり前だろう。

「〈ロデリック商会〉はその話にのりましょう」
「〈第8商店街〉もお受けする」
「判った。〈海洋機構〉は資金援助しようじゃないか。なんだったらうちだけで単独スポンサードだって良いんだぜ?」
「それは困るな。……利益を独占するつもりかい?」
 言い合いを始める三人を、マリエールが「そんな事言わんと。な、な。うちに免じて仲良うしてやっ」と取りなす。

 会談の最中、終始笑顔を浮かべていたマリエールに云われると、三人としても引かざるを得ない。そもそもこの話は〈三日月同盟〉がイニシアチブを握っているのだ。

「それでは、入金は……四日後でよろしいのですね?」
「判った。で、レシピの引き渡しは?」
「調理法は〈筆写師〉のスケジュール次第ですが、出来れば入金と引き替えに。遅くともその翌日にはお届けできますわ。シロエ様が〈筆写師〉ですからね」

 そんな別れの言葉を交わして、三人が貸し部屋を出た後には、マリエールもヘンリエッタもすっかりへとへとになっていた。自分のペースで終始イニシアチブをコントロールして話していたつもりのヘンリエッタだが、予想以上にプレッシャーを感じていたらしい。

 長い時間ではなかったが、精神的な疲労とでも云うのだろうか。背骨がぐにゃぐにゃになったようでうまく座っていることも出来ずにテーブルに突っ伏してしまう。

「ごめんなー。ヘンリエッタぁ」
 マリエールがだらけきった姿で、申し訳なさそうな声を上げる。
「どうしたんですの? マリエってば」
 ヘンリエッタもいつものお嬢様言葉が、やや投げ槍になっている。

「うちも交渉助けよぉ思ったんやけど。あんまり助太刀できひんかったわぁ、難しいなぁ、交渉って」
 心底情けなさそうなマリエールの言葉に、ヘンリエッタは疲れ切っていたにもかかわらず、くすくすと笑いが漏れるのを抑えることが出来ない。

「何を仰ってるんですか。マリエ。貴女がああやって微笑んでいてくれなかったら、今回の交渉なんてまったく勝ち目がありませんでしたわ」
 ……こうしてヘンリエッタ達は軍資金500万枚を手に入れたのだった。


 ◆


 月の輝く夜だった。
 昼間の熱気を残した熱く乾いた風が、夜光虫の飛び交う朽ちたホームを渡って行く。そこはアキバの街の中央広場を見下ろす、高架の上に乗った長さ200mほどのコンクリートの台地。

 旧時代は秋葉原の駅のプラットフォームだった場所。
 線路や支柱は今となっては錆果て、得体の知れない雑草や苔に覆われている。プラットフォームをはさむ左右のビルは、大破砕の名残をとどめてか、途中から凄まじい暴力を振るわれたようにぽっきりと折れてぎざぎざの尖塔を晒している。

 月の光が、その槍の穂先のようなビルの黒々とした影を緑とコンクリートの絡み合ったホームに落とす中、二人の長身の影がたっている。

 シロエとにゃん太である。

「少し、風が出てきましたにゃぁ」
「ああ、そうだねぇ」
 シロエは片手をかざすように月を見上げる。
 前髪が風に流されてまぶたに掛かるのか、丸眼鏡の中の目を細めてゆっくりと。

「今の時間は、真夜中まではもう少しか。……ソウジロウが来るまでにはもうちょいありそうだ。にゃん太班長、どこかに座る?」

「いえいえ、お気遣いは有り難いですが、我が輩そこまでのポンコツ老人ではないのですにゃぁ」
「別に年寄り扱いって訳じゃぁないけど」
 シロエは肩をすくめる。

「シロエちは、ソウジっちに会うのが気が進まないのですかにゃ」
「あー。ん……」
 その問いに少しだけ思考を巡らすシロエ。

「気が進まない訳じゃないよ。ちょっとばつが悪いだけ。ほら、ソウジロウがギルド立ち上げるとき僕も誘われたからさ。気まずいって云うヤツかな」
「そうでしたか」
「にゃん太班長は誘われなかったの?」
「その時期は、我が輩ログインが不安定だったのかと思うのです。誘われた記憶がないですにゃ」
「そっか……」

 待ち合わせの相手はソウジロウ=セタ。

 にゃん太とシロエの、そして直継の旧友。
 〈放蕩者の茶会〉に居た〈武士〉(サムライ)にして〈剣聖〉(ケンセイ)。〈放蕩者の茶会〉出身者、いまのこの世界にいる8人のうちの1人だった。
 ソウジロウは、ある意味もっとも〈放蕩者の茶会〉の影響を受けたプレイヤーの一人だった。勤勉で、真面目で、それだけではなく優しかった。〈放蕩者の茶会〉が解散を決めたとき、一番惜しんでいたのはソウジロウだったろう。

 〈武士〉は様々な東洋的な武器を使いこなすが、その精髄と云えるのはやはり刀だ。刀とは云ってもその種類は多い。古式ゆかしい太刀、小振りな小太刀。二本差しに用いる脇差し、そしてサムライの主兵装、打刀(うちかたな)。〈エルダー・テイル〉においてはおおざっぱに言って剛性に優れ攻撃力を重視するものを太刀と呼び、速度と取り回しを重視した技量を振るいやすいものを打刀と呼ぶ。

 ソウジロウはその打刀の達人だった。
 速度ではなく優雅さの中に自らの斬撃を隠すことの出来る彼の技は、目を凝らしていても補足することが困難だ。ソウジロウに掛かれば巨木をへし折る巨人の一撃も受け流され、鉄槌を防ぐ砂蟲の装甲も無意味化した。
 「コツがあるんですよ、先輩」。ちょっとはにかみがちな笑みでソウジロウはそう言っていた。

 直継がゲームから去り、時を同じくしてやはり個人的な事情で、多くの仲間が〈エルダー・テイル〉というゲームから去った。話によればにゃん太班長も、しばらくの間は半休止というかログインが不定期だったらしい。

 そんな中でソウジロウは〈エルダー・テイル〉を去らなかったメンバーの筆頭だった。「〈放蕩者の茶会〉を無駄にはしたくない」。そう言ってソウジロウはひとつのギルドを立ち上げた。
 もちろん、残った〈放蕩者の茶会〉のメンバーを誘った上での話だ。しかし、〈放蕩者の茶会〉はギルドではなかったし、そこに属していたプレイヤーは、属していたとは云っても自由人が多かった。
 ソウジロウのギルドに参加した者も数人いたが、断ったプレイヤーもまた居たのだ。そして断ったプレイヤーの一人がシロエだった。

「それでばつが悪く思う必要はないと思うのですにゃ。それぞれの道があった訳ですにゃん。ソウジっちだってその程度の事で腹を立てるような子じゃないはずですにゃ」
「それはそうだけど……」

 シロエは言葉を濁す。
 引っかかっているのは、ギルドへの加入を断ったからだけではない。自分はあのとき何故断ったのか? 自分は「ソウジロウを断った」訳ではないと、シロエは思う。
 「ギルドと云う束縛」を断ったのだ。

 その自分が今、かたや〈三日月同盟〉というギルドを助けようとススキノまで赴き、大手ギルドが無言の支配力を強めるアキバの街に苛立ちを覚え、その状況を変えるために今度はソウジロウのギルド〈西風の旅団〉の力を借りようとしている。

 時が流れてシロエも変わった。ただ潔癖で、ギルドと云う関係を毛嫌いしていた自分とは、すでに違う。でもただ「違う」と否定形で定義したとして、自分の今の気持ちをソウジロウに伝えられるとは思えない。
 もしかしたら〈放蕩者の茶会〉を失った直後に〈西風の旅団〉を立ち上げたソウジロウは、シロエよりもずっと色んな事が判っていたのかも知れない、とも思う。

 ソウジロウが立ち上げたギルドは〈西風の旅団〉。
 決して大きくはないが、このアキバの街で大きな影響力を持つギルドのひとつである。メンバー数は公称約120名。しかしその実体は60名を割り込むと云われ、その小人数でアキバの街の名だたる大手ギルド、〈D.D.D〉や〈黒剣騎士団〉、〈ホネスティ〉と渡り合ってきた。

 規模では決して勝てなかったが、「ラダマンテュスの王座」や「ヘイロースの九大監獄」など、サーバの歴史に残る大規模戦闘の先陣争いを大規模ギルドと繰り広げてきたのだ。

 戦果という意味では、あるいは大量の予備人員を抱えた大手ギルドよりも更に輝かしいものがあるかも知れない。

「あまり思い悩まぬ事ですにゃ。シロエちは征くときめたのですから、胸を張らないと。シロエちはもはや我々の縁側の大家なのですにゃ」
 にゃん太の言葉にシロエはそう言えばそうだった、と思い直す。

 ソウジロウが自らの居場所を作り守ってきたように、シロエも新しい居場所を作ることになったのだ。何時までも思い悩んでばかりは居られない。

「こんばんは。お久しぶりです、シロ先輩。にゃん太老師」
 近づいてきた人影はまだ距離があるうちから二人に声をかけた。ソウジロウの幼い表情に、シロエはそう言えばそうだった。年下だったな、と思い起こす。こうして言葉を交わすのは殆ど一年ぶりだ。

「ご無沙汰。ソウジロウ」
「ご無沙汰にゃー。ソウジっちは元気でやってたかにゃー?」
 二人の挨拶に、ソウジロウは照れたように首をすくめる。
 こうして笑いあっていると時が戻ったようだ。

 ソウジロウはホームの上に無数に垂れ下がったツタを軽くよけるようにしながら近づいてきた。光虫がふわり、ふわりとその手をよけて宙に舞う。
 近づいてきたソウジロウは和服に袴、その腰には二本差しという幕末の維新志士のような格好をしていた。もちろん本格的な戦闘ともなれば甲冑をまとうのだろうが、街中ではこの程度の武装なのだろう。

「ギルドを組んだって聞いたにゃ。どうなのにゃ?」
「ええ、おかげさまで。ぼちぼち軌道に乗ってきてたんですけれど、その途端に〈大災害〉ですからね」
 ソウジロウは肩をすくめる。

 シロエはその表情で、ふとしたことに気が付く。
 考えてみれば、自分も含めて、直継も、にゃん太も、このソウジロウも〈大災害〉ではちっともへこたれていないように見える。どんなひどい状況でも、観光半分、冒険半分で捉えてしまうという〈放蕩者の茶会〉の遺伝子かも知れない。

「ナズナっちと、沙姫お嬢はまだ一緒なのかにゃ?」
「ナズナは一緒ですね。沙姫は一緒のギルドなんですけど――〈大災害〉の時はログインして無かったみたいで」
 にゃん太が尋ねたのは、共に〈放蕩者の茶会〉で腕利きだったヒーラーの名前。その質問でシロエはそういえば、ソウジロウのギルドに入らなかった理由をもうひとつ思い出した。

「ソウジロウは、まだもてもてなのか?」
「え? あ……。いえ、そんな」
 急におろおろとしだすソウジロウ。にゃん太は糸みたいに細い眼を更に細くして「青春ですにゃぁ。今は何人ですかにゃ?」と尋ねる。
 その問いにソウジロウはそっと片手をあげて、親指だけを折る。

(まーだハーレム状態なのかぁ。別に羨ましい訳じゃない……けど。けど、4人って言うのはなんだかすごく腑に落ちない……感じがする。なんなんだ? 4人って。ナズナと、沙姫と他に2人ってどんな豪華メンバーだ……)
 シロエは脱力するのを感じる。

「そんな事よりですねっ。どうしたんですか? シロ先輩から呼び出しなんて。ボクはシロ先輩には嫌われているんだと思ってましたよ」
「え、なぜ?」
 予想外の言葉にシロエは真顔で問い返してしまう。

「いや、だって。その……僕、ハーレム体質だから」
 赤くなって口ごもるソウジロウにシロエは返す言葉もない。その横でにゃん太は大きな声でからからと笑っている。直継であればすかさずつっこみチョップを入れていたところだろう。

「それは確かに重大な問題だけど、そんな事で嫌ったりする訳無い。僕たちは〈茶会〉の仲間だったんだぞ」
「そうか、そうですよね……。でも、じゃぁどんなご用件なんですか?」

 ソウジロウの問いにシロエは背筋を伸ばして気合いを入れ直す。
「単刀直入に云うと、力を借りたい」
「どんな力でしょう?」

「……ソウジっちは、今のこのアキバの街をどう思うですにゃ?」
「この街、ですか。抽象的ですね……。それはやっぱり、いろいろ辛いとは思いますよ。この街に限らずですけれど、この世界全てが考えようによっては牢獄じゃないですか」
「牢獄かぁ」
 ソウジロウは髪の毛を掻き上げる。そうすると、武士風のポニーテイルがホーム上の風にたなびくのだ。

「ええ。――いきなり巻き込まれて、異世界になってて。帰る方法も判らない。死ぬことも出来ない。世界の仕組みからしてそうな上に、街の外はモンスターがうろうろです。僕らはともかく普通のプレイヤーさんは閉じ込められている気分になるのも、判ります」
「そうだにゃー。そう言われればもっともだにゃ」

 ソウジロウの話ににゃん太も頷く。
 誰しもが漠然と思っていたことをソウジロウははっきりと言葉にした。たしかに、そう考えれば閉塞感があるのも当然だとシロエも思う。

「だから辛いですよね、良くないと思います。こういう状況だと弱い者いじめに走っちゃいますしね。実を言えば、うちのギルドでも、もう街を出ようかなんて話も上がってるくらいですもん」
「アキバ、出て行くの?」

「いや、そんな話もあるってだけで、まだ全然具体的な話じゃないですよ。やっぱり街に本部置いておくのは便利ですしね。ただ、やっぱり街の雰囲気がだんだん荒んでいくのは、見てて辛いですよ。何にも出来ないですし」

 ソウジロウはそう言う。
 何も出来ない、その台詞をさらりと言ったのはけっして責任放棄ではないのだろう。ソウジロウは、何かをしようとは思って、その可能性をちゃんと検討したのだ。その上で何も出来ないと判断したから、正直にそう言っているだけなのだ。

(その証拠に、声は苦いもんな……)

「何とかする手がある」
「本当ですか? シロ先輩っ」
「……と、思う」
 シロエは正直に断言を避ける。何とかしたいとは思っているし、何とかしよう、とも思っているけれど、保証は出来ない。もっとも、保証しなければついてこないようなヤツは、〈茶会〉で云うところの“臆病者”であって“仲間”ではない。
 だから“仲間”になって欲しい相手に保証はしない。

「そのために、力を貸して欲しい」
「どうすれば良いんですか?」

「……ソウジロウだけじゃなくて、〈西風の旅団〉の名前も借りなければならないんだ」
 シロエはソウジロウをまっすぐに見つめて云う。
 にゃん太が云うように、全ての事象には誕生と死があり、その生を全うするために努力が必要だというのならば、〈西風の旅団〉を産みだし守ってきたソウジロウはしかるべき愛情を注いで労力を支払ってきたのだ。その力を借りるのに、目を逸らす訳にはいかない。

 何かを育てるために力を使わなかったと自覚しているシロエならば、それはなおさらのことだった。
 少しきょとんとした後、納得したように頷くソウジロウにシロエは続ける。

「ひとつには、今のアキバの雰囲気は良くないってことを、周囲に話して欲しい。このままでは荒んでしまう、って。他の大手ギルドにも流してくれると有り難い」
「それは良いです、はい。でも、そんなのみんな何処かしらでは感じてますよ」

「でもちゃんと言葉にするのが大事なんだと思うんだ。〈西風の旅団〉がそう思っている、もしかしたら動くかも知れないと思わせるだけで十分に効果がある。
 もうひとつは、あと数日したら、招待状が届くと思う。出来ればその日まで、アキバの街にいて欲しい。会議の招待状だ。その会議で、何らかの決着を出したいと思う」
「判りました」
 ソウジロウはけろりとした表情で快諾する。

「いいのか? 経緯とか作戦とか聞かなくて」
「だってシロ先輩忙しいんでしょ? そんな事で時間とらせちゃ申し訳ないですよ。それに僕は前衛バカですからね。〈茶会〉一番の作戦参謀の立案を聞いたからって、半分も判りません」

 シロエはその言葉が温かくて、ひるむ。
 こんなにも信用されているとは、シロエ自身が思っていなかったのだ。一年も離れていたのに。一度はその手を振り払ったのに。

「ソウジっちは、良い子だにゃ」
「にゃん太老師に褒めてもらっちゃうくらいですからねっ」
 ソウジはそう微笑むと、表情を引き締めて、二人をまっすぐに見る。
「それとは全くの別件ですが、シロ先輩。にゃん太老師。……良かったら〈西風の旅団〉に入りませんか? ナズナも喜ぶと思いますし。うちは気の良いやつらばっかりです。現在は辺境エリアの探索に交代で出掛けては、新拡張パックの情報を探ろうと動いているところです。
 こう言っては何ですけれど……シロ先輩がやろうとしている、その作戦っていうのも〈西風の旅団〉の看板でやった方が効率が良いんじゃありませんか? ――ダメでしょうか?」

 姿勢を正したソウジロウの申し出は理に叶っていたが、いまのシロエには頷くことが出来なかった。先週のシロエであれば頷くことも出来たかも知れない。でも、今のシロエには、もう、家があるのだ。

「やっぱり、嫌われてますか? 僕」
 首を振るシロエに、ソウジロウはどこかしゅんとした声で応える。
 ソウジロウの誘いを断るのは二度目になってしまったな、と思いながら、シロエはその肩に触れる。

 にゃん太に云われた言葉で、シロエにもやっとやるべき事の姿がはっきりと見えたのだ。それは今まで目を逸らしていたこと。
 直継やアカツキの優しさに甘えて、にゃん太にも守られて、言い出さないで済ませられて来てしまったこと。

「本当にそうじゃないよ。ソウジロウ。
 ……あのね、僕は。
 自分の居場所をそろそろ自分でちゃんと作るべきだって判ったんだ。昔あった面倒くさいことから逃げているうちにこんなところまで来ちゃったけれど、僕もちゃんと守る側にならなくちゃいけないって、やっと判った。
 自分のギルドを作ったんだ。まだ人数も少ないし、走り出したばっかりだけど。誰かの居場所を作ることで、自分の居場所が初めて生まれるって、やっと判ったんだ」


 ◆


 〈クレセントムーン〉の開店以降、アキバの街は活気づいていた。

 たかが飲食のことではあるが、されど飲食でもある。

 今までまったく味気のない物を食べていたアキバの人々は、あっという間に新しい美味に魅了された。〈クレセントムーン〉の食事はテイクアウト中心であり、元の世界の基準で云えば、決して大盤振る舞いのご馳走という訳ではなかったけれど、この異世界においては何よりもの美味として迎えられた。

 当初は3店舗で供給体制がまったく追いつかない有様だったが、開店後数日で4店舗目を開店。〈三日月同盟〉の〈召喚術師〉(サモナー)が呼び出した〈火蜥蜴〉(サラマンダー)が暖める鉄板により保温された切り分けピザと、甘いクリームを用いたカスタードプリンがメニューに追加されて、これも絶賛をもって迎えられた。

 アキバの街の人々は〈軽食販売クレセントムーン〉が中小ギルドに過ぎない〈三日月同盟〉の運営だと云うことはそもそもの最初から気が付いていた。中には中小ギルドが新レシピを独占して、という批判も無くはなかったが、世界の風潮の中ではいち早く戦果を挙げたものこそが正義だという考え方もあって黙殺されたのだ。

 実際問題、〈三日月同盟〉に新レシピを公開しろと云う恐喝めいた投げ文もあったが、これなどは言いがかりに過ぎないと云うことは本人達にも判っていたのである。

 第4店舗開店の頃になると、街にはひとつの噂が流れ始めた。
 〈三日月同盟〉が、アキバの街の三大生産者ギルド、すなわち〈海洋機構〉、〈ロデリック商会〉、〈第8商店街〉と手を組んだというものである。
 三大生産者ギルドは合計すればその構成員は五千名を越える。それはアキバの街に住む全プレイヤーの三分の一にも当たる大勢力だ。事実その噂を裏付けるように、マーケットでは一部の食材アイテムの取引が活性化しだし、〈第8商店街〉による素材買い占めも見られるようになった。

 店舗が4つになり新メニューで客の回転率が高まったとは云え、やはり〈クレセントムーン〉の食糧供給は需要にまったく追いついていなかった。全ての店舗あわせても毎日1500人弱の顧客を捌くのが精一杯なのである。
 アキバの街の人々の多くが〈クレセントムーン〉からテイクアウトした美味しいハンバーガーの味を体験していたし、一度体験した人は二回目を求めた。旧世界で馴れていた味わいを思い出してしまった今、味気ないふやけた宇宙食の生活に戻るのはひどく苦痛だったのだ。

 〈クレセントムーン〉には夜明け前から行列が出来ることも少なくなく、また整理券なども配られた。

 この降ってわいたような〈クレセントムーン〉景気は、あちこちにかなり良い影響をもたらした。

 まず、〈クレセントムーン〉の食事はそこそこの高額である。一食当たりの値段にして、マーケットで求める食事と比べ3倍から6倍の金額になる。もちろん、他に金を使う当てもなく娯楽もないアキバの街において、その程度の金貨を払うのに躊躇うユーザーは少ない。しかし躊躇うことは無いが、それなりに手持ちの資金は必要になる。

 毎日三食クレッセントムーンのハンバーガーを食べるとなれば(そんなに買えるという僥倖に恵まれるとして!)、一ヶ月に金貨2700枚もの金貨が必要となる。

 今までのアキバの街での生活では殆ど金が掛からなかったために、毎日廃墟で膝を抱えて、元の世界へ戻れない哀しみに沈んでいた人々も存在した。そんな彼らも、多少の小銭は稼ぐ気になったというのは大きな変化だった。

 アキバの街の中央広場では極めて久しぶりに公開募集が行なわれた。ギルドとは無関係に一時的な仲間を集めて行なわれる狩り遠征のメンバー募集である。仲間を捜す参加者が集まって出掛けるこのタイプの募集は、今のこの異世界では珍しく、広場では注目を浴びていた。
 彼らが出発する時になると、同じく広場に店を構えていた〈クレセントムーン〉の売店一同は、大きな声をそろえて「いってらっしゃい!」と手をふった。

 もちろんその臨時パーティーの参加者が、出がけの食事にと「ブラックローズティー」を水筒で購入していってくれたこととは無関係ではなかっただろう。
 しかしそれは〈エルダー・テイル〉時代でも見たことがない、奇妙な、心温まる光景だった。アキバの街から出発する臨時パーティーの参加者は、くすぐったそうに笑って旅立っていった。

 また、そう言った個人の経済活動以外では、マーケットにも動きがあった。幾つかの食材アイテム、たとえば“若い鹿の肉”や“ジャガイモ”“雷鳥の肉”等の値段が上がり始めたのである。
 それらは〈第8商店街〉による慎重な買い占めによる結果だったが、値段が上がれば敏感に反応し、供給しようというものも必ずや現われる。情報を察知した幾つかのギルドは自主的に素材調達班を組織し、マーケットに流し始めた。値段が上がることを見越して巨額の利益を目論んでいたのだろう。

 しかし、〈第8商店街〉のカラシンはそのような事態をすでに見抜き、それ以前の段階で、付き合いのある小さな冒険ギルド十数カ所に直接大規模な遠征班組織を持ちかけていた。
 数日間に及ぶ狩りの日程を組み、交代要員を手配して送り出す。現地で狩りを行なう班や、狩った得物を街まで持ち帰る班を組織して、素材供給のラインそのものを生産者ギルドとして支援する体制を作り上げたのだった。

 それは〈大災害〉以降に限らず〈エルダー・テイル〉の歴史始まって以来の“生産者ギルドによる戦闘ギルドへの直接支援体制の樹立”だった。
 この手法は功を奏して、〈第8商店街〉はマーケットに過度な依存をすることなく、大量の素材を一定の価格で入手することに成功した。
 今までは街の外に出なかったプレイヤーが出掛けることになれば、消耗品や修理などの面で様々な消費活動が発生する。そうなれば職人も活躍する余地が増える。まだ微妙な変化ではあるが、アキバの街は少しずつ変わっていこうとしていた。

 この変化の発信源は〈クレセントムーン〉にあるのではないか?

 もし〈三日月同盟〉がアキバの街の三大生産者ギルドと完全に手を組んだとなれば、その規模は、日本サーバーにおけるプレイヤーの六分の一にもなる。それは、すくなくとも日本サーバーにおける最大規模の勢力の誕生を意味した。
 最近では、〈三日月同盟〉に対し、他の都市からの問い合わせも多い。また、ギルドに対する入隊願いも後を絶たないが、マリエールが「月末までは待ってやー」と断り続けている状態だ。

 普段は生産者ギルドとは不干渉を貫き、どちらかと云えば別の世界で生きている戦闘ギルド系のプレイヤーもその事実には興味を覚えているようだった。

 WebもWebTVもない、つまり娯楽というものが殆ど無いこの世界において、うわさ話というのは娯楽の大きな部分を占める。

 アキバの街の人々は、あちこちに集まっては自分たちの予想や憶測を飽きることなく話しあった。それらのうわさ話の中では〈三日月同盟〉の明るく面倒見の良いギルドマスター、マリエールの名前や、才媛と噂されるヘンリエッタ、まだ若い戦闘隊長小竜の名前もあったが、同時に一部の古参プレイヤーや、事情の明るい者たちは小さな声でシロエや直継、にゃん太。そして〈放蕩者の茶会〉の名前を思い出したように呟いた。

 だがしかし、それらうわさ話をしていたのはプレイヤー達〈冒険者〉だけではないと云うことに気が付いたものは、殆ど居なかった。

2010/04/17:誤字修正
2010/04/20:誤字修正
2010/04/24:誤字訂正
2010/05/29:誤字訂正
2010/06/13:誤字訂正
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