挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

ログ・ホライズンEp13 夜啼鳥(ナイチンゲール)の唄

121/123

121

3.04



「クソがっ」
 ウィリアムは渦巻く夜空に照らされた中庭を駆け抜けて、茂みの奥の回廊扉を蹴り開けた。
 案の定、そこはそうであるべき館の通路ではない。
 アキバの街の裏路地だ。
 自分が通り抜けてきた扉から飛び込んでくるディンクロンを確認すると、追手である〈灰色犬鬼〉(ノール)に向かって、続けざまに矢を放つ。
「ウィリアム、周辺確認っ」
「おうっ!」
 その扉――向こうから見たものとは似ても似つかぬ酒場のドアを閉めて、周囲を睨むディンクロンを意識しつつ、ウィリアムは周囲の敵の気配を探る。
 姿は見えないが気配は多い。
 そこかしこの建物の中にも、この路地を抜けた通りにも、魔物の気配がする。
「どうしちゃったんだよう……」
 先に避難をしていたえんたーかんとと、ウィリアム、そしてディンクロン。この裏路地にいるのは〈シルバーソード〉の三人だけだ。
「ウィリアム、ここは……」
「ああ。北側のブロックらしいな。ギルド会館が南に見える」
 特徴的な建物が、二階建ての宿屋の屋根越しにその姿を見せている。だからここがアキバの裏路地のその一本だということは確かだ。この路地そのものに見覚えがあるわけではないが、あれだけのランドマークがある以上、道に迷うということはありえない。
 しかし、いまウィリアムたちが直面している事態はそのようなことではなかった。
 紫色を基調とした、なんとも不安感を掻き立てるマーブル模様の空は、あたりを不気味に照らしている。もう、それだけでここが通常の意味でのアキバだとは思われない。
 なにより、ゾーンのつながりがおかしい。ウィリアムたちはドアを開けるたびに不可思議な場所に接続され続けているのだ。それら全てはどうやらアキバというエリアに内包されるゾーンのようだが、脈絡はなかった。
 眠っていた宿屋を襲撃され、三人で必死に防戦を行いながら廊下にまろび出れば、そこはどこか廃墟の上層階だった。階段を降りようと鉄扉を開ければ、派手な飾り付けをしたホール。ホールを出れば壁に囲まれた美しい庭園。回廊に出ようとすれば裏路地……。
「迷宮空間ってやつか」
「ダンジョン、だろうな」
 ウィリアムのつぶやきにがディンクロン答える。

「みんなは大丈夫かなあ……」
「そう簡単にはやられねえと思うが」
 ウィリアムたち〈シルバーソード〉は、現在アキバとエッゾを往復するような生活を行っている。アキバとの間の〈都市間転移門〉(トランスポートゲート)が起動したおかげで、エッゾへの物資供給は飛躍的に安定した。大量の物資はいまだ海上輸送に頼るところはあるが、〈魔法の鞄〉(マジック・バッグ)で運べる程度の品物の運搬、および人間の行き来は完備されたといえるだろう。
 最も恩恵が大きかったのは二点。
 まずはエッゾではほとんど崩壊状態だった〈大地人〉貴族による統治、その記録面での復旧に目処がたったことだろう。〈魔法都市ツクバ〉経由で〈学者〉や〈筆写師〉がやってくると、エッゾ中心部の住民台帳や地図などが発掘され〈大災害〉以降続いていた混乱に終止符が打たれた。ススキノの住民は〈シルバーソード〉に深い感謝を捧げていたが、連絡の途絶した周辺部の衛星的村落の管理や、ススキノを含むエッゾ帝国中心部の管理を〈冒険者〉に丸投げをするわけにもいかない。できる限りのことをしなければ、対等な関係とは言えないという遠慮があった。〈シルバーソード〉の側も不慣れな都市運営など本来やりたくない業務であり、いままでは(うっかりとした)親切心で世話を焼いていただけなのである。
 二点目として、枯渇しつつあった〈シルバーソード〉の大規模戦闘(レイド)補給物資が、アキバのマーケットによって回復したという点がある。〈シルバーソード〉は現段階のヤマトにおいて、大規模戦闘(レイド)施行回数ではトップを独走する団体ではあるが、そこで入手した幻想級素材を有効に活用するための生産系メンバーは限られている。素材のすべてが最先端であればまだしも、〈シルバーソード〉が日頃行う大規模戦闘(レイド)の中には七〇レベルから八〇レベル向けのものも含まれているのだ。こういった準最先端素材では、九〇レベル向けのアイテムを作成することができないため、素材としてはデッドストックになりがちなのである。余った素材を売却し、有用な素材やアイテムを購入する――あるいは制作を依頼する、そんな後背地としてアキバを得たことは〈シルバーソード〉にとって大きなメリットだった。
 この二点の変化により、〈シルバーソード〉はより前のめりに大規模戦闘(レイド)に取り組むことが可能になったのだ。ススキノに残す二軍以降のメンバーも徐々に、それぞれが挑めるレベルの大規模戦闘(レイド)に向かう流れができつつあったのである。
 そのためにも〈シルバーソード〉の中心メンバーはアキバにも定期的に滞在し、ときには新生した〈円卓会議〉にも参加をしたり、〈ロデリック商会〉で新たに開発された魔法の武具を発注していたりしたわけだが……。

「唐突とはこのことだなっ」
「毎度だろっ」
 大通りへと抜ける方向から、疾風のように角を曲がり襲い掛かってきた巨大な三つ首の狼を、ディンクロンはその巨大な盾でがっしりと受け止めた。ほっそりとした腰つきのエルフ騎士である彼は、見かけこそ優男風だが、半歩すら後退せずに突進を遮断する。
「おらっ。〈パラライジングブロウ〉!」
 ウィリアムは身体を前へと投げ出すようにディンクロンの脇へとぬけると、超至近距離から長弓での一撃を放つ。狙うと言うほどの労力も必要ないほどの接近射撃は、えんたーかんとの〈デュエット〉を引き連れて命中すると、魔獣の横腹をごっそりとえぐり取る。
 即座に虹へと消えるモンスター。
 〈三頭獄犬〉(ケルベロス)。レベル六五。
 レベルそのものが違うのだ。この程度であれば遅れを取ることはありえない。
「問題は大規模戦闘(レイド)ランクってことだな」
「あの表記だと二十四人(フルレイド)用モンスターだね。ボクたちも仲間をあつめないと……」
「負けないが、反抗は難しいか」
 顔を見合わせた三人は、鳳仙花が弾けるようにに散らばった。
 三人が今まで集まっていたその中心に、巨大な火球が着弾したのだ。体勢を立て直すウィリアムの視界にいくつもの敵影が映る。気配そのものは感知していたが、どうしてこちらに気づいたのか?
 〈灰色犬鬼の呪術師〉ノール・カースマンサー
 |〈灰色犬鬼の火炎術師〉《ノール・フレイムソーサラー》。
 〈灰色犬鬼の槍歩兵〉(ノール・スピアマン)
 すべてレベルは六十五。この大規模戦闘(レイド)ゾーンの適正レベルは六十といったところだろうか?

 だがニヤリと笑ったウィリアムの笑みは、次の瞬間引きつった。
 謎めいたチャイムの音色とともに、弓をつがえていたウィリアムの腕から力が抜ける。放った矢がその影響でぶれて、路地の彼方へと飛んでいってしまう。
「なんだ――」
「油断しないでくださいませっ」
 ディンクロンさえも動揺したその隙を埋めるように、放たれた援護は三条の氷柱だった。身長ほどもある巨大な冷たい輝きがまるで糸で引かれるように敵に着弾する。〈妖術師〉(ソーサラー)単体(、、)攻撃呪文〈フロストスピア〉。貫通力にと打撃力に優れたそれを〈ラミネーションシンタックス〉で多重化して叩きつける高等戦技を見せた救援者は、切羽詰まった声で「撤退を!」と叫んだ。

「ウィリ――」
「撤退だっ」
 盟友の声を断ち切るように叫んだウィリアムは、一瞬の判断に賭けるように路地裏の逆走を開始する。首の後ろがチリチリとするこの感覚。先程までとは違う。
 一瞬でこの路地は死地となった。
 浴びるほどの大規模戦闘(レイド)を経験しているウィリアムだからこそ断言できる。これは負け戦だ。もちろん、だからといって心が折れることはない。〈奈落の参道〉をくぐり抜けた俺たち(シルバーソード)はその程度で折れはしない。ウィリアムは唇を噛む。だが、同時に負け戦をただの全滅にするつもりもない。それゆえの撤退だ。
「ふわああああ!!」
 それを理解しているのだろう。
 どたどたとコミカルに走っているえんたーかんとのバッグから、ころころとテニスボールほどの魔法具が転がり落ちて、見る間に真っ白い煙を周囲にぶちまけた。逃走用の〈煙幕珠〉だ。距離が一定以上あるのならば、対象の視線を切ってヘイト関係を精算する効果がある。

 レンガで作られた瀟洒な工房と苔むした飲食店の間を風のように駆け抜けるウィリアムに、細身の影が並走してきた。豪華な金髪をたなびかせる少女だ。
「退いてくださって助かりましたわ」
「あんた、〈D.D.D〉の」
「リーゼです。会議で何度か」
「おう」
 ウィリアムはぶっきらぼうに答えた。
 日本〈エルダー・テイル〉の伝説のひとつ、巨大戦闘ギルド〈D.D.D〉。そのギルドマスターを支える中枢部隊(アクシズ)に君臨する三人の女神、というか鬼神というか――すくなくとも達人(ハイランカー)のひとり。間違いなくアキバ有数の著名人だ。
 〈シルバー・ソード〉も有数の戦闘ギルドではあるが、今までの戦績で言えば〈D.D.D〉にはまだ及ばない。規模と年季においては歯が立たない差がある格上の相手だ。
(まあ、俺達は〈円卓会議〉じゃ新参で格下ってのは今更言うまでもないけどな――)
 内心そう独りごちたウィリアムは、だが口をへの字にしたまま頷くにとどめた。相手が名門ギルドの幹部だからといって、媚びるようなことはしたくないし、下手に出るのも違うと思う。そもそも、戦績だの歴史だのはともかく、ウィリアムは〈シルバー・ソード〉のメンバーが〈D.D.D〉のそれに負けている(、、、、、)だなんて、思っていない。

「こいつぁなんだ」
 その代わりただそう尋ねた。
 何か謎解きを期待した質問ではない。なにせ、状況は明々白々なのだから。
大規模戦闘(レイド)ですわ」
 だろうな。
 打てば響くような少女(リーゼ)の返事は小気味よいほどだった。
 宿で寝ていたとか、分断されたとか、そういうのは確かに気にかかる。気にかかるが、この際、仕方ない。良い。大規模戦闘(レイド)はそういうものだろう。すくなくとも〈エルダー・テイル〉ではないこの異世界において、そういうものだとウィリアムは学んだ。理不尽とそれに対する抗戦。それこそがウィリアムが今考えるところの大規模戦闘(レイド)だ。
 やるじゃないか。
 ウィリアムはニヤリと笑った。隣で走る少女も、どこかでそういう理不尽を経験したのだろう。そうでなければ、先程の涼やかな断言は出てこない。
 MMORPG〈エルダー・テイル〉だけをやっていては到底味わえない、この異世界の冒険をくぐり抜けた猛者特有の、開き直りにも似た覚悟を感じる。

 ゴッ。
 リーゼ越しに見える廃墟のコンクリートが突然爆発するように砕けた。
 水のように流れるディンクロンが、割り込むようにその身体を盾にして瓦礫を弾く。見た目は派手だが、大したことはない。敵の攻撃ならばともかく、落下ダメージや建物の倒壊程度で〈冒険者〉が致命傷を追うことはない。
 だが、それと崩れた壁から現れた牛頭の怪物は別だ。
「交戦回避をっ」
「うぜぇっ」
 リーゼの言葉を上書きするように放ったのは〈ヴェノムストライク〉。先程から準備していた射撃型〈暗殺者〉(アサシン)の基本的な技。その攻撃が大したダメージも与えずに弾かれるのを見て、ウィリアムは確信した。
「足を止めるな。目潰しはきいてる!」
 塗られた毒だけが状態異常(バッドステータス)を発揮させたのを視界の端で捉え、ウィリアムは己のステータスをチェックする。

 ウィリアム・マサチューセッツ 〈暗殺者〉 レベル三十五

 喉だけで笑った。
 ディンクロンも、えんたーかんとも、そしてリーゼも。
 全員のレベルが三十五。
 それは適正レベル六十五のこのゾーンにおいては、格下というのもおこがましい、それこそ場違いを感じさせるほどの脆弱さ。
 しかも相手は二十四人(フルレイド)用モンスターだ。六十五レベルが二十四人集まって戦うようなゾーンで、三十五レベルが四人。
「撤退を勧告するはずだ」
「ご理解いただけたようで」
 リーゼは澄ました口調でそうこたえる。
 しかし、その内面では凄まじい勢いで自問自答が繰り広げられているだろう。ウィリアムにはそれがわかる。なぜならウィリアムもまさに今その謎を追いかけて思考しているからだ。同じような大規模戦闘(レイド)ギルドに所属する、同じような挑戦者(レイダー)として、それは当然の営為。
「ただ散るだけでは丸損ですわ」
「そうだな。先行する」
「死んだってあきらめないんだねえ!」
 頼もしく頷いて大通りに一気に飛び出したディンクロン。その背中を追いかけて間髪いれずに飛び出すえんたーかんと。
 ウィリアムは嬉しくなってそこに続いた。

 直感に従えば、〈シルバー・ソード〉はこの大規模戦闘(レイド)と相性が悪い。おそらく勝てない(、、、、)。下の面倒を見てきたウィリアムには、それがわかる(、、、、、、)
 だがレイダーとしての経験がウィリアムに打開の方法を教えている。
 その答えは、参謀少女リーゼの言葉でも明らかだ。
 ウィリアムたちが、戦って、情報を引きずり出す。
 そうすれば一時の敗北は敗北ではなくなる。
 そもそも大規模戦闘(レイド)とは一回で勝てるようなものではない。繰り返す壊滅から何かを掴み、立ち上がったものが勝利者となる。ウィリアムは敗れるかもしれない、が、それはウィリアムたち(、、)が勝利への道にあることと矛盾しないのだ。
周辺登場敵(エンカウントエネミー)の記録、特性把握はおまかせを」
「お手並み拝見だ。〈金色の軍師〉さん」
「ご謙遜を。〈氷壁の野戦指揮官(フィールドコマンダー)〉ともあろうかたが」
 二人はありったけの属性攻撃を放った。
 弱点を探り、能力を探り、地形を探り――つまりは勝利への道程の気の遠くなるような検査項目(チェックボックス)を埋めるために。それは無駄ではないのだ。無駄にしないという強い意思さえあれば、残る問題は損耗してゆくリソースと時間だけだった。





◆3.05




「前方、班長発見!」
「もふもふダンディげっとぅ!」
「回復、解除、解毒っ」
「もうやってるっ」
 三人で重なり合うように壁面を駆け下りたシロエたちは、眼下の小道で戦うにゃん太を発見し、即座に確保にうつった。抜け目のないシロエは、この時点ですでににゃん太をパーティーに勧誘しつつ、そのステータスを確認している。
 レベル三十五。
 シロエや直継、そしててとらと一緒だ。
 このゾーンで戦うためには明らかに力不足なそのレベル。
 「撥ねられている」と感じる。
 だがそれにしても、数は力だ。ここでにゃん太班長と合流できたのは僥倖と言ってもよい。扉の転移が接続ゾーンをひとつ飛ばしにしているらしいと当たりをつけたシロエの読み勝ちである。
「シロエち!」
 驚いたようなにゃん太は、シロエの〈魔法解除呪文(ディスペル・マジック)〉で朝露のように溶ける、鎖の幻影を振り払って敏捷にその場を離脱した。気持ちの悪い空を背景に飛び交うのは〈鎖吐蝙蝠〉(チェイン・バット)。HPは少なく足止めを役割とするモンスターだが、いまは厄介だ。そのレベルは六十を超えるため、普段であれば弱敵なのだが、今のシロエたちにとっては抵抗すらも難しい。

 だが、さすがはにゃん太だった。
 〈猫人族〉特有の優美な動きで身をくねらせるように飛び上がると、シロエたちが立つ階上のテラスまで駆け上る。レベルが下がったとしても〈冒険者〉だ。窓枠や雨樋がある建築物の壁面を駆け上がるくらいのことは、中堅(三十五レベル)でもしてのける。
「シロ! 早く!」
 振り返れば、テラスから〈記録の地平線〉のギルドハウス内部へと続く見慣れたドアを開けようとする直継がいる。にゃん太と合流を果たしたとはいえ、空中にはまだ飛行する敵がいる。このテラスでは狙い撃ちにされてしまうし、レベル差から戦闘は困難だ。避難するためにはそのドアから転がり込む他ない。
(だけどっ……)
 制止しようとしたシロエは、頭を振って無理やり納得すると、直継が開けたドアににゃん太、てとらを伴って飛び込んだ。

 出た先は普段であれば当たり前のはずの見慣れたギルドの廊下ではなかった。見たこともない古い厨房だ。思ったとおり、「アキバの屋外ゾーンが接するゾーンのひとつ先」から適当な場所に飛ばされてしまったらしい。
(これでミノリやトウヤたちと合流するのはかなり厳しくなったな……)
 シロエはこっそりとため息をついた。
 心配だしかなりの痛手だが、先程の状況を考えればやむを得ないだろう。
 突如響いた場違いな受諾音と共に低下してしまった現在のレベルでは、このエリアのモンスターと戦うことは不可能だ。
「みんな怪我はない? ボク回復するよ」
「なんか無駄にきらきらしてんなお前」
「ヒーリングアイドルだからねっ」
 さして大きくもない厨房に身を潜めた四人は、敵の気配を探りつつも小休止をとることにした。
 〈エルダー・テイル〉に於いてレベル差は厄介な要素だ。三十レベルという現在のレベル差は、シロエたちが圧倒的弱者であることを意味する。相手がソロやパーティーランクであればともかく、六十五レベルの大規模戦闘(レイド)モンスターであれば一撃でヒットポイントの半分以上が持って行かれてもおかしくはないのだ。バッドステータスなどもレベル差相応に重いペナルティを与えてくるため、念入りな解除を必要とするし、それが不可能であれば時間切れを待つしかない。

 〈施療神官〉(クレリック)であるてとらの〈ヒール〉でヒットポイントそのものは最大値まで戻った四人だが、だとしても頭を抱えることになった。
 状況は悪い。
 思っていたよりも、相当に、かなり、いや――致命的なまでに悪い。
 シロエは己の甘い見通しに怒鳴りたいような気分だった。
 今この状況もひどい有様だし、そのうえ、このひどい有様を前提にもう一度仮説を組み立てれば、目を覆いたくなるような推論がやってくる。それはこの数ヶ月考えてきた荒唐無稽なでっちあげを裏付けてはくれるが、同時にひどく不吉を運んでくる知らせでもあった。

「みんな、ごめん。……考えが、甘かった」
「シロー。暗い顔してないで、ほら、白状しちまえよ」
 シロエの告解を直継はいつも通りのなんでもないような表情で受け止めてくれた。
「そうですよ、シロエさん。元気ないならボク見せたげますから」
「なにかあったのですかにゃ? シロエち」
 てとらも、にゃん太もだ。ここには居ないがおそらくアカツキも。
 シロエは手早く現在の状況と発見を共有しようと、言葉を早めた。
「ロエ2の手紙。覚えているだろう? ――〈典災〉を指したと思われる最後の段落だ」
「そんな記述ありましたっけ?」
「あー。覚えてるぜ。月の怪物を利用した、ってくだりだろ?」
――彼らは私たちと同じく〈航界種〉ではあるがランク2相当の知性体である。またセルデシアへ受肉するにあたって、月に準備されていた戦闘能力の高い怪物体を利用している。探索をするためにあなたたちと同じ肉体を借りたわたしたちとは別の選択をしたのだ。
 手紙の文章をシロエは思い浮かべる。
「そう。それを僕は新拡張パック〈ノウアスフィアの開墾〉のことだと考えた。拡張パックで予定されてデータが用意されていた〈エルダー・テイル〉のモンスターの身体を利用しているのが、〈典災〉だって」
「まあ、それなりに筋は通ってる――か?」
 おそらくその解釈までは間違っていない。
 シスラウは〈蝶妖精〉、カマイサルは〈夢魔〉、タクリタンは〈霧の巨人〉。彼らにはモチーフがあった。もちろんそれぞれ何処かが異なっていたが、よく考えれば〈エルダー・テイル〉世界に馴染み、その根源をもっている。
「ロエ2じゃないけれど、彼らには何らかの依代(よりしろ)が必要なんだ。精神生命体を名乗る彼らにとってそれは必須なんだと思う。そこで僕は考えた。――〈ノウアスフィアの開墾〉がどんな拡張パックだかはわからないけれど、それにしたって拡張パックであるには違いない。だとすれば、追加される新規ゾーンの数は数十、ダンジョンの数は十前後、大規模戦闘(レイド)ゾーンの数は五以上十未満。そして追加されるモンスターは、固有名称を除いてグラフィック的な意味での新種族は数種類、新規のレイドボスモンスターは多くても五十程度」
 シロエは数え上げる。
「まあ、いつもの拡張パックだったらそんなもんでしょ? ボクもシロエさんの言うとおりだと思いますよ?」
 それはてとらも認める通り拡張パックのボリュームだ。
 拡張パック――二年に一度程度発売される〈エルダー・テイル〉の追加コンテンツ集は、日本円で五千円程度のパッケージだ。月額課金の〈エルダー・テイル〉においてこれは重要な追加収入源だったはずだ。そしてあらゆる商業材と同じく、そのボリュームは予算と開発期間の制限を受ける。
「だから考えた。〈典災〉の数も依代であるレイドボスモンスターに制限をされて五十程度だって。その能力も、大規模戦闘(レイド)で倒せる程度のものだって」
 シロエが安心の基盤としたのは、〈典災〉という未知の敵ではなく、〈エルダー・テイル〉の開発だった。今まで高品質のコンテンツを安定してリリースしてくれた〈F.O.E〉フシミ・オンライン・エンタテイメンツを信じたのだ。
「うん、それがどうしたんだ?」
「だから脅威度は低いと判断した。大規模戦闘(レイド)で倒せるなら、何が起きても解決可能だと思ったんだ。でも本当は違った。彼らも辻褄を合わせられるんだ。拡張パックで新規データが用意されていないのなら、ないなりにそこらにある素材を再利用し(つかっ)て」

 この世界はゲームみたいで、異世界だ。
 しかしただの異世界であったら、シロエたち地球人はあっという間に追い詰められて、なすすべなく全滅していただろう。二十一世紀の地球人が、剣と魔法の世界で生き抜けるとは思えない。シロエは最初の〈円卓会議〉で「この世界はゲームではない」と呼びかけた。だが本当に、ほんとうの意味でただの異世界であったらそんな呼びかけをするまでに命を失っていただろう。
 かと思えば、その一方でこの異世界はやはり〈エルダー・テイル〉でもあるのだ。異世界であるはずのセルデシアにおいて、シロエは何度も〈エルダー・テイル〉に頼りピンチを切り抜けてきた。ギルド会館を買い占めることができたのは〈エルダー・テイル〉のゾーン売買システムのおかげだったし、〈奈落の参道〉の秘密はモンスターに対する金貨の流通システムであった。地球世界では触れることも出来ないような「世界の深淵」に、シロエは〈エルダー・テイル〉を介して触れてきた。
 シロエたち〈冒険者〉がこのセルデシアでまがりなりにも強者として暮らしてこれたのは、異世界にはゲームをもって、ゲームには異世界をもって対応してこれたからにほかならない。

「どういうことなんだ、それ?」
「セルデシアは僕らだけの味方じゃない」
 だが、そのシロエたちの土俵に、とうとう〈典災〉たちが乗り込んできたのだ。

「彼らも口伝に似た方法で強くなれる。いや、中には、存在が口伝のような敵もいるかもしれない……。〈エルダー・テイル〉に根っこさえあれば、その先を作るのは比較的コストが安く済むんだ。それが〈奈落の参道〉のボスたちが〈九大監獄〉とそっくりだったことの答えなんだ」
 シロエは頭痛が起きるほどの速度で過去を検証していた。
 思えば無数の兆候があった。
 だとすれば、この異世界を駆動するリソースはやはり〈魂魄〉なのだ。
「ちょっと待ってくださいよ。シロエさん、それじゃわからないですよ!」
「シロエち、どういうことか説明してほしいですにゃ」
 シロエが見過ごしてきた、さざめきや乾杯の背後で、戦いや開発の背後で、それはシロエが予想していた数百倍、数千倍の規模を持って巡り巡って、このセルデシアを生かしている。文字通りの意味で、空気のように、水のように、光のように、時間のように(、、、、、、)。それはシロエたちを鼓動(クロック)させている。
 この異世界はひどく公平だ。
 公平であるということが、おそらくそれだけがこのセルデシアをいま崩壊から救っている。ロエ2が言ったように結果を待つサンドボックスは、けっして片方に肩入れをしない。シロエが〈契約術式〉で何かを願う時、その願いの大きさと消費される希少な素材の価値が折り合うように。
 もし折り合わなければ、眼に見えないところで〈魂魄〉がやり取りされるのだ。いいや、おそらく、あの虹色の光をまとう様々な現象を考えれば、そもそもこの世界の根源的なリソースはあの光であって、希少な素材やMPや費やした時間などは、その根源がセルデシアにおとす影でしかない可能性すら有る。

「僕たちはレベルが下がっているけれど、でもそれはバッドステータスじゃない。バッドステータスはすべて解除したし、今僕達にそんなアイコン表記はない」
「お、おう。そういやそうだな」
 シロエの言葉に、直継たちは気がついたようにステータスを確認した。
 そこに表示されているバフ/デバフアイコンは、シロエが常時展開している〈ヘイスト〉や〈アキュラシィサポート〉といった支援呪文しか存在しない。正体不明の妨害などそこには存在しないのだ。
「バッドステータス以外でこんな現象を引き起こす方法はひとつしかない」
「まさか、シロエち……」
 シロエはうなずいた。
 バッドステータスならばよかった。それならば通常の方法で解呪できる。もし仮にそれが凶悪で超高レベルの対象からの押しつけでも、今のシロエなら対処可能だ。この世界が公平だと理解したいまならば、公平でない取引など破棄できないとは思わない。
「〈師範システム〉が逆用されている。これは〈典災〉が作り出した、彼らなりの〈口伝〉の攻撃だ」
 しかし、それが〈冒険者〉に与えられた武器ならば。
 この公平な異世界は、それをおそらく敵にも与えるのだ。
 その範囲は〈口伝〉にまでおよぶ。彼らもまたこのセルデシアで、シロエたちと同じゲームという剣を手に入れたのだ。



◆3.06



「なあんだ、そんなこと」
 棒を飲み込んだような息苦しい沈黙を抱えるシロエにむかって、てとらは言った。にゃんた老師も、直継も思い詰めたような表情をしているが、心配しすぎ、悩みすぎだ。
 てとらは(自分の中では自慢の)小悪魔的魅惑の笑顔で短杖(ワンド)をくるんと振り回して、もう一度言い放った。
「そんなこと。気にする必要なんかありませんよシロエさん」
 きょとんとした表情が面白くて、てとらはにししと笑う。
 シロエは普段は割りと狐目気味だし三白眼だし目つきが悪いのに、びっくりすると随分若く見える。普段からそんな顔を見せてれば、もっと直継も心配しないだろうに、なんて考えながら保証の言葉を紡ぐ。
「連中がゲームに乗り込んでくるって? 上等ですよ。この銀河の誇る魅惑のスイートアイドルが腕によりをかけて迎撃してやりますからっ」
 びっくりした表情が直継にもにゃん太にも伝染する。
 それはととても良い気分だ。
「そもそもポッと出の異次元素人(おきゃくさん)大規模戦闘(レイド)でボクらとバトろうなんて十月十日早いんですよ! 同じ土俵? 熱烈大歓迎です。ボクら〈エルダー・テイル〉の〈冒険者〉でしょ。浴びるほど大規模戦闘(レイド)やってきたんでしょ? 彦ぴっぴから聞いてますよ」
 調子の出てきたてとらは胸を張り、あるいは腕を振って自らの意見を主張した。
 参入してくるならさせてやればいいのだ。
 いくら異次元怪獣だ、未知の敵だといったところで、〈エルダー・テイル〉歴は一年やそこらではないか。大規模戦闘(レイド)の舞台に乗ってくると言うならば、正々堂々戦ってやる。

「彦ぴっぴ?」
 シロエが疑問に小首を傾げる。
「カズ彦さんですよ。〈茶会〉の大規模戦闘(レイド)セオリーを!」
「そんなのあったっけ?」
「記憶にありませんにゃ」
 まさかね!? てっきりここ〈記録の地平線〉こそが不敗の後継者だとおもっていたてとらはショックを受ける。きっと何か勘違いしているのだろう。てとらは練習を重ねた決めポーズで、かねてから仲間にぶつけてみようと思っていた、胸に響く名言を高らかに告げる。
「『我らの辞書に敗北の言葉なし。なぜならいつでも勝利の途中! 勝つまでやれば常磐ハワイアンセンター!』って……ね!」
 どうだ、とばかりに満面の笑みで見渡せば、シロエも直継もにゃん太も、白けたような、慰めるような、疲れたような、妙に気の抜けた表情をしていた。
 え、え? いい言葉ですよね?
 これぞ大戦(おおいくさ)に挑む武士の本懐とも言える、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神のあらわれですよね? と。
 カズ彦から聞いた〈放蕩者の茶会〉(ティーパーティー)の武勇伝は数多いが、この宣言ほどアイドル的に輝かしいものはない。人生いつでも旅の途中という、奥の細道テイストあふれる戦訓ではないか? 当の〈茶会〉参加者が覚えていないというのは解せぬ。そんな気持ちだった。
「それは違うものですにゃ」
「ただのカナミさん式駄法螺じゃないか」
「ボクいい言葉だと思って覚えてたのに!?」
 直接関係者の無慈悲な否定にてとらは両膝をついてしまう。
 大規模戦闘(レイド)に挑むときは座右の銘としていただけに、そのショックの大きさは尋常ではない。

「面識がないのに犠牲者出すとかさすがカナミさん」
「油断なりませんにゃあ」
 まあ、しかたないか。
 ぽんぽん、と膝を払って立ち上がるとやれやれと肩を落として気分転換をした。
 へこむのは慣れている。
 人生うまく行かないことばかりだし、世界は手抜きを許さないハードコアステージだ。アイドルにめそめそうじうじは似合わない。
 くじけない! とバンザイしてみれば、仲間たちは呆れながらも余裕が戻ってきていた。アイドルというのは微笑ませれば勝ちなのだ。少し嬉しくなったてとらは、直継によじ登ってひゅーひゅーと周囲を冷やかす。
「――ほら、シロエさん。いい感じになってきた!」
「そう、かもね」
 空気が柔らかくなって、瞳に力が戻ってきている。
「こう、智謀ですか? 企みですか? 淑女もドン引きはら黒い陰謀みたいななんかすごいのが、ぎゅんぎゅん回ってきた感じですよね!」
「お前かなり失礼なこと連呼してるからな?」
 本気を出せばどんな敵だって駆逐できるくせに、我がギルマスは面倒くさいんだね。そんなふうに微笑んで、てとらは納得した。
「まだ情報が足りないよ。でも、そうだね。まずは動こう。できる限り知り合いを探して」
「ええ。家族は大事です。群れは守らないと」
「まずは脱出して、周辺把握ですにゃ」


 そんなわけで――。
 てとらたち一行は再びアキバの屋外ゾーンへと忍び出ていた。
 心の余裕はできたけれど、状況は楽になっていない。
 アキバの街全体を占めるこの屋外ゾーン、アキバの街路や広場や空間すべてにあたるゾーンは、いまや魔物のるつぼだ。どの路地にも、廃墟にも、レベル六十五の大規模戦闘(レイド)ランクエネミーがひしめいている。レベルが低下させられているてとらたちにとっては、戦闘がそのまま全滅につながりかねないゾーンだ。
 一方で、異常な空間に変異させられてしまった今のアキバにおいて、最も多くの「扉」を持つのがこの屋外ゾーンである。アキバに有る建物すべての扉が接続しているのが屋外なわけで、これは当然なことだ。それはすなわち、どこか建物の中にいる〈冒険者〉であろうと、扉を開けて無作為な転移をさせられるのなら、この屋外ゾーンに顔を出す可能性が高いということを示す。アカツキや年少組、〈円卓会議〉の顔見知りとの合流を目指すのならば、この屋外ゾーンにいるのが一番都合が良い、ということでもあった。


「アカツキさんはどこいるのかなあ」
「ちみっこはたぶん深夜徘徊してたんだろ」
「それじゃボケ老人みたいじゃないですか」
 てとらはそんなふうに突っ込んでみたが、内心ではかなり心配でいっぱいだ。群れのメンバーがはぐれているのはてとらの心に強い不安と義務感を呼び起こす。
「それに、年少組もいないし……みんなボクを慕って集まってくればいいのに」
「あーはいはい、そうな」
 直継に雑にまとめられて頭を撫でられたてとらは口を尖らせる。
 アカツキは、かなりやる(、、)
 同レベル帯の能力に比べれば、頭ひとつ抜きん出ていると言って良いだろう。こと戦闘能力に限れば、シロエ、直継、にゃん太といったここにいるメンバーに比べても、決して見劣りするものではない。しかし、大規模戦闘(レイド)経験という意味では話は別だ。未経験というわけではないが、アカツキはアキバ殺人鬼事件のクリスマス作戦とシブヤくらいにしか参加していない。大規模戦闘(レイド)経験が浅いのだ。この混乱状況で的確な判断ができるかといえば疑問だ。
 年少組にいたっては余計に心配である。彼らはシブヤの大規模戦闘(レイド)には参加したが、他にはにゃん太指揮のサファギン作戦くらいしか経験がないのではないだろうか? もちろんレベルや年齢を考えれば、彼らがなかなか筋がいい生徒であることは事実である。しかし、この場合そこも不安を掻き立てる。彼らの思い切りの良さというのが裏目に出ないとは限らないのだ。

「やっぱり〈念話〉もだめだな」
「これ別サーバ扱いなのかなあ」
 直継に体重をもたれかけさせたまま、てとらは周囲を観察する。がっしりした金属鎧の肩部装甲はステージのようで、なんとも頼りがいが有るのだ。
 大通りに出るのは見通しが良すぎて自殺行為だった。
 ビルの裏側に有る配管の隙間を辿りつつ、一行は広場を見渡せる鉄骨でひび割れた廃墟を目指す。地上には主として〈灰色犬鬼〉(ノール)とその兵種エネミー、大型の狼の姿を持つ敵が徘徊しているようだ。そして空中には、両足から錆びた鎖をぶらさげた蝙蝠が飛び交っている。
 大規模戦闘(レイド)ゾーンにありがちだが、〈魔法職〉(キャスター)の移動補助呪文〈飛行〉系を阻害するための、空中巡回だ。
「いや。でも、ひとつ情報は手に入ったね」
「なになにー? シロエさん」
「ああ。そうだな」
 直継が盾をわずかに振って指し示す先には、アキバで最も高いビル――アキバギルド会館がそびえ立っていた。くすんだように薄汚れた紫がマーブルを見せる異形の空を背景に、そのギルド会館高層階から、無数の蝙蝠が飛び立つ。群れをなした彼らは、二回三回とビルの周囲を飛び回ると、あたりを警戒するように、街のあちこちへと向かって降下してゆくのだった。

「やっぱりあの様子って……」
「ああ。間違いないだろうぜ。あそこに親玉がいる」
「そのようですにゃ」
 てとらの問いかけに、仲間が頷いた。
 それはいい知らせであるとともに、悪い知らせでもある。
 ギルド会館内部には、いくつものギルドが本拠地を構えているはずだ。扉がどこに接続されるか、その法則は「一個飛ばし」程度しかつかめていないが、「近くのゾーン」であることは間違いがない。
 この異常現象が起きたとき、ギルド会館の内部ゾーンには多くの〈冒険者〉がいたはずだ。彼らがむやみに移動をしようとすれば――運試しになってしまうが、ギルド会館の上層、おそらく〈円卓会議〉の間に迷い込んでしまう可能性は有る。
 しかもギルド会館に間借りしているようなギルドは中堅規模が多いのだ。大規模ギルドは外部に専用の建築物を所有するし、零細ギルドは宿屋の部屋借りなどで済ませる。ギルド会館に拠点を構えるのは、中規模で、若い新人を抱えたギルドが多く、〈三日月同盟〉が丁度それにあたる。
「セララさん――」
 にゃん太のつぶやきも、それに思い至ったがゆえだったろう。
 突入を検討するために問いかけようとしたてとらは、だがその瞬間振り返った。

 ひゃーぁぁ。
 ひゃーぁぁ。
 心細い鳴き声を立てて、その二人は草露で濡れた広場の縁を走ってくる。怯えて、困惑して、どうして良いかわからなくて。
 〈灰色犬鬼〉(ノール)に追われているのだ。
 どこが英雄なのか、〈古来種〉なのか全くわからない、威厳も意地もない姿で、足をもつれさせてさえいるではないか。両親に連れて出かけられたショッピングモールで迷子になった幼子のように、恥も外聞もなく走るそのさまは、なんだか胸をつくほどに哀れに見える。
 両手を前に突き出して、涙声も枯れ果てたレリアとリトカは叫び声を殺して、ただ心細気な細い鳴き声を立てて駆けていた。
「ごめんね。あれは――うん」
 見捨てられないや。
 てとらは笑って直継に投げキッスをすると、シロエに侘びて広場に飛び出した。ドジでも、バカでも、ボンクラでも。身内は身内なのだ。それを見捨てるという選択は、てとらには微塵もなかった。
 アイドルは重力を断ち切る。
 浮遊感さえ感じさせる疾走で、てとらは二人をかばうために怪物のひしめく広場へと身を踊らせたのだった。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ