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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

ログ・ホライズンEp11 クラスティ・タイクーン・ロード

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◆ Chapter4.01 



「ほひょわあ!? ちょっとちょっともさもさ早いよ!」
 巨大な犬狼、求問(ぐもん)を追いかけていたカナミがバランスを崩して、泳ぐような仕草で両手を振り回した。地下深くの大空洞は、段々畑のような水路のせいで、靴底を濡らす程度に洗われている。
 求問(ぐもん)はそんな同行者にふりかえることなく、四足歩行の優雅さをもって段差を気軽に登って行った。
 ここはどうやら正規の洞窟のようだ。
 花貂(ファーデャオ)から聞いた話によれば、この〈君狼山〉には大小合わせて数百、人間が通行できるものだけでも数十の鍾乳洞があるのだという。大規模ダンジョンというわけではなく、どうもインスタンス式の無数のダンジョンが〈大災害〉の結果そのような形で定着したのではないかと、クラスティは考えた。
 ふわふわと浮かぶ魔法の灯り(マジックライト)は、カナミが〈灯火の巻物〉から召喚したものだ。本来は魔法職の非戦闘魔法なのだが、低レベルの便利魔法は、誰でも使用できる消費型のマジックアイテムで提供されていることが多い。たいした価格でもないので、手慣れた〈冒険者〉は荷物の中に蓄えておくことが多いのだ。

 照らされているとはいえまだ闇の残る湿った洞窟だったが、カナミは全く気にしていないようだった。面積の少ない軽装備に身を包んだ〈武闘家〉(モンク)である彼女は、ひらり、ひらりと身軽な動きで薄暗がりの中を進んでいく。落ち着きのない子供の様にあちこちの暗がりや枝道をのぞき込み、よく言えばルートを探索しているし、普通に考えれば好奇心を満たしている。

 クラスティはそんな様子を特にコメントすることなく見つめていた。
 別段自分に利害のあることでもないし、露払いをしてくれるのならばそれはそれで結構なことである。
 この状況について思うことと言えば「どうやら騒動が始まったようだぞ」というものであった。それはおなじみの感覚で、クラスティの人生において日常的に感じていたものである。
 幼いころ、自分は嵐の海に浮かぶ小舟のようなものだと彼は思っていた。
 抗うことができない理不尽が鴻池晴明(クラスティ)にとっての外界だった。
 学校に通う年齢になると「波瀾万丈」という言葉を知った。瀾とは大波の意味であるそうだ。「万丈」は非常に高いまたは深い様子である。繰り返しやってくる大波というその言葉を、彼はある意味少年らしい無鉄砲な偏屈さで自分の心の中の特等席にしまい込んだ。「波乗りにはちょうどいいさ」と内心(うそぶ)いたとき、嵐の海のようだった世界は、彼にとって乗りこなすべき課題となった。
 中学に上がるころにはトラブルの大波の上で器用に踊れる程度にはなっていたし、高校のころには大概の揉め事では刺激が足りないとさえ思うようになっていた。
 ――放蕩者(ルビ:ボヘミアン)
 親族にはそのように言われてきた。
 もちろん彼自身の認識ではそれは事実ではなかった。一族の資産を浪費で使い尽くしたことなどなかったし、やるべきこともやらずに好き放題に生きてきたつもりもなかったからだ。
 むしろ彼自身の認識でいえば、親族には気を使って生きてきたつもりだ。妾腹である自身は何かと白眼視されやすい存在であったし、鴻池は名門であり日本各地に親族がいた。地方に住んでいる名家の金持ちほど始末に負えないものはない。しかも金貸しが本業ともなれば、その程度は想像を絶する。鴻池晴明(クラスティ)は頭の回る青年であったので、彼らに迷惑をかけないように邪魔にならないように過ごすことにやぶさかではなかった。
 とはいえ、それは自身のことであって、トラブルのほうはそうではない。波瀾万丈、つまり押し寄せてくる様々な騒ぎは、彼自身が原因ではないのだ。いわば不可抗力である。だからこそ、彼はそれを楽しんだ。
(まあ、自分で乗り込んだことがないなんて、言いませんけどね)
 エリアスとの決闘もそうだった。
 自分から殴りかかるほど狂人でもないが、斬りかかられば楽しく付き合う。いや、切りかかられた以上楽しませてもらわなければ損だとさえ思う。
 クラスティにとって、今回の騒動もまた世界の出し物なのだ。もちろんそれを言うならば〈大災害〉に続くすべての騒動がそうだ。自分から積極的に加担するつもりはないが、出て来る料理(バトル)はすべて味わい尽くすつもりである。

 クラスティはそんなこと考えながら、前方の崖をよじ登るカナミを見た。
 濡れた岩に張り付く趣味は無いので、右手に続く傾斜した通路をクラスティは歩いていく。すると、慌てたような声を上げたカナミが走って追いかけてきて、クラスティを先導するように再び歩き始めた。
「先頭が好きなんですか?」
「うんっ!」

 なぜ?
 ↑月並みの質問だな。
 →好きなことに理由は無いのでは?
  ↑あるかもしれない。
  →しかし特に聞くほどの興味はない。
 →昔から好きであったのか?
  →おそらく正解。
  →〈D.D.D〉との狩場会議でも真っ先に現れていた。
   →ただし実務会談の最中は寝てた(推測)。
    →ボイスチャットでいびきをかく女
  →茶会のリーダーとしての責務
   ↑むしろ逆である可能性は?

「先頭を歩くのが好きだから〈茶会〉のリーダーをしてたのですか?」
 ふと思いついた疑問を訪ねたクラスティに対する返事は「うん、そうだよ!」というものであった。常識的に考えてありえない理由だ。集団で歩くとき、先頭に居たいというそれだけの理由で、コミュニティの主催となるなんてどんなギルドでも聞いたことはない。
 しかしそれは納得いく返答でもあった。非常識な人物なのだから、常識的な内面をしているわけはない。
 鼻歌を歌いながら先を歩くカナミは、上機嫌に振り返って「あっちはどうなってるのかな?」と尋ねてきた。さすがに退屈だったのだろう。
「どう、ですか」
「うんうん。どうしてたの? この二年! あとヤマトサーバってどんな感じ?」
「知っているのでは?」
 クラスティは低く答えた。
 秘密にしたいわけでも相手を務めるのが嫌だというわけでもなかったが、情報の重複程度は避けさせてもらいたい。
「いやあ。そうでもなくって、連絡も取ってなかったりなんかしたり、止められてたり! KR(ケイアール)からもあんまり聞いてないんだよね。素直に答えてくれないしさ」
「自業自得では」
 KRというのは〈放蕩者の茶会〉ディボーチェリー・ティーパーティーの一員だ。放蕩者、という響きだけでなぜか親近感を感じていた、流星のような団体の、三人の参謀のうち一人。
「クラ君冷たいなー。こんな場所で無口に歩いてると、無駄に眼鏡が光るようになっちゃうんだぞ」
「……」
 クラスティは肩をすくめた。はぐらかすつもりがあったわけではないので、希望されれば話すことはやぶさかではないのだ。「じゃあ、ほら、報告報告ほーれんそー」とわめくカナミにアキバの人々の軌跡を知らせておくべきでは、あるのだろう。
「この二年、ですか。大規模戦闘(レイド)攻略に関しては〈D.D.D〉と〈ハウリング〉〈黒剣騎士団〉が競っていましたね。〈ホネスティ〉は浮かんだり沈んだり。新興ギルドとしては〈西風の旅団〉に〈シルバーソード〉が伸びてきて一気に首位グループに追いつきました」
 まずはあたりさわりのない話題、この二年の大規模戦闘(レイド)ランキングから消息を伝え始めた。
 このランキングは〈エルダー・テイル〉公式が用意したものではない。大規模戦闘(レイド)とはそのように評価されるものではないのだ。サーバーごとのコミュニティが、多くは匿名掲示板などの噂という形で提供するものである。
 拡張パックが発売されると、それにはいくつものハイエンドコンテンツが含まれている。その主力は二十四人規模戦闘(フルレイド)のチェインストーリーだ。ひとつの拡張パックには多くの場合、四つから七つ程度のダンジョンが含まれている。そしてひとつのダンジョンには三体から十体程度の大規模戦闘(レイド)ボスが存在する。つまり、拡張パックあたり三十体程度の「目標」がいるわけだ。
 これらの強力なエネミーは、暗黙の序列が存在する。ダンジョンは多くの場合好きな順序で攻略できるとされているが、実際には下位のダンジョンで大規模戦闘(レイド)エネミーを倒し、装備を充実させていかないと、より上位のボスに挑んでも勝利はおぼつかない。
 大規模戦闘(レイド)ランキングとは、その拡張パックにおいて、どこのギルドが何体目の目標まで倒したかという情報の集合体である。
 一体のボスを攻略するのに、数週間はかかる。全く情報のない敵を分析し、装備を整え、連携鍛錬をするためにそれだけの時間がかかるのだ。つまりは一回の拡張パックが発売されるたびに、〈D.D.D〉は八体目まで倒した、〈黒剣騎士団〉はいま七体目までらしいぜ、そんなランキングレースが、二十か月は続くのだ。それが〈エルダー・テイル〉の大規模戦闘(レイド)ランキングである。
 そして、このランキングは、サーバー内における勢力争いの状況や、短絡的なウォッチャーからすればギルドの序列でもあった。
「案外安定しているんだね」
「拡張パックレベルでの変動も少なかったですしね」
 そうクラスティは答えた。
 〈D.D.D〉も〈ハウリング〉も〈黒剣騎士団〉も、ヤマトサーバーではそれなりの歴史ある強豪大規模戦闘(レイド)団体だ。〈放蕩者の茶会〉が活躍していた時期から競い合っている。導入された拡張パックも今までの勢力をひっくり返す新要素の追加というよりも、純粋にダンジョンを追加するような傾向のパッケージだったこともある。
 要するに〈放蕩者の茶会〉が解散した後の二年は、熾烈なレースそのものは続いていたけれど、その競い合いは健全であったし、びっくり仰天のどんでん返しもなかったとまとめられるだろう。

「ほむほむ。えーっと、〈大災害〉からは?」
「それは……一口では言い切れませんね。アキバは〈円卓会議〉という組織を設立するに至りましたよ」
「うん、そこは少し聞いた」
「シロエ君が立役者ですよ」
 悪戯心を起こして、クラスティはそういってやった。そうやって褒められるのを苦手としているのがあのシロエという青年だ。アンバランスで、面白みのある知己と言えた。超長距離射程の白兵戦特化(ルビ:無鉄砲な理想家)というのがクラスティから見たシロエの印象だ。
 目的をかなえるためならば、どんな遠くまででも射程を伸ばす。目の前の獲物さえしとめればいい場面でまで、すべてを解決するためには遥かな彼方まで巻き込み貫こうとする。そのくせ狙撃というわけでもなく、それらすべては抜身の刀なのだ。一方的に攻撃を加えられる条件を整えているくせに、本人も傷つくことを望んでいる。
 不思議な人物像だと思う。
      もそうだった。
 なぜ自らの身体と魂を差し出そうとするのか? 関わろうとするのか。
 アイザックも、ミチタカも、〈円卓会議〉に集ったギルドマスターはだれもが、少し不思議だ。効率的とは言えない酔狂な部分が、余裕とでもいえるような気高さとなって組織運営を助けている。おそらくそれはクラスティも、他人を非難できないのだが。
「シロくんかあ。むっふっふっふっふ。やっぱりね、シロくんは、そういう格好いい男の子になるって思ってたんだあ」
「そうですか」
「うんうんもちもちオフコースだよー」
 満悦の笑みとしか言えない表情を見て、クラスティは苦笑した。
 どうやらこの女性はシロエの活躍が愉快らしい。
 それがどういう思考過程の結果その感想にたどり着いたのかはわからないが、考えてみれば、この女性こそ酔狂と無駄の極北ともいえる。
 ゲームであった時代にもシロエや眼前の女性と言葉を交わしたことがなかったわけではなかったが、やはりその理解は浅かったのだろう。ここまで奥行きがある人々だとは思わずにいた。
「ヤマトは、アキバもミナミもおおむね平穏です。水面下ではもちろんいろいろあるんでしょうがそれは人が住む場所のすべてでそうですからね。アキバの街には〈円卓会議〉という寄り合い所帯ができて、略奪も、敵対行為も解消され、〈大地人〉が受ける被害の第一波も防がれ、定期イベントの大規模戦闘(レイド)もいまごろは終息に向かっているでしょうね」
 まあ、嘘はついていない。
 ヤマトサーバーの目につく問題は、おおむねケアを終えた形になっているはずだ。
 とはいえクラスティの目から見れば、むしろ事態は混迷の度を深めている。
 それは楽観的とか悲観的だとか言う以前の問題で、新大陸発見のようなこの状況が、穏便に終わるわけがないのだ。
 途中で手を引くことになった〈円卓会議〉中堅レベル以下の育成問題については、おそらくクラスティが抜けても問題はさほど起きないだろうが、それを隠れ蓑にしていた領主会議にたいする時間稼ぎは、当然の様にタイムリミットを迎えるだろう。ゴブリンたちの脅威が取り除かれれば、〈冒険者〉と〈大地人〉の関係は必然的に次のステップに向かう。それ自体は悪いことではないが、目前の敵対存在がなくなった後の両者の関係は舵取りが非常に難しい。ある程度交流が一般化するまで、ゴブリンたちには敵でいてほしかったのも事実だ。
 そもそも、〈冒険者〉と〈大地人〉はかけ離れていすぎる。
 歩み寄りを期待できる差異ではない。
 見た目よりよほど心の熱いあの青年(シロエ)はその釣り合いをとるために北へと旅立ったが、それもまた夢物語のような勝算をあてにしたものだったはず。失敗するとは思っていないが、成功したとしても問題のすべてに片が付くはずがない。
 いいや、成功すればしただけ、アインスあたりが暴発に向かうだろう。
 マクロで見れば状況は個人の努力の範囲を超えている。
 もちろん個別の小さな不幸は防ぎうるだろう。
 しかしこの状況が整理されるためには、まだまだ多くの血が流れるにちがいない。
(僕がいたからって何が変わるってわけでもありませんしね)
 クラスティは自らの思惟に肩をすくめた。
「クラ君なんでこんなとこまで来てるのさ?」
「事故に巻き込まれて、ですかね。おかげで不毛な呪い(バッドステータス)つけられまして」
 だからクラスティはその質問に用意されていたかのような滑らかさで答えられた。
 望んできたわけではないが、積極的に抗ったとも言えない。
 多少目端が利くだけの自分は、巨視的な見地に立てば何処にいても大勢に影響を与えない存在なのだ。影響を与えようとしていないのだから当然である。だから、飛ばされたことも、留められたことも特に思うところはない。
 その場その場で、それなりに楽しい何かを見つけ出せれば、それでいい。

「誰に?」
「誰……?」
 そんなクラスティにとって、カナミの問いかけは不意を突かれるようなものだった。
 誰に巻き込まれて? 誰に呪われて?
 クラスティは、うかつにもその問いを持ってはいなかったのだ。
 閃くような思考の連鎖にうつむくクラスティを、いつの間にか淡い金色の輝きが照らし出していた。冷たい風が渦巻いてマントをはためかす。
 長く曲がりくねった鍾乳洞は、〈狼君山〉の中腹に二人の冒険者を導いたのだった。




◆ Chapter4.02 

 土埃にまみれて汚れ果てた花貂(ファーデャオ)は人生最大の苦難にあった。崩落の瞬間、クラスティに跳ね飛ばされて被害を逃れたのはいいが、松の枝に引っかかってしばらくの間は気絶をしていたのだ。目が覚めてからもすっかり地形が変わってしまった〈狼君山〉の岩肌をよじ登るのに優に半日ほどかかってしまった。
 情けないことに、ぽたぽたと涙が垂れるし、鼻がぐずぐず言ってたまらない。
 質素なりに威儀正しくもあった官吏の(ふく)は擦り切れてしまったしもうボロボロである。それを言うならば、花貂(ファーデャオ)自身もボロボロなのであった。

「なんてひどいことになっちゃったんでしょう」
 しょんぼりして足が止まるが、食いしばってまたひとつ岩を超える。
 背丈の低い彼女にとっては、クラスティが一跨ぎにする程度の段差さえ、崖そのものなのだ。
「仙君様は大丈夫でしょうか。それに仲間のみんなは」
 貂人族は仙境を管理する天の官吏である。それは嘘ではない。
 では、天の官吏とはなんなのか? と問われれば、実はその答えを花貂(ファーデャオ)は持ち合わせていない。
 例えば、官吏とはなんなのか? その正確な意味も仕事も、花貂(ファーデャオ)は知らないのである。敬われる役人である、というような認識はある。偉いはずだという自尊心も持ち合わせている。しかし、なぜ尊いのかと言われれば「天の官吏だから?」と答えるくらいにフワフワしている。具体的な業務とは何なのか? と言われると視線を逸らす程度に理解がない。
 役人というものに対するおぼろげな記憶に従えば、上司がいてその命令を受けて勤めを得るはずなのだが、花貂(ファーデャオ)には直属の上司というものが存在しない。生まれてから一回も会ったことはないし、命令を受けたこともない。
 強いて言えば仙人(こらいしゅ)すべてが上司にあたるはずなのだが、花貂(ファーデャオ)の住む仙境にかつて上司が訪れたことはなかった。
 それに天というのがなんなのか、花貂(ファーデャオ)にはよくわからない。どこか上のほうにある仙人の住む場所だということは知っているが、行ったことは一度もない。
 花貂(ファーデャオ)たち貂人族は、生まれた時から〈狼君山〉の仙境に在ったし、その管理人として暮らしてきた。まあ、官吏というよりも居候だかったかもしれないが。
 ある時を境に仙境が大きくなり、廟の部屋数が増えて、姉妹たちもいつの間にか増員されたが、花貂(ファーデャオ)たちはつつましく生きてきた。廟を掃き清め、長く険しい石階段に水を打ち、たまに訪れる朱桓 (ジュホワン)ら参拝客を迎える。食事は主に硬い木の実である。仙人の持ち物である桃を勝手に食べるのは、官吏としては重罪にあたるのだ。
 だから仙君(クラスティ)が現れた時は本当にうれしかった。
 病の療養と聞いて懸命に看病したがそれほど重篤ではないようであったし、花貂(ファーデャオ)たちになにくれとなく話しかけてくれた
 性格はよくわからないし意地悪な部分はあるが、聡明で気品があり、優しい上司だと思っている。
 花貂(ファーデャオ)と姉妹が仙境の柔風に揺れる桃を見上げていると、躊躇いもせずに大きな果実をもいで与えてくれもする。「手足が短いと木登りもできないんですよね」というからかい交じりのの言葉とともにであったが、それは仙君らしい韜晦(とうかい)なのだと花貂(ファーデャオ)は思っている。貂人族は木登りの達人ぞろいだからだ。
 桃はとろけるほど甘かったが、それよりなお素晴らしいのは仙君の作り出す料理の数々だった。いつも作ってくれるわけではないのだが、貂人族が作るそれよりもずっとずっと味わい深いのだ。食事をしなくても耐えられるはずの貂人族が、人化や霊化の術を使ってまで、仙君の手料理に列をなすほどである。知識としては知っている「天の宮で出るという宮廷料理」よりも、仙君のつくる「ゆで卵いり豚の角煮定食」のほうがずっと美味なのだ。ここだけの話だが、筆頭として毎回それにありついている花貂(ファーデャオ)など、もはや骨抜きと言ってもよいほどである。

 そんなわけで花貂(ファーデャオ)の鼻は現在泣きはらして真っ赤だった。
 仙君(クラスティ)があの真っ暗な穴にのまれて、大岩の下敷きになっていたらと考えるだけで、胸がつぶれそうになる。作ってくれた甘くて優しい、どこかちょっと焦げたような苦みのある、桃の甘露煮焼き饅頭を、もう一度ふるまってほしい。意地悪そうに笑いながら、鮮やかな十二等分を見せてほしいのだ。
 ぐしぐしと鼻をこすっていた花貂(ファーデャオ)はふと顔を上げて固まってしまった。早朝の青い空をきらきらとした虹の光が昇ってゆく。その光はとてもきれいだったけれど、なんだかとても切なくて胸が痛んだ。それは花貂(ファーデャオ)にとっても初めて見る光だった。

 〈狼君山〉は〈白桃廟〉をいただく巨大な岩山である。
 しかし、このような事態になって、この山の内部には無数の鍾乳洞がアリの巣の様に走る構造だということが判明した。
 岩盤は十分以上に硬く、洞窟は数万年にわたる侵食により穿たれたはずだが、いまやその鍾乳洞のいたるところで崩落が起きて、通行が不可能になったり、新しい経路を連絡が発生したりしている。こうして岩山の表層を這いつくばるように移動していても、その光景のあちこちは、花貂(ファーデャオ)の記憶と齟齬を見せている。
 普段なら小道が張り付いている岩肌も崩落して、すり鉢状にくぼんだ瓦礫の坂を彼女はおりていった。立って歩くには足元が不安定過ぎて、時には後ろ向きに這い降りるような場面もあり、それでもガラガラと崩れる岩の塊が不安を掻きたてた。
 広がる光景は花貂(ファーデャオ)にとっても見慣れた濡れた岩の地下空洞だったが、それが何度かの段差を下るうちに変わっていった。濡れたように黒い自然石は、明るい灰色の幾何学的な直線の床に変わっていったのだ。輪切りにしたら八角形になるような管――つまりは花貂(ファーデャオ)が進んでいる通路はそのような形状をしているらしかった。
 全体的に薄汚れてほこりにまみれてはいるが、かつては清潔だったのだろうと思われる。それは、角度もサイズも狂いのない通路が延々と続く精神性から明らかだ。通路のあちこちには亀裂が入り、そこからは金属の管や得体のしれないひものようなものが埋まった構造が見えていた。ここは、地下の城塞か遺跡だったのかもしれない。
 〈狼君山〉は仙境の常として、崑崙(こんろん)を護衛する任務があるので、そのための施設なのだろうか? と花貂(ファーデャオ)は考えた。知識も興味もないので、そうなのかも、と思っただけだったが。

 すんすんと空気の匂いを嗅いでみたが、仙君の匂いを見つけることはできなかった。大規模な崩落のせいか、濁った水と、埃と、火花じみた臭いがするだけだ。電視台と書かれた金属板を乗り越えて進むと、通路は太くなり、レールや、ケーブルや、そのほか花貂(ファーデャオ)が見たことのない金属製のさまざまな魔法具が遺棄された区画へと出た。
 この通路はもしかしてはずれなんじゃないだろうか?
 花貂(ファーデャオ)がそう考えてしまう程度には進んだあたりで、通路は唐突に巨大な自然石で破砕されていた。隙間から顔を入れて暗闇を見回し、その先の大きなホールに忍び込んでみると、先ほどの焦げたようなにおいが強くなる。
「なんでしょうかねえ……」
 うすうすと、危険があるのではないかと感じている花貂(ファーデャオ)が、そんな台詞をつぶやいてしまうのは、まさに内心では怯えているせいだ。きょろきょろとあたりを見回しているが、それは、警戒しているというよりは、暗がりが怖いために過ぎない。
「何にもいないですよね? だってこんな地下深くなんだし――」
 ひるみそうになる自分をごまかすように早口になった花貂(ファーデャオ)が発見したのは、暗闇を切り裂くように差し込む、漂白されたような白い陽光だった。午後のそれはすでに鮮烈というほどの輝きは無い。しかし、それでも日の光ではある。見上げれば、高い天井の一部が崩落で開口している。遠く青空が見えるところを見ると、あそこから外へと出ることができそうだった。もちろん、それは空が飛べればではあるが。
 光に灼かれた瞳には、影はより暗く見える。
 だから花貂(ファーデャオ)がしばらくの間気づくのが遅れたのも無理はないだろう。
 滝のように差し込む光のベールのその向こうにうずくまるのは、巨大な獣だった。濡れたように滑らかな毛皮を持つ、獅子のような怪物。全身が色どりこそ違えど強靭そうな毛皮に覆われているにも関わらず、唯一、その顔面だけが毛皮をひきはがされたように、グロテスクな赤い肉でおおわれている。むき出しの歯茎に並ぶ乱杭歯から、チロチロと青白い電光をこぼれさせている。
「ひぐっ」
 慌てて口を抑えたために、悲鳴はひゃっくりのように無様になってしまった。が、もちろん花貂(ファーデャオ)はそれを後悔するような余裕はない。気づかれないようにしよう、とか、音を立てないで引き返そう、だなんてことはみじんも思わなかった。
 巨大な獣と視線が合っているのだ。
 あちらは明らかに花貂(ファーデャオ)に気が付いていて、全身を嘗め回すように見つめている。花貂(ファーデャオ)は足の力が抜けてふわふわとしてしまい、まるで、立っているのか寝ているのかもわからないありさまだった。
(死ぬ、死んじゃう)
 のっそりと前に出た獣の姿は、光差し込む広間に現れて、なお巨大に見えた。動物ではない。魔獣だ。しかも、この〈狼君山〉で見たことがない種類の、瘴気を巻き散らかす邪悪な獣であるように見える。
 獣臭い吐息を見て、花貂(ファーデャオ)は悟った。
 焦げ臭いにおいは何かが燃え上がった影響ではなかったのだ。この獣の四肢や吐息が(まと)う青白い電光が、直接に空気を灼いているのだ。
 ぴしり、と空気が割れるような音が連続する。電圧差で肌がびりびりしびれるような感覚に、花貂(ファーデャオ)はぎゅっと瞼をつむった。もうおしまいだ。ここで死んじゃうんだ。理由はわからないけれど、外からやってきたこの魔獣に、自分は食べられてしまうに違いない。仙君さまとちがって、この気持ち悪い怪物は桃のソースさえ付け合わせてはくれないだろう。観念した花貂(ファーデャオ)に、実際濁流のような電撃が放たれた。

 空中に投げ出された浮遊感に目を回してしがみつくと、それは蒼鋼のがっしりとした肩鎧だった。
「奇遇ですねこんなところで」
 唇の端をちょっと歪めて笑うクラスティに、花貂(ファーデャオ)の瞳は真ん丸に見開かれる。「仙君さまっ」と叫ぶ間にも、ひらり、ひらりと左右に躱したクラスティは、いつの間にか間近に迫っていた魔獣の大きく開いた(あぎと)に両刃の三日月斧を差し込んでがっちりと受け止めた。

(ぬえ)ですね」
「鵺だね! 懐かしいなあ」
 巨躯と言っても良いクラスティの頭をひらりと飛び越えて巨獣に向かった女性の武芸者が、金属的な轟音を立ててその拳を叩きつける。
「この大きさだと十二人戦闘(ハーフレイド)クラスですかね。おそらく天塔と同型か類似でしょう。弱点は打撃、電撃耐性」
「やっぱり大冒険だねい! さすが冒険ユーレッド大陸!」
 明るい応えとともに、激しい戦闘が始まった。



◆ Chapter4.03 




 なし崩しのうちに戦いは始まった。
 電撃を操る魔獣、(ぬえ)とクラスティたちの間でだ。
 はじめはクラスティに抱えられていた花貂(ファーデャオ)だったが、すきを見て降りると岩陰に逃げ込んだ。仙君を見捨てたわけではなく、戦いの足手まといにならないためだ。
 本人は痛みを表情に著したことはないが、仙君の脇腹には決して血が止まらない傷がある。何度変えても包帯を赤くにじませるその傷は、呪いの傷なのだという。酷薄そうに笑う仙君の顔色は、そういえば、いつも白く透き通るようだった。だから、仙君の負担になることを花貂(ファーデャオ)はできなかったのだ。
 もとより、クラスティが敗れれば自分も命を落とす覚悟である。
 というのも、彼女の戦う力ではあの獣に到底抗しようもないからだ。短い手足では、逃げ出すことさえも無理だと思える。

 強いとは思っていたが、仙君の戦いは圧倒的だった。
 肉厚の斧を振るうたびに、瓦礫や土砂が津波の様に巻き込まれ、怒号の勢いを持って獣を襲う。だが、鵺と呼ばれた闇色の魔獣は強力で、そのクラスティの猛攻があったとしても、ほとんどダメージを受けているようには見えない。
 その仙君と一緒に現れた黒髪の女性は、こちらもすさまじい猛攻を見せている。じっくりと大地に根を下ろし、両手で振り回す鉄塊による攻撃と防御を行うクラスティとは違い、その動きはネコ科の敏捷性を備えていた。飛び込み、突きを繰り出し、あるいは蹴りを放ち、空中で弧を描く。その動きは舞というにはいささか荒々しく、だがとても美しかった。
 戦いにはもう一人の援軍が加わっていた。
 クラスティの足元にいつも(はべ)っていた犬狼の求問(ぐもん)だ。
 もちろん立派な体躯をした狼ではあるし齧られたら大変だと花貂(ファーデャオ)も思ってはいたが、こうして闘う姿を見るとその思いは圧巻であった。クラスティと比較してさえ引けを取らない巨大な身体を、四足獣特有の地を這うような動きで敵にぶつけてゆく。その姿は凶暴であるにもかかわらず優美でもあった。花貂(ファーデャオ)がまたがったこともある背の毛並みは光を反射して濡れたように輝き、流れる水銀を思わせた。
「ゴイン! っていった! ゴインって!!」
「カナミさんは平気でしょ」
 殴りつけた反動があったのか、女性が手を振り上げて非難している。
「クラくんはさり気なくひどくありませんか!? わたしだからってサベツしてませんか」
籠手(ガントレット)つけてるんだから平気でしょ」
「面倒くせえな、みたいに付け加えたっ!」
 二人と一匹は彼女なりに見れば完璧な連携をしているように見えた。どうやら旧知らしいあの女性は、仙君の言葉によればカナミという名のようだ。仙君とはちがいやけに薄手の民族衣装をまとい、旋風(つむじかぜ)のように魔獣に躍りかかっては攻撃を加えている。
 彼女ももしかしたら仙人なのかしら? 花貂(ファーデャオ)はそんなことを考えて、不思議に喪失感とも失意ともつかぬ気持ちを感じた。クラスティを伴って戦いを演じているのだから、彼女もまた仙人(こらいしゅ)である可能性は高いだろう。崩壊した世界に生き残った数少ない同胞だ。
 そうであるのならば、クラスティと同様に花貂(ファーデャオ)が仕えるべき相手だということになる。それはすこし残念であるような気分だったのだ。もしかしたら彼女も仙君と同様に、お菓子作りが上手なのかもしれないが――そう考えて、自分はそんなに食いしん坊だったのかと、花貂(ファーデャオ)は一人頬を染めた。

虎響拳タイガー・エコーフィストッ!!」
 技の響きとは裏腹に肩口からの体当たりに近いような密着技を炸裂させたカナミ。その衝撃を受け損なったのか、数百キロを超えるだろうと思われる魔獣は、一瞬身体を上方向に浮かばせると、そのままよろけるように吹き飛ばされた。
 そこに待ち受けていたのは犬狼の求問(ぐもん)だ。低い姿勢から隙だらけの後ろ足を狙うと、鋼のような毛皮に鋭牙を突き立てた。バランスを崩しきった鵺をさらに傷めつけるように半歩引きずると、姿勢を整えるべく角度を調整する。
 そして無防備になったその首筋に、真紅の魔力光を撒き散らかした一撃を加えたのはクラスティだった。刃渡り五〇センチ以上はある三日月斧を断頭台のように振り下ろした。その攻撃にはさしもの魔獣も唸るようなむせび声を立てている。
(仙君さま強い!)
 花貂(ファーデャオ)は小躍りしてしまう。
 だが、だからといって戦いは仙君たちの圧勝であるとも言い切れなかった。
 たしかに、いま目の前で起きている趨勢は有利なように見える。しかし、(ぬえ)と呼ばれた魔獣もさるものであった。不利な姿勢をどこに秘めていたのか溢れ出るような活力で一気にひっくり返し、あたりには焦げ臭い臭気を放つ雷球をいくつも浮かべる。
 回避に移る二人に攻撃がなかなか当たらないと見るや、刺又(さすまた)のような爪が生えた太い前足を、突きから薙ぎに切り替えた。鋭い鉤爪を避けるために、女武闘家は大きく身体を躱すしかないようだった。
 そして何より、仙君の強力無比な一撃を受けた首筋が問題だった。
 あんな攻撃を受けたら、大岩だって粉々に砕けてしまうだろう一撃だった。花貂(ファーデャオ)が受けたとしたらと考える必要もない(百人いたって全員のされてしまう)ような斬撃をうけたその部分は、毛皮にうっすら血をにじませる程度の負傷しか見受けられないのだ。
 この獣がどういう能力を持っているのか、花貂(ファーデャオ)はわからなかったが、それでも途方も無いその体力が武器のひとつなのは確かだった。そして、もしそうだとすれば、たった三人しか居ない仙君たちは、いずれ力尽きて倒れてしまうのではないか? 花貂(ファーデャオ)はそんな不安を感じたのだ。

 そしてそれは、さして外れてもいない感想だった。
 花貂(ファーデャオ)には余裕のある戦闘を演じているかに見えた〈冒険者〉ふたりも、実はその余裕は見かけほどではなかった。
 なにせ相手は十二人戦闘(ハーフレイド)クラスのモンスターなのだ。
 それは本来であれば適正レベル十二人の〈冒険者〉が参集して戦闘を行うべきという意味である。魔獣のレベルは八十四。九十レベルほどの二人からすれば、多少格下だ。
 〈幻想級〉(ファンタズマル)の助けを得た〈冒険者〉は自分と同等か最大で七程度レベルが高いモンスターと戦闘をすることが可能だ。だから八十四というレベルは、もしここにクラスティ率いる討伐集団が定数十二名いるのであれば、この戦闘の難易度はかなり容易い分類だっただろう。このレベル差があるからこそ、クラスティたちは魔獣の攻撃を回避したりいなしてここまで保たせることができているのだ。
 しかし一方で、戦闘参加者が定数の四分の一であるというのは、致命的でもあった。戦闘参加者が何人であっても防御力や回避力というのは、大きく上昇したり低下をしたりしない。しかし人数によって攻撃力や持久力は大きく変化するものだ。攻撃は手数に比例し、持久力、つまりMPは人数に比例する。結果として引き起こされるのは、鵺を仕留め切れずに、クラスティたちの余力が尽きる――そんな未来だった。致命的な攻撃を避け続けたとしても、疲労やMPの枯渇によって対応手段が削られ、石臼の中の小麦のように轢き潰される。それが予想される結末だ。

「なんだか思い出してきた!」
「遅いですよ」
「うろ覚えで生きててスイマセン」
 しかし朗らかに笑いながら戦うカナミに、ぼやきながらも隙を作らないクラスティに、そんな悲壮感はない。花貂(ファーデャオ)はハラハラしながらも見守るしかなかった。
「どこの国でも大規模戦闘(レイド)ボスは使いまわしなんだねい」
「――そうなのですかね。花貂(ファーデャオ)がいうには狼系のダンジョンセットだったようですけど」
「ここのボスじゃないの?」
「さあ、どうでしょう。まあ、不思議はありませんね」
 のんきな会話は魔獣の広範囲攻撃で遮られた。
 半径数十メートルに達する雷撃の洪水だ。女性武闘家は、どういう理屈だかはわからないが、その奔流とでもいうべき攻撃を躱して、いなした。〈武闘家〉(モンク)と呼ばれる職業クラス能力のひとつ〈幽霊歩き〉(ファントムステップ)なのだが、それは花貂(ファーデャオ)にはわからない。
 カナミが乱した流れの隙にちゃっかり滑り込んで被害を無効化したクラスティは、三日月斧で土砂を巻き上げて即席の土塁とする。それを利用したのは犬狼・求問だ。
 会話には参加できない花貂(ファーデャオ)だが、違う違う。こんな魔獣は知らない、と伝えたかった。花貂(ファーデャオ)の知る限り、この〈狼君山〉は、聖地崑崙へとつながり、彼方の声を広げるための仙境だ。守護をしてくれているのは狼君という(ちょうど求問のような)巨大な狼で、こんな赤剥けた顔をした醜悪な獣ではない。
「こんなのは知りませんよう」
 叫ぶように言えば、聞きつけたのかクラスティは、振り返りもせずに「そうですか」と斧を振りかぶりながら答えた。いつもなにを考えているかさっぱりわからない仙君だが、ずいぶんあっさりと受け入れる。
「じゃあどこから来たのかな?」
「そんなのわかるわけ――ひゃあああ!?」
 いらだった鵺が前足を強く振り下ろし瓦礫が飛び散った。
 それらはクラスティの蒼鋼の鎧には傷をつけることもできないほどの些細な攻撃、おそらく魔獣のいらだち紛れでしかなかったのだが、岩陰から身を乗り出して抗議をしていた花貂(ファーデャオ)にとってそうではなかった。顔と同じほどの大きさの石くれが高速で飛んできたのだ。
 びっくりして飛び避ければ、勢い余ってコロンコロンと転がってしまった。
 地形も悪かったのだろう。隠れていた岩陰からは崩れた土砂が坂道の様に堆積していて、止めるものがない。目が回る回転で花貂(ファーデャオ)は5メートルほどもまろび出てしまった。
 貂人族(てんじんぞく)にとってそれはかなりの距離である。とっさに岩陰に駆け戻ろうにも、恐怖のあまり上手に立ち上がることもできない。指先に感じた絹の裾にすがって立ち上がろうにも膝ががくがくしているのだ。
「あれは(そら)からきたのですよ」
 涼やかな声が目を回してくらくらする花貂(ファーデャオ)にかかった。視線を上げると、自分がすがっていた裾は女性の衣であったらしい。表情は見えなかったが、濁った甘い香りと声で声の主は知れた。
「召喚術の概要が崑崙へと送られて、各地には資源に応じた軍勢を送ることが可能になったのです」
 それは、その声は、葉蓮仙女(ようれんせんにょ)のものだった。
 唇の端に薄い笑みを浮かべ、子どもの遊びを眺める母親のような慈しみを持って仙女は花貂(ファーデャオ)にわからない言葉を紡ぎ続けた。
「崑崙におわす我らが魔女の支配者、西王母が、時計の針を急かしておられる。この地に資格あるものはいないとの仰せ」
 仙女は何を言っているのだろう?
 天の官吏たる花貂(ファーデャオ)にもわからなかった。
 仙君を看病に来てくれた優しい人だったのに。
 いや、いまでもその顔は満たされたように優しげだったが、なぜかそうは見えなかった。小さく微笑んだ柔らかな唇が、まるで耳まで避けた哄笑のように見える。そんなはずはないのに、寒気が止まらない。
「虹を砕きし浜辺にて、まどろみに揺蕩うかの君は、帰還の夢を見ておられる。コロパティロンが次々と開け放つ時限解放(タイムリリース)の獣を流星の様に降らせよとの仰せ」
 謡うようなセリフは、唐突で圧倒的な冷気の前に凍り付いた。
「新たな同胞、エリアスよ。西王母の求めに従い、おのれの執着に決着をつけよ」
 ふわりと広げた手に導かれるように現れた青と金色の騎士は、透き通った剣をだらりと下げたまま、戦場へと踏み込んだのだ。
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