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キョーハク少女  作者: ヒロセ
第三章 空回る僕ら
98/163

幸せ(?)な大事件

 文化祭まで一週間となった土曜日。

 僕の日常に少しだけ緊張が混ざりはじめた。特に何をするでもないけれど緊張してしまう。あえて言うならコンテストがあるからなのかもしれない。

 心地のいい緊張でなんだか眠れない日が続きそうだ。

 だから今日の準備も頑張ろう。

 今日は飾り付けや着付けをしてみようという事で朝からたくさんの人が教室に集まっていた。

 午前中部活の練習があってくることができない人がいるので教室にいるのはクラスの半分くらい。それでも今日は休日なので充分賑わっているといってもいいだろう。

 休日特有の穏やかな登校。

 今日は誰も冷たい目で見てこない。それだけ平日と休日は空気が違うんだ。

 普段はみんな自分の席についている時間だけれども、今日はそれを強制されていないので各々好きなところに座り楠さんの開始の合図を待っていた。

 僕はと言えば、朝楠さんに頼まれた用事を済ませたあと、どこか別の場所に座るでもなくいつも通りの自分の席に座り本を読んでいた。休日の特別な学校と言えど、僕のすることは変わらない。

 そんないつも通りの僕がライトノベルを手に本日のプログラム開始を待っていると、三田さんが僕の隣に座ってきてくれた。


「……おはよう」


「おはよう。なんだか楽しいね」


 僕はすぐに本をカバンの中にしまった。


「……うん」


 素敵な休日になりそうだ。


「三田さんは、今日お昼過ぎまでいるの?」


 本日の予定はお昼ご飯を食べてしばらくしてから解散とのことだ。しかしお昼を食べないで午前中だけ作業して帰る人もいるようなので、もしかしたら三田さんもお弁当持ってきていないのかもしれない。僕は一応お弁当を持ってきたけれど、いったい何人の人が作業に残るのかな。午前の部活が終わった人もいくらか顔を出すと言っていたけれど、数が減ってしまうことも覚悟しておいた方がいいかもしれない。


「私はお弁当持ってきたよ……」


「お昼食べた後も作業するんだね。僕も、持ってきてるよ」


「……そうなんだ…………あの……なんでもない」


「?」


 なんだろうかと気にはなったけど、どうやらそれを聞く前に準備が始まってしまうらしい。

 明るく楽しく元気よく、楠さんがいくらか荷物を持ってやってきた。


「おっはよー」


 楠さんの後には沼田君と雛ちゃんと小嶋君がついてきている。バスケ部の練習は午後からなんだね。

 四人が荷物を床に置き、楠さんが教卓の前に立った。


「みんなわざわざ土曜日にありがとう。今日は軽く内装の飾り付けをしてみて、どのようになるのかチェックしてみたいと思います。あと和服ウェイトレスの服を着てサイズを確認してみたり、調理実習室を借りているのでおはぎ作りなどなどをしてみたりもしようね。佐藤君。先生から調理実習室の鍵借りてきた?」


「うん」


 僕は鍵を掲げて鳴らした。


「ありがとう佐藤君。さて。じゃあ早速始めようか」


 楽しい文化祭準備が始まった。





 飾り付けをしてみて分かったけれど、思ったより豪華な内装になっていた。特に木で作った屋台の形の飾りが豪華さを一段と醸し出してくれている。素敵な屋台にそれを見ていない人たちから感嘆の声が上がっていた。

 給仕さんの制服もすごかった。本物の店員さんかと見紛うほどのデザインと出来にみんな驚きの声を漏らしていた。それほど数が無いのが残念だけれど、それでも何人かがこれを着ているだけで一気に和の雰囲気が増す。裁縫班の仕事っぷりをみんなで褒めちぎった。雛ちゃんと小嶋君がとても嬉しそうにしていたのでここは喜ばなければならないところだ。

 内装、裁縫ときて、最後は調理。僕らは今完成したばかりの出来立てホカホカのおはぎをみんなで食べている。実際に握る人が握ったおはぎ。とてもおいしくてみんな絶賛しながら食べている。すでに食べ終わった人からお代わりを要求されているくらいおいしいおはぎ。

 内装、裁縫、調理。

 すべてがうまく行っている。

 これも全て楠さんと雛ちゃんと沼田君のリーダーシップのおかげだ。この三人がいなければうまく行かなかったと言っても過言ではないはず。

 僕はおはぎを食べながら何となくその三人の様子を眺めていた。


「楠さんは和服着ないの?」


 沼田君がおはぎを食べながら楠さんに聞いている。


「だから、前も言ったけど私は握る係だから。着ていても意味がないでしょ? だから着ないよ」


 握る係の人は学校の制服にエプロンをして握るというのが僕らのお店のスタイル。給仕さんではない楠さんや雛ちゃんは裁縫班の作った可愛い服を着ないのだ。絶対に似合うのに残念。


「えー。着ているところ見てみたいんだけどなぁ」


「私が着てもしょうも無いから自分で着てなさい」


 男性用も用意されているので沼田君も着ることになるだろう。


「楠さんが着ているのが見たいのに」


 やけに楠さんにこだわる沼田君。どうしてだろうと疑問には思わない。僕だって見てみたいからね。


「念のため、楠さんも来てみれば面白いことになるんじゃないかなぁ?」


「面白い事って何が起きるの」


「何が起きるか分からないけど、一つ確実なのは俺のやる気が八割増しちゃう」


「ふふ。何それ」


 楠さんが笑っていた。

 二人は仲良しだ。

 仲のいい二人を見て微笑ましさと少しの寂しさを感じた僕は視線をずらして雛ちゃんを見た。

 雛ちゃんはやっぱり小嶋君と話していた。


「評判良くて安心したわ。デザインは私たちが考えたわけじゃないけど、それでも制作に携わった身としては貶されるのはムカつくもんな」


 自分たちの縫った和服の評判がよかったので満足そうだ。


「そうだな。これでみんなにボロクソ言われてたら、有野に罵られながら作った俺の努力が全部否定されてるみてえだもんな」


 幸せな二人の顔。いい事なのだけれども。


「小嶋は役に立ってなかったから、誰に何を言われようが痛くもかゆくもねえだろ」


「結構真面目に縫えてただろうが」


「ま、後半はな」


 やっぱり大きな疎外感を感じる。

 皆に話を聞いて回りそれを参考にして昨晩色々と考えもやもやを振り払うことに成功したはずなのに、仲のいい二人を目の当たりにするとどうしてもネガティブな感情に首と胸を締め付けられるような感覚を覚えてしまう。

 いけないいけない。

 僕は昨晩決心したんだから。

 僕は首を振り、ネガティブから逃げ出すために二人を見ることを止めた。

 偶然にもその先には前橋さんがいて、心底気分が悪そうに僕に視線を投げかけていた。

 何か気分を害するようなことをしてしまったのかなと不安がカタパルトにスタンバイし始めたところ、前橋さんが視線をそらし傍にいた三田さんに難しい顔をして話しかけはじめた。

 声は聞こえないけれど、どうやら僕の話をしているようだった。

 ネガティブな話ではないことを祈るばかりだ。




 お昼になり数人が帰り始めた。

 僕はお弁当を持ってきているのでこれからお昼ご飯。何と、今日は楠さんと三田さんが僕と一緒にご飯を食べてくれるというのだ。幸せな昼食に顔が自然と緩んでしまう。


「なにへらへらしてるの。ご飯がまずくなるから表情筋を緩めないで。括約筋は絶対に緩めないで」


「あ、うん」


 表情筋と括約筋を同列に扱うなんて色々な意味ですごい。


「文化祭うまく行きそうだね。内装も予想を上回る出来だし、和服もかなりいい仕上がり。味を捨てていたおはぎの評判もいいみたいだし失敗する要素が見当たらないね。それもこれもJNO喫茶を提案してくれた佐藤君のおかげだよ」


「そんなことないよ。そもそも僕JNO喫茶提案してないし」


「そんなに恥ずかしがらなくてもいいよ。君の性癖が世界の役に立っているんだから胸を張っていいよ。世界に誇れる性癖の持ち主。それが佐藤君だよ」


 良い顔で肩を叩けれたけれど全然嬉しくないや!


「三田さんはおはぎの味どう思った? おいしかった?」


 にこやかな楠さん。それとは対照的な三田さんの怯えたような表情。


「……はい。おいしかった……です」


「敬語止めようよー……。まあ、三田さんがそうしたいって言うんならいいけどさ。でもいつでも止めていいからね。絶賛受入れ中だからねっ」


「……はい、わかりました……」


 楠さんがふふと笑って小さくばれないように「はぁ……」ため息をついていた。どうやら三田さんは敬語を止めないらしい。


「敬語を止めて」というフレーズを聞いたら夏休みを思い出す。


 楠さんは敬語を止めてくれと言ってきた相手に対して「壁を作りたいから敬語で話しているんです」と返していた。

 三田さんがそう言う目的で敬語を使っているのだとは思わないけれど、クラスメイト相手の敬語はやっぱり距離を感じてしまう。三田さんが敬語で接しているのは楠さんだけだ。楠さんの完璧オーラに飲まれてしまうのだろうか。そのせいで緊張して普通に話しかけることが出来なくなっているのだろうか。もしそうだとしたらその気持ちはよく分かる。本当に、纏うオーラが人と違うんだ。


「で、佐藤君。君のお悩みはどうなったのかな。友達が離れて行っちゃうよぉ、ってやつ」


 笑顔ではないけれど僕を安心させる楠さんのいつもの顔。仲のいい証拠だと密かに思っている。


「うん。僕どうすればいいか分かったよ」


 昨日一晩考えたんだから。


「へぇ、それは凄い。聞かせてもらってもいい? 嫌なら無理やり聞くけど」


「うん。別に話せないようなことでもないし、いいよ」


 僕の悩み。

 友達が離れて行ってしまいそうなとき、僕はどうすればいいか。

 僕はどうするのかを昨晩決めた。みんなの意見を参考にしながら自分なりの答えを出した。

 答えは案外簡単なことだったのだ。


「僕は、特に何もしないよ」


 それは楠さんにとって予想外の答えらしく眉をひそめて驚きと不快を僕に伝えてくる。

 さらに驚いたのは楠さんだけではなく三田さんもだったようだ。


「……佐藤君、諦めるの……?」


 三田さんには不快の色は見えない。ただ純粋に驚いているようだ。


「ううん。諦める事なんかしないよ」


 悟った気分で笑う僕に楠さんはより一層の嫌悪を示した。


「諦めてるじゃない。何もしないっていうのはそういう事でしょう? 運命の流れるままに、身を委ねて。それ、以前の佐藤君と同じじゃない」


 確かに、傍から見た行動は同じかもしれないけれど。


「違うよ。きっと、全然違う」


「どこがどう違うのか説明して。その説明如何によって有野さんにうその報告をするかどうか決めるから」


 えっ、嘘を言うの? それは絶対に嫌だ。何とかして避けねばならない。この説明は僕の運命がかかった説明だ。

 でも、そんなに気負う必要もないよね。


「何もしないって言っても、行動をとらないっていうだけだよ? そもそも、とる必要が、無いんじゃないかなぁって」


「……どういう、こと?」


 三田さんも気になるようだ。質問をされた身として気にしてくれているようだ。


「僕は、友達を信じているから。何もしないけど、心の中では信じ続けるんだ」


「はぁ?」


 楠さんが呆れたようにしているけど、僕は間違っているとは思わない。


「だって、友達が誰かと仲良くなったら僕から離れて行っちゃうんじゃないかとか、そういった不安を覚えるという事はその友達を疑っているってことだよね。そんなの酷い事だよ。友達を信じているのならそんな不安を覚えなくてもいいんだ。だから、僕は友達を疑わないから、何もしない。離れて行く訳ないよ。もともとそんな考えが馬鹿らしかったんだよ」


「じゃあどんどん仲がよくなって言ってもいいの? 親友との時間が少なくなってしまってもいいの?」


「それは、仕方がない事だって分かったよ。だから、関係が壊れなかったら、いいことだよね」


 時間が減るのは仕方がない。友達は増えていくものだから。全部を僕に使えと言うのは独占欲が強すぎるよ。


「じゃあ、有野さんに佐藤君よりも大切な人が出来たらどうするの? それこそ、恋人とか」


「……本当に寂しい事だけど、友達だから祝福してあげなくちゃ。別に僕と絶交するって言っている訳じゃないんだから、心から祝福するよ。僕とは親友のままで、他に恋人がいて。なにもおかしなことじゃないよね」


「ふーん。そんなもんなんだ」


 もう楠さん僕に嫌悪感を抱いていないようだね。よかった。これで嘘の報告をされずに済むよ。


「そんなものだよ。これが一晩考えて出した答え」


 一人満足する僕と最早どうでもよさそうな楠さん。それと、本当に不思議そうな三田さん。


「……佐藤君は、有野さんに彼氏が出来てもいいの……?」


「もちろんだよ。祝福するよ」


「……そうなんだ」


 驚きと安心。それがどういう考えからくる感情なのかを知るには、僕の人生経験じゃあちょっと足りない。いつか分かるようになりたい。


「まあ、有野さんに彼氏ができるってなった時は、はらわた煮えくり返ってるだろうけどね」


「煮えくり返らないよ」


 寂しいとは思うけれど怒りはしないよ。


「またまた御冗談を。『僕の雛ちゃんを奪いやがって……!』って思うんでしょ」


「思わないよ……」


 僕の物じゃないし、そもそもものじゃないし。


「そう? でも恨むごとの一つでも言いたくなるでしょ? せっかく仲良くなった友達を奪って行っちゃうんだから」


「そんなことは無いよ。……多分」


 その状況になってみないと分からないけれど。残念ながら僕の妄想力は弱いんだ。シミュレートなんてできやしないよ。


「きっと、言わないよね」


「そんなわけない。人はそんな状況になったら必ず悪口を言うの。私は知ってるよ。だから君も言うんだよ」


 やけに自信満々の楠さんに僕の決心がへし折られそうだ。


「そ、そうなのかな……」


 負へ傾く天秤。楠さんはそれに飛び乗る。


「そうだよきっと」


 これほどまでに自信満々で言われたら僕が間違っていると思わざるを得ない。天秤は地獄へまっさかさまだ。


「……佐藤君は、言わないと思います……」


 救世主現る。ポジティブのお皿に三田さんが降りたった。

 正と負の戦いの火ぶたが切って落とされた。


「どうしてそう思うの?」


「佐藤君は、優しいから……」


「そうだね。でも聖人じゃないんだから愚痴の一つでもこぼれちゃうんじゃないかな」


「そういう時佐藤君はぐっと我慢すると思うんです……」


「我慢はよくないよ佐藤君」


「え、あ、うん」


 ストレスを溜めこむのはよくないよね。そのせいでネガティブになってしまったら負のスパイラルに陥ってしまう。


「言いたいことは言わなくちゃ」


「そうだね」


 それを言うには勇気が必要なのだけどね。


「……でも、佐藤君は人の悪口を言いたくなったりしないと思います……」


「佐藤君の場合は、言いたくても言えないって感じかもね」


 そうだね。僕には勇気が無いから。


「もともとそんな感情を抱かないんです」


 三田さんは僕に幻想を抱いているよ。僕はそんな出来た人間じゃないよ。


「負の感情くらい抱くでしょ。誰に対してもそんなことを思わないって、人じゃないよ」


「……楠さんが持つ人の定義って、とても嫌な定義ですね……。悪口を言わない人は人じゃないって、悪口を言わない人に対して失礼です」


「そうかもね。でも、私悪口を言わない人に会った事が無いから。今までであって来た人みんなそうだったよ。みんな人間らしかった」


「佐藤君が悪口を言っているところ見たことあるんですか? 佐藤君はその人たちとは違います」


「佐藤君だって言わないだけで心の底ではどす黒い感情が渦巻いているんだよ? 高尚な人間じゃないよ佐藤君は」


「……どうして楠さんは佐藤君を信じてあげないんですか? 佐藤君のことが嫌いなんですか?」


「嫌いだよ?」


 うぐっ。そうはっきり言われるとなかなか効くね……。

 でも、次の三田さんの言葉は僕のダメージを一瞬にして忘れさせてくれた。


「……私は、楠さんが、嫌いです」


「……え?」


 驚いたのは僕だけ。楠さんは全く驚いていない。

 この空気は嫌だ。仲のよくないこの空気は不安になるから嫌だ。


「ありがとう。はっきり言ってもらった方が私としても対処しやすいよ。あ、安心して。私は三田さんの事嫌ってないから」


 喧嘩は起きないようだけれど、重い空気はぬぐえない。


「……私は、嫌いです……」


 さらに重ねる三田さん。

 本当に、嫌いなの?


「そっか。好き嫌いは人それぞれだもん。しょうがないよね。でも、仲良くしたいと思ったらいつでも言ってね。私の方は受け入れ体勢整っているから!」


「……」


 楠さんの言葉に返事をしない。言葉にせずに拒否をしているんだ。つらい。どうすればいいのか分からない。


「……うん。じゃあ、なんだか私はお邪魔みたいだし、違うところでご飯食べるね」


 お弁当箱にふたをして、苦笑いで立ち上がる。


「じゃ」


「あっ」


 引き止める間もなく楠さんが僕らから離れて行ってしまった。いや、引き止める勇気が無かっただけか。重たい空気が続くことを恐れた僕が引き止めなかっただけだ。

 最初の楽しい食事の時間はどこへ行ったのだろうか。浮かれていた自分と変わりたい。

 当事者の三田さんは本当に申し訳なさそうな顔をしていた。


「……ごめんね、佐藤君……」


「え……? どうして僕に謝るの……?」


 三田さんが悪いと責めることはしないけれど、この状況で誰かに謝るべきなのだとしたら、楠さんにではないかな……。


「……勝手に佐藤君を語ってしまったし、せっかくのお昼ご飯をまずくしちゃったし……」


「……その、僕のことを語ってくれたのは、嬉しい事だし、ご飯の味は、変わらない、よね」


「……」


「でも、その、楠さんと仲良くしてくれたら、いいなーとは思う……」


 それだけで僕は楽しくご飯が食べられるよ。

 食欲が無くなってしまったのか、三田さんはお箸でミニトマトをコロコロと転がしていた。


「……佐藤君と楠さんは、友達なの……?」


 ちらりと僕を見てミニトマトに目を戻す。


「うん。友達だよ」


 ミニトマトが隅へ追いやられた。動きの止まるミニトマトとお箸。僕の手元まっていることに気づいた。


「楠さん、今佐藤君の事嫌いだって……」


「えっと……」


 一学期に言っていた。「みんな大嫌いだけど佐藤君は嫌い」。相対的に見れば一番好かれているという事なのだろうけれど、嫌われていると言えば嫌われているしどう説明していいものか分からない。正直に言うわけにもいかないし、黙り込んでみた。それは三田さんにどう捉えられたのか三田さんはさらに勘違いを続ける。


「佐藤君は、一学期の件でいじめられているんでしょ……?」


「それは無いよ。僕はいじめられてなんかいないよ?」


「でも……私、聞いちゃったんだ」


 全くいい予感がしないけれど、聞いてみた。


「何を……?」


「……楠さんが、佐藤君に無理やりキスをしたって……」


「…………えええええええええ?!」


 予想をはるかに超えたものを聞かれていた!

 僕は慌てて辺りを見渡した。雛ちゃんや前橋さん他数名が僕らの方を向いているけれどそれは僕の大声に驚き視線を送っているだけのようだ。今の話は誰にも聞かれていない。

 僕は声を潜めて三田さんに事情を聞いてみた。


「どこで、き、聞いたの? 楠さんから……?」


「……少し前、調理実習室で二人が話しているのを聞いたんだ……」


 あ! 確かに話してた! うかつだったとしか言いようがない! 僕が話しはじめた話題ではないけれど!


「そ、そ、その、ですね、いや、あれは、えっと」


 慌てる僕に三田さんが憐みのこもった声で言う。


「……佐藤君。私には何となく分かってるから」


「え、え?」


 何がだろう。何をだろう。なんにせよ、勘違いのような気がする。


「嫌がらせを受けているんでしょ……?」


「え?! ……えーっと?」


 キスをされることは嫌がらせになるのかな。本気ではないから、そうなのかもしれない。


「からかっているんだよね……? 楠さん美人だし、そんな人から突然キスされたら、慌てちゃうよね。きっとそれを見て、楽しんでいたんだよね……?」


「その……」


 どうなのだろう。楠さんは挨拶だと言っていたけれど、三田さんの言う目的もあったのかもしれない。それは楠さん本人にしか分からない。だからここでそれを認めるわけにはいかない。その答えを伝えるのは楠さんなのだから。


「僕にはよく分からない」


「……私は本当に酷いと思う。そんなからかい方普通じゃないよ。いくら佐藤君のことが嫌いだからって、心を弄ぶような行為は絶対にいけない事だと思う……。それを平気でやってしまう楠さんを私は許せない」


 少しだけ、怒りがにじみ出ている。


「み、三田さん。その、もしその、き、キスが、からかっていたのだとしても、その、僕は別に酷い事だとは思わないから」


 むしろ嬉しいし。変態と言われても仕方がないけれど、自分の心に嘘をつくことはできない。


「佐藤君は優しいから……。私は、楠さんのしたこと酷い下劣な行為だと思う。性格も真っ黒……。佐藤君の代わりに私が怒るから……」


 眉の傾きから察するに、どうやら怒っているようだ。大人しい三田さんが怒る姿を初めて見た。


「み、三田さん。僕は本当に怒っていないから代わりに怒る必要なんて全くないんだよ? 仲良くしてくれるのが一番うれしいな」


「佐藤君は、優しいから」


 僕の話を聞いてくれない三田さん。違うよ。僕はそんなに優しい人間じゃない。


「私は佐藤君の味方だから……」


 そう言って、三田さんがお箸を握る僕の手に自分の手を重ねた。


「えっ……」


 突然の行動に僕は焦ってしまったけれど、慌てて平常心を保つ。僕のためを思ってしていることなのだから、慌てて訳の分からないことを言ってはいけないからね。


「ありがとう三田さん。でも、僕は本当に大丈夫だから」


「……私には、正直に何でも言っていいから……。クラスのみんなに酷い事をされて悲しくなっても、楠さんにからかわれて傷ついても、私は佐藤君の側にいるから。私は離れて行かないから……」


「……うん。ありがとう……」


 勘違いから生まれたこの厚意を、僕はどう幸せな方向へ持って行けばいいのだろう。

 僕が怒っているという誤解を解くことも出来ないようだし、楠さんのしたことの意味を僕は説明することも出来ない。

 時間をかけて考えればきっと何かいいアイデアが生まれるはず。

 だから今はこの諸問題を先送りにしておこう。

 僕らには時間がまだ残されているのだから。

 ゆっくり確実に説明していけば、分かってくれるよね。





 などとのんきに構えていた僕。

 誤解は早目に解かなければならないと知るのは今日の集まりが終るころだった……。






 文化祭準備午後の部が始まりみんながそれぞれの仕事を始めた。

 午後から参加の人もやってきて人数の増減はそれほどなさそうだ。減ると思っていたけれどそうならなくてよかった。

 飾り付けを片付けたり、おはぎの作り方を人に説明したり、和服の丈を直したり。

 各々できる事をしている。自分で見つけてやっている。

 僕もできる事をしなくちゃ。

 何をすればいいのか分からなくっても何か見つけなくちゃ。それが僕の責任だ。

 でもその前に。


「佐藤くーん。しゅうごーう」


「え?」


「ちょーっといいかなぁ? 佐藤君?」


 楠さんに集合をかけられた。何か委員長の仕事があるのかな。

 僕は集合しようとしたけれど、


「おい若菜」


 楠さんのそばにいた雛ちゃんがその集合に待ったをかける。


「優大をどこへ連れて行くつもりだよ」


 怒った顔の雛ちゃんは、まるで誘拐を阻止しようとしている人のようだ。


「ちょっと私の役に立ってもらおうと思ってね。大丈夫。とって食べたりしないから」


「どうだかな。お前には前科があるからな」


 前科とは、どれの事だろう。申し訳ない事に心当たりがたくさんある。もちろん、嫌じゃないよ。


「前科なんてないよ。私ほど心の白い人間はいないよ。漂白剤につけたYシャツより白いよ。何故なら染髪していないから」


「髪染めてる私は心の黒い人間だって言いたいのか? 私は白いに決まってんだろうブッ飛ばすぞ」


「ほら黒い。清廉潔白の人はブッ飛ばすだなんて言わないよ」


「……プチ飛ばすぞ」


「可愛く言い換えてまで殴りたいんだね。大丈夫だって。本当に何もしないから。有野さん。有野さんの心が白いならむやみやたらと人を疑ったりなんてしないんじゃないかな?」


「なら真っ黒でいいわ。大体お前は――」


「有野ー。いいから服の仕上げしようぜ」


 男子の裾を持ち上げながら小嶋君が言った。仕事を投げ出すのはよくないよね。


「……でも」


 小嶋君を見て、楠さんに視線を戻す。言い足りないようだ。

 小嶋君はそんな雛ちゃんに諭すように言った。


「お前は裁縫係のリーダーだろ。友達の心配よりも今は文化祭成功の為に自分の仕事を責任もってこなそうぜ」


「……」


 怒鳴ることなく、ムッとしている。僕も雛ちゃんを安心させるために側に寄った。そもそも何の心配もいらないんだから。


「雛ちゃん。楠さんは何も酷いことしないよ?」


「……でも、さっきの若菜の呼び方は確実に裏のある呼び方だったじゃねえか」


 疑うのはよくないけれど正直僕もそう思ってしまった。何か怒られてしまう前兆のようなものを感じたんだ。でも、


「大丈夫だよ。友達を信じなくちゃ」


 僕が一晩考えて決めたこと。

 誰に対しても言える当たり前のことだ。


「……」


「有野ー。佐藤もそう言ってることだし、今は服を作ろうぜ。せっかくみんな着てくれてんだし、勝手なことすんなよ」


「…………ちっ。分かったよ……」


 ムッとした表情のまま雛ちゃんが小嶋君と一緒に裾上げを始めた。

 これでいいんだよね。


「じゃあ佐藤君、行こうか」


「うん」


 何の用事か分からないけれど、僕は楠さんに連れられ教室を出た。

 が、


「え?」


 教室を出る直前に、誰かに手を掴まれ引き留められた。

 すでに廊下を歩いている楠さんと距離が開いてしまう。誰に掴まれたのか分からないけれど先に楠さんを引き止めよう。


「あ、く、楠さん、ちょっと待って」


「何?」


 若干イラッとした様子で振り返る。

 止まってくれたので、僕は僕の右手をつかんでいる人の正体を確認することにした。


「三田さん?」


 僕よりも小さな手で僕の右手を握りしめている三田さん。


「どうしたの……?」


 何か僕に用事があるのかもしれない。しかし一向に話しはじめようとしない。

 楠さんも教室まで戻ってきて何が起きているのか事態を把握した。


「……今度は三田さん? どうしたの? 佐藤君に言いたいことでも?」


「……」


 三田さんが僕の手を掴んだまま廊下へ出てきて、ゆっくりと扉を閉めた。


「……楠さん、佐藤君をいじめるんですよね……?」


 三田さんと僕の右手は繋がれたまま。柔らかい手の感触にムズムズしながら事態を見極める。


「いじめないから。ただちょっと委員長の仕事があってね。借りていくだけだよ」


「なら、私も手伝います」


「ゴメンね、委員長にしか頼めない仕事なんだ」


「……じゃあなんで有野さんは……」


「……ごめんね、『佐藤君』にしか頼めない仕事なんだ。これで満足?」


「……私もついていきます。邪魔は、しないので……」


「……はぁ。佐藤君何とか言ってあげて」


 えっ。


「えーっと、三田さん、本当に僕何もされなから安心だよ」


「佐藤君は、一学期のことを盾に取られているんでしょ……? だから従わざるを得ないんでしょ?」


「……」


 意見を聞き入れない三田さんを見て楠さんが僕に耳打ちする。


「この子相当思い込みが激しい子だね。かなり厄介な部類に入るんじゃないかな」


 確かに、思い込みが激しいかもしれない。なんだか僕の周りには思い込みの激しい人が多く集まっているような気がするなぁ。


「な、何してるんですかっ……」


 三田さんが僕から手を話し僕と楠さんの間に割って入り楠さんの前に立ちはだかった。


「ま、まさか耳を、噛みちぎろうとするなんて……!」


「「…………してないしてない」」


 この思い込みのせいで敬語の壁を作っているのか……。やっぱり誤解を解かなくてはいけないね。


「三田さん? その、えっと、僕が何を言っても無駄なのかもしれないけど、本当に楠さんから酷い事されていないからね? 色々あったけど、僕らはもう仲直りしているんだ」


「……でも楠さんは、佐藤君に対してだけ普段の態度が酷いよね……?」


「……えっと、それは……」


 どうしたものか。詳しく言うことが出来ないので……。

 その悩みを解決してくれた楠さん。


「……三田さん。実はね、これが私の本当の性格なの」


 楠さんが、教室の中に聞こえないくらいの小声でばらした。

 演じていた八方美人をする必要がなくなったというのかな。それは、なんだか悲しい気がする。こんな気持ちを抱く自分に対して意味が分からないけれど、とにかくその楠さんを止めるというのはなんだか嫌な感じがする。


「佐藤君や有野さんに対してとる態度が本来の私。実はみんなに見せているのは偽りの姿なの」


「……嘘です」


 それも信じようとしない。


「嘘じゃないよ。本当。佐藤君は友達だから本当の姿を見せてるの。仲良しでしょ? だから安心して」


「……ならみんなにその姿を見せていないという事は、みんなのことは友達だと思っていないんですか?」


「そうだね。思ってないよ。三田さんのこともね」


 そこまで言っちゃうんだ!

 な、なんだかとっても大変なことになっているね?! 多分これは僕の予想以上に大変な事なんだと思うよ!


「……嘘です。絶対にそれは嘘です」


 信じてくれなくて、よかったと僕は思っている。楠さんの秘密をばらしたくないと思っているのは僕もみたいだ。何故だろう。


「わぁああー。佐藤君、これは何を言っても無駄だ」


 そんなこと言わずに、話し合おう。話し合えば絶対に分かり合えるんだから。でも、出来れば秘密は守ったままね。


「……佐藤君。突然だけど手相占いをしてあげる。左手を出して」


「え? うん?」


 いきなりどうしたんだろう。僕の手相がそんなに気になったのかな?

 僕の前にいた三田さんを回り込むように動いて楠さんに左手を差し出す。


「うーん。女難の相が出ているね……」


「僕に女難の相? まっさかー。そんなマンガみたいなことないよー」


「ないよー、じゃなくてあるよー、なの。え?! あれなに?!」


 突然、本当に突然楠さんが廊下の奥の方を指さした。


「え?」


「え……?」


 驚き訳も分からず僕と三田さんはその方向を見た。が、次の瞬間僕は首を痛めるほどに急加速をしていた。

 楠さんが僕の左手を握り走り出したのだ。


「……何も……、……あっ、佐藤君……!」


 置いてけぼりを喰らった三田さんが今生の別れのような雰囲気を出しながら僕らに向かって手を伸ばしていた。

 しかし楠さんの猛スピードは止まらない。ぐんぐん教室から離れて行き一切止まることなく三田さんの視界から消えて行く僕らだった。


「どうしたの楠さん!?」


 手を引かれ階段を駆け上りながら聞いてみた。


「見てわかるでしょ。逃げてるの。あれは埒が明かないよ。予想以上に信用されていないね私は。悲しいというよりムカつくよ。本当にムカつくよ」


 大変だ。ものすごく怒っているよ。何とかなだめなくては。

 でもその前に息を整えさせてください!

 僕の体力のなさは引くようなレベルなのだから……!





「はぁ、はぁ、はぁ、っ、はぁ、はぁ」


「はぁはぁ言わないでよ。何? 私に手を握られて喜んじゃったの?」


「……はぁ、はぁ」


「屋上に連れてきて何をするつもりなんだか……」


「そ、それは、こっちの、セリフ……」


 というわけで、僕らは屋上へやってきた。どうやら用事があるというのは口実だったらしく、何か話があるみたいだ。


「その、それで、楠さん……。いったい、何のお話が……?」


 息を整え、フェンスに寄りかかる楠さんに聞いた。


「三田さんの事だよ。なんで私を嫌っているのか気になってね。佐藤君に事情聴取をしようと思ったんだ。でももういいや」


「え? どうして?」


「あれだけ私のことを嫌っているのならもう仲良くできないや。無理だね。あっはっは」


「そ、そんなことは無いよ。三田さんはただ勘違いしているだけだから、話して説明すればきっと仲良くなれるよ」


「仲良くなれるかな? 本当に?」


「うん。絶対だよ」


 楠さんが体を伸ばし握りこぶしを握り笑顔を作った。


「そっか……。じゃあ、がんばろっかな! 皆と仲良くしたいしね! 私三田さんと親友になって見せるよっ!」


 前向きだね! と思ったのも束の間握った拳を解いてゴミでも見るかのような目で僕を見て手をふらふらと揺らした。


「なんて言う人間だとでも思ってるの? 私は善人じゃないよ? 心白くないよ? 君の頭はピンク色だけど。変態だねほんと」


「どうしても僕を貶したいんだね……」


 別にいいんだけど。

 ふらふらさせていた手を後ろに回し手を組んだ楠さん。再びフェンスに寄りかかり僕に聞いてきた。


「桃色頭な佐藤君に聞きたいんだけどさ、どうすれば三田さんに好かれることが出来るの? 君はどうやってその信頼を勝ち得たの? いや、でも君の言うこともまるで信じていなかったし信頼されていると言っていいものかどうか悩むところだね。でも信頼されているかどうかはまあ置いとくとしてどうやってそこまで好かれるようになったの?」


「え、僕好かれてるかな……?」


 声には出していないけれど、「はぁあ?」と眉と口の形で言う。


「……いやいや、なに? なんなの君? 明らかに好かれているよね。どこからどう見ても好かれているよね。それ以外に言いようがないよね。『君は間違いなく好かれているよ』って改めて私に言って欲しいの? 『あぁ、僕が悪いんだ……』『そんなことない。君は悪くないよっ』みたいなことがしたいの? 人に確認作業をさせたいの?」


「そ、そんなことは無いよ」


「あっそ。なら当然のことを聞かないでくれるかな。ものすごく不快だから」


「すみません……。えっと、その、僕がどうやって好かれたか、だよね……」


 ……本当に僕は好かれているのだろうか? やっぱりそこが疑問だ。……でも、少なくとも楠さんから見れば僕は好かれているようだし、何かアドバイスできることは確かだ。


「……えーっと………………………………………………」


 ……。

 ……。

 どうしよう。

 本当に何も思いつかない。

 命の危機を救ったとか、雨にうたれていた子猫を助けたとか、特別親切にしてあげたとか一切ない。僕と楠さんの差は一体何なのだろう。

 ハイスペックな楠さんとロースペックな僕とを比べた時、僕に何か上回っているところがあるのかな。無いよね。どう考えても。


「……あの、楠さん。僕分からない……」


 怒られませんように。


「ふーん」


 怒られなかった。

 僕は安心して続けて言った。


「僕にはいいところないし、楠さんに悪いところがあるとは思えない。そもそも、友達ってそういうところを見て仲良くなるわけじゃないのかも。長所とか短所とか、そんなのを超越した関係なんじゃないかな。気が合うって言えばいいのかな、よく分からないけど、きっとそういうことだと思う。だから、たまたまとしか、言えない……」


 それ以外に考えようがないよ。僕には魅力が無いのだから。


「それならまあ、仕方がないと諦めるしかないか。確かに私も無性に腹が立つ相手とかいるもん。佐藤君とか、佐藤君とか、佐藤君とか。波長が合わないんじゃあどうしようもないね。そこまでして仲良くすることもないし、三田さんには嫌われたまま生きて行こう」


「……仲良く、出来ないのかなぁ……」


 妬みや嫉みのせいで全員から好かれることが出来ていない楠さんだけれども、三田さんとは仲良くできると思うんだ。

 ……何となくだけど。


「出来ないよ。もし仲良くさせたいんだったら三田さんに言ってね。喧嘩を売ってきたのは三田さんの方なんだから」


「……うん……」


 確かに、そうだった。

 カシャンとフェンスに頭をつけて空を仰いだ。


「あーあ。なんだか最近うまく行かないなー。嫌な記憶が蘇っちゃうよ」


「嫌な記憶? 何か昔あったの?」


「当たり前でしょう。私みたいなクズに何もないわけないじゃない。結構壮絶な人生を歩んでいるんだよ。まさか心臓を撃ち抜かれるとは思わなかった」


「……何の話?」


 銃撃戦?


「もちろん善と偽善の話だよ。それ以外にある?」


 これはあれだね。いつものように突然話を変えたんだね。もうそろそろ驚かずに対応すべきだよね。


「善と偽善の違いは何?」


 首をかしげながらグリンと視線を僕に向けてきた。少し怖い。


「それは、簡単だよ。心の底からするのが善で、上辺だけなのが偽善だよね?」


「心の底からって何? 自分の命を賭してまですることが善なの? 誰がそんなことするの?」


「……誰も、そんなことしてない、ね……。たまに命を捨ててまで何かを守るとか聞くけど、大抵の人は自分の命が大切だからね。というか、そもそも命を懸けるような場面って早々ないよね?」


「いーや、善は最終的に自分の命を懸けることになるんだよ。よく知らないけど」


 ……少し考えてみたけどそんなことも無いよね。

 楠さんが姿勢をただし二歩僕に近づいてきた。僕との距離はあともう二歩。


「まあいいよ。私が聞きたいのはその両者にはいったいどんな差があるのかなっていう事。例えばね? 佐藤君が困っていたとして、善意で助けたとするでしょ? それは、佐藤君嬉しいよね」


「うん」


「じゃあ、偽善で助けられたらどう? 嬉しくない?」


「えーっと、助けてくれたんだから嬉しいよ」


「なら、偽善でもいいよね? なんで偽善が悪いみたいな風潮になっているの?」


「よく、分からないけど、偽善っていうのは助けたからお金を払えとか言っちゃうことなんじゃないかな」


「でもさ、自己満足で助けた時も偽善って言われるでしょ? 偽善者ぶってるって言われちゃうでしょ? 悪いの?」


「それは……」


 確かに言われちゃうかも。


「そもそも自己満かどうかなんてのは本人にしか分からないわけで、なんで第三者が自己満足の偽善だって叩けちゃうの? 何も知らないじゃない」


「……叩かれるっていう事はみんなに自分のした善を知らせているってことだよね。知らなくちゃ叩けないし。それはつまり『僕は昨日人を助けたんだ』って、みんなに自慢しているっていう事だよね? 善百パーセントなら自慢することは無いだろうし、自慢するっていう事は、褒められたいからやったと思われても仕方がないんじゃないかな」


「それは悪い事なの? いい事をしたんだから、誰かに褒めてもらいたいでしょ? 昨日一万円募金しちゃった。すごい事じゃない。褒めるよ。私は褒めるよ」


「何の募金かも分からずに、褒められたいがためにやるっていうのが間違っているんじゃないかな。誰のための善なのか。相手の為なのか、自分の為なのか。そこが善と偽善の分かれ目なのかも」


「でも、悪い事じゃないでしょ? 実際一万円募金しているんだから。何に募金したかは知らなくても一万円も募金したんだから褒めようよ」


「……うん」


「なんで責められなくちゃいけないのかって。この偽善者が? 偽善がまるで罪のように扱われているのは納得できない。偽善の定義が広すぎるんじゃない?」


「その、善があるという事はそこには人の不幸があるわけで、その人の不幸を自分の為に使っているから褒められないんじゃないかな。それが、偽善、なのかな」


「褒められないだけならまだいいよ。でも責めるでしょ? 叩くでしょ? 悪い事していないのに。もし仮に褒められるためにしているのだとしても一応『偽善』という『善』を形にしているのだから責められるほどの事じゃあ無いよね?」


「……うん……」


 そうだね。でも、見ている方とすれば気分の良い事ではないよね。


「じゃあさ、たとえばこういうのはどう? 偽善的な行為をして、黙っている」


「それは、自分にとって何かプラスになるの? ならないなら、それは善のような気がするよ?」


「いつか自分のしたことが勝手に広まるだろうという長期的な考え。そっちの方がみんなから褒められるでしょ? あいつは知らないところでこんないいことをしていたんだ、優しい奴だな、って褒められたいがために行う偽善。それは善と何か違いがあるの? いや、人から見て違いを見つけることが出来るの?って言おうか」


「それは、変わらない、ね。それを判断するのは本人しかできないね」


「じゃあさ。偽善的な行為をして、褒められたいがために周りのみんなに言いふらしているかどうかも、本人しか分からないんじゃないの?」


「えっと……?」


 どういう意味なのかちょっと分からなかった。


「言いふらしているんじゃなくてただ単に世間話をしているだけかもしれないでしょ?」


 あぁ、なるほど。


「褒められたいから周りに報告しているんじゃなくてただ単に何も考えずに口に出しただけかもしれないでしょ? それなのに言ったら偽善だって言われちゃう。本人にしか分からないのにね? 世間話をしたことによって、善が偽善になっちゃう。これはおかしくない?」


「確かにそうだね。そう簡単に『偽善者だ!』って貶すことはいけない事なんだね。……あ、でもよく考えたら僕『偽善者!』って人に言った事ないや。言っている人も見たことないかも」


「パソコンでよく見かけるけどね」


「見かけるけど、でもそれも本気で責めているのかどうかも本人しか分からないから、それを鵜呑みにして攻撃するのも……どうかなって思うよ。少しだけ屁理屈っぽいけど」


 ネットに書き込まれていることをそのまま信じるのはいい事ではない。吟味して自分で考える必要があるんだ。


「君の癖にまともな事言うね」


「えっと、褒められたのなら嬉しいけど、褒められたの?」


「褒めたよ。確かに偽善者を責めている人も本気で言っているのかどうか分からないもんね。偽善かどうかも分からないし、本心で責めているのかもわからない。なんて素敵な人間不信。誰も信じられない世の中だねまったく」


「なんだかそう言っちゃったら、元も子もないね」


 誰一人として信用できなくなってしまう。


「ここは元も子もない世界なんだよ。まあ、佐藤君なんかを褒めてみたものの、さっきの答えは論点がずれている答えなんだけどね。私は偽善の何が悪いかを聞いていたんだよね」


 いつの間にか論点がずれることはよくなるよね。不思議だ。

 それより偽善についてだったね。


「僕は、悪くないと思うよ。誰も不幸にしないのならね。誰かを突き落すような偽善は、もうむしろ善でもなんでもないけど、相手に何かを与えて、更に自分が得をするだけの偽善ならそれは善と言ってもいいと思う」


「そっか。そうだよね。悪くないよね。偽善って、悪くないよね」


 楠さんの顔が少しだけ明るくなった。


「うん。僕はそう思うよ。偽善でもやろうと思うことは凄い事だと思う。僕にしてみれば、善も偽善もかわらないよ。かわらないというか、わからないだけだけど……」


 僕には善と偽善の判断がつかないから。僕の目には悪い人か良い人かしか見えないんだ。性能の低い目だね。


「なら、私が自分の為にしている偽善も悪い事じゃないよね。周りにいい人だって思われたいからしている優等生ごっこ。これは別に、悪い事じゃないよね」


 全然悪い事じゃない。そんなことで心配になってしまうのは無駄なことだよ。


「楠さんは完全に良い人だよ。誰も偽善者だなんて思ってないよ」


「……ふふ。君の方がよっぽど善人だね」


 ぐっと体を前に倒して笑顔を見せてくれた。


「え、そうかな……」


「そうだよ」


 善とか、偽善とか、この笑顔を見ればどうでもよくなってくる。だって、可愛ければ何をしてもオッケーだって主人公が言っていたんだもん。

 しかし、体を起こし目を瞑り笑顔をしまい、僕に背中を向けてしまった。もうちょっと笑顔を見ていたかったな。

 顔の見えない楠さんが話しはじめる。顔をこちらに向けていないせいか、少しだけ暗い声に聞こえた。


「……でさ、実はここからが本題なんだけど」


 え、もう結論が出たのかと思ってた。


「……百パーセントの善意だったのに、それなのに信用していた人から『偽善者だ!』って責められた場合は、どうすればいいんだろうね。死ねばよかったのかな」


「……そんなこと言う人がいるの?」


 酷すぎる。考えられない。


「残念ながら、いるんだよね、この世には。この世界はクズばっか。どうやっても誰も救われない世界なんだよね、きっと」


「そんなことは、ないよ。少なくとも僕は救われているよ。楠さんたちがいてくれるおかげで生きていけると言っても過言じゃないよ」


「そうなんだ。私は君を救っているんだね」


「うん。友達でいてくれてありがとう。だからね、楠さん。そんなひどいことを言う人は、どこの誰なの? 僕、許せないよ。友達にそんなことを言うなんて、絶対に許せないよ」


 当たり前のことだけど、友達を守るのは友達しかいないんだ。


「……ありがとう佐藤君。でも別に私が言われただなんて一言も言ってないよ」


「え、違うの?」


「違うとも言ってないけどね。とりあえず、どちらにせよ君に教えることは無いよ。今求めているのは質問の答えだけ。可愛い女の子が善意で友達を助けたのに、その相手にとってそれは偽善でしかなく、可愛い女の子は助けた相手に『傷つけられた』と責められた。こういう時どうすればいいのかな? 佐藤君はこの問題の答え、出してくれるかな?」


 簡単だ。考えるまでも無いよ。


「そういう時は、僕に言って。何ができるというわけじゃないけど、僕に言って。どんくさくて頭の悪い僕だけど、僕がなんとかしてみせるから。絶対に、なんとかしてみせるから」


「……そっか。君は、偽善者だね」


「うん。僕は偽善者だよ」


 それでも、僕は友達に何かをしてあげたいと思ったんだ。自己満足なのか自己顕示欲なのかよく分からないけれど、僕は善を押し付けるよ。たとえ嫌がられても。

 楠さんが、空を見上げた。


「まぁ、別に私の事だとは一っ言も言ってないんだけどね!」


 でも、違うとも言っていないよ。


「…………もどろっか」


「うん」


 楠さんは僕に顔を見せることなく屋上の扉へ向かった。

 僕はその少し後ろを追いかけた。





 寄り道をすることなく、僕らは教室に戻ってきた。

 もう準備がほとんど終わっていると言っても、責任者がいなければどうすればいいのか分からないからね。沼田君も部活へ行っているし、雛ちゃん一人に押し付けるのはよくないよね。

 だから、真っ直ぐ戻ってきた。

 教室の前の扉に立つ僕ら。お互いの顔はまだ見ていない。見る必要が無い。

 ……うん。

 楠さんが教室の扉に手をかけた。

 楠さんが先に入り、僕もすぐに続く。

 僕が一歩教室に足を踏み入れた時、教室のおかしな空気が僕の胸を締め付けた。

 突然不安に襲われる。

 なんだろう。

 楠さんもそれを感じ取ったようで足が止まっていた。

 僕らは二人、ドアのすぐそばに立ち尽くす。

 同じような状況が一学期にもあったけれどその時とはまた違う空気だ。


「……優大……?」


 雛ちゃんが僕の方を見て呆然と呟いた。


「……一体、何が起きているの?」


 楠さんが教室全体に問う。

 誰一人として返さない。

 それどころか、全員が僕らを、いや、僕を驚きの目で見ていた。


「……一体、何が……」


 楠さんがもう一度問う。

 それに、やっと答えが返ってきた。


「私たちは、ただ祝福しているだけですよ?」


 銀色の髪を持つメガネをかけた女子、前橋さんが教室中央からにっこり笑顔で僕の方を見て言った。


「おめでたい事ですねっ!」


 おめでたい事?


「そ、そ、その!」


 教卓には三田さんが立っていて、その三田さんが顔を真っ赤にして僕の方を見ていた。


「? どうしたの?」


 もしかして、何かみんなに辱めを?

 いや、何も知らない内にクラスメイトを疑うのはよくないことだって何度も反省したではないか。まったく、僕の頭は悪いなぁ。

 ……でも、だとしたらどうして三田さんは恥ずかしそうに顔を赤くしているのだろう。


「わ、わ、わ私達は……」


 私達? 誰の事?


「わ、私と、ささ佐藤君は……!」


 僕と三田さん? 僕と三田さんが、一体なんだろう?






「……そのっあのっ…………つつつ付き合ってるんだもんね!?」





「「……………………え?」」


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