キョーハク少女
七月十三日。
今日テストが終わった。
僕の人生も終わった。
七夕から――あの日から、雛ちゃんと一言も話していない。休日一緒に勉強しようと約束していたけれど、当然その予定は無くなってしまい僕は一人悶々としながら勉強をすることになった。
あの一件からクラスメイトの視線はそれまでより六割増しで冷たい。話しかけてくれるのは楠さんと小嶋君だけだ。
楠さんはいつも通り僕に厳しく接してくれる。それが今はありがたい。小嶋君はどうやら國人君と同じ道を歩んでしまっているようでほぼ毎日徹夜で僕の持ってきたアニメを見ているらしい。だから、多分今回のテストは悲惨なものになっていることだろう。ごめんね小嶋君。
でも僕も人の心配をしている場合ではない。
雛ちゃんを怒らせてしまっていることやクラスメイトの冷たい視線が気になってしまって勉強どころではなかった。恐らく僕のテストも悲惨なものになっているだろう。織姫星か彦星どちらかが地球に落ちてきてテストも人間関係も全てリセットしてくれないかなと本気で空を見上げることが増えてきた今日この頃。
親友を失ってしまったしテストも散々だった僕はもうどうしようもない位に憔悴していた。夏休みが待ち遠しい。色んな意味で待ち遠しい。人間関係をすべてシャットアウトして勉強に勤しもう。そうすれば自我が保てる……。
テストが終わり、みんながすっきりした表情で教室を出て行く中、僕は一人教室の隅で溜息をついていた。誰も僕に気づいていない。誰も気にしていない。今まで以上に僕が空気に徹しているからか。冷たい目で見られるのはもう嫌だ。
ちらりと雛ちゃんを見てみる。
あの日からずっと不機嫌だ。なぜかあの日からずっと機嫌のいい前橋さんを引きつれてさっさと教室を出て行くところだった。
うう……。謝りたいのに、何も聞いてくれない……。
悲しくなってがっくりとうなだれた。
こんなことなら、一人の方が良かった……。
「さ、佐藤……」
「え? わっ」
うなだれていたところに、死にそうな顔をした小嶋君がやってきた。
「見たぜ……、全話……」
「ぜ、全話って、昨日貸したのは五十話以上あるギャンダムだよ?! 一日で見る物じゃないよ!」
「だって……おもしれえんだもん……。な、なあ、次は、何を貸してくれるんだ……?」
まるでジャンキーだ。これは一度アニメ断ちをさせた方がいいのかもしれない……。でもそれをするならテスト週間中にすればよかった。テストが終わった今それをしても仕方がないか……。
仕方がないので僕は持ってきたDVDを取り出し渡した。
「さんきゅう……。明日返す……!」
「出来れば、一週間後くらいに返してほしいよ」
「これからもっと見て行かなきゃならねえのに一週間もかけていられるか……! ぐ、ぐふふ……夏休みが楽しみだぜ……!」
夏休みに勉強はしないらしい。これは、本当に、ごめんなさいとしか言えないよ……。
ふらふらした足取りで教室を出て行く小嶋君。
それを見届けてまた落ち込む作業を再開する。
ふぅ……。
どうしようこれから。夏休みと言っても、文化祭の準備とかがあるから雛ちゃんと何度も顔を合わせることになるのに。この気まずいまま委員長会議なんてできないよ……。
「はぁ……」
何度溜息をついても何も解決しやしない。
どうしよう。
「景気の悪い顔してるね」
また誰かが話しかけてきてくれた。でもすぐに分かる。この綺麗な声は楠さんだ。
顔を上げて確認する。
やっぱりそこには綺麗で眩しい楠さんの顔があった。
「テストの出来が悪かったの?」
「うん……。まあ、とっても悪かったけれど……」
「落ち込むことないよ。君はもともと勉強出来る子じゃなかったんでしょ? いつも通りだから気にしなくていいよ」
「それは、そうだけど……」
また俯く。
落ち込んでいる理由はテストだけじゃないからね……。
「そんなことより、ねえ佐藤君」
「え?」
「終わったことより、今からのことを考えよう」
「今からの事って、いったい何?」
楠さんが僕の前の椅子に座った。わざわざ僕と向かい合うように百八十度椅子を回して座ってくれる。そして僕の机の上で、両肘で頬杖をつき嫌味も何もない純粋すぎる笑顔を作った。ちょっと綺麗すぎる顔が近くて、僕は思わず後ろに体をそらして距離をとった。
「私さ、実は一週間前の例の一件について何かお礼をしたいと思ってたんだ。でもテスト期間中だから迷惑かなって思って今まで何も言わなかったけど、やっと終わった」
「お、お礼なんて、いいよ。僕のしたいことをしただけだから……」
「でも佐藤君今大変でしょう? 少し位良い目を見たって罰は当たらないよ。それに、お礼をさせてくれなかったら私がすっきりしないから」
そう言ってふふと笑う。
この近距離で楠さんと向かい合うことに耐えられそうもないので、僕は座り直すふりをして椅子を後ろに引いた。
「ねえ」
うっ。もしかして距離をとったのがばれたのかな。そうだよね。距離をとるのなんて失礼だよね……。
なんてことを前にも思ったなぁ。
「お礼、させてくれない?」
この目のくらむような笑顔を前にしたら誰も断ることはできないよ。
「う、うん」
「よかった」
本当にうれしそうに笑う。いつも見ていた無表情より、やっぱり笑顔の方が可愛いよ。そんなこと言えないけど。
「それでね、お礼なんだけど――」
「うん」
おはぎでも食べさせてくれるのかな? うれしいな。
「――一つだけ、君の言うことをなんでも聞いてあげる」
「……へ?」
とんでもないことを言われた気がする。
「あ、ああ! その、聞くって、そう言うことでしょ? 『はい聞いたー。聞くだけ聞いたー』みたいな……」
「そんなわけないでしょ。一つだけ君の言うことになんでも従ってあげる、って言えば満足?」
「う……」
とんでもないことを言われていた……。
「な、なんでもって……その、たとえば……」
「なんでもいいよ。私の好感度を100にしてでもいいし、あの日みたいにキスをしてとかでもいいよ。本当に、なんでも、なーんでもしてあげる。――どんなことでも、私はやるよ」
笑顔が消え、真剣な顔の楠さんがここにいる。
「……」
なんでも、なんでも……。
こんなの、考えるまでも無いよ。
なんでも、だよ。頭に浮かぶのは一つしかない。
「楠さん……」
僕は真剣な顔の楠さんを出来るだけ真剣な顔で見つめる。
「……なにかな」
そんなことを言われたら、誰だって、こう言うお願いするはずだ。
ちょうど教室には誰もいない。
恥ずかしいことをしても誰にもばれない。
よし。
僕は、勇気を出すって、わがままに生きるって、決めたんだから。
「……あの、その……」
思わずつばを飲み込んでしまう。き、緊張する……。
「……何でも、言っていいよ」
優しく微笑んで言われた。
……たまには、自分の人生の為に生きてもいいよね。
僕は、言った。
思い切って、言ってみた。
「お願いします雛ちゃんと仲直りする手伝いをしてください!」
僕は椅子から飛び降りてみっともなく土下座をした。
こんな大きなお願いをするんだ。これくらいの誠意は見せなくちゃね。
「……は?」
僕のとんでもないお願いに驚く楠さん。
「あー、そのー、えーっと、佐藤君? なんでも、なんでもいいんだよ?」
楠さんの声に顔を上げる僕。
机から顔を覗かせて土下座をする僕を見ていた楠さん。ポカンとしている。
「え、あ、うん……。だから、その、雛ちゃんと仲直りの手伝いをしてもらいたいなって……」
「……それ、土下座までするようなこと?」
「え? あの、多分……。雛ちゃんと仲直りするには、きっと本当のことを全部しゃべらないといけないと思うから……。そうなったら楠さんに迷惑がかかるし……」
酷いよね、僕。こんなことを楠さんにさせようだなんて。最低だよ。
「……あー……っと……。色々と、覚悟を決めてきたんだけど、そんなことでいいの?」
「え? 覚悟って?」
「いや、それは当然、付き合ってくださいとか、キスしてくださいとか、それ以上のえっちなお願いに備えての準備をしてきたんだけど」
それ以上のえっちなお願い?
……。
はぁ?!
「え、ええええええ?! そ、そそそんなお願いするわけないよ! そんなことしたら楠さんに嫌われちゃうよ!」
「それ込みで覚悟を決めてきたのに、なんだか拍子抜け」
「ぼぼぼ僕はそんな相手の意思を無視してまでそんなことをしたいだなんて思わないよ!」
とんでもないことを言っていたね楠さんは! 僕の予想以上にとんでもないことを言っていたよ!
「……まあ、いいんだけど」
楠さんが呆れたように言って立ち上がり椅子を元に戻した。
「そうだよね。君はそう言う人間だったよ。とっても君らしいお願いだね、うん」
呆れているのに、どこか楽しそうだ。
「あの、その、……いいかな……?」
土下座をしたまま恐る恐る聞いてみる。
「言ったでしょ。何でもするって。あー、嫌だ嫌だ。とっても憂鬱なお願いだけど、仕方がないね。佐藤君がどうしてもっていうから、お願い聞いてあげましょ」
「う……。ごめんね……、迷惑をかけて……」
立ち上がって膝を払う。
「謝らなくていいよ。お礼だもん。これくらいはしてあげなくちゃ、佐藤君がかわいそうだ」
「ありがとう」
「お礼もいいよ。さ、善は急げ。さっそく今から仲直りしに行こうか。今日中に解決してみせるよ」
「え、そんなに、急がなくても、いいよ? 明日でも、かまわないよ?」
「何言ってるの。お願いの有効期限は今日までだから。急がなきゃ」
そう言って、笑顔で僕の手を握ってくれた。
「え、その、楠さん?! この手は?!」
「急がなきゃいけないからね。君、足遅いでしょ? 引っ張ってあげる」
「い、いやその、僕、一人で走れますから!」
「遠慮せずに」
笑顔を見せてくれたと思ったら、グイッと引っ張って急発進する。僕は慌ててカバンを掴んで引きずられないように足を動かした。
速い。本当に僕なんかとは比べ物にならないくらい速い。
運動神経抜群だ。
その上多分、今回のテストでも一番をとっちゃうのだろう。
すごいや。
僕なんかとは比べ物にならないよ。
下駄箱で靴を履いたら、また手が引っ張られた。
そのまま校門まで全力疾走だ。
正面から吹いてくる風に楠さんの髪の毛が踊る。
後ろを走る僕の顔を撫でる綺麗な黒髪。
僕に吹いてくる風は甘い匂いを伴って全身を駆け抜けていく。
強く握れば散ってしまうのではないかと思うほど柔らかい手に引っ張られ僕は走る。
不安、焦り、心配、後悔、全てを置き去りにして期待や希望に向かって全力で走る。
夏の厳しい日差しをものともせず、一心不乱に今を駆け抜ける。
流れ出す汗も今は心地よい。
しっとりと汗ばんだ手を、楠さんが握り直した。
一度振り向いて、笑顔で僕を確認してくれる。
僕も笑顔を返した。
僕は今走っている。
どうしようもないくらい青春を突っ走っている。
憧れの人に手を引かれ、僕を待ち受けている幸せな未来に向かって突き進んでいる。
親友を失いかけている僕だけど、クラスメイトから冷たい目で見られている僕だけど、一人の男の子を奈落へ続く沼へ突き落してしまった僕だけど。
この一瞬を切り取れば、間違いなく僕は世界で一番幸せだ。
ライトノベルの主人公にはなれないけれど、
ライトノベルの主人公より幸せだ。
作り物よりも、
非現実な世界よりも、
友達と過ごす現実が一番楽しいんだ。
(第一章終わり)