甘い香りを乗せた風が吹き、桜が舞い散る。
頬を撫でる風もすっかり暖かくなった。神楽玲奈は母譲りの切れ長の双眸を細めて、陽光の下、美しく舞う桜を見やる。だが、その美しさも玲奈の心を打つことはない。
この風景は――こんな風景は、嫌いだ。
それは神楽玲奈が父を失ったあの日を、思い起こさせるから。
そう、あの日、舞っていたのは桜ではなく、雪の華だったが、それを想起させる全てを玲奈は嫌っていた。
『忘れないでくださいね、玲奈』
父は寂しい微笑を浮かべて、玲奈をに呟いた。
白く、白く、透き通るような青白い肌。
頬は削げ、目は落ち窪んでいる。
かつての優しい父の面影は、見るべきもなかった。
だが、その蒼に近い色彩の双眸だけは、優しい輝きを失っていない。
父は、その双眸を枕元に座る玲奈に向けていた。
『忘れられてしまっては、あまりにも寂しいですから』
小さな微笑を浮かべ、父はそう続けた。
そして、父は雪の降る――全てが白く覆い尽された日に、いなくなった。
神楽玲奈はきっと、父が好きだったのだと思う。
だが、父が死んだとき、玲奈は、奇妙な既視感を覚えていた。
父は、死ぬだろう。
それを玲奈は知っていた。
不思議な感覚。
だから、不思議と悲しくはなかった。
涙も出てこなかった。
そんな玲奈を母の神楽千歳は厭うようになった。
それは必然。
それは運命。
当たり前のように季節は巡るように、幼い玲奈は母との関係を受け入れた。
そして春が過ぎ夏が過ぎ、秋になって、また冬が来た。
父が死んで翌年、最初の雪が窓の外に舞うのを見て、玲奈は思わず外に飛び出した。
(父に会える)
何故かそう確信していた。
はたして、玲奈は「彼」と出逢った。
父によく似た雰囲気の──だけど、まるで異なった人形と、そこで逢ったのだ。
白い雪が降る、神社の境内に。
「ハジメマシテ」
片言の日本語。
「こんにちは」
玲奈の頭から何かが消えていた。
黒檀の肌をした青年であった。よく見れば、ボロ布を身に纏っているだけのみすぼらしい格好であったが、不思議と不衛生な印象はまるで受けなかった。むしろ、その姿こそ似つかわしい、作り物めいた青年であった。
「ヒサシブリのニホンなんで、ハツオンがウマクいきませんネ」
「久しぶり?」
そこで黒檀肌の青年は、寂しい微笑を浮かべる。
「ええ、貴女のお母さんがあまりにも哀しんでいるから、少しだけ様子を見に来たんです」
「――そう」
青年が母に逢いに来たと聞いて、玲奈は不機嫌そうに短く返答した。先とは違い、あまりにも流暢な日本語が紡がれる。まるで今まで、わざと変わった発音をしていたように思えるほどであった。
「千歳に会いに来ただけじゃないですよ、玲奈。僕は、君にも逢いに来たんですから」
「私に?」
そこで玲奈は、改めて青年の瞳と目を合わした。
黒く黒く黒い。漆黒の――闇が瞳の中にあった。
まるで吸い込まれるような、瞳色。
玲奈の視線が、青年の眼に釘付けになる。
「僕の顔に何か?」
その問いにぶんぶんと首を横に振る。
青年が微笑を浮かべる。
「よかったら少し歩きませんか。この町は久し振りなので、案内してほしいんです」
玲奈は黙ったまま頷いた。人見知りする普段の玲奈からは考えられない行動だったが、自然とそうなった。
これが彼女の「彼」との「初めて」の出逢いであった。
まだ幼い少女には、青年に対する己の思慕の情が何を示すのか、理解できてなかった。
だが、少なくとも玲奈は青年に好かれたいと、そういった想いを隣を歩きながら持つようになった。
「僕はこの雪が降る冬の季節しかこの街にいられないんです」
青年の言葉に、玲奈は「ずっと雪が降ればいいのに」と呟いた。
他愛のない会話。
玲奈は青年と何を話したかも覚えていない。
そして夕暮れ刻。
青年は玲奈と手を繋いで、神社の境内に戻ってきた。
「さて、そろそろ行かないと」
彼は寂しい微笑を浮かべた。
そして――
「忘れないでくださいね、玲奈」
その声を聞いた瞬間、不意に記憶がぶれる。春になれば全て消える雪のように、積み重ねることの出来ない記憶。初めての言葉なのに、初めてじゃない言葉。
「一緒に行く」
玲奈の唇から零れた言葉に、青年は微かに目を見開いた。
直感。
おそらく、この青年と別れたら、きっと会いに来てくれない。
いや、近くでいつも見守ってくれる。
だけど、決して逢ってくれない。
そんな響きが、青年の言葉の底にあった。
「小さくても女性ですね」
微苦笑。
だが、それすらも玲奈には拒絶のように思えた。
自然と涙が頬を滑り落ちる。
悲しみ。
父を失っても流れなかった、涙。
そんな玲奈に、青年は表情を曇らせる。
「僕と一緒に行くということは、全てを捨てるということです。家族も友人も、今まで貴女が過ごした時間の全てを捨てるということです」
「みんな、いらない。だから連れて行って」
「………………………………」
沈黙。
幾許かの時が流れる。
「困ったな」
青年は慈しむような、愛しむような声音で。
「玲奈のこと、嫌いなの?」
「いいえ、我が愛しき娘。僕は、僕の全ての存在を以って、貴女を愛していますよ。だからこそ――同じ時間は生きられないんです、玲奈」
「私も……! 私も好きだよ!」
確かな胸の痛み。青年の愛の囁きは、別れの言葉。
「ありがとう」
不意に風が吹く。
境内に、雪の華が舞う。
花吹雪のように、儚く。
花吹雪のように、美しく。
そして、季節は巡る。
冬が終わり、春の訪れ。
雪は溶け、消えうせる。
決して積み重ならない雪。
そんな雪のように、その出来事は玲奈の記憶から、時間と共に失われていく。
曖昧な記憶。
曖昧な忘却。
曖昧な思慕。
それは本当の出来事だったのだろうか?
だが。
数年後。
玲奈は、永遠に溶け失せる事なき、思慕の情を得る事になる。
神楽一族を庇護する存在――〈漆黒〉。
それが黒檀肌の青年の手掛かり。
「彼」に再び出逢うために。
「彼」に愛の告白をするために。
待つしかできなかった少女は、相手を追いかける乙女に成長した。
神楽玲奈、18歳の春。
雪解けを待たずして、単身渡仏を敢行するのだが、それはまた別の機会に語ろう。
Fin
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