3、奏でられる唄
森は旋律を奏で、鳥が詩を唄う。緑が奏でる音楽は、まっさらな青空のしたで輝きながら響いていく。風が眠気を誘い、青く茂る草が遊ぼうと耳元で囁く。自然が一体となり、一つの物語を語っているようだった。そのあまりの気持ちよさに、丈夫そうな幹に寄りかかっていた皐氣は目を瞑りそうになってしまった。鼻先を優雅に舞う蝶を見ながら、お茶でも飲みたいと思っていた。だがそういうわけにも行かない事を、彼は忘れていた。
「なぁんで、俺こんなところに来たんだっけ?……てか、ここどこ?」
少しだけ覚醒してきた頭の中に、栄井の言葉が薄っすらとよみがえる。
―――会うんだ、……とアリィに―――
しっかり覚えたつもりだったのに、大切な言葉を薄っすらとしか思い出せなかった。誰に会えばいいのか、しっかり覚えておかないと思って、印象に残った名前だけは覚えているようだ。だが、これだけでは何の手がかりにもならない。寝てちゃいけなぇやな。行動しねぇと。
「……。だけど、どこ行きゃいいんだ?」
周りにあるのは木、木、木。森のど真ん中で何の目印もない。右も左もあるのは木。上はただ広い空、下は小さな花が咲く草原。どこにも家がない。どこにも―――
「って、俺が落ちてきたはずの滑り台的なものは!?」
皐氣は今頃になって気が付いた。確かにない、家らしきものは。それどころか、上に繋がっているような建物すらないのだ。それなのに皐氣はここへ、落ちてきた。上から下へ来たはずなのに、近くにはその証拠を現すものがないのだ。なのに何故自分がこの地に立っているのかわからず、彼は頭を抱えて悩んだ。
「どうしてなんだ?陽向、何も言ってなかったよな。ここへの来かたは言ってたけど……」
柄にもなく考え込む事、約数秒。あっという間に考える事をやめた皐氣は、とりあえず動いてみる事にした。
少し歩けば、そこはもう森の中だった。青々と茂る木々は皐氣に襲い掛からんとばかりにしなっていて、重みを感じた。まるで異質な皐氣を追い出したいかのようだった。少し心配になりながらも進んでいくと、少し開けた場所が見えた。何かあるかと見に行ってみたが、ただの獣道だけだった。でもそのおかげで、この森には獣がいるという危険が分かった。でもプラスに考えれば人が通った道かもしれない。そんな儚い希望でも、元の道へ戻るよりはこの道を歩いてみたいと思った皐氣は、とりあえず獣道を歩き出した。
「せめぇな……」
時々木が倒れていたり、朽ちた木が寄り添うようにトンネルを作っていたりする道を歩きながら皐氣は何となくそう思った。いつもなら綺麗に整備された道を歩き、木なんて庭に生えているくらいでしか見られなかったのに、今はこんなにも近くに木がある。なのにあの綺麗な道より、この木に囲まれた道を歩くほうが懐かしい気がするのは何故だろうか?昔から慣れ親しんだ友のように懐かしいのは何故だろう?
優しい風が吹き、少し後ろを振り向かせる。そこに栄井と緋搗の姿が見えた気がした。驚いて完全に振り返ってみても誰もいない。でも、あの通学路が、本当はここだったような錯覚に陥っている事は確かなようだ。あれからまだそんなに立っていないのに、友の存在がなく、一人別次元に飛ばされてしまった様で、少し悲しくなった。
そんな獣道にも終わりが見えてきた。だいぶ歩いたので、もうくたくただった。水を一杯の見たいと思っていると、その視線の先に、微かに光る湖を見つけた。途端に疲れがどこかへ消えて、少しだけだが力がみなぎってきた。邪魔する木の間を、疲れた足を無理やり引きずってでも走っていくと、輝く大きな湖が姿を現した。
「うわぁお!」
風に波たちながらも、青い空を映す。不思議で神秘的な湖は、大地にはまった鏡のようだった。どこまでも透明なそれは、まさに美しいとしかいいようになかった。
そっと水面に近づいて、覗き込むと、煤の様な汚れが付いた顔が映った。よく見れば洋服も手も足もそれで汚れている。水を飲んだら、洗ったほうがよさそうだ。
「つめてぇ〜」
皐氣の眠気のために火照っていた手が、綺麗な水に冷やされていく。限りなく透明な水を掬って飲んでみると、体に染み渡るようだった。爽やかなのど越しで、何回飲んでも飽きそうにない、美味しい水だった。喉の渇きが癒えるまで水を飲んでから手足を洗ったが、水が汚れる事はなかった。何か不思議な力が働いているのかもしれない。こんなに綺麗な湖を見たら、誰だってそう思うだろう。
そして大きく伸びをしたときに気付いた。彼とは反対側の岸辺に、小さな少年が水を汲んでいることに。ここから見る限りでは、歳は小学1年生くらいだろう。民族衣装なのか、深くフードをかぶり、袖口がゆったりと広がったあまり目立たない色の着物を羽織っていた。そのせいで、皐氣もあの少年に気付かなかったのだろう。とりあえず、ここは誰もいない無人島のような異世界ではない事が分かったら、まず聞いてみるべし。ここがどこなのか、アリィとは誰の事なのか。
皐がその少年に近づいていっても、彼は気付かないようで、一生懸命に彼の体の半分ほどもある壺に、柄杓で水を入れていた。色白な肌に、ジュスチセの影はない。彼も栄井にあれを外してもらったのだろうか。くだらない事を考えながらも、もう皐氣は少年の真隣にいた。普通ならもう見えているはずだが、深くかぶったフードのせいで皐氣の存在に気付かないらしい。柄杓を小さな両手で抱えるようにして、夢中で水を汲み続けている。皐氣の目の前にある壺には、まだ半分も水は溜まっていなかった。溜まるまで待ってから話しかけようと思ったのだが、それでは日が暮れてしまいそうだった。そこで、しゃがんで彼に聞いてみる事にした。
「なあ―――」
まだ主語も言わないうちに少年は飛び上がって驚いた。それほど真剣に水を汲んでいたようだ。そんなに水が必要なのだろうか。
「怪しいもんじゃねぇんだ。驚かせたみたいだな。俺、皐氣 翠ってんだけど、お前は?」
あくまでフレンドリーに、優しい感じで。そうしなければ、子供があまり好きじゃない皐氣の言葉には棘がありすぎて、こんな子供じゃ泣いてしまうだろう。
「……」
顔が恐くならないように作り笑いを浮かべたのが悪かったのだろうか、柄杓を握った少年は、動かないで固まってしまっていた。昔、緋搗に言われた事を思い出した。『あんたの作り笑いハンニャみたい』と言われて、かなり引かれたのだ。そのハンニャ顔で話しかけられたせいで、少年は口を開かないのかもしれない。今度はいたって怖くならない様に、普通に話しかけた。
「俺、栄井って奴に言われてここに来たんだけど、良くここのこと教えてもらってねぇんだよ。お前ここに住んでんだろ?何でもいいから知ってる事教えてくれねぇか?」
『栄井』の名前を出したら、少年に反応があった。もしかしたら、栄井のことを知っているのかもしれない。もしくは、この少年が、アリィか、もう一人なのかもしれない。
「お前、栄井知ってんのか?そいつ俺の友達なんだ。で、そいつにアリィともう一人……名前忘れたけど、とりあえずそいつらに会ってみろって言われてきたんだがよ、お前知ってるか?」
「……」
言葉が通じないかのように何も言わない少年だが、今度は『アリィ』に反応を示した。その事を踏まえて考えると、彼はアリィなのかもしれない。始め聞いたときは、名前からして女だと思っていた皐氣にとっては、少し驚きである。でもとりあえず、探し人には会えたのだ。あとは、ここがどこかが分かればありがたい。
「なあ、お前アリィだろ?……別に嫌なら答えなくてもいいがよ、ここがどこだかは、答えてくんねぇか」
皐氣はできる限りを尽くして優しく聞くが、仮定だがアリィは答えそうにない。でもさっきよりは親しみができてきたのか、身振り手振りで何かを伝えようとしているようだった。必死になって、あちこちに手を動かすが、頭の回転が鈍い皐氣にはさっぱり分からない。彼も彼なりに一生懸命考えているのだが、どうも伝わらない。空でアリィが何かを書いているようだと言う事がやっと分かったが、それ以外は何を書いているのかすら、分からない始末だ。痺れを切らした皐氣は、やけになって頭をかきむしってから、突然の彼の行動に驚いているアリィに向かって言った。
「何でお前しゃべらねぇの!?俺に何か言いてぇんなら口に出して言え!口に出して!!」
つい本音が出てしまった皐氣は、ハッとなって少年を見た。泣いているかと思ったが、ただ岩のようにぴったりと止まってしまっていただけだった。泣いていたらどうしようかと思った皐氣は、ひとまず安心してため息をついた。
それにしても、何故この少年は、アリィはしゃべらないのだろうか。他人と口を聞いてはいけないと言う規則でもあるのだろうか。それなら仕方ないだろうが、それは確かな事ではないので、はっきりと断言はできない。例えそんな規則があったとしても、困っている人を目の前にしてそんな態度がとれるだろうか。もう今日の授業と、栄井のなんだかよく分からない言葉のせいで、破裂しそうな頭で懸命に考えると、後ろから物音がした。野生の熊でも出てくるのかと警戒した皐氣は、身構えた。が、ガサガサっと草木の間を掻き分けて出てきたのは予想に反したものだった。
「アリィ!何してんのよ、早く村に帰らないと日が暮れちゃうわよ。……って言うか、あんた誰ですか?」
生意気な口の利き方をする熊……ではなく、女の子が出てきた。アリィ―――やはり彼がアリィであっていたようだ―――と同じ民族衣装を着た女の子で、歳は中学2年生ぐらい。フードで顔の半分くらいまで隠しているが、それを何の警戒心もなくとった彼女は眉を寄せて、皐氣に近づいてきた。
「見慣れない顔ね、どこの村の放浪者?」
予想に反した行動ばかりでぽかんとしていた皐氣だが、彼女の言葉で我に返った。
「放浪者って訳じゃねぇんだがよ、とりあえず道に迷ってんだ。ついでに人も探してる」
「へぇ〜。でもこの辺に誰もいなかったわよ」
「いや、仲間って奴じゃなくて、栄井に言われた―――」
「アンタ、陽向知ってんの!?」
ズイッと近づいてきた迫力のある活発そうな少女に、おされ気味になりながらも皐氣は答えた。
「お、おう。俺の友達だかんな」
すると、仕切りに目をパチクリ、パチクリさせる少女に向かって、アリィが何か伝えたそうにジェスチャーしていた。それが伝わったらしく、少女は驚いた表情になって皐氣を見た。正確に言うなら睨んだ、と言うべきか。
「じゃあ、アンタ皐氣翠?」
「ああ、そうだけど……何で俺の名前、知ってんだ?」
「そりゃあ、陽向から聞いたからよ」
「陽向から!?じゃあお前は―――」
「茜よ。で、こっちはアリィ。口が利けないの、なぜか知んないけどね」
道理で何も言わないはずだ、と感心していた皐氣に茜が手を差し伸べた。
「よろしくね、皐氣。……そしてようこそ、地下帝国へ」
「アンダー……グラウンド?」
にっこりと微笑んだ茜は、さも楽しそうに言う。
「アンタの望んだ場所だと思うよ。だってここには機械の支配がないからね」
―――『翠が求めてる世界』、かな?―――
栄井が言っていた言葉がよみがえってくる。機械がない世界、機械の支配のない世界を確かに皐氣は求めていた。あるはずなんてないと思っていた。絶対に機械の支配から逃れる事などできる訳がないと、思っていた。だが、世界は広い。本当にあったのだ、彼にとってのネバーランドは。
「本当にここには、機械がないのか?」
「もちろん、ジュスチセも何もない、自由な国よ」
茜の言葉をしっかりと聞いた皐氣は、ただ嬉しかった。今後の苦労など知らなかったせいもあるだろうが、この時は幸せだった。本当に、あったのだ。機械の支配がない国は。
だが、彼は知らない。いや、彼らは知らなかった。同じ時を以って、動き出す漆黒の闇を。世界の破滅を願う、黒い影に彼らはもう飲み込まれている事も。
時は動き出す。ゆっくりとだが、確実に進んでいく。破滅への序章は奏でられている。もう誰も、この曲を停めることはできないのだ。そう、誰にも―――。 |